噺の話

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二代目林家正樂のこと。


 三代目桂小南の襲名披露興行は、都内定席三つでの開催から少し間が空いて、国立演芸場の今月中席で再開される。

 小南、そして二楽の父は、ご存じのように、二代目の林家正樂。

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矢野誠一著『昭和の藝人 千夜一夜』

 矢野誠一さんの『昭和の藝人 千夜一夜』(文春新書)から、どんな人だったのかを紹介したい。

 
【二代目林家正樂】佐藤栄作作に可愛がられた紙切り紙ちゃん

  1935(昭和10)ー98(平成10) 埼玉県春日部生まれ。本名山崎景作。紙切り職人。
  54年八代目林家正蔵(彦六)に入門、正作。翌年紙切りに転じ、林家正樂に師事。
  56年小正樂、66年二代目正樂襲名

 二代目林家正樂の愛称は紙ちゃん。初代は「紙工藝」と称していたが、高座で一枚の白紙の注文に応じて鋏で切りぬく、「紙切り」の藝人だからである。この紙ちゃん、1954年に八代目林家正蔵(彦六)に入門したときは、落語家志望だった。
 生まれ育ったのが埼玉県の春日部。春日部といえば、いまでこそ東京の一大ベッドタウンと化しているが、紙ちゃんの入門した頃はのどかな田園風景のひろがる農村地帯だった。当然のことながら強烈な春日部訛りの持主で、師匠正蔵のつけた前座名が正作。これ落語では田舎者の代名詞なのである。
 上野鈴本で『本膳』を春日部訛りで演っていると、最前列に陣取った田舎の客が怒り出した。
「あまりオラたつをバカにするでねェ」
 すかさず答えた。
「バカにすてるでねェ。オラ、まずめにやってるだ」
 人形町末廣で、高座に穴があきそうになり、上野鈴本から誰か応援をたのむべく電話したとき、
「人形町に穴っこあいてるだ」
 とやった一件は、しばし楽屋の語り草になった。落語家の見込みはないと、師の正蔵が判断して、名人だった初代のところへ連れて行き「紙切り」の道へ。もらった名刺が小正樂、紙ちゃん誕生である。

 鈴本での客とのやりとり、なんとも笑える。

 私は、北海道生まれでそれほど訛りは強くなく、学生時代を関西で過ごし、就職してから新潟、そして今の関東と渡り歩いて(?)きたので、それほど訛りで苦労したことはないが、東北や北関東で訛りが体の芯まで染みついた人は、東京言葉の相手と会話する上で大変だろうと思う。

 特に、話すことを生業(なりわい)とする仕事で、いわゆる標準語や江戸弁を求められる場合は、その苦労は並大抵ではないだろう。

 ということで、ついに、落語家の林家正作は、紙切りの林家小正樂に転じたわけだ。

 引用を続ける。

 訛りもひどかったが、ふだんの身装(なり)も垢抜けなかった。兄弟子で身装のいいのが自慢だった春風亭柳朝に誘われて浅草に出かけたはいいが、人混みでまぎれてしまった。しかななく雷門の交番にかけこんだときいた正蔵が、
「藝人が浅草でお巡(まわ)りに道をきくとは・・・・・・」
 と嘆いてみせた。
 ケイタイはおろか固定電話だっていまほど普及していない時代とあって、春日部の自宅では農協が管理する有線による共同電話を使用していた。かかってくると「小正樂さん小正樂さん、受話器をお取り下さい」というアナウンスがなりひびき、会話のすべてが村中にきこえる。おかげで春日部のひとはみんな落語家の符牒をおぼえてしまい、東武線のホームで電車を待っている紙ちゃんに、顔見知りがニヤニヤしながら声をかけてくるそうだ。
「きょうの仕事のギャラがいいね」

