噺の話

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長岡花火をテレビで見て思う、ある空襲の記憶など。ー『夏目家の糠みそ』より。

 一昨日、NHKのBSプレミアムで、長岡花火大会の生放送を見た。
 
 最初の三尺玉が、ナイアガラと一緒に三発とは、豪勢。
 三つとも無事に上がって、良かった。

 フェニックスも良かったし、米百俵にちなむ百連発も凄いねぇ。

 BSとはいえNHKでの生放送、長岡花火も、ついに全国区になったものだ^^

 その長岡には、二十代の後半、六年住んだことがある。

 花火は、最初の年だけ、知り合いと河川敷で見たものの、翌年以降は居酒屋で飲みながら、音だけを聞いていた。
 サイレンが聞こえると「三尺玉だねぇ」と耳を澄まし、殿町で飲んでいても腹に響く音を楽しんだ(?)ものだ。

 年によっては、三尺玉が不発だったり、地上すれすれで開いたりしたこともあったなぁ。見てはいなくても、音で分かった。


 NHKの番組でも触れていたが、戦後の長岡花火は、長岡市戦災復興祭という意味合いで開催された長岡まつりのメインイベントとして位置づけられている。

 「長岡まつり」のサイトから、引用する。
「長岡まつり」サイトの該当ページ

まず、長岡まつり、について。
毎年華やかに繰り広げられる「長岡まつり」
その起源は、長岡の歴史に刻み込まれた、
最も痛ましい、あの夏の日に発しています。

今から72年前の昭和20年8月1日。
その夜、闇の空におびただしい数の黒い影
―B29大型爆撃機が来襲し、午後10時30分から1時間40分もの間にわたって市街地を爆撃。
旧市街地の8割が焼け野原と変貌し、
燃え盛る炎の中に1,486名の尊い命が失われました。

見渡す限りが悪夢のような惨状。
言い尽くしがたい悲しみと憤りに打ち震える人々。
そんな折、空襲から1年後の21年8月1日に開催されたのが、
長岡まつりの前身である「長岡復興祭」です。
この祭によって長岡市民は心を慰められ、
励まされ、固く手を取り合いながら、
不撓不屈の精神でまちの復興に臨んだのでした。

 次に、長岡花火について。
昭和20年8月1日の長岡空襲の翌年、長岡市民が復興に立ち上がり、8月1日に「長岡復興祭」を開催、昭和22年に花火大会が復活して今年で70年を迎えました。
「長岡花火」の歴史を振り返ると、先人たちがつないできた、「慰霊」、「復興」、「平和への祈り」の想いが息づいています。
長岡花火に込められた強い想いは、70年を経てもなお変わることなく、今を生きる私たちの中にもしっかりと受け継がれています。


 まつりと花火は、このように戦争の大きな傷を癒すためでもあった。
 では、昭和20年8月1日から2日にかけての長岡空襲を体験した人による文章を紹介したい。

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半藤末利子著『夏目家の糠みそ』(PHP文庫)

 夏目漱石の孫娘、半藤末利子さんの『夏目家の糠みそ』は、PHPより2000年に単行本、2003年に文庫で発行された。

 単行本発行の五年前から、小冊子「味覚春秋」に毎月掲載された内容が元である。

 半藤末利子さんは、長岡出身で漱石門下の松岡譲を父とし、夏目家の長女の筆子を母として昭和10年に生まれた。ご主人は、半藤一利。

 末利子さんは、父の実家の長岡鷺巣町(当時は古志郡石坂村)に疎開していて、長岡空襲に遭遇した。
 
 「長岡についての三話」から、引用する。

 まず、子供の頃に二度、あくまで旅行として長岡に行ったことのある末利子さんの、三度目の訪問について。

 私も体験した、越後の冬の描写がある。

 三度目は昭和十九年十一月である。旅行者としてではなく住人になるためであった。一家を挙げて疎開者として移り住んだのだが、まさかそれから十年余りも住みつき、長岡が私の第二の故郷になろうとはそのときは思いもしなかった。
 みぞれまじりの冷たい雨が降り続き、来る日も来る日も太陽を拝めない、一年中で一番嫌な季節であった。十二月の半ばに降った雪はそのまま根雪となり、翌二十年にかけては記録に残る豪雪となった。四メートルを超す積雪は、私達が借りていた二階家をすっぽり埋めてしまった。村のお年寄りが「何か悪いことが起る前兆だ」と言ったが、なるほど二十年八月一日には長岡市は空襲を受けて全焼し、十五日に日本は敗戦国となった。


