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小松左京の七回忌ーSFの天才が認めた落語の天才のこと、など。

 小松左京が亡くなったのが、六年前、2011年7月26日。
 あの、3.11から数ヶ月後の旅立ち。
 今年は、七回忌だ。
 昭和6(1931)年1月28日生まれ、満80歳での旅立ちだった。

 行くことはできなかったが、先週22日土曜には、深川江戸資料館で、「小松左京七回忌の集い 11作品一挙上演」という会があった。
「和の輪」サイトの該当ページ

 今年1月22日のNHK FMの「トーキング ウィズ 松尾堂」は、「SFの巨人・小松左京を語る」と題し、長年小松の秘書を務められた乙部順子さんが出演なさっていたが、この深川での企画のことをおっしゃっていたなぁ。

 小松左京という人は、なかなか簡単には説明できない人、かもしれない。

 あまりに器(体も含め)が大きすぎて、単に「SF作家」とだけでは形容できない人ではなかろうか。

 1970年の日本万国博覧会や、1990年の国際花と緑の博覧会でプロデューサーも務めた。
 博識ぶりや、人を惹きつける魅力、包容力・・・・・・。
 やはり、天才だったと思う。

 私自身は、それほど小松作品を読んではいない。
 星新一、筒井康隆と「SF御三家」と呼ばれたが、筒井康隆ファンだった私だが、小松作品は、せいぜい、10冊ほど読んだ程度。
 ちなみに、学生時代に熱中していた筒井康隆の本は、単行本を含めて相当数あったのだが、大学を卒業する際、下宿の家賃の滞納分を支払うために、段ボール四箱分ほどを、泣く泣く古書店に手放した。あの時は、カセットデッキ、アンプなどのオーディオやギターも友人に買ってもらったなぁ・・・・・・。

 思い出話は、これ位で。
 
 先日、書棚を見ていたら、『ゴルディアスの結び目』(角川文庫・昭和55年7月10日の初版)が見つかったので、再読した。
 1月のラジオで、乙部さんが推奨本として名を挙げた作品の一つだったはず。
 ブラックホールがテーマの短編だが、今読んでも、楽しめた。

 そうそう、先週7月20日の夜、NHK BSプレミアムの“コズミック フロント☆NEXT”の「100年の謎 ブラックホールは存在するか?」を見ながら、『ゴルディアスの結び目』を思い出した。

 ちなみに、同番組は、8月2日に再放送されるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
NHKサイトの該当ページ
 

 小松左京は米朝と懇意で、二人のアドリブによるラジオ番組もあった。
 もちろん、落語も好きだった。
 落語のネタを元にした短編集『明烏―落語小説傑作集』(集英社文庫) も出している。

 それらのことに関し、小松左京が語っているコラムを発見。
 2006年8月11日付け朝日新聞の「ラクゴロク」というコラムにおける、小松左京へのインタビュー記事だ。
朝日新聞サイトの該当コラム

 タイトルは「落語とSFの意外な関係」。

 映画「日本沈没」のリメイクに関する前半は割愛して、落語に関する部分を中心に引用する。

――落語好きだそうですが、落語を聞き始めたきっかけいうのは何やったんですか?

 小学校の頃によく読んでた昔の漫画、幼年倶楽部、少年倶楽部とかに短い笑い話が載っててね、「この帽子ドイツんだ? オランダ」いうようなね。そういうのが好きでよく覚えてたな。それと親父が歌舞伎や寄席が好きでね、面白い親父やった。宴会なんかがあって遅く帰ってくると、その宴会で歌ってた唄なんかを教えてくれた。例えば中抜きの童謡とかね。「もしもし亀さんよ。世界にお前ほど。歩みのものはない。どうして遅いのか」。こんな風に中だけ抜いてあんねん。それから、浦島太郎の替え歌で、「むかしむかしへその下。助けた亀のへその下。竜宮城のへその下。絵にも描けないへその下。乙姫様のへその下?」……とかね。小学校の時よくこんなん覚えて歌ってな、先生や教育ママやった母親からよう叱られた。

 こんな変わった子供やったし、兄貴が落語好きやったから落語聞くのも早かったな。で、小学校2年ぐらいの頃、JOBK(NHKラジオの大阪放送局)で金語楼(きんごろう)さんの落語を初めて聞いた。これは金語楼がほんまに兵隊さんにとられた時のことを落語にした"兵隊落語"っちゅう国策落語やったな。当時は夜の9時以降にしか落語は流れてへんかったから親に隠れて聞いてた。それから「寿限無(じゅげむ)」聞いて一生懸命それを覚えたりもしたな。

 ――今までに落語をモチーフにした作品いうのはありますか?

