噺の話

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錦織の銅メダルで、熊谷一弥さんのことを、再び!


 錦織の銅メダルは、実に価値がある。

 準決勝でのマレー戦は完敗だったが、三位決定戦では、ナダルに行きかけた流れを、見事に取り戻した。

 準々決勝のモンフィス戦、タイブレークで相手にマッチポイントを三本握られてからの逆転も、圧巻だった。

 私は、小学校と中学で野球少年だったが、高校と大学では軟式テニスに打ち込み、今は硬式に替わったものの、テニスに長らく親しんできた者として、非常に嬉しいメダルだ。

 一昨年、錦織が全米オープンで準優勝した際、佐藤次郎をはじめ、多くの先人たちの名がメディアに登場した際、記事を書いた。
2014年9月9日のブログ

 96年前にメダルを獲得した熊谷一弥(くまがい いちや)さんのことが、それほどしっかりとは紹介されていないので、二年前の記事と重複するが、あえて、熊谷さんのことについて書きたい。

 二年前、全米オープンでの錦織の躍進の際に熊谷さんのことを、西日本新聞では次のように紹介していた。
 なお、西日本新聞の記事は、すでにリンク切れとなっている。
 宮崎県テニス協会名誉会長の渡邊理さん(83)は、熊谷さんが宮崎にいた旧制中学時代は福岡まで歩いて帰省していたと遺族から聞いた。九州でも熊谷さんのような選手を育てたいと75年に「熊谷杯テニストーナメント」を創設。今年40回目を迎え、毎年九州各地から約400人が参加する宮崎県内最大の大会に育った。

 60年ほど前、デ杯の監督を務めていた熊谷さんを福岡市内のコートで見た九州テニス協会常務理事の西村充生さん(77)は「古武士のような雰囲気が漂っていた。若い人たちはほとんど知らない。九州にもすごい選手がいたと知ることで、錦織選手に続けと励みになるはずだ」と声を弾ませた。

 出身地大牟田の「広報おおむた」のサイトには、地元出身の英雄のことを忘れず、特設のページがある。
 まず、特集ページの冒頭を引用。
「広報おおむた」サイトの該当ページ

特集 日本人初の五輪メダリスト 熊谷一彌
 1920(大正9)年、ベルギーで開催された第7回オリンピック・アントワープ大会。日本人の参加が2度目となるこの大会に、大牟田出身の熊谷一彌(くまがいいちや)は、テニス選手として参加しました。競技の結果は、シングルス、ダブルスともに準優勝、日本人初となるメダル「銀」を2つ手にしました。その後テニスは、第8回大会以後60年の間、オリンピック種目から外れていたこともあって、大牟田市民でも熊谷一彌の名前を知っている人は多くありません。
今回、北京オリンピック開催(8月8日開会)を記念して、テニスプレイヤー・熊谷一彌を特集します。

 なんと、熊谷一弥さんは、五輪における日本人初のメダリストでもあったのだ。
 経歴は、次のように輝かしい。

熊谷一彌 略歴
1890(明治23)年 大牟田町横須村に生まれる
1910(明治43)年 慶應義塾大学入学、庭球部入部
1913(大正2)年 同庭球部が軟式テニスから硬式へ
1914(大正3)年 マニラ選手権大会 単準優勝
1915(大正4)年 東洋選手権大会 単優勝、複準優勝 第2回極東選手権 単、複優勝
1916(大正5)年 大学を卒業し米国へテニス遊学 全米ランキング5位
1917(大正6)年 三菱合資会社銀工部へ入社 第3回極東選手権 単、複優勝 ニューヨーク支店勤務
1918(大正7)年 米国のテニストーナメントに参加
・1918年…全米ランキング7位
・1919年…全米ランキング3位
・1920年…全米ランキング5位
・1921年…全米ランキング7位
1920(大正9)年 アントワープ五輪テニス 単、複銀
1921(大正10)年 デビスカップ準優勝
1922(大正11)年 帰国
1929(昭和4)年 全日本選手権 複優勝、現役引退
1950(昭和25)年 デビスカップ日本チーム監督に
1968(昭和43)年 死去(77歳)



