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中山康樹の訃報で感じる、‘スイングジャーナル時代’の終焉。

中山康樹が亡くなっていたことを知った。時事ドットコムの該当記事


中山康樹氏死去=音楽評論家
 
 中山 康樹氏(なかやま・やすき=音楽評論家)1月28日午後8時21分、悪性リンパ腫のため川崎市の病院で死去、62歳。堺市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻啓子(けいこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。

 ジャズ専門誌「スイングジャーナル」編集長を経て評論活動へ。トランペット奏者マイルス・デイビスの研究で知られ、近年はロックも論じた。著書に「マイルスを聴け!」など。 (2015/02/06-18:04)

 このニュースに気が付いたのは、7日土曜の夜だった。
 パソコンを開いて目にしてから、末広亭の記事を書こうと思っていた手が、止まった。

 あのスイングジャーナルで、岩浪洋三さん(岩浪さんとか油井正一さんは、どうしても‘さん’づけとなる)の後に編集長となり、その後、音楽評論家として多数の著作を発表した人だ。私にとっては、大事なジャズの指南役だった。

 年齢は彼が少し先輩だが、1950年代生まれの同世代。

 五年前にスイングジャーナルが終刊、三年前に岩浪洋三さんが旅立ち、中山康樹の訃報を目にして、明らかにスイングジャーナルの時代が終ったのだと感じる。

 私は学生時代は体育会系で、たまにしかジャズ喫茶に通えなかったが、油井さんの「アスペクト・イン・ジャズ」は、よく聴いていた。「トランペット、クリフォード・ブラウン、テナー・サックス、ハロルド・ランド・・・・・・」という油井さんの独特の語りが耳に残る。
 社会人になってからはジャズ喫茶(バー?)に入り浸りだった。同じ店で一年間にバーボンのボトル50本キープ、なんてぇ年もあった(馬鹿だねぇ^^)。

 もちろん、スイングジャーナルはジャズ喫茶でよく読んだ。と言うより、ジャズ喫茶に積んであるスイングジャーナルは、いわば一種の調度品のような存在で不可欠だった。
 各楽器の人気ランキングなどもあって、日本人のトロンボーン奏者では、長年にわたって谷啓が第一位だった。向井滋春がトップに立ったのは結構遅かったように思う。「スイングジャーナル誌選定ゴールド・ディスク」には権威があったなぁ。

 私の好みは1950年代のハードバップで、なかでもトランペッターが好き。とりわけクリフォード・ブラウン大好き、である。
 実は、しばらくの間、1956年6月26日のブラウンとリッチー・パウエル夫婦が遭遇した自動車事故の背後に、ブラウンを妬んだマイルスがいるのではないか、マイルスが車に何か仕掛けたのではないかと真剣に思っていたのである^^
 まぁ、そんなことはないとは思うし、もちろん、マイルスも偉大である。でも、マイルスのあの日のアリバイは確認する必要がある^^

 私はモードのマイルスには弱く、「カインド・オブ・ブルー」を聴いても、一曲目のタイトルを洒落て「So What、それが、どうしたの?」と桂枝雀の口調を真似てジャズ喫茶で呟いていた。

 私が好きなマイルスは1950年代の前半から半ばまで。1956年の5月11日と10月26日のマラソン・セッションから生まれたプレスティッジの4枚のアルバムは愛聴している。

 かつて好きだったジャズをあらためて聴き出したのは、落語と同様に十年ほど前からだが、中山康樹の本からは、いろんなことを教わってきた。


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中山康樹著『マイルス・デイヴィス 青の時代』(光文社新書)

 中山康樹のマイルスに関する著作は多い。なかでも『マイルスを聴け!』は有名。そういえば、このタイトルを某落語評論家が落語評論本で真似たときは、やや興醒めだった。「お前にそんなことを言われる筋合いはない!」と思ったものだ^^

 さて中山康樹の数ある著作の中の『マイルス・デイヴィス 青の時代』(光文社新書、2009年12月発行)は、マイルスのチャーリー・パーカーとの出会いから、1959年の「カインド・オブ・ブルー」までの時期を対象に発表作品の背景や、さまざまなジャズミュージシャンとの出会いなどが描かれている。