 私が住んでいた六年間でも、大豪雪の年があった。
 年によっては十一月下旬に雪が降り始め、それが根雪となる。
 感覚的には、十一月から三月位までは、太陽を拝める日がほとんどないというのが、越後長岡周辺の冬なのである。

 テレビで見る冬の天気予報は、東京など東日本に晴れマーク、越後は曇りか雪が毎日のように続く。
 「裏日本」という言葉の意味するものを、私は体感を踏まえて納得した。

 では越後の冬は、暗~い毎日が続くのか。
 引用した部分の少し後に、楽しい、美味しい越後のことも書かれているのでご紹介。

 今でも東京での雪のない正月を身に染みてありがたいと思う。たまに訪れる長岡を決して魅力的な街とは思わない。にもかかわらじ、ノッペ(里芋など様々な根菜を煮て葛でとろみをつけた煮物又は汁)などを突つきながら、
「酒は辛口に限る」
 と、「越の寒梅」や「八海山」や「久保田」や「吉乃川」で一杯やる時、具沢山の雑煮で祝う正月を迎える時、そして越後以外の土地で越後訛りの人に出遭って言い知れぬ懐かしさを覚える時、私は沁み沁み思うのである。
 私の故郷は越後なのかしらと・・・・・・。

 まったく、同感だ。
 
 ノッペは、酒の肴でもあり、立派なご飯のおかずでもある。
 そして、越後(中越?)の雑煮も、ノッペの中に餅を言えたような具沢山。
 畑の収穫をまとめていただこうとするような、あの料理にも、長い冬を過ごすための知恵が隠されているのかもしれない。

 もちろん、お日様が顔を出さない冬は、辛口の酒を楽しむしかやることはない^^


 さて、豪雪が暗示した“悪いこと”、長岡空襲について引用する。
大空襲の夜
 
 その日、父母と私は父の生家、村松の本覚寺を訪れていた。盆参という寺としては一年中で一番大きな行事が催され、本堂やそれに続く座敷からあふれた檀家の人たちが、回廊までも埋め尽くしていた。庫裏も手伝いの人たちでごった返していた。戸は開け放れていたが、容赦なく上る気温と人いきれでむせ返るように暑かった。
 夕方になると人の波が引き、暑さも幾分しのぎやすくなった。夕食後、父は一人で帰宅した。当時中学生だった兄は勤労動員で、その夜、北長岡の軍需工場で働いていた。夜勤明けで帰宅する兄を出迎える者がいなくてはかわいそうだと、一里の道を歩いて父は曲新町の自宅に帰ったのだと思う。
 その夜、私たち三人は早々に眠ってしまった。どこくらいたったころか周囲が騒がしくて目は覚めた。田舎のことだから人家もまばらで、そのうえ、寺の境内は広い。日が沈むとカエルの鳴き声しか耳に入らぬほどに静まり返ってしまうのが常であった。空襲警報のサイレンや飛行機のごう音で目覚めた、という記憶はない。
 窓を開けると、やみ夜を旋回している色とりどりの電光がまず目に入った。色鮮やかな電光は星の数ほど無数に見えた。時々赤い火を噴いて焼夷弾が、自在に飛び交う電光から降ってくるのが見えた。なぜ爆撃機B29が赤青黄緑とさまざまな色の光を放ちながら爆撃していたのか、今もってわからない。私にはB29がお祭り気分で楽しげに焼夷弾をまき散らしているように見えた。地上からはめらめらと燃えたつ巨大な炎の柱が天を射るようにそびえ立ち、やみ夜を真っ赤に染め上げる。街全体が炎に包まれるのを私は初めて見た。あの大空襲で命を落とされた方、命からがら逃げまどっていた方を思えば甚だ不謹慎なことだが、その規模といい、華やかさといい、後にも先にもあれほど壮観な光景を私は見たことがない。息をのむほどに美しい眺めであった。
「きっと新ちゃん(兄のこと)死んじゃったわねえ。あの火の中で」と母がぽつんと呟いたが、だれも悲しいとは思わなかった。肉親の死にも麻痺して何も感じない異常な時代であった。私は別に怖いとも悲しいとも思わなかったが、歯の根が合わず全身が小刻みに震えていつまでも止まらなかったのをおぼえている。
 間もなく階下の勝手に、昼間手伝いに来ていた村人たちが再び集まって、祖母の陣頭指揮のもと長岡への炊き出しが始まった。お供え物として本堂に積まれた米が次々と下ろされ、炊かれ、握り飯の山ができた。
 昭和二十年八月一日のこと、私が十一歳の時であった。

