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権太楼夫婦にとっての寄席、などー『権太楼の大落語論』より。


 「ツカちゃん」の愛称で親しまれた元ニッポン放送、そして元フジテレビのアナウンサーの塚越孝が亡くなった際は、ずいぶん驚いた。

 彼とはほぼ同じ年齢。
 ポッドキャスト「お台場寄席」には、お世話になった。
 ニフティとお台場寄席には、結構多くの落語愛好家の方が、落語の音源収集面でお世話になったのではなかろうか。

 また、「目玉名人会」と銘打って彼が企画した落語会にも、私は足を運んだ。ブログを始める前、2007年の6月23日に、権太楼の『芝浜』を聴いたことを思い出す。

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『権太楼の大落語論』(柳家権太郎、【聞き手】塚越孝、彩流社)

 権太楼独演会の記事でも引用したが、その塚越孝の功績の一つが、この本を残してくれたことだと思う。

 権太楼独演会を前にして、この本を再読した。
 なかなか良い本だと、あらためて思う。
 
 この本では、後半に権太楼のおかみさんも登場する。

 その、おかみさんへの聞き書きを含め、寄席の「割り」という、客席にいる側からは、なんとも分かりにくい内容について語られた部分を引用したい。
 

ー2006年夏、大阪に「天満天神繁昌亭」という寄席ができますが、大阪の落語家さんなんかは「割り」の制度なんて知らないでしょうね。

 そう、知らないですよ。大阪がいちばん危惧しているのは寄席の「割り」制度がわからないってことなんです。要するに、「割り」というのは芸人さんたちの給金ですからね。で、結局、寄席ってのは、「割り」でしかできないんですよ。ギャラでは無理なんです。

ーそこで、オフィス・ゴンの財務大臣であるおかみさんに伺いますが、権太楼さんは年間600高座ありますね。「割り」はどういうふうに扱っているんですか?

おかみさんーその600の高座のうち、400が寄席での高座なんです。その「割り」は権太楼が持っていきます。「割り」というのは大きな金額ではありません。また、寄席でトリ(主任)をとると打ち上げがありますからね、結構お金がかかるから仕方がないんです。
 それで「割り」についてですが、基本的には、一日のアガリ(売り上げ)を席亭と楽屋で半分ずつにします。その楽屋分としてもらったお金をトリがわけるんです。
 金額は、前座、二つ目、真打そしてトリというふうにそれぞれの身分によって違います。お客さん一人につきいくらという金額です。そして、その金額はしょっちゅうは上がりません。トリが倍給で、色物さんも倍給です。
 昔はそういう制度はなかったようなのですが、いまは昼夜のお客さんの最低保証の数が1000人となっています。「割り」というのは二日ごとにもらうわけですから、一日の最低保証の数が500人ということになります。
 たとえば仮に「割り」の基準額が二円だとしたら、二日で二千円ということになります。ということは一日で千円。

ー逆の意味でたいへんな金額ですねえ。ということは、権太楼さんクラスの落語家さんでも日給にしたら三千円かよくて四千円ぐらいというところですが・・・・・・。

 うん。というより寄席に出るということのいちばん大事なところは、「割り」で生活ができるほどの給金がもらえるようであれば修業にはならないということです。
 俺らのプライドは寄席に出ることなんですよ。むしろお金なんかもらわなくてもいいくらいなんです。

おかみさんーそこなんですよ。このような「割り」の現状をみてみると、なぜ寄席に出たいのかふつうの人の感覚ではわからないと思います。でも、噺家さんはみんな寄席に出たい。そこは給金の問題じゃないんです。ということは、お金には代えられないものが寄席にはあるからなんですよ。

 もっと言うと、俺が大きな仕事の営業に行くので寄席を代演してもらって、それで地方から帰ってきて「いくらの割りだった?」って聞いて、「はい、五千の割りでした」って言われたら、「ああ、出ればよかった」って思うんですよ。でも出られるはずがないんです。地方で仕事をしているんですから。
 というように、落語家ってふつうじゃあないんですよ。これはだいたいみんな似たような感覚だと思います。されに言えば、寄席に出る芸人さんたちは、噺家でも色物さんでも銭ではやっていないんですよ。それは、それぐらいの割りでも出て、自分たちで寄席をつくっている、という矜持なんです。
 極論すれば、寄席でもお金は少なければ少ないほどいんです。こっちは寄席でお金をもらっているつもりはない。