 本書において、パーカーと同様に重要人物として挙げられているのが、ピアニストのアーマッド・ジャマル。私は、ジャマルの存在をこの本で初めて知った。
 アーマッド・ジャマルは、その昔ジャズ喫茶で聴いた記憶がなかった。あるいは、バップ大好き、ラッパ大好きの頃なので、聴いていても記憶には残らなかったに違いない。当時、ピアノ・トリオなどは絶対にリクエストしなかったしねぇ^^

 本書から、引用。
 マイルスがアーマッド・ジャマルの存在を耳にしたのは、あくまでもマイルスの自伝に従えば「1953年」ということになる。シカゴで教職に就いていた姉ドロシーの助言という。以下は自伝より。

  ドロシーは、シカゴのペルージアン・ラウンジ(Persian Lounge:原文のママ。
  パーシング・ラウンジの誤記かと思われる)の公衆電話からかけて来て、言った。
  「ジュニアーオレの家族は誰も、おやじが死んだずっと後まで、オレをマイルス
  とは呼ばずに、こう呼んでいたーいま聴いてるピアノ、アーマッド・ジャマルって
  いうんだけど、絶対気に入るわよ」。で、オレも聴きにいって、間に対するコン
  セプト、タッチの軽さ、控えめな表現、音符や和音や楽節のアプローチに一発で
  虜になってしまった。
  (中略)叙情性やピアノの奏法、グループのアンサンブルの重ね方<なんかも、
  オレの好みにピッタリだった

 マイルスがシカゴでジャマルを聴いたのは1957~1958年と思われるが、55年6月録音『ミュージングス・オブ・マイルス』では≪ウィル・ユー・スティル・ビー・マイン≫≪ア・ギャル・イン・キャリコ≫といったジャマルのレパートリーが取り上げられている。よって先の自伝におけるマイルスの記憶は、レコードとライブを混同しているふしがある。
 
 自叙伝の翻訳を担当した、そして、人一倍マイルスを知る中山康樹でなければ、マイルスのレコードとライブの混同などを指摘できないに違いない。

 いずれにしても、シカゴのホテルのラウンジでトリオの演奏を披露していたジャマルへのマイルスの執着は強く、いわばマイルスは、‘ジャマル化’していく。
 レッド・ガーランドにジャマルの演奏を聴くように指示、さらにクインテットそのもにに‘ジャマル的なるもの’を取り入れ、それらが相乗効果を発揮して新たなグループ表現を実現するというマイルスの目論みは実行に移された。
 先に挙げた『ミュージングス・オブ・マイルス』では知る人ぞ知る程度のジャマル化ではあったが、上記のセッション(管理人注:1955年10月26日、ニューヨーク、コロンビア・スタジオでのセッション)ではピアノ・トリオ編成でジャマルの当たり曲をカヴァーするという、誰の目にも明らかなジャマルへの傾倒を示し、このセッション以降、マイルスのジャマル化はさらに加速していく。次に挙げるジャマルとマイルスの特定の楽曲における録音記録は、その一端を如実に物語っている(リストはジャマルの録音順)。

 曲名(ジャマル録音年→マイルス録音年:初演/収録アルバム)

 飾りのついた四輪馬車(51→56/スティーミン)
 ウィル・ユー・スティル・ビー・マイン(51→55/ミュージングス・オブ・マイルス)
 ビリー・ボーイ(52→55/未発表)
 ビリー・ボーイ(52→58/マイルストーンズ)
 アーマッズ・ブルース(52→56/.ワーキン)
 ア・ギャル・イン・キャリコ(52→55/ミュージングス・オブ・マイルス)
 ニュー・ルンバ(55→57/マイルス・アヘッド)
 オール・オブ・ユー(55→56/ラウンド・アバウト・ミッドナイト)
 イット・エイント・ネセサリリー・ソー(55→58/ポギー&ベス)
 アイ・ドント・ウォナ・ビー・キスト(55→57/マイルス・アヘッド)
 枯葉(55→58/サムシン・エルス)
 ラヴ・フォー・セイル(55→58/サムシン・エルス)
 オン・グリーン・ドルフィン・ストリート(56→58/1958マイルス)

 ただしこうした記録はあくまで参考資料にすぎず、過剰な深読みはマイルスとジャマルの関係を曲解することにつながりかねない。公平を期す意味でいえば、偶然とはいえ、≪ゼア・イズ・ノー・グレイター・ラヴ≫≪バット・ノット・フォー・ミー≫≪マイ・ファニー・ヴァレンタイン≫≪ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ≫のようにマイルスがジャマルより先に録音した曲もある。さらに、かりにこうした事例から強引に結論を引き出すとするなら、ジャマルが(たまたま)録音していた≪10番街の殺人≫や≪パーフィディア≫を演奏しているヴェンチャーズもまた「ジャマルから影響を受けていた」ということにもなりうる。

