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加賀藩は、なぜ生き延びたのか(3)ー磯田道史著『殿様の通信簿』より。

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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 さて、このシリーズの三回目、最終回。

 お猿と呼ばれた幼少時の前田利常の人生の転機はいくつかあるが、その一つは「人質」となったことだ。

 『殿様の通信簿』より、兄の利長が関ケ原の戦いで、三州割拠の戦略のもとに中立を保っていた時の話をご紹介。

 この関ケ原の戦いのなかで、「お猿」こと前田利常が、重要な役割を演じている。
 -人質
 になったのである。もっとも、この時代、人質という言葉はつかわない。もっぱら「証人」といった。
 前田家の領地の南には小松城主・丹羽長重がいた。前田家が南下するには、丹羽領を通らねばならない。丹羽は西軍・石田方に与していたから。その領内を通れば、当然いくさになる。丹羽の領地は二十万石にすぎず、百万石の前田の敵ではない。たちまち破った。しかし、丹羽長重は丹羽長秀の子であり、もともと信長の家中であったから、前田家とは親しい。利長は丹羽に対して、これ以上ないというほどの寛大さを示した。
 関ケ原で東軍・徳川方が大勝利したとの一報に接し、負け組に入ってはならぬと思ったのであろう、それまで煮えきらぬ態度をみせてきた丹羽はあわてて講和に応じてきた。利長は、この虫のよい申し出をうけたばかりか、ともに手をたずさえ軍勢をそろえて、徳川家康の陣に向かうことまで約束した。まず丹羽の軍勢を先に歩かせ、その背中に前田の軍勢が火縄銃をつきつけながら、ともに行軍して京都に向かった。ただし、たがいに裏切らぬよう人質が交わされた。丹羽側は長重の弟長紹(ながつぐ)を人質によこし、そのかわりとして、前田側は利長の弟お猿(利常)が人質に遣わされることになった。

 丹羽長重の所領は、空港のある小松。那谷寺も小松にある。

 この丹羽長重という人、結構苦労してきた。
 Wikipediaから引用したい。
 まず、関ケ原以前のこと。
Wikipedia「丹羽長重」

元亀2年(1571年)、織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として生まれる。

主君・織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(病床にあった父の代理)に出陣した。

天正13年(1585年)、秀吉から羽柴姓の名字を与えられた。 同年に父が死去し、越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を相続した。ところが、同年の佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに重臣の長束正家や溝口秀勝、村上頼勝らも召し上げられた。さらに天正15年(1587年)の九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

その後、秀吉による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康から前田利長監視の密命を受けている。
 結構、浮き沈みの激しい半生ではないか。
 たとえば石数は、123万石->15万石->4万石->12万石、と度々の変遷。

 そして、関ケ原以降。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる。慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の御伽衆として、細川興元、佐久間安政、立花宗茂らと共に抜擢される(この3名は長重より年長で、武功の実績も多かった)。その後、元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石にそれぞれ加増移封される(なお、前棚倉藩主は、長重と共に秀忠の御伽衆である立花宗茂)。

 最終的には白河に落ち着き小峰城を築く。築城の名手と呼ばれた。
 白河小峰城は日本百名城の一つ。

 関ヶ原の戦いで西軍に与し領土を失った大名の中で、その後返り咲いて最終的に十万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみ。

 あぁ、宗茂の名を見ると、今のNHK大河が、史料のほとんど存在しない人物を題材とするのではなく、同じ女城主ならば宗茂の妻、誾千代の物語りであったなら、と思わずにはいられない。
 葉室麟に『無双の花』という宗茂夫婦を素材にした名作もある。

