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八代目可楽のこと、など。-大西信行著『落語無頼語録』より。

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大西信行著『落語無頼語録』

 大西信行の『落語無頼語録』で知ったことは、少なくない。

 先月、八代目可楽の弟子である茶楽が主任の新宿末広亭へ行ったが、師匠可楽について書かれた章「可楽と夢楽」から引用したい。

 三笑亭可楽ー式亭三馬の戯作の中にも出て来るこの古い由緒正しいはなし家の名前を、ぼくらにくり返し吹きこんで覚えこましてくれたのは安藤鶴夫だ。
 『落語鑑賞』では桂文楽を、そしてその後には桂三木助を、惚れた女ののろけをめんめんと書き綴るように書いた安藤鶴夫が、それより前に、可楽、可楽、可楽と、可楽でなければ夜も日も明けぬ一時期があったのだ。
 ただしこれは七代目の、本名をとって玉井の可楽と称ばれている可楽。戦争中に自分の家の階段から落ちて死んだと聞いている。
 二階から落ちた最後の賑やかさ
 江戸の古い川柳は、だからこの可楽とともに思い出す。
 たいそう地味な芸であったらしい。
「安藤が可楽を好きだっていうのはねェ・・・・・・」
 と、正岡容がいつか言った。
「安藤の義太夫を聴きゃよくわかる。客受けのするいわゆるさわりを決して安藤は語ろうとしない。さわりとさわりの間の宿(しゅく)だれ場を好んで語ってこれがうまいんだからね、あいつの義太夫は・・・・・・」
 つまり玉井の可楽という人の芸もそっくりそれであったと、正岡は可楽をはっきり聴いて覚えてはいないぼくらに教えてくれた。

 あら、ここでも、巷間“犬猿の仲”と言われた正岡がアンツルさんを褒めている。

 やはり、あの二人が仲が悪い、というのは周囲が作った「都市伝説」だったか(^^)

 この次に、こう書かれている。

 安藤鶴夫はあんなに玉井の可楽に打ち込んで、褒めちぎって・・・・・・それでいて八代目は、ぼくらの知っているあの可楽のことは、生涯認めようとしなかった。
 そのことが八代目の可楽にしたら、怒りであり、怨みであった。正岡容が死んだ時、
「惜しい人ははやく死んしまって・・・・・・」
 と、言った。さすがにそのあとは口に出して言わなかったけれども、言わないでもだれにでもわかる言い方だった。
 が、安藤鶴夫には認められない可楽だったが、晩年はずいぶん可楽でなければというファンが多かった。ジャズの小島正雄など可楽が好きで好きで、放送局の廊下で可楽とすれ違った時なんぞ嬉しくて小便をちびってしまったと自分で人に言って廻ったほどだった。

 八代目可楽のファンを公言していた人は、他にジャズクラリネット奏者の北村英治、そして歌手のフランク永井など。

 アンツルさんが、八代目可楽を認めなかったのは、その芸への評価もあるだろうが、七代目の弟子ではなかったことも、大きく影響しているような気がする。

 八代目可楽の師匠のことを、落語家になる経緯も含めて、本書より。

 亡くなった志ん生が「可楽をはなし家にしたのは私だ」と言っていた。
 志ん生とまだはなし家になる前の可楽は近所に住んでいて、可楽は家業の経師屋を手伝っていた。夕方になると志ん生が乙な装(な)りをして寄席へ出かけて行く姿を眺めて、落語家というのはいい商売だなと、可楽は自分も落語家になる決心をしたのだという。
 名人円右の弟子になって右喜松。
 林家正蔵が自分とおなじ頃にはなし家になった仲間は金馬と可楽であると言っている。
 のち円右のところから五代目柳亭左楽の弟子になり、春風亭柳橋の一門となって春風亭柳楽、小柳枝、そして三笑亭可楽になっている。ぼくが寄席へ通うようになった頃は小柳枝だった。高座に出て来ると目尻のさがったあの顔でニタリと笑って、しかし大した人気もなかったから笑って見せても愛嬌にならず、むしろ陰気で気味悪くて、はなし始めてからも低音でもぞもぞと、口の中でひとり言をいっているような、どちらかといえばぼくのあんまり好きになれない芸人であった。
 矢野誠一にきくと柳楽の前に馬之助だった時代があったのだという。しかし、右喜松、柳楽、小柳枝、可楽となった記憶ははっきりあるが、馬之助だったとは初耳だ。可楽の弟子の夢楽も師匠が馬之助を名乗っていたのだとは言わなかった。もっとも夢楽はぼくが師匠の話をきかしてよ、と言った時、あんまりよく知らないんだけどね、おれ・・・・・・と、わらっていたから、馬之助だったことをかれも知らなかったのか。

