ラグビーワールドカップと、サッカーや新人落語大賞のことなど。
2015年 11月 02日
しかし、日本の戦いも素晴らしかったし、大会全体が実に爽やかながら深い感動を与えてくれた。
スポーツと演芸との違い、世界的な大会と落語という芸能の一つの大会、などなど比較するには違いすぎるのだが、あえて比べてみた自分の思いを記したい。
ラグビーワールドカップには、そのほとんどの試合を楽しめたし、多くの試合やプレー、ノーサイド後に選手たちの姿に、感動した。
それはスポーツだから、とか、日本が善戦したから、という理由もあるのだが、もっとも大きな理由は、公正さと真剣さの点でラグビーワールドカップに、見る者を感動させるだけのものが強かったのではないかと思う。
同じスポーツでも、昨年のサッカーのワールドカップでは、私はそれほど心を動かされることはなかった。特に、日本が予選リーグで敗退した後に、すぐさま次期監督の報道がメディアに溢れ出して、結局監督になったメキシコ人も、結局あのような結末。
FIFAや日本サッカー協会について記事を書いたことがあるが、公正さ、あえて英語で書くなら、“フェア”であることにおいて、昨年のワールドカップを含む日本と世界のサッカーの様相と、今回のラグビーワールドカップは、あまりにも違いすぎる。
ラグビーは、そのスポーツの根幹に、公正さが組み込まれているように思う。
そして、協会の幹部が全体を管理するのではなく、監督や選手の発言力や存在も大きい。なにより、優れた監督や選手への尊敬の念が、サッカーとラグビーでは大きく違う。
オーストラリア対スコットランド戦について記事を書いたが、たしかに終了直前に主審は誤審をした。しかし、協会であるラグビーワールドが、その誤審を認める発表をすると、すぐにオーストラリアのチェイカ監督が協会を批判するコメントを表明した。
私はチェイカ監督と同感だ。
審判も人間でありミスもする。それを含めての戦いなのである。
そのチェイカ監督が最優秀コーチに選ばれた。
FIFAで、協会批判をした監督を最優秀に選ぶだろうか・・・ありえないだろう。
実は、主審は流したが、「スローフォワードか!?」というプレーが決勝戦でも、あった。しかし、私はあの主審の判断は適切だと思う。
ゲームが激しく進んでいる時、スローフォワードかどうか微妙なプレーは、そのまま流して欲しい、と私は思う。
スピーディで激しい攻防こそ、観ている者は楽しんでいるのだ。
決勝戦のオーウェンス主審の審判ぶりは、全体としてゲームの楽しさを分断せず、個々の判断も選手への説明も的確で良かったと思う。
選手同士が相手を認め、そして、選手は優れた審判を認めている。
なにより、公正で真剣であること、紳士であることに対し、心より尊敬の念を示すのが、ラグビーの世界ではなかろうか。
ラグビーは、生身の選手たちが体を張るスポーツである。
サポーターなどをしているとはいえ、その激しさは、格闘技に近いものがある。
厳格さがなければ、怪我につながり、生命の危険さえある競技なのである。
“Discipline”という言葉がもっとも重要視されるスポーツがラグビーだろう。
規律、戒律、しつけ、とか鍛錬という意味があり、スポーツにおいては「規律を守る」「統制をとる」というニュアンスで使われる。ディシプリンを保つことで、反則が減り、怪我も少なくてすむ。プレーも乱れない。
一次リーグで日本がもっともディシプリンを保った、という評価の言葉を海外メディアで目にするが、これは素晴らしい褒め言葉だ。
ディシプリンを保っていても、ラグビーは激しいスポーツに変わりはない。
決勝後のニュージーランドとオーストラリアの選手たちの顔を見れば、ラグビーというスポーツの激しさが分かる。
だから、ベンチ入りの8名全員が交代要員として出場できる。
一歩間違えば大けがをし、場合によっては生命の危険もあるので、ルール順守は厳しいし、レフェリーは厳格に裁き、また、選手はその審判の判断には忠実でなければならない。
そして、戦いが終わったら、「ノーサイド」の言葉が示す通り、敵も味方も、相手の健闘を讃え合うのが、ラグビーの精神である。
もちろん、そういった“枠組み”があっても、公正とは言えないジャッジがあったり、過度なラフプレーがあったり、反則があって締まらない試合だってある。
人間だから、間違いもするし、ついカッとなることもある。試合の流れ、というものも微妙にそのゲームの質に影響する。
しかし、今回のラグビーワールドカップの試合のほとんどが、試合終了後に選手同士がノーサイドの精神でお互いを讃え合い、観客も心から両チームに拍手と感謝の声を投げかけることができたのではなかろうか。
そういった良い大会の流れをつくれた要因として、もちろん日本が南アフリカに勝ったことも大きい。
海外の新聞にも、大会を過去とは違う特別なものにし成功に結び付けた「世紀の番狂わせ」として、高く評価する記事が数多く掲載されている。
まさに、日本にとって歴史的な大会だった。
話があちこちに飛ぶが、ラグビーはアメリカンフットボールと似た役割分担のあるスポーツという特性を持つ。 たとえば、フロントローと言われるフォワードのフッカー(2番)プロップ(1番と3番)が、反則してシンビン(英語のsin-罪-とbin-箱-の合成語)で退場した場合は、バックス(9番から15番)に代わってベンチのフロントローのメンバーを出場させて、スクラムを組めるようにする。なぜなら、専門の訓練を積んだ者でなければ、スクラムが適切に組めず、ゲームにならないからだ。