 大河に関しては、ご興味のある方は昨年末の記事をご覧いただくとして、これ位で。
2016年12月19日のブログ


 さて、その丹羽長重は、人質にとった利常をどう扱ったのか。
 おかしなことであるが、人質となったお猿は、生まれてはじめて、まわりから大切にされた。前田家にいたときには、たいして可愛がられていなかったが、丹羽家ではお猿を下にもおかぬように扱った。話がのこっている。お猿が小松城にはいると、当主の丹羽長重がじきじきに出てきて、梨を食べさせてくれた。
 -自身、梨子の皮など取り進ぜられ候(『松梅語園』)
 とあるから、丹羽長重は八歳のお猿をみて、
「梨をむいてあげよう」
 といい、長重自身が小刀で梨の皮をむいてお猿に食べさせたことがわかる。利常はこのことをのちのちまで覚えていて、梨を食べるたびに、家来たちに語った。
 丹羽長重という人の優しさを物語る逸話だ。
 そして、長重には、人を見る目があった。
 お猿の非凡さをはじめに見ぬいたのは、どうもこの丹羽長重であったらしい。何を思ったのか、長重はお猿の顔を見るごとに、
「利長公はまだ若くて、これから子供も出来るだろうけれど、お前さんは何があっても最後には、三カ国を手にするだろう」
 八歳の子どもをまえにして、そういうことをいった(『耳底記』)。
 (中 略)
 八歳のお猿の心に、丹羽長重は、
(前田家の総大将になるかもしれない)
 という希望の種を植えた。
 この“希望の種”というのが、利常のその後の人生には大きかったように思う。

 後々まで梨を自ら皮をむいて食べさせてくれた丹羽長重のことを忘れなかった利常は、長重を父親のように慕っていたのだろう。
 利常が、寛永16(1639)年に、小松城を隠居城として再築していることからも、丹羽長重の存在は、利常には小さくなかったと察する。

 その人質生活を終えてからのこと。
 前田家では、関ケ原の貢献によって所領を加増された祝いがあった。

 当時、祝いといえば、能見物で、前田家一門の子どもたちが一堂にあつまっていた。ところが、どうもお猿だけは、他の子どもと異なっていた。まず、これから能がはじまるというのに、ちっとも落ち着いておらず、乳母につれられて、座敷のあちらこちらを遊びまわっている変な子どもが一人いた。お猿であった。生田四郎兵衛という侍が気づいて、乳母のほうに声をかけた。
「この子は誰の子ですかな。目のうちと、骨柄が、余人と違う」
 前田家の重臣の子どもとでも思ったのであろう。生田は重ねて、
「これは、ただの人の子ではない」 
 といった。
 (中 略)
「眼の見入りが、他に異なる。大名の子に見える。いい器量じゃ」
「ええ。越中守山で育ったお猿様です」
 そこで乳母は子どもの正体を明かした。生田は一瞬、驚いたような顔をして、それから破顔一笑して手をつくり、
「ただ者ではないはずじゃ。珍しい殿様ですなあ。そういう弟君がいるとは聞いていましたが、お目見えしたのは初めてです。今年でおいくつになられます」
 と急に丁寧な口調になった。生田はよほど感動したらしく、お猿を肩に抱き上げた。そして居並ぶ子どもたちの席をじっと見回し、一番、上座の席にお猿を置き、
「ここに座って、能見物をしなさい」
 と丁寧に言った。驚くべきことに、このときまでお猿は家来筋の子どもたちよりもずっと下座に座らされていたのである。これが、お猿こと利常が家来にまともに扱われた最初であった。
 この生田四郎兵衛の行動も、また、お猿の人生の転機と言えるのかもしれない。
 ちょうどそこに、利長がはいってきた。一番の上座に見慣れない子が座っている。
「あれは誰の子か」
 利長はいった。誰の子ではない。このお猿が人質になったおかげで、前田家は関ケ原合戦後、後顧の憂いなく、残敵をみな召し連れて、徳川家康のもとに上洛できたのである。今回んぽ加増もその功によるところが大きいのであるが、利長は本当にこの弟の顔を知らなかった。生田はあわてて、利長に、
「お猿様でございます」
 と耳打ちした。
 利長はすぐにお猿を側によび、その顔をまじまじとみた。お猿もじっと利長をみた。最初に、口をひらいたのは、利長のほうであった。
「大きくなったな。眼が大きい」(『三壺記』)、「おまえは目のうちが良い」(『微妙公(みみょうこう)夜話異本』)。
 そういった。利長が何より驚いたのは、お猿の体格であった。当座としては、異常な大男であった父・利家の体つきに、瓜二つなのである。
「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」
 とため息をついた。利長は、
(どうも、この子は、たくさん飯を喰いそうだ)
 と思ったのであろう。すぐに上木半兵衛をいう侍をよんで、怒鳴った。
「おい。おまえ。今日からこの子に付いて、朝夕に飯をしっかり食べさせてやれ。ちゃんと育てろ。へまをするな」
 養育係の侍二人と、権内という草履取もつけてくれた。お猿の暮らしぶりは、それまで悲惨であったから、かたわらにいた乳母の目には、涙が浮かんだと、記録にはある。

