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「三代目林家染丸50回忌追善落語会」のこと、など。

 林家染丸が、師匠三代目染丸の「50回忌追善落語会」を開くことについて、記者会見をした。
 スポニチから引用する。
スポニチの該当記事

林家染丸 師匠の50回忌追善落語会発表会見 「誇れることは弟子が増えたこと」

 落語家の林家染丸(67)が12日、大阪市内で、師匠である3代目林家染丸さんの50回忌追善落語会(6月17日、天満天神繁昌亭)の発表会見を開いた。

 先代は生前、一門を大きくしたいというのが口癖で、現在は13人を数えるまでに。「師匠に誇れることは弟子が増えたこと。自慢できます」と胸を張った。上方落語協会の初代会長でもある先代は、噺が終わるまで公演では誰も席を立たず、終了後にトイレに長蛇の列ができたといわれる伝説の噺家。今回、一門と縁の深い笑福亭仁鶴(80)に出演を染丸自らお願いし、当日は思い出話に花を咲かせる予定。[ 2017年4月12日 17:33 ]

 三代目染丸が初代会長を務めた上方落語協会創立当時のことは、先日、露の五郎兵衛の本から紹介した。
2017年4月3日のブログ

 当代染丸の体調については気になっていた。
 四年半ほど前に脳梗塞になりリハビリ中と聞いていたが、師匠の追善興行が出来るところまで快復してきたようで、なにより。

 その師匠三代目林家染丸は、明治39(1906)年3月25日生まれで、 昭和43(1968)年6月15日に旅だった。
 本名は、 大橋駒次郎。綽名が「おんびき」(ヒキガエルのこと)だったとのこと。

 関西で人気者だった「ザ・パンダ」のメンバーだった小染が四代目染丸を継ぐだろうと思われていたが、小染の事故死により総領になったのが、当代の染丸。
 三味線も弾けることもあり、寄席囃子の保存、普及に力を入れているが、実に貴重な活動だと思う。
 


「三代目林家染丸50回忌追善落語会」のこと、など。_e0337777_11113460.jpg


 先日の記事で引用した露の五郎兵衛の『上方落語夜話』に、三代目染丸に関することとして、昭和36年のことが書かれいた。紹介したい。

東西若手交流

 昭和三十六年の上方落語界は東西交流によって幕をあけました。朝日放送と東京放送がキモいりで、東西の落語家が交流。それぞれの寄席へ出演して勉強する話がもち上がり、受け入れ先としては、大阪が角座、東京は東宝名人会を定席にもう一ヵ所上野鈴本または新宿末広亭のいずれかが予定されたのです。が、東京からは二つ目、いわゆる中堅クラスが来阪したのに対して、大阪方は全勢力を投入しても、二十数名、それこそジャコもモロコも入れてですから、その第一弾として、あいさつもかねて、大阪からは落語協会会長の林家染丸みずから東上するのに、東京あkらは柳家小ゑん(現立川談志)が・・・・・・と、いうありさま。この層の厚さの違いが、やがてこの交流の中止につながるのですが、それにしても、上方落語協会はここにおいて、はじめて他流試合の経験をもつことになったのです。それまで、二、三、個人的に東上、寄席出演をしたものはありましたが、大多数は初上京。かなり気負いたっていました。
 二月第一陣の染丸は帰阪後、二十四日付「日日新聞」紙上で、「わたしの口からいうのはおこがましおますけど、評判は上々、なにしろ大阪弁の肩身が年々ひろうなりまして、言葉に気を使いまへん。ただ東西共通の欠点はテレビと落語が水と油みたい。これをなんとか考えなかったら・・・・・・」と、語っています。
 ともあれ、この交流のおかげで、東西の若手が友達になり、上京下版の折にはその自宅へ一夜の宿を借りたりしたもので、そうこうするうちに協会の交流とは別に自主的に東上来阪するものも出てきはじめ、若手間のつきあいは目に見えて活発になり、この年の十二月、「やろうよ」「やりまひょう」ということになって東京人形町の末広で、東西若手中堅落語合同競演会ときう、イヤに長たらしい名前の会が開かれました。東京は三遊亭吉生(現円窓)、林家照蔵(現柳朝)、三遊亭全生(現円楽)、柳家小ゑん(現談志)、一応大阪ということで桂小南、客分格で三遊亭百生、大阪から東上は、小春団治(現五郎)、文紅、補導に桂文楽という顔ぶれです。
 そしてそれの大阪版が、翌昭和37年二月二十一日、東西若手落語会として三越劇場で実現しました。
 東上下版の交流出演者はそれぞれ東京放送と朝日放送を中心に最低二本以上のラジオ出演を取ってもらって、そのギャラが滞在の経費にあてられていたのです。
 三越における東西若手落語会の顔ぶれは、桂小米(現枝雀)、笑福亭花丸(廃業)、桂我太呂(現文我)、一(かず)の一(はじめ)(後染語楼となり物故)、柳家小ゑん(現談志)、桂文紅、三遊亭全生(現円楽)、桂小春団治(現五郎)、補導出演、林家染丸(故人)でありました。

