噺の話

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三代目三遊亭円歌の生年月日のこと、など。

 亡くなった円歌の享年がメディアによって違っているので、実際の生年月日がいつだったのかネットで調べてみた。

 一昨年、円蔵が亡くなった際に円歌に取材したスポニチの記事があったので、引用。
スポニチの該当記事

 落語協会のホームページには「1932年1月10日」と表記されているが、以前に取材をした際「終戦のときは国鉄の社員で、東京で駅員をしていた」と語っていた。

 表記の通りなら、圓歌さんは13歳で当時の国鉄に勤めていたことになる。東京は相次ぐ空襲で混乱を極め、成年男性の多くが兵隊にとられていたとはいえ、13歳の少年が国鉄に就職できるのだろうか。

 いぶかしく思い、もう一度、本人に連絡をしてみると「実は1929年なんだよ。戸籍のあった役所が空襲で焼けちゃったんです。それで再度届けたときに家族が間違えちゃって。だから戸籍上は3歳若くなっちゃった」と少し笑いながら答えてくれた。度重なる空襲をかいくぐった生粋の江戸っ子らしいエピソードだった。

 頭を低くして、ただただ恐怖におびえながら戦争末期を生き延びたわけではない。

 「上野の鈴本演芸場には防空帽をかぶってよく通いましたねえ。寄席で笑ってると空襲警報が鳴るんですよ。そしたらみんな、サァーっと引けて防空壕や安全そうな所に向かう。サイレンが鳴り止むとまたみんな寄席に戻ってくる。そんなことばかりしてました」

 圓歌さんの思い出話は実に貴重だ。戦争に日常性を奪われることに抗い、戦争を笑い飛ばしてやろうというたくましい江戸っ子はたくさんいたのだ。

 戦後70年。そしてまた、師匠も芸能生活70年。終戦と同時に鉄道員を辞め、落語家に転身した。当然ながら親は猛反対。ついには勘当される。戦争が終わり、誰もが定職を探している中で、いとも簡単に最も安定していると思われた職を捨てる息子の気持ちは、親に理解できるはずもなかった。しかし、空襲の中でも命がけで笑い続けた寄席での強烈な体験は、思春期の青年の将来像に劇的な影響を与えたのだろう。

 ということで、昭和四年生まれが正解のようだ。
 朝日新聞の訃報も、届け出の間違いのことを踏まえ、昭和四年生まれとしている。
朝日新聞の該当記事

 落語協会のホームページは、前最高顧問の生年月日を間違えたまま。

 これは修正すべきではないか、と思う。
 その内容を含め、相変わらず事務的で愛想のないものだが、ホームページの小言を書き始めたら終わらなくなるので、これ位で。


 さて、円歌の国鉄勤務は、数年のことだ。
 その短い体験から「新大久保~」の名調子が出来たわけで、創作力の高さは凄いと思う。

 『授業中』も『中沢家の人々』も、傑作。

 しかし、円歌は古典もしっかり演じていた。

 今年の旧暦の西行忌の日、『西行』について書いた。
2017年3月13日のブログ


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矢野誠一_落語歳時記

 その記事と重複するが、矢野誠一さんの『落語歳時記』から、このネタについて書かれた部分を引用する。
 旧暦二月二十六日、西行法師の忌日。建久元(1190)年のこの日、河内弘川寺に入寂した。「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」という歌は有名。釈尊入滅の日に死ぬことを願っていたのである。二十三歳出家してより諸国行脚して歌道にその名を知られた。家集『山家集』のほか、その歌を集めた『聞書集』『聞書残集』がある。

    *
 あの西行法師が未だ佐藤兵衛之丞則清といった北面の武士時代のエピソードを綴ったのが、地ばなしによる『西行』で、故柳亭痴楽や三遊亭円歌などがしばしば高座にかける。昔、摂津泉つまりいまの大阪近辺から千人の美女を選び、さらにそのなかの一人選び抜かれたという染園内侍に、佐藤兵衛之丞則清が恋をしたはなすだが、落語では、この恋に破れたため、かざりをおろし、名も西へ行くべき西行と改めることになっている。
 
 『西行』の代表的演者、三遊亭円歌という名前の前にも、「故」がつくことになってしまった・・・・・・。

 北面の武士から出家した西行。
 噺家から出家した円歌には、西行への思い入れがあったのではなかろうか。

 この噺、あらすじやサゲから、現代では演じられにくいネタではあるが、佐藤則清という武士のことや、「阿漕」という言葉の意味などをたどるきっかけにもなる噺。
 
 音源を師匠円歌は残してくれている。
 ぜひ、一門の人に継いで欲しいと思う。

 『授業中』や『中沢家の人々』は、本人限りのネタ。
 しかし、円歌が手掛けた古典は、後世に伝えることが出来る。


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Commented by saheizi-inokori at 2017-04-27 22:13
圓歌の「西行」聴いたことがないかな。
数年前、鈴本の近くの小路に入っていくところを見ました。
あれは西向きだったか。
Commented by kogotokoubei at 2017-04-28 08:47
>佐平次さんへ

寄席で馬方が出る前で終るときは「西行法師、若き日の失恋をただ噺家が調べただけでございます」で高座をおりたようです。
師匠二代目円歌譲りの大事なネタだったのではないでしょうか。
Commented by at 2017-04-30 19:57 x
> 噺家から出家した円歌には、西行への思い入れが
虚を突かれました。どこかで感じていたことを整理してくださいました。
若い頃にはかなりの放蕩をしていたらしい圓歌が仏門に入るには何かの契機があったのでしょう。
落語家は「お古いところ」を語るときに、きちんと回顧するように語れるかどうかが大事で、圓歌はその意味でも上手でした。
Commented by りつこ at 2017-04-30 21:20 x
圓歌師匠、年齢を上に言った方が何かと都合がいい(馬鹿にされにくい、ハクがつく)ため、ご本人もあえて訂正しなかった、と他の噺家さんがまくらでおっしゃってました。
Commented by kogotokoubei at 2017-05-01 08:41
>福さんへ

今は、寄席で逃げの“漫談”をする人が多いですが、円歌のそれは、すべて一つの作品としての内容でした。
西行、生で聴きたかったなぁ。
Commented by kogotokoubei at 2017-05-01 08:49
>りつこさんへ

金曜日の歌之介も生年月日にふれていましたが、昭和四年が間違い、と言っていたのです。
さて、どっちが正しいのやら。
歌之介は、まだショックから立ち直っていない様子でもあったので、間違えたのかもしれません。
米寿祝いの落語会が予定されていましたら、やはり昭和四年だと思うのですがね。

国鉄への就職時期を考えても、そう思いますが、年齢を胡麻かして勤めていたかな。
謎のあな、あな、です^^
Commented by トシ坊 at 2017-05-01 20:23 x
亡くなられた後に改めて見た落語協会の圓歌師匠のプロフィール、勲等がなくなった後なのに書いてあり、章の字も賞になっていて、酷いと思いまして、直すよう伝えました。今は直っています。

Commented by kogotokoubei at 2017-05-01 22:14
>トシ坊さんへ

誤字もそうですが、いまだに物故者のページには掲載されていませんね。
喜多八の時もそうでした。
相変らずの酷いサイトですね。
訃報にしても、なんとも味気ない。
そろそろ目覚めて欲しいものです。
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by kogotokoubei | 2017-04-27 12:41 | 落語家 | Comments(8)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