噺の話

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『一眼国』が問うものー加太こうじ著『落語ー大衆芸術への招待ー』より。

 加太こうじさんとなると、やはり紙芝居作家としての印象が強い。
 その加太さんは、落語に関しても一家言持つ評論家であり、著書も少なくない。

 本名は加太一松(かぶと かずまつ)らしいが、名門加太家の血筋を誇る父に反発して、尋常小学校5年の時から自ら「かた」と名乗るようになった、と言われている。

 私の好きな加太さんの著作に『落語-大衆芸術への招待-』(社会思想社・現代教養文庫)がある。

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 昭和37年1月15日に初版が発行された本。上の表紙は、本牧亭での林家正蔵の高座。

 この本については、「落語は文学である」という加太さんの主張について、以前記事にしたことがある。
2015年3月14日のブログ

 先日、矢野さんの本から、香具師や『一眼国』について記事を書いた後で本書をめくっていたら、「道徳について」という章で、このネタを取り上げていた。

 興味深い内容だったので、ご紹介したい。

 この話には、見世物にしよう思っていた男があべこべに見世物にされるこっけいを通して、価値というものが、立場を変えれば、まったく反対になることもあると語っている。
 それは<武士が支配する国では、金銭にかかわりを多く持つ町人はいやしいとされるが、金銭が支配する町人の国なら、武士は金銭にうとい者としていやしめられる>という寓意ともとれる。そのように解するとき、この話は、落語の多くが持っている共通の内容<封建社会にあって未来ー資本主義社会の到来ーを指向する>を象徴している。あるいは、体制側の英雄が反体制側の悪人であったり、反体制側の英雄が体制側の法律に照らすと罪人になることがあるのを象徴しているようにもとれる。そして、その価値観は、<物ごとにかかわりのある人間の多数決によって正邪、善悪、高下などの価値が定められるのだ>という考えかたによっている。

 この部分を読んで、つい、最近の文科省の組織ぐるみの天下り斡旋のことを思い出していた。
 
 現役の役人が斡旋の窓口になることは違法だがOBなら問題ない、とばかりの役所の姿勢に、多くの国民はあきれ返っているはずだ。
 参考人質疑で、前川前事務次官は「万死に値する責任」と言っていたが、その男は、その舌の根も乾かないうちに、隣に座った仲介役OBの嶋貫と顔を見合わせてニンマリしていた。何が「万死」だ。

 彼等にとってOBの嶋貫は、英雄とまでは言わないが大事な人物なのだろう。

 その嶋貫が財団法人から年五百万、社団法人からも七百万、顧問となった生命保険会社から、月二日の出勤で一千万円という報酬を得ていると聞いて、国民の大多数が、不合理であると考えるだろうし、怒りを覚えるはずだ。
 しかし、文科省、あるいは霞が関の人たちにとっては、それは“常識”なのだろうか・・・・・・。
 残念ながら、国民の大多数の価値観が、「文科国」では通用しないようだ。

 落語は文学であり芸術であると考える加太さんは、次のように続けている。

 芸術というものはすべて、作者が意識しようがしなかろうが、作者の物ごとにつけた価値が作品や演技を通して受け手にどう考えられるかという働きを持っている。それは、一見無意味で、価値という概念とは関係のないように思える抽象絵画や音楽でもおなじである。それは<雲のように漠たる形や色がうつくしい>と抽象画家が提示していた価値を、見る側が<その通りだ>と共感するか、ときには<わからない>と拒否するか、<こんな非現実的な絵画は社会において人間生活に直接働きかけるものもないから価値は低い>とか判断することっである。落語も、演ぜられるとき、ひとつの価値を受け手に提示し反応を求めることに変わりはない。ただ、それは、つねに他の芸術とおなじように、それとは直接に提示しない。寓話だけが直接に、なにかにたとえて価値を問うのである。たとえば、イソップの寓話は動物にたとえて人間生活における教訓を直接に語って受け手に共感を求めている。「一眼国」も、ひとつ目とふたつ目の世界があると仮定して価値の転換を問うているわけである。「一眼国」は落語中の特例である。他の落語は人間描写を主眼とし、それを通してこのようなことに共感するかと、問いかけている。

 最近では入船亭扇辰をはじめとして、このネタを聴く機会も少なくないが、初めて、八代目正蔵の音源を聴いた時は実に新鮮だった。
 サゲの後に一瞬、自分の脳裏に静寂が訪れたような、そんな感覚があった。

 それは、きっと加太さんの言う、受け手への問いかけが、あまりに強かったからかもしれない。
 映画やミステリーのドンデン返しのようなエンディングは、たしかに他のネタとは一線を画すものがあるだろう。

 「そうか、一つ目国では、二つ目は“化け物”だなぁ・・・・・・」
 という聴いた後での感覚は、たしかに強く道徳、いや哲学的な色合いを持つ。

 
 落語には、ただ面白おかしさに笑ってさえいられればいい、という純粋な娯楽としての存在意義もあるが、滑稽噺に笑っているときも、登場人物のしくじりや会話の可笑しさ、仕草、行動の奇抜さなどは、「それ、あるある!」という共感性があればあるほど、笑いも度合いも深まるのだろう。

 加太さんは、次のネタ『死神』へとつなぐ部分で、こう記している。
 道徳というものは、その時代の価値基準の大きな目もりである。支配者はつねに支配者の道徳を作り出して、支配される者に押しつける。支配される側も自分たちの道徳を持ち、その立場から支配者の道徳を批判する。支配者の道徳と支配される者の道徳が一致する場合もあるが、多くは相反するものである。落語はいつも、支配される側ー民衆の立場に立っていたから支配者の道徳を批判する話が多い。ここでは、直接、支配者の道徳に対して別の道徳を提示した落語について考察してみよう。

 この後の『死神』に関する部分は、後日ご紹介するとして、この反体制、民衆側の落語、という概念は、実に重要だ。

 『一眼国』の、一つ目の国こそ、民衆の世界であり、見世物小屋の主人を代表とする二つ目の国こそが、文科省などの支配者側であるわけで、その逆ではない。

 やはり、悪い奴はとッ捕まえて、こっちの見世物小屋で晒し者にしなければならない。
 彼らが、仲間たちとの村芝居で謝ったところで、それは、『一分芝居』の権助よりも下手な、言ってみれば楽屋の馬鹿話の延長でしかない。「万死に値」すると言ったところで、その科白には何ら説得力がない。もう、下手な芝居は見飽きた。
 まだ、忠臣蔵の七段目で、高みから飛び降りる権助の方が、役者は上だ。

 『一眼国』に関する加太さんの文章から、こんなことまで、思いが至った。

 それにしても、加太さんの落語への思いは、熱いねぇ。
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by kogotokoubei | 2017-02-10 20:57 | 落語のネタ | Comments(0)

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by 小言幸兵衛