噺の話

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『抜け雀』のサゲ-『米朝らくごの舞台裏』『落語鑑賞201』などより。

 当代文枝が『抜け雀』を演じるということについて記事を書いたが、この噺のサゲについては、悩ましい問題(?)がある。


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小佐田定雄著『米朝らくごの舞台裏』(ちくま新書)

 『米朝らくごの舞台裏』のこの噺の章、あらすじの後半から引用。


止まり木と鳥籠のいきさつを聞くと、屏風の前に座り「重なる父親不孝をお許しください」と涙をこぼす。訳を聞いてみると、鳥籠を描いたのは絵師の父親とのこと。宿屋の亭主が「絵に描いた雀が飛んで出るというような名人におなりになって、何の親不孝なことがございますかいな」となぐさめると。絵師「いや、親不孝ではあるまいか。現在親にカゴをかかせたわい」
       ◎
 サゲは義太夫の『双蝶々曲輪日記』橋本の段の名文句。「現在親に駕籠かかせ」を踏まえている・・・・・・。といっても肝心の橋本がめったに出ないので、難解になってしまった。
 吾妻という傾城が駕籠に乗ったところ、その駕籠を担いでいたのが幼いころに生き別れた実の父だったことがわかって、吾妻が「いかに知らぬと云ふとても、現在親に駕籠かかせ乗った私に神様や仏様が罰当てて」と嘆くわけである。
 東京落語ではいつの時代からか「親を駕籠かきにした」という意味不明のサゲにしてしまっている。このサゲを言うために、わざわざマクラで「駕籠かきというのは最下級の職業で」と説明したり、冒頭に無礼な駕籠かきを特別出演させて「駕籠かきというものは、しょうのないものだ」などと言わせたり苦労している。
 上方では四代目文枝師から受け継いだままのサゲ「「現在親に駕籠をかかせた」で演じているが、中途半端な改定をするよりはわからないままで置いて、疑問を持った聞き手が調べて納得して笑うというサゲが一つぐらいあってもいいと思う。
 そうでなかったら、父親に鳥籠を描かせるというあたりから改造して全く新たなサゲを考えるべきだ・・・・・・と思って、最近、桂南光さんに新しいサゲを提供させてもらった。

 実は、この本を読むまで、東京落語の「駕籠かきにした」というサゲに、なんら疑問を感じていなかった。
 この噺の起源が、江戸なのか上方なのか、どうもはっきりしないようだが、上方でも古くから伝えられてきたようなので、この浄瑠璃を元にしたサゲは、知っておく必要があったなぁ。

 そうか、本来は義太夫を踏まえたサゲだったんだ・・・・・・。

 これは悩ましいなぁ。
 たしかに、小佐田さんが主張するように、本来の「駕籠をかかせた」にして、興味を抱いた聞き手が調べるのに任せる、というのも一案だ。
 しかし、東京落語では、すでに「駕籠かきにした」が事実上の標準(いわゆる、デファクト・スタンダード)化していると、言えなくもない。
 
 そんなことを思いながら、調べていたら、あの三遊亭圓窓の「五百噺ダイジェスト」のこの噺のページにたどり着き、柳家つば女の指摘に基づく、鳥籠ではなく、竹の止まり木を描く筋書きと、それに対応するサゲを発見した。
圓窓五百噺ダイジェストの該当ページ
 圓窓さん、本来のサゲを知っており、このように主張されている。

〔双蝶々曲輪日記 六冊目 橋本の段〕の吾妻の口説き句に「現在、親に駕篭かかせ、乗ったあたしに神様や仏様が罰あてて――――」というのがある。
[抜け雀]を演るほうにも聞くほうにもその知識があったので、落ちは一段と受け入れられたものと思われる。本来の落ちには隠し味ならぬ、隠し洒落があるのが、嬉しい。
 知識として、その文句のない現代のほとんどの落語好きは、ただ単に「親を駕篭かきにしたから、親不孝だ」と解釈をしてるにすぎない。
 胡麻の蠅と駕籠かきは旅人に嫌われていた。その「駕籠かき」から「親不孝」と連想させての落ちになるのだが、悪の胡麻の蝿と同じような悪の駕篭かきもいただろうが、いとも簡単に駕篭かきを悪として扱うのはどうかと思う。
 だから、浄瑠璃の文句の知識を念頭に入れない「駕篭かき」の落ちの解釈は危険そのものなのである。
 なんとも、真っ当なご指摘。さすが、圓窓師匠である。

 たしかに、本来のサゲを知っていて「駕籠かき」にしているのか、知らないで、「駕籠かき」=「雲助」=「悪者」のサゲにしているのかは、噺家が高座に臨む姿勢としては、大きな違いだろう。

 しかし、小佐田さんの、‘「親を駕籠かきにした」という意味不明のサゲにしてしまっている’という主張には、もろ手を挙げて賛同、というわけにはいかない。

 私にとってこの噺は、古今亭志ん生、そして古今亭志ん朝を代表的な音源と思っているので、サゲのみを取り上げて、あの親子の作品の評価を下げるわけにはいかないのだ。

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矢野誠一 『新版 落語手帖』

 矢野誠一著『落語手帖』では、『古典落語大系』(三一書房)の永井啓夫の次の言葉を「鑑賞」で紹介している。

 『抜け雀』はどうも上方種の作らしい。竹田出雲の浄瑠璃『双蝶々曲輪日記』橋本の段で、傾城吾妻が「現在親に駕籠かかせ・・・・・・」とかきくどくくだりがサゲになっているのも上方落語らしいテクニックである。この話に登場する父子の画伯の名は、宿帳につけ忘れたらしく今日に至るまでついにわからないことになっている。しかし、どこそこの誰を無用に名をつけておかなかったこところが作者のじょうずなところといえよう。古今亭志ん生のレパートリーには『抜け雀』とともに『浜野矩随』のような名匠伝もある。しかし『抜け雀』がずば抜けて生き生きとしているのは、お得意の宿屋の夫婦の好人物ぶりもさることながら、いかにも身なりをかまわない名人気質が無理なく描かれているからである。つまり、その天衣無縫な名人ぶりが志ん生に一脈通ずるからなのだろう。

