桂春団治と吉本せい(1)
2017年 10月 06日
明治十一年八月四日生まれで、昭和九年十月六日に旅立った。享年五十七歳。
「わろてんか」のチェックポイント、という題で矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』を元に記事を書いたが、吉本せい、あるいは吉本興業にとって、春団治は実に重要な芸人さんだった。
命日を機に(?)、春団治と吉本せいに関し、少し振り返ってみたい。
富士正晴_桂春団治
矢野さんも、あの本の中で、富士正晴の『桂春団治』から何度も引用している。
その引用は、本文のみならず、貴重な上方落語界の史料である「桂春団治を書くために出来上った上方落語年表」も多い。
その年表の大正十年の部分から、まず、引用したい。
吉本派(南地花月亭ヲハジメトシテ二十ノ席)春団治の出演歴で、吉本の名が出る最初である。
その前後のことを、富士正晴はこう書いている。
『落語系図』174頁に「大正十年九月十一日浪花三友派出番表の写し」というのがある。克明に見ると、三代目円馬の前名の川柳があり、また大正十年には二代目小春団治となっている筈の子遊の名がある。円馬の川柳時代は大正五年(月不詳)より、大正七年五月までなので、これは大正十年ではなく、大正五、六年の浪花三友派の出番表とわかるが、そこに挙げられている浪花三友派の席は紅梅亭、瓢亭、延命館、あやめ館、松島文芸館、堺寿館、京都芦辺館の七つである。これが浪花三友派の勢力範囲なのだろう。
これを吉本興行部は次々に食っていった。先ず真打連を浪花三友派よりもぎとっていき、大正十年には春団治一門も加わっている。春団治は月給七百円という約束で、吉本の花月連というのに加わったというが、その他にそれまでの借金を吉本に肩がわりしてもらったのであるまいか。大口の借金が栗岡百貫の手を通じてなされており、それがかねがね、吉本に線が通じていたのではないかというふうに、これは空想だが、思われてならない。
富士正晴の空想は、まさに事実だったということだろう。
春団治を獲得するための高い月給も借金の肩がわりも、吉本せいの計らいである。
せいは、とにかく春団治が欲しかった。
そのチャンスをじっと待っていた。
矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)
その当時、吉本せいの春団治攻略までのことを、矢野さんの本から引用したい。
春団治は、贔屓の後家、岩井志う(じゅう)の資金によって、元第一文芸館であった内本町演芸場を借り浪花亭と名づけて、自らの一派を立ち上げたのだが、毎夜のごとくのドンチャン騒ぎなどの浪費により、浪花亭は一年ともたなかった。
本拠地を失った春団治の一行は旅に出た。二十数人の一座で、中国筋から九州にかけて約一年の巡業である。春団治の名前で、充分商売になったはずだが、なにせ湯水の如くに金を使うことを覚えた座長の一行である。行く先々で派手な遊びをくりかえし、結局莫大な借金だけが残った。
こうして桂春団治が無一文になるのを、吉本せいはじっと待っていた。金のあるうちは、どんな大金をつんでみたところで、天下の春団治、それほど有難がるわけじゃない。春団治という大きな看板だけが残って、しかも無一文、のどから手が出るほど金がほしい・・・・・・そういう状態になる日がいずれきっと来る、とふんだせいは、いささか無分別にすぎた春団治の浪花派の旗あげを、醒めた目で見つめていたのである。
大正十年(1921)初席、桂春団治の看板が、南地花月の木戸口の上にかかげられた。木戸銭は、なんと一円である。十銭の木戸銭で出発したのがわずか三年前であったことが、せいには信じられないような気分であった。それよりなにより、「花月派 桂春団治」と、大阪を代表する落語家を自分の傘下におさめた事実が、大阪の落語そのものを手にいれたような気がして、満足であった。それは、何軒もの寄席を手にいれたことより、もっともっと大きな意味があるように思われた。
ついに、吉本せいは、春団治という大看板を手に入れる。
春団治と吉本せいについては、もう少し書きたいので、これにて前篇の、惜しい切れ場^^