 金額は、あくまでたとえ話での説明なのだが、結構、実態に近い話をしてくれているような気がする。

 寄席の「割り」は、決して高くない。
 しかし、そこは、生身の落語愛好家が待ち構える「修業」の場である。

 すでに紹介したように「蹴られる」ことだってある。
 若手にとっては、重要な通過儀礼でもあるだろう。

 “お金には代えられないものが寄席にはある”ことを知っているおかみさんが控えているから、権太楼は寄席を大事にできるのだなぁ。

権太楼の落語協会のプロフィールページに、近日中の定席参加予定が、次のように掲載されている。
出演が予定されている定席

浅草演芸ホール 3月上席 昼席
末廣亭 3月中席 夜席
鈴本演芸場 3月下席 昼席
池袋演芸場 4月上席 夜席
末廣亭 4月下席 昼席
 今日が千秋楽だった浅草の昼は主任(トリ)だが、それ以外はトリではないので、倍給の「割り」ではない。

 しかし、権太楼は、「寄席をつくる」「矜持」をもって、寄席に出る。

 いまどき「矜持」なんてぇ言葉も、死語化しつつあるなぁ。

 権太楼とおかみさんの寄席への熱い思い。

 こういう噺家さんがいるから、落語の伝統がしっかりと伝えられていくのだと思う。



Commented by YOO at 2016-03-13 00:07 x
もう40年くらい前、偶然バイトでご一緒した権太楼師匠。
すっかり大看板になられて本当にうれしい。
私達には想像もつかない世界で、同じ時代を過ごして来た噺家さんを、今寄席で聴けるというのは本当に幸せです。
Commented by kogotokoubei at 2016-03-13 18:26
>YOOさんへ

どんなバイトだったのか興味津々です(^^)

まさに、大看板ですね。
それも、寄席を大事にして稽古を重ねた末のことだと思います。
奥さんは青山学院の落語研究会にいらして(楽太郎の大先輩)、同じ落語会の仲入りが、二人のデート時間だったというのも、微笑ましい!
Commented by YOO at 2016-03-13 23:44 x
以前、小円遊師匠の話の時にコメントで書きましたが、正月のデパートの催し物会場で似顔絵描きをしました。
その時の司会が、当時確かさん光さんだった師匠でした。
弁当を食べながら、小円遊師匠の愚痴を聴いたのが懐かしい思い出です。
クルーカットというんですか?アイビー風の髪型で童顔で可愛い印象でした。
Commented by kogotokoubei at 2016-03-14 08:53
>YOOさんへ

あのお仕事のことでしたか。
二ツ目のさん光時代ということは昭和50年代前半ですね。
『権太楼の大落語論』に、若い時期の写真も数多く掲載されているので、童顔で可愛い顔、想像できます。
深夜喫茶などのアルバイトなど、いろいろと手掛けていた頃でしょう。
なかなか他の人では得られない貴重な体験をされましたね。
Commented by ばいなりい at 2016-03-14 15:11 x
「矜持」、いい言葉ですねえ。
ふと思ったんですが、志ん生が次男につけた「強次」はこれをもじったものじゃないでしょうか?
長男の「清」とバランスがとれています。


Commented by kogotokoubei at 2016-03-14 15:19
>ばいなりいさんへ

志ん朝の強次は、当時の柳家三語楼が陸軍記念日にちなんでつけた、と伝わっています。
「強」い(次)男、という意味と察します。
兄の馬生の本名清は、残念ながら由来を知りません。

まぁ、噺家さん、本名で語られることは稀有ですからね。

「矜持」という言葉は、たしかに良い言葉だと思います。



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by kogotokoubei | 2016-03-10 20:21 | 落語の本 | Trackback | Comments(6)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