『御慶』-五代目小さんの工夫や、志ん朝の音源のこと。
2016年 01月 21日
なかでもトリネタの『御慶』の楽しさは格別だった。
『古典落語 小さん集』(ちくま文庫)
ちくま文庫の『古典落語 小さん集』は、筑摩書房が昭和43(1968)年から昭和49(1974)年にかけて発行した「古典落語」の第一期と第二期の計10巻から再編集して平成2(1990)年に文庫で発行されたもので、飯島友治の編集。
この本には十八のネタが収録されており、各演目の前に編者の解説や用語の説明が掲載されている。
その一席目が、『御慶』だ。
この本では、小さん、八五郎が裃を買いに行った市ヶ谷の古着屋、甘酒屋でのやりとりも、刀屋での会話も含んでいる。
たまたま私の持っている音源で本人が割愛したのか、編集でカットしたということなのだろう。
これだから、落語を本で読むことも重要なのだよなぁ。
しかし、本書では甘酒屋に、紋の例として「菱形とか、いろいろございます」と小さんは言わせている。
小満んは、「霰(あられ)や鮫」と言っていた。
小さんも、時にはこういう紋の名を語っていたのかもしれないし、小満んの工夫なのかもしれない。
そう、噺家には、工夫が必要。
この噺の解説で、五代目の小さんが、四代目に継承されてきた元の噺から、自分なりの工夫を加えていたことが明かされている。
興味深い内容なので、引用したい。
小さん師は二ツ目の小きん時代、師匠である四代目小さんの絶品といわれた『御慶』を聞き覚え、そのままの型で二ツ目時代から演っていたが、その後、諸所に手を加えて現在のものとした。たとえば、八五郎が「御慶」「永日」を大家から習う件は、江戸時代からの演出では〔もちろん四代目小さんの演出でも〕富が当たったその日に、家賃を払いに行って教わるが、小さん師は裃を着て年始に行って教わるほうがおもしろみがあると改めた。また、八百両を貰い、しまい込む場面でも、四代目は股引を脱いで、その中へ入れて帰るように演っていたけれども、小さん師は着物の袖や懐や背中のほうへ入れて、それをかかえるような滑稽な仕草におき替えている。
あら、五代目、見事にネタを磨いていたのだ。
小満んも、五代目の型で演じた。
サゲも、元ネタは違っていたのを五代目が今の型にしたようだ。
サゲは、以前は「御慶ッ」を「何処へ」と聞き違え、「御慶てェのだ」とさらに一つ押し、「初卯の帰りよ」とサゲていた。すっきりとして、初春の噺にふさわしいサゲであったが、「初卯」という言葉が一般になじみがなくなったので、師匠は「恵方詣りに行ったんだ」と変えている。もっとも、「恵方詣り」も今の人には耳遠い言葉になってきているけれども、サゲとしては合理的である。
繰り返すが、本書の元本「古典落語」は昭和43年発刊。
文庫化は、平成が始まってすぐのこと。
今や「初卯」も「恵方詣り」も、死語化しつつある。
「初卯」は、私も知らなかった。ご興味のある方は、亀戸天神ホームページの「年中行事」をご参照のほどを。
亀戸天神HPの該当ページ
「源氏物語」にも出てくる、歴史ある行事らしい。
古典落語は、そもそも「お古い」噺。
元ネタの魅力を踏まえた上で、どう自分なりに磨いていくかがそれぞれの噺家さんの手腕にかかっている。
「お古い」ものの魅力のままに、聴くものを落語の舞台に連れてってくれれば、それも良し。
また、本来の可笑しみをより深く掘り下げて、ややデフォルメ気味に爆笑落語に仕立ててくれる高座も結構。
今では通用しない言葉や風習、文化などをマクラでの適度な仕込みによって疑問が残らぬようにし、その噺の魅力を伝えることだって、生半可なことではない。
