噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

副次的な錦織効果、日本テニス界の先人たちのことを思う。

テニスの全米オープンの男子シングル決勝戦、出勤前に第2セットの途中まで見て、帰宅後その後の録画を見た。

 高校・大学と軟式テニスをし、社会人になってから硬式テニスを30年余り経験している者として、少し偉そうに言わせてもらうなら、準決勝までは、勝ちを意識せず無心で相手に向かっていたが、決勝は「勝てる」「「勝たねば」と意識し過ぎた。

 結果として、流れを最後までチリッチから取り戻せない完敗だった。錦織本人もコメントしているが、固かったし、ゲームに集中できていなかった。たしかにフェデラーの方が無心でぶつかっていけたとは思うが、それは、タラレバ。

 チリッチは実にリラックスして準決勝からの好調を保っていたが、錦織は体の重さ、ストロークの切れの悪さを感じた。連戦の疲れがなかったと言えば嘘になるだろう。

 しかし、決勝までよく頑張った。
 あらためて歴史を塗り替えた錦織の活躍には拍手を送りたい。準優勝に終わったが、彼の業績はまったく色褪せない。

 四大大会の男子シングルスで、日本選手がベスト4に進むのは、1933年のウィンブルドン選手権の佐藤次郎以来81年ぶりで、全米オープンでは1918年の熊谷一弥以来96年ぶりであり、決勝は初。

 ベスト8進出段階では、清水善造以来92年ぶりだった。スポーツ報知から引用。スポーツ報知の該当記事

【全米テニス】清水善造さん孫・善三さん、錦織にエール「胸すく思い」
2014年9月3日6時0分 スポーツ報知

◆テニス4大大会最終戦 全米オープン第8日(1日、ニューヨーク・ナショナル・テニスセンター)

 男子シングルス4回戦で錦織が日本男子では1922年の清水善造(故人)以来92年ぶりの8強進出の快挙を決めた。清水さんの孫で元タレントの善三さん(55)も喜びの声を上げた。女子ダブルスでは、クルム伊達公子(43)=エステティックTBC=が自身92年の全豪以来22年ぶりの4大大会ダブルス8強入り。08年に現役復帰後では初となった。

 錦織の快挙を“伝説の男”の孫も喜んだ。善三さんはスポーツ報知の電話取材に応じ、祖父・清水善造氏の1922年大会以来となる8強入りを「素晴らしい」と絶賛した。錦織の試合はほぼチェックしているそうで、7月のウィンブルドン選手権4回戦でラオニッチと対戦した際の映像も見た。「けが明けなのに素晴らしい。骨格や筋力などのハンデを覆して、外国選手に立ち向かっていく姿に、胸がすくような思い」と興奮した様子だった。

 善造氏は20年代初頭に活躍。プロ選手の参戦が認められた68年のオープン化より、はるか昔のことだ。全米のほか20年ウィンブルドンでも4強入りした。その優勝挑戦者決定戦(現行の準決勝)で、相手のチルデン(米国)が転倒した際、起き上がってレシーブできるように、やさしい返球を打ったという逸話が残される通り「穏やかですてきな紳士だった」という。

 テニス界の名選手だという事実を、善三さんは「13歳でテニスを始めるまで知らなかった」というが、実家には大会で獲得したカップや写真などが並んでいた。「壁打ち用の板が家にあって、毎朝2000回ぐらいの壁当てをしていました。当時70歳くらいの祖父がほとんどミスをしないんですよ。今でも耳にはその音が残っています」

 専大松戸高の硬式テニス部では、シングルスで千葉県大会準優勝。その後タレントに転身し、バラエティー番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」などで幅広く活躍した。現在は芸能界を離れ、愛媛・新居浜市のインドアテニススクールで特別コーチを務める。「92年間破られなかった記録を、苦しい思いをしてやってくれた。次もぜひ勝ってもらいたい」とエールを送った。

 ◆清水 善造(しみず・ぜんぞう)1891年3月25日、群馬県生まれ。東京高等商業高(現一橋大)を卒業後、1920年に日本人として初出場したウィンブルドン選手権で4強。21年には世界ランク4位となり、22年の全米でベスト8。さわやかな笑顔から「スマイリー・シミー」と慕われた。27年の引退後、54年には国別対抗戦のデ杯の日本代表監督に就任。77年に他界した。


