梅の家の笑子姐さんのこと-柳家小三治著『落語家論』より。
2016年 06月 03日
柳家小三治著『落語家論』
小三治の『落語家論』は、月報『民族芸能』に連載された「紅顔の噺家諸君」というタイトルのエッセーを中心に、2001年に小沢昭一さんが発行者であった“新しい芸能研究室”から単行本で出され、その後、2007年にちくま文庫として再刊された。
師匠の本に、何か喜多八のことが書いていなかったかなと思い、この本をざっと読み返していた。
残念ながら喜多八の話題を見つけることはできなかったが、興味深い内容があったので、ご紹介したい。
『民族芸能』に、昭和58年に掲載された内容。
梅の家の笑子姐さん
この夏にボクがネタ下しをした「鰻の幇間」に、登場はしないが梅の家の笑子(えみこ)姐さんが出てくる。修善寺へ湯治に出かけて留守なのである。たいこの半八が、いつお帰りで? と女中に聞くと、帰りに沼津の妹さんのところへ寄ると言ってたから月末になるでしょう、という返事なのである。
まだ二ツ目で、さん治だった。今はオートバイだが、その頃はボーリングに熱中していた。愛車ブルーバードのトランクにボールを積んで、沼津労音の独演会に出かけてた。沼津のボーリング場で午後二時頃から二時間ほど楽しんだのだった。
そのときだった、一人で夢中になってるボクのそばに、スラックスに白いブラウスの小ざっぱりした娘さんが小走りに寄ってきて、手短に、
「どうか、ちゃんと落語をやってください。お願いです。テレビに出てガチャガチャしたことをやってほしくないんです」
その頃フジTVの、今タモリがやってる「笑っていいとも」の時間帯に、「お昼のゴールデンショー」という番組があって、人気絶好調前田武彦の司会、コント55号がテレビ初登場で一躍人気者にのし上がっていた。金曜日は大喜利で、その一メンバーとしてぼくも毎週出ていた。
ボケ役という役得もあって、目立ったのかもしれない。落語に興味のない人にまで多少顔を覚えられるようになったのは、このときからだったろうか。
その娘さんが言ったテレビでガチャガチャというのはそのことを指しているのだな、とピンと来た。ぼくも常々、大喜利をやってるのは不本意だと思っていたし、こんな形で、いきなりぶつけるように若い娘さんから言われたのには一瞬面くらって、何を返事したのか憶えていない。ボクをせめようとしたのではないことは、終始ニコニコしていたから間違いないのだが、ボクは最後に、どうもありがとうと言ったのだけは憶えている。
「テレビでガチャガチャ」とは、なかなか言い得て妙ではないか。
この後、小三治は、この娘さんとすぐに再会した。
まだ時間があったので、表で愛車の掃除をはじめたら、ゲームを終えたのだろう、彼女が通りかかった。さっきはどうも、から立ち話が始まった。こういうのも、“縁”だよねぇ。
「私、何に見えますか?」
「サァ」
「芸者屋の娘です。私、芸者なんです」
このトシで芸者ということは、半玉なんだろうかと、芸者のことはよくわからないボクは考えた。
控えめだがサバサバした口調で、相手の目をギチッと見たまま話をする。ちょっぴり鼻柱の強そうな、背は大きくなく小さくなく。スラッとしてはいるけど、やせているというのではない。色の白い、化粧っ気のない。生え際の美しい人だった。
もし、小三治がボーリング場にいなかったら、そして、ゲームの後に愛車の掃除をしていなかったら、最初の会話も、その後の立ち話もなかったわけだ。
そして、その後の独演会会場。
その晩、会場へ入ると大きな大きな新茶の缶が楽屋に届いていて、伺えなくて残念ですが、という伝言があった。
のし紙に笑子とある。とりついでくれた会場(宴会場)のひとに聞くと、梅の家の笑子さんですよと教えてくれた。
それから半年ほどしてボクは真打披露をした。披露目が済んでから、扇子、手拭、口上書、それにその節はどうもと一言添えて梅の家の笑子姐さんに郵送したが、なぜか返事が届かなかった。
小三治は、電話局へ行って、沼津の電話帳を出してもらい住所を調べた上で、郵送したのだった。
それから、小三治は、有望な若手真打として、多方面で活躍し始める。
落語以外の仕事をすることになったときは、必ず彼女を思い出した。
「テレビでガチャガチャしたことをやってほしくないんです」
告白すると、何よりのボクへの励ましだったように思う。