あるいは、そういった「お古い」末節部分を改作した上で、そのネタの味わいを損なわずに聴かせてくれるなら、その工夫も評価されて然るべきだろう。
聴く側が、「なるほど」と思えるのなら良いが、「それはないんじゃない」と裏目に出ることだったあろう。
もちろん、そういった試みは一回こっきりじゃないし、客層、場所、時期などの環境にも左右される。
紹介した五代目小さんの改作は、いずれも「なるほど」、と思わせる。
「御慶」「永日」を、元旦に裃姿で大家に挨拶に行った際に教わる方が、その姿を聴く者が映像化しやすいだろう。
三十二もの“切り餅”を股引を脱いでしまい込む姿は、あまり良い絵にならないし、この噺の本筋の可笑しさでもない。少し品を良くした上で、本来の可笑しみを損なうことないようにしている。
サゲは、その時代にはなかなか伝わらない言葉、行事を言い換えて、より分かりやすい内容にしたわけだが、馴染みのない言葉でのサゲでは、お客さんの“腹”に落ちないから、こちらも吉と出ているだろう。
ただし、今後この噺を演じる若手が、「恵方詣り」を「初詣で」に替えそうな気がするが、できれば、「恵方詣り」は残して欲しいものだ。
私は、五代目小さんという人が、ネタにこれほど手を加える人とは思っていなかった。
小さんが、噺は生き物であることを十分に認識し、古くから継承するネタに独自の工夫を重ねてきたのだと、あらためて認識した。
本書を読んで、「(古典)落語って、生きているんだなぁ」と、今さらのように思うのだった。
対照的とは言わないが、この噺の別な演者の内容について。
それは、志ん朝の音源。
昭和54(1979)年12月8日の「志ん朝の会」の高座。
なんと、志ん朝は、大家に御慶を教わる場面を、たまった店賃、ちなみに八つ、を払いに言った際に設定している。
つまり、四代目の型。
加えて、八百両の運搬方法。
八五郎は股引を脱いで、「おあしにおあしを入れる」と洒落を飛ばして、端を結んで首にかけて持ち帰るのだ。
股引、これまた、四代目の型。
ちなみに、甘酒屋、刀屋の場面は割愛している。八百両は五十両包みと二十五両の切り餅の混在。
この音源は、なんともスピード感溢れる素晴らしいもので、あらためてこの人の凄さを再認識させる。
志ん朝が、五代目小さんの工夫を知らないはずはないだろう。
あえて四代目の内容に戻して演じたと察する。
しかし、古臭くもなく、品もある。
とにかく、楽しい。
替える工夫もあれば、替えない工夫もある、ということを強く感じた次第。
そうそう、小満んの会の記事で、「何か忘れたなぁ」と思っていたら、本書を読んで思い出した。
五代目の型通りに小満んも、そして志ん朝も、大家が八五郎に「御慶」を教える際、芭蕉門下で蕉門十哲の一人、志太野坡(しだのば)の句「長松(ちょうまつ)が 親の名で来る 御慶哉」を挟んだ。
長松は、丁稚の代表的な名として使われている。
かつて奉公していた丁稚が、実家の親の名を継いで、かつての奉公先に新年の挨拶に来た、ということ。
この場面のこの句は、ぜひ今後も残したままにして欲しい。
私は、基本的に「古い」ものが好きなのだ。
「正月二十日も過ぎて、何が御慶だ」とお思いの方に、やはり、お古いお話。
旧暦で今日は12月12日。旧暦元旦(春節)は、2月8日。
「御慶」の出番は、実は、これからなのである。
ありがとう。
いえいえ、どういたしまして(^^)
小さんの音源は、一昨日、小満んの会に向かう地下鉄の中で聞いていました。
この本は今日の行きの通勤電車で読み、志ん朝の音源は、帰りの通勤電車の中(^^)
久しぶりに志ん朝のこの噺を聴いて、実に新鮮な驚きでした。