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「わろてんか」のチェックポイント(3)ー矢野誠一著『女興行師 吉本せい』より。


 このシリーズ三回目。

 NHKが“フィクション”と謳って、事実との違いについて批判されることから逃げて(?)いる、と前の記事で書いた。

 NHKサイトの「わろてんか」のページの「ドラマについて」にある注(*)をご紹介。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
※ドラマは実在の人物群をモチーフにしていますが、その物語は一人の女性が愛と笑いと勇気をもって懸命に生きる一代記として大胆に再構成し、フィクションとしてお届けします。

 書いてましたね、小さな文字で^^
 “大胆に再構成”した“フィクション”なのだ。

 だから、実際の“モチーフ”(“モデル”ではない^^)となった人物のこととは違うかもしれないよ、ということ。

 しかし、視聴者の中には、“大胆に再構成”する前の、よりノンフィクションに近いドラマを期待する人だって少なくない、と私は思うなぁ。

 また、こうやって注意書きをしていようと、その“モチーフ”となった人が、ドラマのような人生を送ったのだろうと誤解することは、十分にありえる。

 制作者側は、そういう誤解は、あくまで視聴者側の責任と考えるのだろうが、ドラマというモノづくりをする側には、責任はないのだろうか・・・・・・。

 なんてことを思いながら、だったら、どこまでモチーフの人間の人生と、このドラマが違うことを「わろうたる」か、チェックポイントを探ることにしよう。


「わろてんか」のチェックポイント(3)ー矢野誠一著『女興行師 吉本せい』より。_e0337777_12133659.jpg

矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について、矢野さんの本からご紹介。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の一門中心の一派。
 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 以前の記事と重複するが、関山和夫著『落語名人伝』から、桂派を抜けた文都と三友派設立の件を紹介したい。
関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)
 二代目文枝襲名に敗れた月亭文都のファイトは、すさまじものであった。どうしても桂派に対抗して、一旗あげたかったのである。明治25年は、二代目文枝、月亭文都ともに49歳で、人生の峠を登りつめたころである。文都は明治25年4月に三代目笑福亭松鶴と手を握った。三代目松鶴は、二代目文枝の社中に入った恰好で、数年前から文枝の根城である金沢亭で真打ちをつとめていたのだが、文都と通じているということで文枝からにらまれていたようである。かくして松鶴は文枝と訣別した。さらに文都はこの年の10月になって二代目桂文団治とも手を握ることができた。桂文枝にとっては、次から次へといやらしい事件がおこったのである。続いて文都は笑福亭福松というすばらしい噺家を味方にする。
 「浪花三友派」という名が起こったのは、明治26年のことで、明治27年正月興行には大阪南地法善寺内の紅梅亭と松屋町神明社内の吉福亭などに「浪花三友派」の看板があがった。浪花三友派の三巨頭といわれるのは、月亭文都、笑福亭福松、二代目桂文団治の三人だが、三代目笑福亭松鶴、五代目笑福亭吾竹、桂文我も加入していた。
 初代文枝の偉大さ、そして、文枝という名跡の大きさをあらためて感じるねぇ。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたことになる。
 さすがに、両派にも勢いが落ちてきたからこそ、浪花反対派という新勢力が対抗することになったのだろう。

 吉本せいと吉兵衛が、浪花反対派を頼らざるを得なかったのは、第二文藝館の“格”の低さも大きな理由だった。

 矢野さんの本に戻る。
 だいたい、第二文藝館なるものが、天満天神裏という当時の大阪きっての繁華街に位置しながら、寄席の格からいえば最下級の、いわゆる端席であった。いきおい木戸銭のほうも、そう高くはとれず、ふつうの寄席が十五銭の時代に、五銭で出発せざるを得なかった。「五銭ばなし」とよばれるこうした端席に、一流の落語家などはめったに顔を出さない。木戸銭は五銭でも、さらに一銭が下足代に消えるので、実質六銭で落語をきかせるわけである。客のほうは、六銭で落語がきけるとありがたがっても、落語家のほうには、「俺の落語が五銭か」という頭がある。それに、こうした端席ばかり歩いて「端席の藝人」としての評価が下されてしまうことを、腕のある藝人は喜ばなかった。

 第二文藝館は、とても、桂派や三友派の人気者を呼べるような寄席ではなかった、ということ。

 そういう状況において、反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって、飛躍の大きな要因となった。

 第二文藝館の家賃は百円だったというのだが、木戸銭五銭の端席のそれとしては決して安くはない。それでも一晩に七円、旗日といわれる祭日や、天神祭の当日などは三十五円のあがりがあったという。
 この小屋の収容人員が、どのくらいのものであったのか定かではないのだが、わずか五千の木戸銭で三十五円のあがりというのが、尋常な数字でないことはよくわかる。もちろん、当時の寄席にはこんにち見られるような指定席の制度はないし、いうところの入替なしの出入り自由といった畳敷のつめ込み方式で、定員をはるかに上まわる延人員が入場したことは想像に難くない。それにしても、三十五円という金額は、単純計算で五銭の木戸銭を支払った客七百人分のあがり高である。どうつめこんでも、七百人はいらない小屋に、七百人の客をつめこむ方策を生み出したのが、吉本せいの才覚で、後年これがいわゆる吉本商法の基本になったといわれるのだが、果たしてこれもせい個人の考え出した商法であるのか、疑問がないわけではない。この世界のからくりや裏表に精通していたのは、むしろ夫の吉兵衛であったはずで、吉兵衛による入れ知恵のようなものが、まったくなかったとは、ちょっと信じ難い気がするのである。

 本書で著者の矢野さんは、後年、吉本せい自らが、夫の吉兵衛が吉本興行の仕事はそっちのけで、せいが孤軍奮闘していたようなニュアンスで語っているが、実態は違うのではないか、吉兵衛の存在も大きかったのではないか、と度々疑問を呈している。

 吉兵衛については、また今後ふれることとして、「わろてんか」を見る上での三つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(3)
岡田政太郎の浪花反対派は、どう描かれるか


 吉本せいと吉兵衛夫妻にとって、端席の第二文藝館を運営していく上で大きな助けとなった反対派との提携。

 これを、ドラマでは、どう扱うのか。

 あるいは“大胆な再構成”の結果、扱わないのか。

 ドラマを見る上で、これは実に重要なポイントだと思う。

 もし、岡田政太郎を“モチーフ”にした人物が登場せず、よって反対派のような存在も登場しないとしたら、いくらフィクションだと言っても、「それはないよ^^」と、わろてやろうと思っている。

 このシリーズ、ドラマが始まる前に突っ走ってもしょうがないので、今回はここまで。

 始まってから、チェックポイントの最初の三つについて“復習”をし、次のチェックポイントも書くつもり。

 さて、「わろてんか」は、その大胆な再構成で、笑わせてくれるかな^^


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by kogotokoubei | 2017-09-28 00:27 | 歴史ドラマや時代劇 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