 この時から、お猿の運命が大きく変わったわけだ。
 
 利長には子がいなかったので、前田家の永続のためには、養子をとらなければならなかった。利長には他にも弟がいたのだが、その誰も養子にする決心がつきかねていた。
 
 あるとき、友人の浅野弾正・蒲生秀行・細川忠興らが前田屋敷にやってきて食事をした。そのとき、浅野と細川が、思い切って利長にいったらしい。
「あなた様には実子がない。誰か養子を決めておいたほうがよいのではないか」
 利長も心配であったらしい。こう答えた。
「内々、そう思っている。しかし、弟の大和(利孝五男)は公家のようで色が白くやわらかな男。ほかに七佐衛門(知好・同三男)とか七兵衛(利貞・同六男)というのがいるが、どちらも馬鹿なので、私は気に入っていない」(『三壺記』)
 あまりに弟たちを悪くいうので、浅野も細川も困った顔をして聞いていたのだろう。利長は言葉を続けた。
「ただ、猿という弟が一人いる。色が黒く、目玉が大きく、おおいに骨太な子。姉に養育させていますが、これを養子にしたい」
 いかなる気基準で、利長が前田家の跡継ぎをえらんだのかよくわかる。
 (中 略)
 こうして、お猿はあっという間に、
 -前田家の世子
 となった。越中の片田舎で暮らしていたときには考えられないことであり、
「まさか、あのお猿が・・・・・・」 
 と、人々は驚いた。世子になると、名前も変わる。利家公の輝かしい幼名、
 -犬千代
 を名乗ることがゆるされた。とうとう、猿が犬になるというあり得ないことがおきた。「猿」ではなく「犬」とよばれたこの瞬間から、利常の殿様らしい人生がはじまった。

 磯田道史の本には、その後の大坂夏の陣での利常の活躍なども記されている。
 武にも秀でていたが、この人、頭も良かった。
 家光の代には、廃藩につながるようなことはもちろんしないが、笑えるような小さな、そして無邪気な抵抗を利常は行って、「加賀様は、しょうがない。ほうっておけ」というムードをつくることに成功している。

 その後の代々の藩主や側近の努力も、加賀藩が江戸の世を生き延びた大きな要因ではあるだろう。

 利家の妻まつが、長きに渡って徳川家の人質になったことも、前田家存続の礎にはなった。
 
 なんといっても、利長は、藩のために自らの命を捨てたと言われる。
 家康に睨まれていた利長は、秀忠の娘を嫁にもらった利常に、いち早く藩主の座を譲るため、自ら毒を飲んだと金沢では信じられている。

 なにより、加賀藩が、もっとも存続の危機にあった家康、秀忠、家光の代において、利常という人材を得たことが、存続につながる大きな要因なのだと思う。

 利長は、利常なら加賀藩、前田家を任せられる、と考えたに違いない。

 利常が前田家三代目になったことこそ、徳川家最大の仮想敵であった百二十万石の加賀藩が、生き残った大きな理由であると、私は思う。

 ということで、このシリーズのお開き。

 つい、加賀への旅がきっかけで、長々と書いてしまいましたが、お付き合いいただき、ありがとうございます。


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by kogotokoubei | 2017-09-13 12:59 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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