 「たちぎれ線香」を素材にした「天神山縁糸苧環(てんじんやまえにしのおだまき)」とか、「反魂香(はんごんこう)」を素材にした「反魂鏡(はんごんきょう)」。それから「たぬき」「明烏(あけがらす)」みたいに題名をそのまま使ってるやつもあるな。処女長編作が「日本アパッチ族」いうてね。この話の中に、鉄を食って鋼鉄人間になっていくいうところがあるんやけど、これなんか「蛇含草(じゃがんそう)」にちょっと似てるかな。

 ――落語とSFいうのは似てると思わはります?

 似てると思うな。落語にも奇抜な発想の話が多いし。僕は「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」が大好きなんやけど、あれなんかこの世でない"地獄"を描いたSFやし、「月宮殿星の都(げっきゅうでんほしのみやこ)」なんてちょっとした宇宙旅行みたいなもんやな。あと「鷺とり(さぎとり)」。鷺をいっぱい捕まえて帯にくくり付けといたら、一斉に羽ばたかれて空を飛んでしもたなんてアホな話やけど、これもSFかも知れへんな。でも世界中どこに行ってもSFはあるけど、落語みたいな1人がしゃべる滑稽話いうのはね、世界中探してもちょっとあれへんのちゃうかな。欧米なんかでコメディアンがちょっと軽口話やるみたいなんはあるんやけどな。「地獄八景亡者戯」なんて全部やったら1時間以上もかかる。こんな長い話を1人でやる芸は世界中どこにもあれへんと思うな。

 そういうたら星新一も落語が好きやったな。おもろい人でな。1963年にSF作家クラブいうのを星さん達とこさえたんや。創立メンバーは僕ら以外に、半村良とか光瀬龍、あと手塚治虫、それに筒井康隆とかね。それでこれから会員が増えるやろうと思てな、SF作家クラブの入会資格を決めよういうことになったんや。そしたら星新一がね、「宇宙人はダメ。死んだ人はダメ。これは競馬に夢中な奴が中におったからやけど、馬はダメ。4番目が星新一より背の高い人はダメ。筒井康隆よりハンサムな人はダメ。ほんで小松左京より重い人はダメ」言いよんねん。それでな、一回星さんより5センチほど背の高い人が入ってきたんや。その時星さんがどない言うたと思う? 「足をツメろ!」やて。ひどい話やろ。

 ――米朝師匠やその一門の方の落語会の時はよう楽屋にいてはりますなぁ。

 僕が落語聞き始めた頃は、JOBKしか落語をやってなくて、流れてたんは東京の落語ばっかりやった。だから最初は志ん生(しんしょう)さんのファンやったんや。その後、昭和30(1955)年頃、NHKより先に民放が上方落語を流すようになってね、それ以来、上方落語も聞くようになった。東京の落語と違って上方落語はお囃子が入るからにぎやかやし、やっぱり関西人の僕には大阪弁が合うてたんかも知れんな。「上方落語もおもろいな」と思て、米朝(べいちょう)さんとか好きになった。忘れられへんのが昭和46(71)年に、米朝さんがサンケイホールで独演会開くいうのを聞いて見に行った時のことや。その当時、落語やるいうたら普通は寄席やった。200人入ったら満席っていうような寄席でやっとったんやね。それを1000人以上客入れて、効果使って、マイク使って……「そんなん無理やろ」と正直思ってた。ところがこれがものすごかった。1000人以上の客が一体になって笑たり泣いたりしててな、芝居や映画の比やなかった。あまりにも良かったんで賞賛より先に危機感を感じたんや。「こらえらいこっちゃ。頑張らんとSFが上方落語に負ける!」とね。

 ――確か米朝師匠とラジオ番組やってはりましたよね。

 昭和34(59)年からラジオ大阪で「いとし・こいしの新聞展望」の台本書きをやってたんで、米朝さんと初めてあったのは、産経会館やったと思う。追っかけで楽屋にちょくちょくおじゃまするようになって、一緒に飲みに行ったりもするようにもなってきてな、いろんな話で盛り上がってたんや。そしたらそこにおったラジオ大阪のスタッフが、2人の話が面白いと言うんで番組作ろうって話になった。でもなかなかタイトルが決まらんかったんでな、それは番組が始まってから公募して決めようってことになったんや。それで当時「題名のない音楽会」って番組があったんで、それをちょっと拝借して「題名のない番組」ってタイトルでとりあえずスタートした。そしたら3回ぐらいやった頃かな、スポンサーに「もういいかげん題名決めてくれ」と言われた。でもそれほどええタイトルも送られて来んかったし、「もうこのままでええか」ということで正式に「題名のない番組」に決まった。昭和39(64)年から4年半ほどやったかな。

 ――反響はどないでしたか?