もとも大柄な選手が務めるロック(4番と5番)は、ラインアウトの主役だ。
大きければ良い、とも言えないのがラグビー。
たとえば、スクラムハーフ(9番)は、小柄な選手の方がスピーディーにボール回しができるし、ウィングやセンター(11番~14番)は、走力が求められる。
15番は五郎丸のように高いボールをキャッチする能力や走力、キック力が必要。
そして、なんと言っても、全員に相手の突進を食い止めるタックルの強さ、正確さが求められる。
そして、タックルは、一対一だけではない。
日本の小柄な選手であっても二人がかりで大柄なフォワードの突進をタックルで倒すことができる場面を、何度見せてもらったことか。
エディー監督による、過酷な練習が、フォワードもバックスも含め代表選手たちの体を鋼のように鍛えたからこそ、素晴らしい試合と結果をもたらしたのだろう。
いわゆる“ブレイクダウン”といわれるタックルの後の楕円球の争奪戦も、重要な見せ場であり、選手の力量が試されるシーンだ。
特にフォワード第三列、バックローと言われる6番、7番、8番が重要な仕事を求められる。
決勝戦での両チームのブレイクダウンでの凄まじい攻防は、史上最高の内容であったのではなかろうか。
いまだに、日本の戦いや決勝戦などの感動が、私には冷めやらないでいる。
それに比べて、サッカーはどうだろう。
昨年のワールドカップ開催途中からの日本チームの監督選びにおける密室性は、多くのサッカーファンの心の中に、いまだに協会への疑心を抱かせたままだろうし、FIFAの汚職問題は、金まみれのワールドカップという暗いイメージを世界に植え付けた。
そして、あえてNHK新人落語大賞だ。
予選は非公開。だから、どんな若手噺家が予選に参加したのか、どんか審査員がどんな基準で審査したのか、まったく分からない。
本選にしても、かつては曲がりなりにも、「演技力」「タレント性」「将来性」という審査項目で審査していたが、今回のように単純に10点満点での評価。
そして、特定の選手に肩入れしているのが明白な審査員の人選。
出場した五人は、「ノーサイド」の笛でお互いの健闘を讃え合えたのだろうか。
ニュージーランドとオーストラリアの決勝戦後の、両チームの選手たちの姿には、声も出ず、目がうるんできた。
今般、「感動をありがとう」といった言葉が大安売りされているが、本当に感動した時は、言葉など出てはこないものだと思う。
サッカーの世界や今回の落語大賞にはなかったディシプリンが、ラグビーワールドカップには明らかに存在したからこそ、感動するのだと思う。
まやかし、密室、不公正がないからこそ、選手は頭と体を限界まで使って戦うことができる。
ラグビーワールドカップの決勝戦を見た翌日の夕方、NHK新人落語大賞の録画を見た時、思うことがあった。
スポーツだろうと演芸だろうと、戦いや大会である以上、ルールが明確であり、予選を含めて公開されて公正で公平な審査の元で選手が精一杯に持てる力を発揮し勝負がついたなら、勝者も敗者もお互いの健闘を讃え合えるだろう、と強く感じたので、つい、こんな記事をだらだらと書いてしまった。
スポーツと芸能の違いは百も承知だが、戦いに臨む人にとって、周囲はもっと敬意を払って、彼らが最高のプレー、演技をできる環境をつくるべきである、ということは共通して言えるように思う。
Iさんは徹夜で観戦、その翌日能にきてましたよ。
見ないはずがないですよ!
先に少し寝ましたけどね。
決勝を見た後で、テニスに行きましたが、その後の酒が効くこと効くこと(^^)
先ほどもNHKのBSで再放送していたのを観ていましたが、やはり良い戦いでした。
新人落語大賞、初めて見ましたが、ちょっと無理がある番組ですね。
江戸落語と上方落語を同じ土俵で審査するのはちょっと・・・
古典落語と創作落語も部門を分けるべきかと・・・
あと、ただでさえ時間が限られる選考会で、まくらは不要では?
などなど、色々と考えさせられた番組でした。
コメントをいただき、誠にありがとうございます。
たしかに、江戸落語と上方落語の違いはあります。
古典と創作も違いますね。
無理な部分も、あると思います。
また、予選が非公開であることや、審査基準が不明確であるなど、いろいろと小言を言いたい要素は多いのですが、「落語」という共通の芸能に関して将来有望な若手が一堂に会して競い合うという機会がなくなる損失の大きさを考えると、無理をできるだけ改善しながら継続して開催して欲しい、というのが私の思いです。
東京だけ、上方だけ、という地域大会も最近は増えてきており、全国大会という位置づけでのNHK大会の意義は、いまだに存在するのではないでしょうか。
11分という時間制限もありますが、寄席では5分で客席をうならせる芸達者もいますので、漫才やコントの一瞬芸の競技よりは、出場者の力量を発揮できるかとも思います。
とは言いながら、審査員の選定には、改善の余地は大きいと思います。
お客さんの投票なども一票にするなども一つの案でしょう。
いろいろ問題もありますが、小痴楽などの若手を関西の方に知ってもらったり、私もそうでしたが佐ん吉の高座に接することができたり、というプラス要素もありますから、無理を承知で見たいと思います。
小言を書くのも、ある意味で楽しみだったりしますしね。
今後も、気軽にお立ち寄りください。