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「真田丸」と池波正太郎の描く、ある女性像の違い。

 まず、ある小説から、ある女性に関する文章を引用する。

 こちらに背を向け、茶を点じているそのひとの、つややかな垂れ髪を分けて見える耳朶は、春の陽ざしに濡れた桃の花片のようだった。
「どうぞ・・・・・・」
 そのひとの躰(からだ)からただよってくる香の匂いが近寄り、うすく脂がのった、むっちりと白い二つの手が茶碗をささげ真田伊豆守信幸の前へ置いた。


 さて、これは誰か・・・・・・。

 正解は、小野お通。

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池波正太郎著『真田騒動ー恩田木工ー』(新潮文庫)

 この小説は、池波正太郎の『信濃大名記』(新潮文庫『真田騒動ー恩田木工ー』所収)だ。
 この作品集『真田騒動』には、直木賞受賞作の『錯乱』も収められている。

 代表作『真田太平記』にも、もちろんお通は登場するが、信幸とお通の関係については、この短編の方が、読み応えがある。
 
 池波正太郎は、お通について次のように書いている。
 小野のお通は、その才色を世にうたわれ、宮中にも仕えて女ながら金子二百両、百人扶持を賜わったこともあり、諸礼式、礼法にも通暁しているところから、後には秀吉にも仕え、今は家康の庇護を受けている。先年、千姫が秀頼に嫁したときには、その介添えとして招かれ、大阪城にも暮したことがあったらしい。
 また、お通は、浄瑠璃節の作者でもあり、笹島検校が節付をして名曲と評判の「十二段草紙」は彼女の筆になったものだった。

 時は大阪冬の陣の和議の後。
 引用したのは、お通の家で、信幸と信繁が密会する場面へと続く前段の部分。

 二人が、どんな会話をしたのかは…本書をお読みのほどを。

 さて、池波が、夏の陣を前にして、信幸と信繁の兄弟を引き合わせた家の主、小野お通という女性は、謎の多い人だ。

 引用した「十二段草紙」の作者という説は、浄瑠璃節はもっと以前からあったとされており、彼女の作という説はほぼ否定されているようだが、才色兼備の女性だったことは間違いなさそうだ。

 書の大家として「お通流」という名もあったらしい。

 夏の陣の後に時を進めて、引用を続ける。
 幸村の遺髪が、この手に届くなどとは、思ってもみなかっただけに、沈着な信幸も、
「あ・・・・・・」と、低く叫んだ。
 遺髪は、小野のお通から送られたものだった。
 鈴木右近が、お通の手紙と幸村の遺髪を持ち、単身、沼田へ戻って来たのは、あと数日で元和元年(1615年)も暮れようとする今日の、たった今しがたのことである。
 城内三の丸にある居館の一室には、信幸と右近だけが向い合っていた。
「どうして、手に入れたものであろう・・・・・・?」
「私も、少々驚きました。何度も問うてみましたが、話してはくれませぬ」
「そのほうが、お通殿の館へ受け取りにまいったのか?」
「はい。一人きりで、隠密に来てくれとの知らせがありましたので・・・・・・殿。京で小野のお通と申せば、宮中はもとより諸侯方も一目置くほどの才女。ました大御所様から扶持を頂いているだけに顔も広く、幸村様御討死と聞き、大坂へ手を廻してくれたかとも・・・・・・」
「いや・・・・・・すでに、その前に・・・・・・手を廻してくれていたのかも知れぬ」
 幸村の首は、家康や秀忠の首実検に供えられた後、どこかへ埋められたことは確かだが、その間隙を縫って、お通の手がどこからどうして伸び、一握りの遺髪をつかみ取ってくれたのだろうか。
 お通の手紙には・・・・・・幸村様の御遺髪をお届けする、と簡単に記され、その後に、
「私の父も良人(おっと)も兄も、今川から徳川、豊臣に仕え、度重なる合戦に皆死に果ててしまいました。貴方(あなた)様が幸村様とお会いになされたときのことが、この胸の中から拭うても拭い切れずにおりまする」
 とある。
 あの日、自分へ示してくれた好意は、成程こういうところから出たものかと、信幸は、合戦の傷跡が、女にとって、どれだけ深いものなのかを今更に思い知らされたような気がした。
「再び何時(いつ)、お目にかかれることかも知れず、ひたすらに・・・・・・」
 ひたすらに御自愛をお祈りする、と書かれてある、その一字一句を食い入るように追いながら、あわただしい動乱と心痛に耐えつつ、努めて追い払い掻き消そうとしてきた彼女の面影が、今はどうしようもなく信幸の血を騒がせずにはおかなかった。
(会うとも・・・・・・会わずにはおかないぞ)
 信幸は叫んだ。