 実際は、馬之助以外の名もあったようだ。

 『古今東西落語家事典』で確認すると、右喜松の後に三橘と改名。円右門下の後は七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)門下でさん生、その後、翁家馬之助で真打昇進。さらに六代目春風亭柳枝門下で、さん枝。その後に五代目柳亭左楽門下となって春風亭柳楽、その後六代目春風亭小柳枝となり、昭和21(1946)年に八代目可楽を襲名している。

 落語家になるきっかけをつくった志ん生ほどではないが、結構多くの名を経由しての可楽襲名。

 七代目との共通点を探すと、どちらも五代目左楽門下であった、くらいだろうか。
 この師匠については、以前に書いたことがある。
 『落語百景』という本について2008年に書いた記事で、結構この人についても紹介したし、2010年の命日にも記事を書いた。
2008年8月23日のブログ
2010年3月25日のブログ

 可楽襲名は、当時落語界で絶大な力を持っていた師匠左楽のおかげではなかったかと察する。

 大西信行が、馬之助の名などを思い出せないのも、その襲名期間が実に短かかったから、やむを得ないだろう。

 本書で、正岡容が、七代目可楽のことを大西信行に説明するにあたって、アンツルさんの義太夫を褒めている部分は、読んでいてほっとした。

 しかし、アンツルさんが、生涯八代目可楽を認めなかったのは、残念でならない。
 正岡容が亡くなった時の、可楽の「惜しい人ははやく死んしまって・・・・・・」という言葉が、重く響く。

 私が安藤鶴夫のことを、アンツルさん、と書くようになったのは、『巷談 本牧亭』を文庫で読んでからだと思う。
安藤鶴夫著『巷談 本牧亭』(河出文庫)
 その時、Amazonに少し長めのレビューを書いたが、あの本には、売れない芸人への作者のあたたかな視線や、講談を中心に大衆芸能への深い愛を感じた。
 
 あの本の作者なら、八代目可楽のことを、それほど毛嫌いするはずはないだろう、と思う。
 アンツルさんは、昭和19年に亡くなった先代の愛弟子でないことや、その芸風が先代とはまったく違うことへの不満もあっただろうが、襲名そのものにも快く思っていなかったのではなかろうか。
 
 もし、当代文楽が小益のままで、当代小さんが三語楼のままなら、私は彼らの高座をもっと聴くかもしれない。
 名前が、どうしても気になるのだ。
 襲名に関しては人それそれ意見も違うだろう。
 大名跡が継承されることは、良いことなのだとも思う。
 しかし、人間は感情の動物であり、どうも「その気になれない」という心情はなかなか解消できないのも事実だ。
 アンツルさんと八代目可楽のことでは、そんなことも思ってしまう。

 五代目左楽とアンツルさんの関係については、よく知らないが、きっと本人への評価だけではなかったような気がしてならない。


 さて、『落語無頼語録』のこと。
 著者の訃報に接しあらためて読み、「ぼく」がどれほど落語と落語家に愛情を抱いているかが分かる。

 大西信行にとって、師匠である正岡容の存在も大きいだろうが、アンツルさんという、正岡と並び称される優れた評者の存在もなにがしかの影響を与えていたと思う。

 この本を読み、今はなき落語と落語家の目利きについて、ますます思いを馳せる。だから、古書店通いはやめられない。

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by kogotokoubei | 2016-02-05 12:47 | 落語の本 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