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その昔の初席のこと、などー橘右近著『落語裏ばなし』より。

その昔の初席のこと、などー橘右近著『落語裏ばなし』より。_e0337777_10504580.jpg

 前の記事で、立花家橘之助の浮世節家元の看板を今日まで伝える大事な役割を果たしたのが、寄席文字橘流家元の橘右近だったことを紹介した。

 引用した右近の『落語裏ばなし』(昭和50年、実業之日本社)を久しぶりに読んで、この本に永六輔さんや円生が推薦文を寄せていることに納得。実に貴重な本だ。
 
 橘右近は、明治36(1903)年の生まれなので、三遊亭円生の三つ年下になる。

 右近の経歴をWikipediaから引用。
Wikipedia「橘右近」

家業は庭師だったが継がず、最初は浪曲の吉川小龍の門で龍馬を名乗る。

1922年 - 18歳の時に柳家さくら(後の3代目柳家つばめ)に入門。柳家龍馬で初高座。
1932年 - 師匠であり父の名、柳家さん三と改名。
1939年 - 橘右近と改名。
1946年 - 同じく師匠の名、柳家さくらと改名。
1947年1月 - 橘右近に復名。
1949年4月 - 落語家を廃業し神田立花演芸場楽屋主任と専門の寄席文字の書家専業になる。
1954年11月 - 神田立花演芸場閉場。
1955年8月 - 東宝名人会再開にともない楽屋主任と寄席文字の担当になる。
1965年11月 - 8代目桂文楽の薦めで橘流寄席文字家元になる。
1980年 - 8月一杯で東宝演芸場閉鎖のため楽屋主任と寄席文字担当退任。以後、フリーとなる。
1995年 - 肺炎で死去。

 金原亭で「龍馬」を名乗っている噺家さんがいるが、あの名は柳家で右近が先だったようだ。

 落語家としての戦前の二十余年、そして戦後に寄席文字の第一人者となってからの約五十年、右近は落語界を見続けてきたということか。

 まさに寄席は初席の最中。
 本書にも、「初席」の章があるので紹介したい。

初席

 寄席に、新年がやってまいりました。
 正面入り口に門松をたてて注連飾(しめかざ)りをし、大きなお供えには紅白のご弊をたらして海老をおき、天井からはまゆだまがたれており、
「おめでとうございます」
 楽屋では、こんな挨拶がゆきかいます。好きなひとは、席亭からおとそが届けられたご酒をきこしめしながら、いい心地になって楽屋待ちをしている。
 あちらのほうでは、まんだら(手拭)の交換だ。年始の挨拶用に染めたまんだらがゆきかいまして、各師匠がたからご祝儀つきでいただいた下座や前座が、
「師匠、こりましたネ」
 てなことをいったりします。

 今も残る風習はあると思うが、その昔の初席の和やかな雰囲気が良く伝わってくる文章だ。

 かつて初席でトリを務めることの名誉は、今日の比ではなかった。
 右近が、その当時の顔ぶれを記している。

 昔から、初席でトリ(主任です)をとれるようになれば、これはたいしたもの。噺家としての大目標でございましょう。
 まあ、そこでどこの席でも、初席と二の席(つぎの席です)のトリはたいていきめております。
 私のつとめている東宝名人会では、先代の金馬師匠が亡くなってから現小さん師匠に移り、いまは立川談志さんのトリでございます。
 小さん師匠が、上野・鈴本の再開でトリをつとめるようになったためでして、二の席のトリは林家三平さんでした。
 上野・鈴本の初席は、昼が馬生師匠、夜が小さん師匠。二の席は、昼が柳橋師匠、夜が今輔師匠。
 新宿・末広亭の初席は、昼が柳橋師匠、夜が今輔師匠。二の席は、昼が円生師匠、夜が正蔵師匠。
 こんな顔ぶれでございます。

 鈴本が現在のビルで再開したのは昭和46(1971)年。

 昭和四十年代の初席、二の席のトリの顔ぶれは、たしかに名人と言える凄い名ばかり。

 現在は東宝名人会はないが、上野の鈴本と新宿の末広亭は存在する。

 それぞれ、どんな名が並んでいるか確認。

 <鈴本>
 初席第一部が市馬、第二部が菊之丞、第三部は三三。
 二の席は昼が一之輔、夜が喬太郎。

 <末広亭>
 初席第一部が昇太、第二部が前半歌丸で後半は竹丸、第三部は文治。
 二の席は昼が市馬、夜が小三治。

 もちろん初席は浅草演芸ホール、池袋演芸場でも開かれているし、国立演芸場では新春国立名人会がある。
 それらのトリの顔ぶれには、他の芸達者の名が並ぶ。
 
 また、鈴本に落語芸術協会が出演しないこともあるし、単純な比較はできない。
 加えて、三部制になってから、初席は慌ただしい顔見世興行という番組になり、ゆっくりと高座を楽しむ席とは言いにくくなったようだ。

 娯楽は時代とともに、たとえば、寄席や芝居->映画->テレビ->スマホ(?)と変わってきている。

 正月の大事な娯楽の一つだった寄席の初席は、その趣向にも、お祭りとしての工夫があったようだ。
 右近はかつて存在した寄席での思い出を遺してくれている。

 そうそう、初席といえば、私がなくしちまうのが惜しいなといまだに考えているものがあります。
 人形町の末広では、初席のトリが高座をつとめた後、追い出し太鼓はやりませんでした。
「テケテン、テンテン」
 デテイケ、デテイケと聞こえてせきたてる追い出しをして、お客を下足にワサワサと追いたてたりしません。
 何をしたかって?高座に太鼓を持ってきまして神田囃子をやるんでさァ
「へい、ありがとうござい、ありがとうござい」
 神田囃子を賑やかに流しながら、トリがおじぎをしつつ初席のお客を送り出す。
 これが、昔の初席の慣わしでございまして、いいもんでございました。


 いいねぇ、初席のお開きで、神田囃子とは。

 橘右近のこの本、あらためて読み出すと、なかなか良いのだ。

 また、何度か記事にするつもりだ。


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by kogotokoubei | 2017-01-08 19:45 | 落語の本 | Trackback | Comments(0)

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