 昭和30年代初頭の春日部の通信事情は、そうだったのだねぇ。

 村中にきこえたんじゃ、悪いことはできねぇや^^

 皮肉屋で知られた初代正樂の指導は、きびしいものだった。徹底的なスパルタ教育で、うまく切れないと、「明日から来なくていい」と言われた。技術もさることながら、この藝には知識が大切だから広く浅くでいいから本を読め、芝居を観る金がなければ小屋の前の看板だけでも見ておけと教えられた。
 教えをまもり、毎日欠かさずテレビのニュースを見て、新聞をすみからすみまで読むのだが、家から寄席に行くあいだに起こったことまでは手がまわらない。三島事件のあった日、三島事件を切れと言われて往生した。なかには意地の悪い客もいて、象の背中のノミだの、紅梅白梅なんて注文もある。紅梅白梅というのは洒落た題なので頓智をはたらけせて、急な坂を白バイがのぼっているところを切って喝采をあびたが、次のチルチル・ミチルの出題に、「どんな漫才ですか」とききかえし、客席を爆笑させた。

 たしかに、仕事がら、幅広い知識も求められるし、日々のニュースにも敏感である必要があるだろうなぁ。

 さて、努力の結果、二代目正樂は、ある人物に可愛がられることになる。

 宰相だった佐藤栄作のお座敷にはしばしばよばれた。あのひと、柄に似合わず犬だのライオンだのと子供みたいなものしか注文しない。しかたがないから、「似顔を切りましょう」と鋏を持って近くに寄ったら、言われたそうだ。
「総理大臣のそばまで刃物手にして行ったのはおまえくらい」

 なかなか洒落の効いた逸話^^

 現在の総理大臣には、お座敷に紙切りを呼ぶような遊び心などなかろう。
 
 二代目正樂は、終生、八代目正蔵の弟子と称していたらしい。
 
 矢野さんの短い文章からでも、二代目正樂の人柄が浮かんでくるようだ。

 噺家から紙切りに転じた紙ちゃんの子息は、一人は噺家になり、もう一人は紙切りを継いでくれている。

 実に親孝行な兄弟ではないか。
 
 国立での披露目、二楽は毎日ではないが、数日は兄の膝替わりを務める。

 末広亭の次に、なんとかこの披露目に行きたいものだが、野暮用続きでどうなることやら。

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Commented by at 2017-11-10 06:52 x
二代目正楽。学生時代にその高座を観ました。
困った客の注文として「アントニオ猪木の万の字固め」を挙げ、「それはムリですって謝っちゃった!」とやって笑わせていました。(たしかに訛っていました)
コブラツイストの誤りだったら、諸兄ご指摘のほどを。
Commented by kogotokoubei at 2017-11-10 09:46
>福さんへ

猪木ですから、万字固めでしょうね、きっと。
二代目正樂が初代の藝を継いだからこそ、今日も紙切りという色物が残っていると思います。
少ないとはいえ、複数の芸人さんがいて、若手もいる。
初代も偉かったけど、二代目だってもっと振り返られてよいと思い、記事にした次第です。
Commented by ほめ・く at 2017-11-10 10:17 x
2代目正楽、確かに訛りが酷く垢抜けない風貌でしたが、それがまた何とも言えぬ愛嬌でした。
志ん朝の独演会に膝で出ていてのが、その3ヶ月後に急死してしまい、驚いたのを憶えています。
初代は見た目は好々爺みたいでしたが、この記事を読むと厳しい人だったんですね。だからこうした芸が継承できたかもしれません。
Commented by kogotokoubei at 2017-11-10 21:24
>ほめ・くさんへ

さすが初代も二代目も、生でご覧なのですね。
紙切りという芸については、その技術などを含め、意外に知られていない面が多いように思います。
今丸や当代の正樂などに、ぜひ、技術面や伝承形式などについて著作などで残してもらえることを期待しています。
Commented by 彗風月 at 2017-11-12 12:01 x
二代目は小太りの短躯で、愛嬌ある表情で切ってましたねえ。私もいつか一枚は声を掛けて切ってもらいたいと思っていましたが、夢叶わぬ前に向こうへ行ってしまいました。当時小正樂だった三代目も腕がよく、今手許にあるのは彼の手によるものばかりです。三代目は背が高いので、二人並ぶと面白かったですね。
Commented by kogotokoubei at 2017-11-12 14:53
>彗風月さんへ

お久しぶりです。
そうでしたか。
私は、あまり前方の席には座らないこともありますが、一度も紙切りをもらったことがありません。
そのうち、と思っていますが。
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by kogotokoubei | 2017-11-09 21:39 | ある芸人さんのこと | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