『茶目八』という上方落語についてー『米朝ばなし』より。
2017年 07月 20日
実は、居残り会以外にも飲み会が続いていたのであった。自業自得だ。
よって、静養日(?)として、遠出はせずに、家で本を読んだりしていた。
先日の柳家小満んの会における『王子の幇間』について書いた内容の中で、ほぼ同じ筋立てで上方落語に『茶目八』や『顔の火事』という噺があることを、矢野誠一さんの本から紹介した。
『米朝ばなし』(講談社文庫)
『米朝ばなし』をめくってみると、「新清水」の章で、『茶目八』が紹介されていた。
まず、冒頭部分を引用したい。
昔の大阪のおもかげ
大阪にも清水さんがある、と言うと、びっくりする人が多いのですが、天王寺さんと生国魂さんの間、安居の天神さんの裏手あたりに清水寺があります。
いま大阪で、昔のおもかげが残っているのは、天王寺から一心寺、安居の天神、生国魂さんから高津へかけての一帯、いわゆる上町台地のこの一角でしょう。
読んでいて、なんとも懐かしくなった。
昨年11月に、「ブラ幸兵衛」と称して、拙ブログへのコメントをきっかけにメル友(?)になった山茶花さんの名ガイドで散策した上町台地一帯を思い出したのだ。
そうそう、清水坂も歩いたなぁ。
2016年11月14日のブログ
2016年11月15日のブログ
大阪の印象は、あの散策で一変した。
坂の町であり、寺の町なのである。
思い出に浸るのはこれ位で、『米朝ばなし』に戻る。
京都の清水寺に対して「新清水」と呼ばれるここには、やはり小さいながら舞台があり、滝もあります。滝の下の方には今はないが、江戸時代から「浮瀬(うかわせ)」という名代の料理屋があり、これは「双蝶々」などの芝居にも出てきます。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という清水の舞台から飛ぶということにちなんで、しゃれてつけた名でしょう。
この新清水は、落語には関係がないと思っていましたら、ちょっとだけですが、ここが登場する話があったので、ご紹介します。『茶目八』です。
なんとも、興味深い導入部。
さて、どんな噺なのだろうか。
茶目八という幇間(たいこもち)、ロクなヤツではないんですが、とにかく口から出まかせにぺらぺらしゃべるのがおもしろいので、割にごひいきの客が多い。
あるだんなの二号さんの家へ行って、だんなのことを歯の浮くようなベンチャラを言うてほめそやす。そのおてかけはん「ワテ、うちのだんさん、イヤになってるねん」「なんででんねん。あんなええ男やし、お金は持ってはるし、よう気がつくし」「あの人、あっちこっち浮気ばっかりしてるしな。それにな、ちょっと油断のならんところがあると、あんた、思わんか」
こういうふうに持ちかけられると、この茶目八、すぐ乗って、「そういうとな。わたし、こないだ、だんなに殺されかけましたんや。わてがまだ寝てる時に、七時ごろだっせ。わてをたたき起こしに来はって“散歩に行かへんか”“へえ、おおきに”と飛び出したけども、朝めしも何も食べてえしまへんやろ。そやのに、どんどん、どんどん歩きはりまんねん。“わてお腹が減ってまんねん”言うたら“お、そんならどこぞ夜明かしの店が今時分までやってるやろ、そこで食べたらええ”ちゅうので、そこまで行ったら、店を閉めたところでんねん。そうすると“ついでやさかい高津さんから生国魂さんへ散歩しよう。運動になる”とこうおっしゃる」
「運動ちゅうのはね、お腹が大きいさかい、あれ、運動しまんねんで。ペコペコで運動したら、わたい、しまいに目がもうてきた。ほんなら“広田家のお定(き)まり食べよう”“あ、結構でんな”ち一心寺さんのとこをずーっといたら“本日休業”と書いたある。だんさん、知っててわたいをここへ連れて来はったんや。ほんで“清水さんへお参りしょう。お滝に打たれるねん。おまえも一緒に打たれえ”“もうかんにんしとおくなはれ”と言うのに裸にして飛び込まされた。さ、今やさかいそう寒いことはないけども、唇の色が紫色になってきて、目が回ってドタッと倒れた。だんさんは着物をぬごうともせんと、清水の滝へ手をのばしてしずくを受けて、ほいで頭の上へピシャピシャとしずくを乗せて“これでもおんなじこっちゃ”ーこんなこと言いまんねん」
去年の“ブラ幸兵衛”では、清水坂を歩いたが、清水寺には立ち寄らなかったなぁ。
次の機会には、茶目八が災難にあった(とされる?)滝を見に行かなきゃ^^
せっかくなので、引用を続けよう。
「さあ、そういうところのある人やさかい、わたしが別れるちゅう気持ち、わかるやろ。わたしと一緒になって、連れて逃げてえな」「逃げまひょ」