 さて、その後、信幸はお通と会うことはできたのかどうか・・・は、本書でお確かめのほどを。


 池波正太郎は、お通と信幸の関係について、実に清々しく、かつ謎めいた描き方をしている。

 だからこそ、読む者は、お通という人物像への空想が膨らみもする。

 戦乱の世に翻弄され、頼るべきは自分自身とばかりに芸を一心に磨いて生き抜いてきた、一人の女性像が浮かぶ。

 さて次は、大河「真田丸」だ。

 27日の日曜日、関内での柳家小満んの会の余韻に浸りながら、「真田丸」第47回の「反撃」を見た。

 冬の陣の後の和睦、そして徳川の策略通りに大阪城の堀の埋め立てが始まり、豊臣方の武士たちが分裂しかかる。
 しかし、後藤又兵衛が率先し、信繁をリーダーとして反撃しよう、と皆の気持ちがまとまったということが骨子なのだろうが、私はある場面で驚いた。

 それは、小野のお通の家で、彼女の膝枕でくつろぐ信幸の元に、正室の小松(お稲)と側室の清音院(おこう)が乗り込んだ場面だった。

 まず、信幸とお通が、そんな関係であること自体、違和感あり。

 そして、正室と側室の行動も、ありえないと思う。

 小野お通の住まいは、京都だ。

 いわば、夫の浮気の現場を押さえるために、沼田から京都に二人は出向いた、ということ。

 そして、二人の追求に対し、お通は、信幸はあくまで客の一人、と言って請求書を信幸に渡す。
 そして、次の客がすでに待っているから早く帰ってくれと言う始末。


 私が池波作品を読んで描いてきたお通像から、あまりにかけ離れていた。

 演じる女優さんのことは置いておく。
 ちなみに、NHKのドラマ「真田太平記」(昭和60年4月~昭和61年3月)では、お通を竹下景子が演じた。
 30年前、である。

 史料に乏しく謎の多い女性だから、お通をどう描くかは、作家、脚本家の腕次第という面もあるだろう。

 しかし、小野お通が、あんな人物であるとは、私には思えない。


 NHKの大河は、数年前から、若い世代の視聴者率アップを意識しているのか、お手軽なホームドラマのような内容になりつつある。

 だから、きりは、現代風の言葉づかいになっているのだろう。
 まるで、電車の中で耳にする若者たちの口調ではないか。

 過日、真田丸の大阪を名ガイドとして一緒に散策していただいた山茶花さんは、きりは枝雀の落語理論における「緊張」と「緩和」の「緩和」でしょう、と見事な指摘をされた。
 
 たしかに、ドラマの中では、そういう役割はあるのだろう。

 しかし、まだ修業の足らない私は、きりの言葉づかいや、今回のようなお通の姿を見ることで、やたら「緊張」を強いられるのである。

 小田原攻めの際、北條に降伏を進言する役を黒田官兵衛ではなく信繁にしたことで、一度は見るのをやめようと思っていながら、なんとかここまできてしまった。

 最後まで付き合うつもりだが、しばらく控えていた小言は、我慢せずに書くことにしよう。


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by kogotokoubei | 2016-11-29 21:36 | 歴史ドラマや時代劇 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