 小春団治(五郎)にとって、この交流で出来た人脈は、その後大きな財産となる。

 先日、毎日新聞の“落語ブーム”に関する記事について書いたが、その中で、現在横浜や大阪で開かれている二ツ目相当東西若手六人による会のことに触れた。

 私は、さん喬と新治など、個人の噺家さん達の東西交流がいろいろあるのは認識しているが、東西の協会同士が交流のために積極的に活動しているという話を、耳にしない。

 もちろん、いろいろ難しいこともあるだろうが、ブームとは言えなくとも、少なくとも落語という芸に訪れた“波”を活かして、個と個の点と線だけではなく、面として、そして、より立体的なスケールの大きな落語界の活動があってよいと思っている。

 なぜなら、まったくの“なぎ”の状態において、上方落語への“波”を率先して起こそうとしていた昭和三十年代の重鎮、三代目染丸の苦労がいかばかりかと思うからだ。
 
 引用した内容には、なんとも懐かしい当時の若手の名前の中に、染丸の名が混じっている。
 協会創立間もない頃に、初代会長として奮闘していたことが、察せられるではないか。

 リハビリ中だった染丸が、師匠の50回忌にかける思いは深くて熱いものだろう。

 その50回忌追善落語会が、一門とその愛好家たちのための興行になるだけでなく、初代上方落語協会会長染丸が率先して奔走していた東西交流について議論されるきっかけになって欲しいと思う。

Commented by 山茶花 at 2017-04-16 12:24 x
先代染丸師については、殆ど記憶がありません。

落語好きだった母がよく覚えていた様でした。「でっぷりとしていて、迫力があった」という事でした。日曜午後に毎日放送(MBS)で放送していた「素人名人会(関西地区、東海地区他数社にネット」の演芸部門の審査員をされていたそうです。代理で出演されていた米朝師しか私は見た事がないのですが(米朝師の審査は、素人であっても厳しい批評だったので幼い私は「怖いおじちゃん」の印象でした)。

読売新聞月曜夕刊関西版に現染丸師のコラムが連載されています。以前に弟子入り当時の事が書かれていました。おかみさんが「大事な余所の子を預かっている」と言われた時に先代が「余所の子と違う、うちの子やから大事や」と言われた事が嬉しかったとか。

現染丸師は、当初朝日放送夕方の演芸番組「仁鶴と遊ぼう」という大喜利の三味線担当で注目されました。落語よりも三味線で注目されていました。

新聞連載もリハビリの一つだという事です。
Commented by kogotokoubei at 2017-04-16 15:37
>山茶花さんへ

三代目染丸は、私もこの記事を見るまでほとんど意識にはなかった噺家さんです。
残された写真は、お母さんのお話の通りで、ふくよかなお顔をされていますね。
いいなぁ「余所の子と違う、うちの子」という言葉。

当代染丸は、満を持しての追善興行なのでしょう。
まだ少し時間があります。
無理をせず、リハビリが順調に進むことを祈っています。
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by kogotokoubei | 2017-04-13 21:54 | 上方落語 | Trackback | Comments(2)

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