茶目八は、金と銀の延べ棒が入っているというえらい重たい箱を風呂敷包みにして背負わされ、値打ちもんの掛け軸や、骨董品の入った包み、鏡台まで背負う。そのうえ、おかあはんの形見やという宣徳の火鉢を手に、おとっつあんの形見の柱時計を首からぶらさげ、「子供同様にかわいがってる」という猫をふところに入れます。
「歩けますか」「へえ、どうぞこぞ歩けます」「まあ、おもしろい格好やこと・・・・・・。だんさん、ちょっと出てきて見てみなはれ」
「茶目八!ええ格好やな」「ワァー、だんな、居てはったんかいな」「なんやおまえ、まるで火事場の焼け出されやないか」「へえ、火事にもあいまひょかい。今、顔から火が出ました」
『王子の幇間』とは、幇間を騙すのが旦那と女房ではなく、旦那とおてかけはん(二号)という違いがあるが、基本的な筋立ては、なるほど同じだなぁ。
ようやく、小満んのサゲがこの上方落語を元にしていたことが、確認できた。
『王子の幇間』の作者初代三遊亭円遊は、嘉永3年5月28日(1850年7月7日)生まれで明治40(1907)年11月26日に歿した。
『茶目八』の作者と言われる二代目林家染丸は、円遊より17歳若く、幕末の慶応3年1月8日(1867年2月12日)生まれで、昭和27(1952)年11月11日に、85歳で亡くなった。
昭和前半の上方落語界を語る上では欠かせない人物であり、奥さんの林家トミは、下座三味線の名手で人間国宝(無形文化財)だった方だ。
その二代目染丸の墓は、天王寺の一心寺にある。
去年の“ブラ幸兵衛”で立ち寄った一心寺では、「真田の抜け穴」を見たなぁ。見事な現代風の仁王像には圧倒された。
染丸の墓があると知っていたら、手を合わせたものを。
果たして、当代の上方の噺家さんで『茶目八』、あるいは『顔の火事』を演じる人がいるのだろうか。
ぜひ、そのうち聴きたいものである。
7/20まで池袋でトリで出演の柳家小のぶ師は自分も観に行きたかったところです。同師の芝居はあまり記憶にない…どころか、同師の寄席出演さえも珍しいほどですから…。何度か独演会へは足を運んだことがありましたが、中々、渋い芸風の落語家だと思います。声が嗄れていて聴き取りにくい面もありますが、地味ながら柳家一門の本寸法の芸を観てくれたかと思い、自分も見逃したのは残念でした。
私も知らなかった噺です。
枝雀が小米時代に演っていたようですね。
東京から上方に移された珍しいネタかと思いますが、染丸は大阪らしい舞台設定で、なかなか良い脚色をしていると思います。
『米朝ばなし』の「メモ」では、新清水に近い松屋町筋に、豆ごはんで有名な広田屋という料理屋が、今でもある、と紹介されています。
まさに、その広田屋の旦那を噺の人物として登場させていたということは、染丸のお知り合いだったのでしょうかね。
小のぶの『長短』を池袋で聴いて久しいので、今回行けなかったのは残念ですが、そのうち、ぜひ、と思っています。
大阪の清水寺の滝は、本当に小さい物です。前回ご一緒した時は、幸村縁の地を中心に廻りましたので、清水寺はパスしましたね。
www.geocities.jp/general_sasaki/osaka-kiyomizu-ni.html
天王寺の料亭廣田家は残念ながら廃業されてしまった様です。天王寺には、今も古い料亭が幾つかあります。天王寺の廣田家と姉妹店の住吉廣田家は今も営業されています。天王寺の廣田家へ行ってみwww.hirotaya.sakura.ne.jp/index5.html
廣田家の豆ご飯は、大豆を煎って炊き込んだもの。住吉の廣田家は「豆めし」と呼んで区別している様です。
上方でも、今では珍しいネタになっているのでしょうね。
昨年11月は、基本は幸村ツアーでしたね。
次回は、ぜひ清水寺の滝を見なきゃ。
天王寺の広田屋さんは、まさか、旦那の放蕩で・・・なんて不謹慎なことを考えちゃいけないですね^^
住吉のお店、そのうちぜひ立ち寄って、豆めし食べたいものです。
「この噺は今はほとんどやり手がなく、近年では三代目林家染丸さんが生前によくかけておりました。このテープは故桂枝雀さんが小米時代に生涯で一度だけ演じた非常に珍しいものです。それもそのはず。三代目林家染丸追悼公演から、桂小米さん、『茶目八』です。どうぞ。」
このような案内だったと記憶しています。懐かしくなり、放送当時の音源を探してみたところ、見当たらず…。非常に残念です。
そうでしたか。
それは貴重な音源ですね。
ぜひ世に出して欲しいなぁ。
そもそも小米時代の音源が珍しいですよね。
貴重な情報、誠にありがとうございます。
いろんなことを書いているブログですが、今後も気軽にお立ち寄りください。