 B29による空爆の光景について、なんとも印象深い記述と言える。

 この文章を読んで、私は湾岸戦争のテレビ映像を連想した。
 夜間にミサイルで攻撃する映像からは、まるで、花火のスターマインのような印象を受けたものだ。

 長岡空襲について、長岡市のサイトから引用する。
長岡市サイトの該当ページ

長岡空襲について
最終更新日 2017年4月1日

 1945(昭和20)年7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。
 その12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。

 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,486人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。
 その凄まじさは、半藤末利子さんの“色”の記憶で裏付けされているように思う。

 空襲が始まったのは八月一日で終わったのが二日だったので、毎年、長岡まつりの前夜祭が一日、長岡花火が二日と三日に開催されている。

 その花火大会に関する部分を含め、本書からの引用を続ける。

 パールハーバーを奇襲攻撃した山本五十六の生地だから長岡が爆撃された、ということを後で聞かされ、アメリカ人の執念深さに驚かされた。
 翌朝、父が宮内駅付近まで様子を見に行くと、焼け跡の中からふらふらと兄が帰ってきたという。無事な兄の姿を見て父はどんなにほっとし、うれしかったことであろう。
 今の八月の長岡まつりは、もともと長岡空襲の悲しい日を長岡市復興へのバネにするため、長岡市戦災復興祭として始まったと聞いている。戦争で中断していた長岡の花火も、空襲の翌年にはもう再開されたように思う。それから毎年夜空を飾って、いまはすっかり名物になっている。
 長岡にいたころ、私も何回か夜空に開く華を見た。しかし三尺玉であろうとスターマインであろうと、あの空襲の夜の強烈な華やかさには遠く及ばない。アメリカの怨念と、と貴い命を奪われつつある長岡市民のうめき声とが、たがいにぶつかり合う緊張を、あの異常な時代の異様な美しさに感じ取ったわけではない。しかし、長岡まつりになると、私は花火よりも先に大空襲の夜の悲しい美しさを思い起こしてしまう。戦後四十余年もたったいまも、それが悲惨な戦争を経験した者のつらい性ということなのであろうか。
 
 一昨日、昨日と開催された長岡花火大会を、著者のような思いで眺める人が、年々少なくなっている。

 今では、中越地震からの復興祈念という意味も込められている。

 また、長い冬を耐えて生きる越後の人々の浄化(カタルシス)の宴が、あの祭りや花火ではないかと思う。
 阿波踊りなど、他の地域の祭りにも、浄化的な色彩は強いだろうが、冬に心身ともに膝を曲げ、縮こまっていた越後の人々にとって、夏の最後に一気に精神を解放する宴は、特別の意味があるように思う。


 もちろん、人それぞれ、あの花火を見ながら思うことは違うだろう。
 
 しかし、この時期に長岡まつりが開かれ花火が打ち上げられるのは、紛れもなくあの戦争によるあの空襲からの復興を祈念するものであるということは、振り返られるべきかもしれない。

 結果として、前の記事と“漱石つながり”になったが、生誕150年記念ということで、お許しのほどを。

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Commented by 生禿 at 2017-08-04 17:37 x
私も長岡の花火のTV中継を家族で観ました。
懐かしかった!また見に行きたいものです。
Commented by kogotokoubei at 2017-08-06 01:17
>生禿さんへ

お久しぶりです。
長岡でのいろいろ、懐かしいですね。
また、そのうち!
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by kogotokoubei | 2017-08-04 12:44 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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by 小言幸兵衛