 浄瑠璃を踏まえたサゲから上方落語が元にあるようだと指摘するが、決して志ん生のこの噺を貶めることはない。
 噺は生きものであり、噺家によって新たな生命を吹き込まれることもあるのだから。
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『落語の鑑賞 201』(新書館、二村文人・中込重明著、延広真治編集)

 また、落語のネタで困った時に頼る本、『落語の鑑賞 201』でも調べてみた。
 「鑑賞」をご紹介。

 酒呑みが宿代が払えなくて、その代わりに鶴の絵を描いたら、それが飛び出したという中国説話の黄鶴楼の故事が、この話の骨格に一致する。絵に描いた、あるいは木に彫った動物がそこから飛び出したというのは、巨勢金岡(こせのかなおか)、土佐光起(とさのみつおき)、雪舟などの逸話にあり、生き絵奇瑞譚と言う。『竹の水仙』や講談『狩野探幽』にも近い。サゲの言葉は、駕籠かきは強悪という共通認識があればこそ生きてくるので、今ではマクラで、昔は駕籠かきが悪く言われていたということを振っておかねばならない。サゲの言葉は米沢彦八『軽口御前男』(元禄13・1703年刊)「山水の掛物」にあり、また、直接的には、浄瑠璃『双蝶蝶曲輪日記』(寛延2・1749初演)の橋本の段にある「現在親に籠かかせ・・・・・・」という文句に拠っている。「親を駕籠かきにした」と言ってサゲる落語家も増えてしまったが、これでは浄瑠璃の文句が生きてこない。
 古今亭志ん生の十八番であったが、宿の主人と、その女房のやりとりにクスグリをふんだんに入れて、面白かった。
 放浪の画家山下清を主人公とした人気テレビ番組『裸の大将』は、無価値と思われた旅人が、実は大変な芸術家だと分かって周囲の態度が手のひらを返し変わるという展開を必ず踏む。これは『抜け雀』同様、左甚五郎の名人譚の型を踏襲している。
 
 中国説話から、生き絵奇瑞譚など、丁寧にこの噺の背景を説明してくれている。この本は、貴重だ。

 結局、私はこう思う。

 上方では浄瑠璃『双蝶々曲輪日記』を生かし、「親に駕籠をかかせた」というサゲを踏襲してもらいたい。
 そして、東京においては、志ん生からの、これまた‘伝統’を生かして、「駕籠かきにした」で、良いのではなかろうか。もちろん、上方のサゲも分かった上で、演じて欲しい。

 補足するが、私が試行錯誤して選んだ‘古今亭十八番’にだって、この噺を選んでいるのだ。
2013年10月1日のブログ

-古今亭十八番(改訂版)-
(1)火焔太鼓 (2)黄金餅 (3)幾代餅 (4)柳田格之進 (5)井戸の茶碗 (6)抜け雀
(7)風呂敷 (8)替り目 (9)鮑のし (10)搗屋幸兵衛 (11)富久 (12)品川心中
(13)お直し (14)唐茄子屋政談 (15)お見立て (16)文違い (17)化け物使い (18)今戸の狐


 鼠ならぬ雀の噺、大山鳴動したわりには、なんとも八方美人のサゲであった。

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Commented by hajime at 2015-05-15 10:54 x
極めて個人的な感想ですが、『双蝶々曲輪日記』から来る上方落語のサゲも結構だとは思いますが、東西で同じサゲを使う必要も無いと思っています。
「親を駕籠かきにした」と言う古今亭のサゲも私は好きです。圓窓師には悪いですが、この大酒飲みの絵師の息子に合ったサゲだと思っています。(おおらかさがあると思うのです)
 時代が下がって行くにつれて、噺の解釈やサゲが変わって行きます。それは寂しいですが反面致し方無い事だと思っています。
 今や、キセルに入れる煙草を「きざみ」とは知らない人が40代でも増えてきました。「キザミ」を見たことが無いと噺家がキセルに煙草を詰める仕草が判らないと言う冗談の様な事が増えて来ました。
 『浜野矩随』の母親を生かしてしまう噺家より良いと思うのです(^^)
Commented by kogotokoubei at 2015-05-15 12:52
>hajimeさんへ

『米朝らくごの舞台裏』を読んで、「ややっ、これは一大事!」と思いましたが、結論は、まったくhajimeさんと同じでして、上方は上方、東京、いや古今亭は古今亭でいいんだと思います。
 落語に出てくる言葉が通じない問題は、大須のマクラで志ん朝もぼやいていますが、時代の流れとして、やむを得ないと思います。逆に、だからこそ、落語は今日の客に媚びず、それが相応しいと思うなら、昔の言葉を遺して欲しいと思います。
サゲを工夫することも大事だと思いますし、あえて替えないのも、一つの了見と言えるでしょうね。
『浜野矩随』の母親を生かしちゃぁ、あの噺は生きない^^
逆に『唐茄子屋政談』の母親を殺しちゃぁ、救いがない。
あくまで、個人的見解です!
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by kogotokoubei | 2015-05-15 07:38 | 落語のネタ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