その後、何年後かは分からないが、二度目の沼津の独演会があり、もしかしたら楽屋に笑子姐さんが現われるか、と淡い期待を抱いていたが、それは、かなわかなかった。
最初の出会いから十年以上の時を経て、また沼津での独演会があった。
開演後、楽屋で着替えをしていたら、音協の事務局長さんが、
「さっき師匠が話していらした梅の家の笑子さんですが」
「アッ、ご存知ですか」
「はい、よーく知っています。何度も座敷で顔を合わせましたから。師匠の言うとおり、向うっ気が強くて、気っぷのいい、思ったことをポンポン口にして、そのくせひとに可愛がられた素晴らしい子でした。器量もあれだけの子はちょっといません」
「そ、そうでしょう。もうお嫁にいったでしょうね」
「いえ」
「まだ出てるんですか!呼べますか!」
「あの子はもう、十年近く前ですが、死にました」
「エー」
「妙な死に方で、風呂場で」」
「自殺ですか」
「わかりません。何が原因だったのでしょうか」
それ以上は聞いても何もわからなかった。不覚にも涙が止まらなかった。そんな、そんな馬鹿な、と心の中でくり返していた。
梅の家のおっ母さんに会っていろいろ聞いてみたい。死のことも、ボクのマキモノのことも。そして、お墓に水桶を持ってお花を供えにいってあげたい。墓前に手を合わせーとここまで考えて、これじゃ東映の時代劇のラストシーンになっちまうョ、と思い至って照れた。
「鰻の幇間」の梅の家の笑子姐さんのところへ来ると、そのつど甘酸っぱい味がする。
読んでいて、こっちも、甘酸っぱい味がするじゃないか。
小三治は、笑子姐さんとの出会いがなくても、「テレビでガチャガヤ」するのは、やめていたと思う。
しかし、彼女の一言は彼の心の中で重く響き、噺家としての信条を強固なものとしたのではなかろうか。
歌丸は、年齢のせいもあるだろうが、傘寿にして、その「ガチャガチャ」から脱したようだ。
しかし、新たに、「テレビのガチャガチャ」の道に進んだ者もいる。
人それぞれでいいじゃないか、という意見もあるだろう。
テレビの人気者がいるから、寄席にお客さんが増える、ということも事実。
すごかったからねぇ、5月2日の末広亭の昼の部。
あえて書くが、テレビに出演することで、その人たちの芸が「ガチャガチャ」にならないことを、祈るばかり。
それも、人次第、ではある。
笑子姐さんも、誰にでもあの言葉をかけるつもりではなかっただろう。
小三治が、将来の落語界を担う噺家であると思ったからこその、言葉だったに違いない。
今後、小三治の『鰻の幇間』を聴く機会があれば、私も梅の家の笑子姐さんを思い出すだろう。
こういう逸話を知ることは、落語の楽しみを一層深くしてくれる隠し味のようなものではなかろうか。
そんなことから、またあの噺家さんのことを思った。
はたして、喜多八の『鰻の幇間』には、あるいは他の噺には、どんな逸話が織り込まれていたのだろうか。
いろんな経験、思いが、それぞれの噺の背景にあったのだろうが、それをご本人の話や文字から知る術は、もうなくなってしまった。
あ、梅の家か・・・・・・。
また、出囃子「梅の栄」が、聞こえてくる。
こちらを読んでから「もひとつま・く・ら」(講談社文庫)のロングバージョンと後日談をまた読み直しました。
師匠がまくらで「大喜利のうまいヤツには。。。」と言っていたのも思い出されます。
笑子さんの最後については、謎のままなのでしょうが、それ以上に詮索するべきではないのでしょう。
この本、読み直すと、いろいろと発見があります。
本は、すべからくそうかもしれませんね。
コメントを拝見し、落語自体のことは多くは書いていなかったように思いますが、逸話はたっぷりの「まくら」、読み直してみようと思いました。
問題は、そのガチャガチャに振り回されたり、終生ガチャガチャだけで終わる人間です。「笑点」にはその手の噺家が多すぎます。歌丸も引くのが遅すぎました。今回も聞くところによれば、まとまな落語も出来ない人間がレギュラーになった様ですが、番組担当者の見識を疑いますね。
おっしゃる通り、芸人として名を売るためにテレビというメディアの影響力は大きいですし、若い時期に出演することは、“全国区”になるには必要なのでしょう。
問題は、名前が売れること、人気が出ることを、実力とは別である、ということですね。
しかし、あの番組に出ることて、地方での落語会などでちやほやされると、勘違いする人がいる。
また、勘違いする人が、一人増えたようですね。