 リスナーから葉書もらってフリートークする、いわゆるディスクジョッキーみたいなんがまだおらへん時代にそんな番組始めたんや。それと当時はまだ深夜放送なんてなかったから、夜の11時から放送して聞いてくれる人なんかおんのかなと思ってた。けど、ふたを開けてみたらぎょうさん葉書が送られて来た。関西はもちろん、あの頃、ラジオ大阪が1380キロサイクルでね、短波に近いもんやから電波がよう飛んでね、東京とか九州とか日本のあちこちから葉書が来よんねや。今度は学生のリスナーが増えすぎて心配になった。しかも、大阪の北野高校とか天王寺高校とか東京の進学校とかの生徒がこんな時間帯にね、一番受験勉強やらないかん時にね、この放送聞いてたら日本の未来を危うくするんじゃないかと思てね、当時米朝さんと心配してた。

 ところがそれから20年くらいたったある時ね、SFについて話してくれと大蔵省から呼ばれたことがあったんや。で、東京に行ったら大蔵省やからね、いかにもキャリアらしい人が車で迎えに来てくれた。車に乗ったらその中の1人が「僕、『題なし』のファンやったんです。葉書も2回採用されたんですよ」て言いよった。そしたらその横に乗ってた彼の先輩がね、「お前はたかが2回じゃないか。俺は3回採用されたんだぞ」って自慢しとった。僕らのラジオを聞いてた奴が、大蔵省のエリートになっとったんや。しかも、「投書が採用されたことを誇りに思ってる」言うてた。これはうれしかったな。

 ――米朝師匠以外に仲良かった落語家さんいうたらどなたですか?

 枝雀(しじゃく)と吉朝(きっちょう)やな。どっちも早うに亡くなってしまったんやけど、ほんまに残念な話や。吉朝とは米朝さんが関西テレビでやってた「ハイ土曜日です」って番組でワンコーナー持ってた時に一緒に仕事をしてたんや。べかこ(現南光)と吉朝の2人で、「東の旅」とか「西の旅」に出てくるところや、落語や芝居の舞台になっているところを実際に歩いたりする「上方芸能散歩」ってコーナーやったかな。枝雀の方はよく落語会にも行ったし、ABCの「枝雀寄席」にゲストととして出演もしたな。いつも僕は彼のことを「枝雀ちゃん」って呼んでてね。これは後で聞いた話なんやけど、本人はそれを嫌がってたらしいな。理由は僕が早口やから、「枝雀ちゃん」が「しわくちゃ」に聞こえるらしくてね。「僕はしわくちゃやない!」って怒っとったらしいわ。ゴメンな枝雀ちゃん。

 落語とSFとの類似性、まったく同感。

 星新一の言葉、笑えるねぇ。
 落語が好きだったことが、こういう一言からもうかがえる。
 筒井康隆も、大の落語好き。昨年2月、米朝との対談による『対談 笑いの世界』の引用を含む記事を書いたが、あの本を読めばよく分かる。
2016年2月18日のブログ

 放送当時は聴いたことがないのだが、ある方のご厚意で、「題名のない番組」(通称「題なし」)の最終回の音源を聴くことができた。
 なんとも楽しい内容で、アシスタントの女性は、米朝と小松左京の知的漫才とも言える掛け合いに終始笑いっぱなし。もちろん、聴き手の私もなのだが。
 また、聴取者からのハガキの内容が、知的レベルが高く、かつエスプリの効いたものであることに、驚く。そのハガキを題材に、縦横無尽の二人の会話が続くのだ。