 私は、1950年代後半のマイルスの作品に、実に色濃く‘ジャマル的’なものが反映されているかを、つい数年前にこの本で知った。曲解ではなく、明らかにマイルスはジャマルを意識していたことは明白だ。

 この本を読んだ後さっそくジャマルを聴き、30年前では見向きもしなかった、ピアノ・トリオの良さを知ることになる。

 年齢のせいもあるかもしれないが、最近はオスカー・ピーターソンやソニー・クラークのトリオを聴くと落ち着くなぁ。

 こういったマイルスの逸話に限らない本書の良さの一つは、レコーディング・セッションにおける詳しい記録が紹介されていること。もちろん、あのマラソン・セッションも記載されている。その内容を書き写した次の表を私は手帳に貼ってある。

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 ジャズ好きの方ならご存知のように、大手レコード会社CBSコロンビアと契約したマイルスだが、まだプレスティッジとの契約上、4枚アルバムを発表する必要があった。1956年の5月と10月に一日づづ、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのクインテットで、ブルーノートのリマスターで後に有名になるRudy Van Gelder Studioにこもって録音したものだ。この26曲、すべてワンテイクだったと言われる。凄い。

 ちなみに、プレスティッジは、CBSコロンビアでアルバムが発売されることで、マイルス人気がもっと高まると考え、4枚のアルバムを、『クッキン』1957年、『リラクシン』1958年、『ワーキン』1960年、『スティーミン』1961年と、一枚づつ小出しに発売した

 中山は、他にもチェット・ベイカーなどのように、三日間でアルバム5枚分収録などの例があるが、マイルスのマラソン・セッションの凄さは別格だと、書いている。
 マイルスの4部作が別格として遇されているのは、マラソン・セッションによって生まれたからではなく、それらが例外なく名演名盤としていまなお“現在進行形”でありつづけるという、信じがたい完成度の高さによる。ジャズの世界にマラソン・セッションは数々あれど、しかし2日間の奇跡はマイルスが走ったコースでしか起こらなかった。

 まったく、その通りで、この4作は、どれも素晴らしい。


 中山康樹が旅立って、何より、ジャズの指南役が新たな情報を発信してくれなくなったことが、寂しい。
 まだ読んでいない彼の本を読むことで、ジャマルのような、自分としては新たな発見を期待するしかなさそうだ。

 中山康樹の喪失は、私にとって‘スイングジャーナル時代’の終焉を強く印象づける。

 マイルスの曲を紹介しようと思った・・・・・・しかし、とても特定の一曲では中山康樹の弔いにはならないと思い、中途半端なことはしないことにした。

 さらば中山康樹、さらばスイングジャーナル、そして、ありがとう。

 合掌
Commented by セコ金 at 2015-02-18 14:37 x
ジャズの「スイングジャーナル」誌が廃刊となったのが凡そ5年前でしたが、特に愛読者ではなかった私も少々衝撃的でした。読者層となっていた(と思われる)年代の人々の、いわゆる「活字離れ」と言われていましたが、同誌の編集スタッフによって、時を置かずしてJazzJAPANなる後継誌(?)も発刊されましたが、誌名もそのままに「スイングジャーナル」として継続して行くのは難しかったのでしょうか??伝統のある老舗専門誌だけあって、門外漢の私としても惜しい気がしましたが…?

Commented by 小言幸兵衛 at 2015-02-18 15:02 x
コメントありがとうございます。

再出発するには、誌名を変える必要があったと思います。

「JAZZ Japan」発行後も、途中で発売元がヤマハミュージックメディアから株式会社シンコーミュージック・エンタテイメントに代わっています。
情報収集がネット主体の時代、察するに、決して雑誌の商売は楽ではないでしょう。
私も、たまに立ち読みをしますが、購入はしないのが実情です。

ですから、偉そうには言えないのですが、若い人にジャズブームが訪れているようにも聞くので、新たなファンを獲得して頑張って欲しいと思います。

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by kogotokoubei | 2015-02-09 19:45 | 幸兵衛の独り言 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