噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

60年前、上方落語協会発足当時のことー露の五郎兵衛著『上方落語夜話』より。

 上方落語協会が設立60周年を迎え、今月の天満天神繁昌亭の昼席は特別公演が開催されている。
 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

上方落語協会
60周年で公演

毎日新聞2017年4月2日 大阪朝刊

 落語の定席、天満天神繁昌亭(大阪市北区)で、上方落語協会の設立60周年を記念した特別公演が始まった。毎日午後1時開演の昼席に、200人以上の落語家が日替わりで出演する初の企画。初日の1日は開演前に鏡開きが行われ、桂春之輔副会長が「我々一同、芸道に励みますので、ますますのご愛顧をお願いします」とあいさつした。


 上方落語協会は1957年4月、18人で発足。現在は256人が所属する。特別公演は今月30日まで連日開催。いつもは週替わりの出演者が日替わりになるほか、その日の出演者による口上も毎日行われる。

 繁昌亭サイトには、次のように案内されている。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

天満天神繁昌亭昼席 上方落語協会創立60周年記念月間の開催について

おかげさまで、上方落語協会は今年4月1日、創立60周年を迎えます。

これを記念して、4月昼席公演を“記念月間”として特別公演を開催致します。
255名の協会員が日替わりで総出演して、4月の一カ月間を賑やかに祝う記念公演です。

 昼席の今月の番組表には、なんとも賑やかな顔ぶれが並んでいる。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

 60年前の協会発足当時を、その前夜から振り返りたい。

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 先日の命日でも引用した露の五郎兵衛(発行時は露乃五郎)の著書『上方落語夜話』(昭和57年8月10日初版、大阪書籍)からご紹介。

 昭和20年代の末、上方の若手落語家は、夷橋松竹(夷松)と宝塚の大きく二つの派に分かれて勉強会、落語会を行っていた。当時のことをまず振り返りたい。

 昭和30年に入ると若手は若手なりに活発に動き始めました。桂米朝が南街ミュージカルで茶川一郎らと、コメディーを演じはじめたのもこのころで、三越落語新人会は、新人を卒業して三越落語会となり、落語家たちは落語以外のいろいろなラジオ番組にも顔を出すようになりました。
 夷松と宝塚に分かれて勉強を続ける若手たち以外、まだまだ古老連も幾人かは健在でした。これらを何とかまとめようとする動きは、あって当然、また当人たちにもその気はあったのですが、その音頭取りが問題で、これがなかなかむつかしかったのですが、やがて時の氏神が現れました。朝日放送の「上方落語をきく会」がそれで、昭和30年12月1日上方落語とはなじみの深い三越劇場で開催され、メンバーは、桂文団治、笑福亭枝鶴、桂福団治、林家染丸、桂春坊、桂米朝、橘ノ円都の七人でした。まだテレビのない時分で、PRが十分に出来なかったので、果たしてお客さんが来てくれるかどうか、この点が一番心配でした。しかし、我々の予想を完全に裏切って、開幕前にはほとんど満員の盛況で本当にうれし涙が出そうになりました。そして、この会は、今日まで続いているのです。

 補足すると、枝鶴は、その後の松鶴、春坊は著者の五郎である。

 引用を続ける。
 一方、宝塚若手落語会は、その年9月から立体落語と称して、落語劇とに二〇加(にわか)のアイノコのようなものを上演しはじめ、これが、たまたま小林一三翁の目にとまり、そのお声がかりで北野劇場のステージショーに進出するといったハプニングすら生まれたのでした。そして小林一三翁のお声がかりで、モダン寄席を開場する企画が出はじめ、昭和25年ごろ初期の新芸座結成に関係しその後、病気療養のため休職していた漫画家でもありアイディアマンでもあった平井房人氏が、復職に際して宝塚若手落語会の担当となって、第二劇場における立体落語等の企画に参加する事になりました。
 ここにおいて宝塚若手落語会はそれまでの自主的公演から、いわゆるひもつき公演の色がかかりはじめ、平井氏からは、「この際、小林一三翁のポケットマネーから研究費が出るので、宝塚の専属にならぬか」と、いうような話が出はじめたのです。

 新芸座とは、五郎兵衛が一時在籍していた宝塚の軽演劇の一座のこと。
 さて、宝塚専属への誘いに、五郎兵衛たちはどう返事をしたのか。
 
 根っからの自由人の集まりである落語家たちは、しばられるのをきらって、言葉をにごしました。が、春坊と小染のみは、かつて夷橋松竹支配人と真っ向から対立した当事者だけに、宝塚に対して色よい返事をせぬわけにもいかず、ともあれ若手たちの間にこのましくないムードが流れはじめながら、落語会は続けられ、やがて、5月、宝塚動物園が博覧会を開催するに際して、第二劇場もその会場に使用されるため、若手落語会は休演。これを機に専属云々の話をはっきりさせようという事になって、とど、小染、春坊、枝之助、小文吾が、宝塚の専属となり、他は自由にということで宝塚若手落語会にピリオドがうたれました。
 折も折、小林一三翁の他界、新芸座の秋田実氏以下漫才陣の大挙脱退という悪条件がかさなり、モダン寄席の話は立ちぎえとなって雲散霧消、前記四人の落語家はどうすることも出来ずに、新芸座へ参加という運命に追いこまれてしまいました。

 夷松と春坊、小染との関係悪化について補足。
 昭和29年3月に、若手の日曜勉強会の開催を提案していた夷松が、若手落語家を集め、宝塚若手落語会をやめて夷松一本に絞って欲しい、と依頼した。春坊にしてみれば、その当時、日本芸能博で休演しているものの、宝塚は若手落語会を復活すると約束しているし、夷松への出演も許可しているため、「是非双方へ出演させてください」と夷松の支配人に返答したのだが、聞き入れてもらえないので、「宝塚をとります」と発言したことによる。
 その会合に、東宝映画「女殺油地獄」に出演のため欠席していた米朝が、後になって「わしがいたら、そんな事にさせなかったものを・・・・・・」と悔やんだ、騒動だった。
 さて、ようやく上方落語協会の設立の段。

