噺の話

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耳が遠くなった文楽が語った言葉ー矢野誠一著『落語長屋の商売往来』より。


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矢野誠一著『落語長屋の商売往来』(文春文庫)

 矢野誠一さんの『落語長屋の商売往来』は2003年文春文庫からの発行されたが、初版は、私が読んでいる白水社から1995年に『落語商売往来』として発行された単行本。
 元は、『小説新潮』に1992年3月号から94年12月号まで連載された「落語国商売往来」である。

 その昔の商売のことや、それを題材とするら落語のネタ、そして、その噺を得意にしていた噺家の思い出などが書かれていて、商いを扱う、飽きない本だ。

 「店構え」「小商い・手職人」「飲物・食物」「遊楽・乗物」の四つの章に分かれ合計34の商売について書かれている。

 「飲物・食物」の章の最後に「鰻屋」がある。

 土用の丑の日は、私は鰻を食べない。
 
 なかでも、この時期に大量に消費される中国産の鰻は、成長ホルモンによる危険性が高いが、それについては、別途書くことにして、国産だろうと、土用の丑の日に私が鰻を食べない理由がある

 鰻を楽しむなら、混んだ店で急いで食べてはいけないのだよ。

 矢野さんの本から引用する。 

 よく「鰻屋でせかすのは野暮」というのは、いい鰻屋は客の注文を受けて初めて鰻を割くため出来あがるまでにたっぷり時間がかかるからである。凝った客になると「魚(うお)を見たい」などと調理場にはいりこみ、床板をあげさせ、文字通りの鰻の寝床をのぞきこみ、あれとこれを焼いてくれと注文をつけたものだ。鰻の御指名だ。『素人鰻』にも、そんな客が出てきて、
「あ、職人もいいが魚もいいや、そこの、ちょっとこう頭を持ちあげましたね、そいつをひとつ上げてみておくんなさい」
 などとやっている。昨今では、鰻を割いて串をうつまでの仕込みをすませておいて、注文をきいてから蒸しにかけるなどはまだ叮嚀なほうで、すでに蒸しあがったものをすぐに焼いて客席に出す店が多いから、ゆっくりと、おこうこうなんかでつなぎながら出来てくるのを待つ楽しみを味わうのも、これでなかなかむずかしい。

 まったくご指摘の通りで、今では、野暮なのは客ばかりではなく鰻屋にも当てはまる。

 丑の日など、ひどい店では先に焼いておいた鰻を、注文の後でレンジでチン、で出すのではなかろうかと疑っている。

 “食文化”、という言葉がある。

 文化人類学者の梅棹忠夫は、「文明は腹の足しになるもの、文化とは心の足しになるもの」という名言を遺した。

 食事は、たしかに腹の足しにもなるから、その面では“文明”的である。
 腹の足しも、もちろん大事だ。
 しかし、食事を、心の足しになる“文化”としても楽しみたいではないか。

 おこうこ、あるいは、骨せんべいなどを肴に、銚子の二、三本で気のおけない友人との会話を楽しみながら、焼き上がるのを待つのが、鰻という食のの楽しみ方なのだ。

 ということなど思いながら本書を読んでいて、こんな文章に出会った。

 『素人鰻』に登場する、神田川の金のことにふれた後の部分だ。

 この神田川の金にはモデルがいたそうだが、晩年の桂文楽からゆかりの明神下神田川の座敷で、何度か鰻をご馳走になったものである。あずけてあるスコッチをお茶で割ってのむのが文楽の流儀で、こちらには無論辛口の酒をすすめる。藝談やら懐古談、ときには猥談までとび出した、いまにして思えばあれは至福のひとときであった。そんな席で、
「近頃、耳がめっきり遠くなりまして」
 とぽつりといったあと、こうつづけたのが忘れられない。
「なに、きこえなくなったってかまやしません。この年齢(とし)ンになりますと、たいていのことはきいてしまって、いまさらどうしてもきかなきゃならないようなことは、ほとんどない」
 そうして、こうもいった。
「きこえなくても、きこえたふりをしてしゃべってますとね、どうしても返事をしなきゃならないときがある。そんなときは『近頃はたいていそうだよ』と、いってやるんです。ほとんどこれで用が足ります」
 すごい老人の知恵だと思う。
 年齢をとると耳が遠くなるのは肉体的に機能も老化するためであろうが、そうではなくて、きくべきことをすべてきいてしまった必然の結果だと考えれば、若いひとたちの会話にはいっていくことができずにいらいらすることもあるまい。「近頃はたいていそうだよ」のひと言でかたがついてしまうというのも、なかなかにうがった老人ならではの感性である。
 結構名の通った鰻屋で、思いもかけない早さで鰻が出てきたときなど、ふと耳もとに、
「近頃はたいていそうだよ」 
 とささやく、なつかしい文楽の声を感じたりするのだ。

 こういう逸話は誰にでも書けるものではない。

 私が矢野さんの本が好きなのも、こういう文章の発見があるからだ。

 文楽の、たいていのことはきいてしまった、という言葉は深く、重い。
 なかなか、そんな境地になれないものだと思う。

 そして、きこえない時でも、「近頃はたいていそうだよ」で、ほとんど用が足りる、という老人の知恵にも驚く。

 文楽が「近頃はたいていそうだよ」という答えで話しに齟齬がないということは、「A」のことが話題になっているが、それは「B」でも「C」でも、他にもあてはまるよ、ということだ。

 本書のこの部分は、『小説新潮』の1994年7月号に掲載されているが、もちろん、矢野さんが文楽との至福の時を過ごしていたのは、昭和40年代前半、1960年代半ばのことと察する。

 しかし、今でも、文楽の知恵とも言える言葉、使えそうだなぁ。


 「可哀そうですねぇ、電通社員の過労死は」→「近頃は~」
 「師匠、ひどいですねぇ、文科省は」→「近頃は~」
 「日本の政治家は、昔に比べて品がなくなりましたねぇ、師匠」→「近頃は~」

 なるほど、そのひと言で、用が足りるなぁ。

 文楽の言葉が示唆するのは、周囲で交わされる会話の内容が貧困であるということなのか、あるいは、企業人や政治家、役人が総じて堕落してきたということなのか・・・・・・。

 閉会中審査の内容に呆れ、政治のことをいったん忘れようと、今年は二日ある土用の丑の日に挟まれた日に鰻関係(?)の本をめくっていて、結局は、こんなことを思っているのだった。

 そんなことでいいんでしょうかね、文楽師匠?

 近頃はたいていそうですよ!

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by kogotokoubei | 2017-07-27 21:53 | 落語の本 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