 なるほど、大蔵省でかつての番組のファンと出会うのも頷ける。

 霞が関の役人には、高校時代にそういう“良質な”番組を聴いていた、“真っ当な”人がいたのである。
 それに比べて・・・・・・。

 
 小松左京が、「枝雀ちゃん」が「しわくちゃ」に聞こえて怒っていた枝雀への詫びを直接言えなかったようなのは残念だが、最上級と言える表現で枝雀追悼の言葉を残している。

小松左京の七回忌ーSFの天才が認めた落語の天才のこと、など。_e0337777_11360071.jpg


 それは、東芝EMI(現ユニバーサル・ミュージック・ジャパン)の「枝雀落語大全」第十六集(『蛇含草』『質屋蔵』)に収められている、小松左京のメッセージだ。

 全文、引用する。

「二十一世紀の落語に革命をおこそうとしていた『すっとび』天才を悼む」
                                  小松左京

 桂枝雀さんの師匠の桂米朝さんとはずいぶんと古いお付き合いになります。昭和三十九年の秋からラジオ大阪で『題名のない番組』が始まって、米朝さんと泥沼のような付き合い(笑)になる以前から既によく知っていました。お弟子さんである枝雀さんは、入門当時、桂小米という芸名だったと思うな。「小米ちゃんは変った子だな」とすごく印象に残っています。米朝さんの落語をたくさんきいているうちに『地獄八景亡者戯』に出会い、私は一種の挑戦状をうけたように愕然といたしました。これは私たちのはるか昔の先輩が作りあげたSFの世界にほかなりませんでした。「SFなんて落語みたいなもんじゃないのか」という意見に、「そうや、そやから現代SFは、百年以上前にできた古典落語の“雄大さ”に負けてられん」といった私ですが、正直、SFは、古典落語、特に上方古典落語に負けている、がんばらねばと思っていました。小米時代の枝雀さんにラジオ大阪のサテライト番組に呼ばれました。そこで、「先生、SRというのをやりたいんです」と彼はいいます。「なんや、それは」といったら、「SF落語」のことですねん、というのです。彼星新一さんのショート・ショートにかなり感動していて、それで、私の『蜘蛛の糸』など、二、三本のショート・ショートを「小咄」とはまたちがった味の「SR」にして、高座にかけてくれました。SRの中で『犬』という作品がありますが、これを聞いた時には、「こらエライこっちゃ。ひょっとしたら彼は天才ではないか」と思い出した。星さんのショート・ショートは小咄の味ですが、それから小米さんがSRを作ったのはショックでした。枝雀さんは師匠の米朝さんからきっちりと上方古典落語を継承していましたが、だんだんと「彼は米朝さんとは違う、上方落語をとんでもないところへ飛躍させる一種の天才かも知れない」と感じられはじめました。米朝さんにも、「彼は化けまんな」と話した。「そうですねん」と米朝さんもうれしそうにいう。“化ける”というのは、忠実な古典落語の継承者が突然、弾けるように芸の花を咲かせるということです。古典落語でも彼が演じると他とは感じが違う。『こぶ弁慶』あたりでも、米朝さんとはまた違う面白さ。弁慶のこぶが口をききだす。それが一種のヤタケタなキャラクターとして目の前へ浮かんでくる。枝雀さんやなしに、もうこぶが話しているみたい。『蛇含草』でも彼が演じると不思議な味になる。『寝床』の小僧でも、「そこがわいの寝床でんねん」という丁稚がホンマに可哀そうで、おかしいけど、もらい泣きしそうになる。晩年の枝雀さんの自作の『いたりきたり』を聞いた時も、原稿の締切りがあるにもかかわらず、家へ帰って仕事に手がつかず、「枝雀ちゃん、エライもんつくりよったなァ」と思った。枝雀落語には超自然的というか、一種の狂気というものがあった。初代の桂春團治や松竹新喜劇の藤山寛美同様にとんでもないやつが出てきたという感じであった。宇宙人が出てくる新作物語を書くという彼との約束が果たせなかったのが残念です。(作家)


 枝雀落語大全の第十集に『地獄八景亡者戯』の前篇・後篇と一緒に、二分にも満たない『SR』が収められてて、『犬』も入っている。

 私も最初に聴いた時は、結構衝撃を受けたなぁ。

 そして、私のような巷の落語愛好家のみならず、SF界の天才といえる小松左京が、桂枝雀に対して、これだけの思いを抱いていたのだ。

 私は、天才とは、努力とは無縁ではないと思う。
 その常人を上回る才能が、これまた人並みはずれた努力を土台にして開花した人なのだと思う。

 その意味で、小松左京も、桂枝雀も、天才なのだろう。

 天才は天才を知る、ということか。

 小松左京の命日を前にして、この天才作家のこととともに、桂枝雀という天才落語家のことにも、思いが至るのだった。
 

Commented by saheizi-inokori at 2017-07-24 21:56
天才かもしれないけれど、そんなに好きにはなれない人ですね。
なぜかはしらねど。
Commented by kogotokoubei at 2017-07-25 13:40
>佐平次さんへ

それは、小松左京という人が、高度経済成長時代の日本の、光の当たる表舞台にいた(ように見える)からなのかもしれませんね。
自信はありませんけれど。
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by kogotokoubei | 2017-07-24 21:20 | 落語好きの人々 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