 上方落語協会発足

 若手落語家の大同団結が急務とさけばれ、当人たちも自覚していながら、なかなかその機を得なかった上方落語会界でしたが、宝塚落語会の終結後、夷橋松竹日曜会に結集することになり、めでたく昭和31年は暮れていったのですが、好事魔多く、翌年明けて早々の1月末、夷橋松竹が閉館、歌舞伎座の地下へ、歌舞伎地下演芸場として移転することになり、戎松日曜会も幕をとじざるを得なかったのです。
 ここにおいて、かえって落語家たちの団結はかたまり、昭和32年4月上方落語協会が結成され、翌5月4日道頓堀文楽座別館4階において、旗揚げ公演ともいうべき、第一回土曜寄席が開かれました。
 上方落語協会の役員は、会長、林家染丸。幹事、笑福亭枝鶴、桂米朝、旭堂小南陵、桂福団治で、会員数16名。
 この上方落語協会主催の土曜寄席につづいて、6月12日午後7時、神戸新聞7階ホール、ラジオ神戸の主催で神戸寄席が開かれることになりました。
 つづいて9月にはじまった、京都市民寄席。
 (中 略)
 とにもかくにも、上方落語に太陽があたりはじめたのです。このころ、東宝宝塚映画で森繁久弥扮する初代桂春団治が映画化され、世間の上方落語に対する注目もひとしおましてきたこともいなめません。
 そして翌33年2月、当時春坊の筆者は、宝塚新芸座梅田コマ第一回公演に参加して、16日、セリから落ちて右足骨折、日赤へ入院約1年病床に呻吟する身となり、また3月16日には四代目桂文枝が68歳で亡くなりました。

 上方落語協会の初代会長となった林家染丸は三代目。四代目染丸や、将来を期待されながら若くして亡くなった四代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)などの師匠。

 なお、歴代の会長と在任期間は次のようになっている。
1 三代目林家染丸   1957年 - 1968年
2 六代目笑福亭松鶴  1968年 - 1977年
3 三代目桂春団治    1977年 - 1984年
4 三代目桂小文枝   1984年 - 1994年
5 二代目露の五郎   1994年 - 2003年
6 六代目桂文枝    2003年 -


 上方落語協会の初代幹事に、当時の桂春坊の名はない。
 そして、協会発足を機に“陽”があたり始めた頃、春坊は、病院で呻吟していたわけだ。
 ちなみに、春坊が落語界に復帰し、協会に加盟するのは昭和34年。
 
 協会の六代目会長である六代目(本人は松鶴に遠慮して“六代”と言いたいらしいが、六代目には違いない)文枝の在任期間が長いのでずいぶん昔のように思えてならないが、その前の会長が、春坊の露の五郎兵衛。
 就任の際に、なぜ米朝ではないのか、など一部反対派が協会を離れるという騒動もあったのは、知る人ぞ知ることだ。

 そろそろ、二十年以上も前のことは、良い意味で忘れましょう。
 設立して還暦なのだから。

 だいたい、組織内でのゴタゴタは、ほんのちょっとした行き違いなどが原因。
 話せば分かり合えることも、一度こじれると、その話し合いにならないため、溝が深くなる。
 そして、こじれた関係も、時間が一番の薬なのではなかろうか。
 
 実際に、今では、一門を越えた落語会の開催なども目立ち、かつての溝は相当埋まっているように思う。

 もしかすると、東京の落語界の方が、二つの協会、協会を離れた一門などの間に、見えない溝があるような気がするなぁ。
 それどころか、落語協会は、同じ協会内でも足並みが揃っていないように感じる。
 たとえば、現在のホームページを良しとする人たちと、そう思っていない人たちなど。


 話を上方に戻す。
 戦前、戦中、戦後、多くの上方落語の先駆者たちが苦労して、今や二百人を超え三百人にもなろうかという上方落語協会の会員数には、天国座にいる人々も驚き、そして喜んでいるのではなかろうか。

 繁昌亭の番組表を見ると、自分が関西に住んでいないことが残念でならない四月だ。
 
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Commented by ほめ・く at 2017-04-05 16:17 x
2007年に大阪の友人と一緒に、上方落語の関係者(新作落語の作家でしたが名前を失念)と飲む機会がありました。その方から、露の五郎が米朝の事をボロクソに言っていると話してました。具体的な事は聞かなかったのですが、落語家同士、色々あるんだなと思いました。元々が協調性のない人の集まりでしょうから、仕方ないのかも知れません。
米朝が茶川一郎とコメディを演じていたというのは初めて知りました。茶川一郎、懐かしい名前ですね。昭和30年代にはすごい人気で、TVの連ドラ(「一心茶助」など)の主演もしていました。
Commented by kogotokoubei at 2017-04-05 17:55
>ほめ・くさんへ

そんなことがございましたか・・・・・・。
露の五郎は、軽演劇から落語に入った経歴など、いろんな意味で、四天王とは違った面がありますね。
ライバルでもある芸人同士が、仲良く固まっているほうが不自然かもしれません。

茶川一郎は、私にとっては「スチャラカ社員」ですね。
藤田まことの「ハセくーん」が甦る。
茶川のオカマチックな芸は、今日のコメディでは似た人がいない。
健康的な、不思議な色気がありました^^
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by kogotokoubei | 2017-04-03 21:16 | 上方落語 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