 落語好きの方は、お気づきかと思うが、明治23年生まれは、古今亭志ん生と同じ。
 テニスプレーヤーとしては、熊谷さんは清水善造さんの一歳上だが学年は同じ、佐藤次郎さんよりは18歳年上になる。
 世界への挑戦の歴史を引き続きご紹介。
世界への挑戦
 中学校は伝習館へ1年通ったあと宮崎県へ引越し、宮崎中学校へ転校します。野球部で活動しながらテニスも続けていたようですが、本格的にテニスを始めたのは、1910(明治43)年、慶應義塾大学へ入学し庭球部員となってからです。
同庭球部は世界を目指すために、1913(大正2)年4月に硬式テニスへと転向します。熊谷は、翌1914年1月、初の海外遠征となったマニラ選手権大会でシングルス準優勝を果たします。熊谷の世界への挑戦が始まった年でした。
特に活躍したのは、1917(大正6)年に入社した三菱合資会社銀工部のニューヨーク支店に勤務した5年間です。オリンピックとデビスカップ(男子テニス国別対抗戦)へ出場したのもこの期間内でした。
体格が勝る外国人選手に対して、熊谷の身長は約170センチ。左利きの熊谷は、硬式ラケットを軟式ラケットの標準的な握り方である「ウエスタングリップ」で握り、鋭くドライブ(こすり上げるような回転)のかかった打球を繰り出して、並み居る強豪を倒していきました。軟式テニスの技を、硬式テニスに通用するものに磨いていったのです。
当時アメリカに、テニスの神様といわれたビル・チルデン選手がいました。世界4大大会で10勝をあげた選手で、熊谷とテニスツアーの中で何度か決勝戦などを戦っています。チルデンは著書に「熊谷は、ハード・コートでの試合を得意とする世界で最も偉大な選手の一人。いついかなるときであっても、どんな種類のコートの上であっても、最も危険な対戦相手だ」と残しています。

 中学時代は野球部(主将)、大学で軟式テニスを始め、その後、部そのものが硬式に転向している。
 野球から軟式テニスという経歴が私と一緒なので、とても親近感がある^^

 紹介されているように、熊谷は硬式になっても軟式テニスの標準的なグリップである「ウエスタングリップ」でプレーした。それは、先に紹介した清水善造も同様。

 ウェスタングリップは、俗に「厚い」握りと言うが、地面に置いたラケットを手に持った状態のグリップと思えばほぼ間違いがない。逆に「薄い」グリップと言うイースタンは、ラケットの面を地面に垂直方向にして握る感じ。アマチュアの硬式テニスプレーヤーは、ほぼイースタン気味である。また、熊谷が活躍した当時の他のプロテニスプレーヤーもイースタングリップ中心だったので、熊谷はまったく異色の存在であった。加えてサウスポー。相手はやりくかったらしい。
 現代のプロテニスプレーヤーは、ほとんどがウェスタン気味のグリップになっているから、清水や熊谷のような軟式出身の先人達は、硬式テニスのグリップに関する先駆けと言ってよいだろう。ちなみに、ウェスタンにも、セミ・ウェスタン、ウェスタン、エクストリーム・ウェスタンなどの用語があるように、握り方の違いがある。

 錦織のグリップはナダルやフェレールと同様、地面に置いたラケットを持ってから、また手を右(時計方向)に回したグリップで、エクストリーム・ウェスタンに近く、アマチュアではとても打てないグリップ。彼が子どもの頃から慣れたグリップなのだろう。ボールにスピンがかかりやすい長所はあるが、相手のスライスのボールへの処理が難しいなどの欠点もある。
 
 熊谷一弥さんは、ウェスタン・グリップで左利き、古武士のような雰囲気、となるとナダルをイメージしないでもない。
 そのナダルを破っての錦織の銅メダルというのも、何か因縁めいたものを感じる。

 錦織の活躍のおかげで、清水善造さん、熊谷一弥さん、佐藤次郎さんといった日本テニス界の先人達がもっと回想されて良いと思う。
 12年前にイチローが262本のMLB年間最多安打記録をつくった際、それより84年も前に257本の記録をつくったジョージ・シスラーの名がメディアを賑わわせたではないか。

 さて、これから全米だ。

 イチローが、その後も着実に自分の記録を積み上げているよう、ぜひ、錦織には四大大会での記録にも挑戦し続けてもらいたい。
 そうすることで、また、懐かしい名プレーヤーの名が思い出されるだろうから。


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by kogotokoubei | 2016-08-15 14:58 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