 清水善造は、軟式テニスから硬式テニスに転じた人で、後で紹介する熊谷一弥などとともに、日本の硬式テニス黎明期に活躍した人。
 上記の記事でも紹介されている大正9(1920)年のウィンブルドンは、前年の優勝者が決勝進出が決まっていて、チャレンジ・ラウンドと呼ばれる挑戦者決定戦が行われる仕組みだった。囲碁本因坊戦や将棋名人戦のような方法だね。その挑戦者決定戦であるチャレンジ・ラウンドの決勝、清水とチルデンとの試合の逸話は有名。

 錦織の活躍で、いろいろとグッズが売れているようだが、それはそれとして、私が副次的効果としてもっとも嬉しいのは、清水善造や熊谷一弥、佐藤次郎といった過去のテニス界における先人達のことを振り返るきっかけになったことだ。

 佐藤次郎について、NHK NEWS WEBの記事を引用したい。NHK NEWS WEBの該当記事

81年前4強 佐藤選手地元は
09月04日 18時42分

テニスの全米オープンでベストフォーに進出した錦織圭選手より81年も前にテニスの4大大会でベストフォーに進んだ、群馬県渋川市出身の佐藤次郎さんの母校の高校では、佐藤さんが使っていたラケットが残され、後輩たちが先輩の偉業を改めて感じるとともに、錦織選手に声援を送りました。
佐藤次郎さんはいまの群馬県渋川市出身で、旧制の渋川中学校、いまの県立渋川高校では軟式テニス部に所属し、そのあと進学した早稲田大学で硬式テニスを始めました。
そして81年前の1933年、ウィンブルドン選手権でベストフォーに進むなど数多くの大会で好成績を残しました。
母校の渋川高校には佐藤さんが使っていた木製のラケット5本が残っているほか、昭和10年に作られたとみられる銅像も設置されています。
高校2年の硬式テニス部の男子生徒は「佐藤次郎さんのことは偉大な先輩としてみんな知っています。
佐藤さんの意志を受け継いで、自分たちも頑張っていきたいし、錦織選手には優勝してほしい」と話していました。
また渋川高校の卒業生で、硬式テニス部の顧問の荒井宏之教諭は「錦織選手が偉大な佐藤先輩に並び、今後のテニス界が楽しみです。生徒たちの励みにもなると思っています」と話していました。

佐藤さんが生まれた渋川市の住宅には、いまは佐藤さんの兄の親族が住んでいて、佐藤さんがテニスをしている写真や、海外遠征のときに使っていた木製のトランクケースなどを大切に保管しています。
佐藤さんのおいの妻の佐藤節子さん(81)は「次郎さんの記録を錦織選手が破ってくれれば、親族としても、日本人としてもとてもうれしいことなので、ぜひこれからもがんばってほしい」と話していました。
また、節子さんの娘の理夏さん(40)は「錦織選手の活躍を次郎さんも天国で喜んでいると思います。錦織選手には優勝を目指してもらいたい」と話していました。


 佐藤次郎の名が思い出されるのは、非常に良いことだと思う。
 それにしても NHKは、慌ててWOWOWから決勝戦の録画放映権を買ったらしいが、サッカーのブラジルW杯で無駄遣いなどせず、早くからテニス四大大会の日本人選手の試合だけでも放送していれば良かったものを・・・・・・。
 NHKのサッカーW杯の無駄遣いについては、以前書いたのでご興味のある方はご覧のほどを。
2014年6月30日のブログ
 今夜もサッカー日本代表の試合を民放が放送しているが、なぜあれほど解説者がうるさいのだろう。途中で見る気がなくなった。

 さて、テニスに戻って佐藤次郎について、日本テニス協会のサイトから主な戦績をご紹介。
「日本テニス協会」サイトの該当ページ

主な戦績
全日本選手権 単優勝(1930年)/複優勝(1932年)
デビスカップ 1931~33年出場/シングルス14勝4敗、ダブルス8勝2敗
4大大会シングルス本戦 全豪(1932年/最高ベスト4)、全仏(1931~33年/最高ベスト4)ウィンブルドン(1931~33年/最高ベスト4)、全米(1932,33年/最高4回戦)


 補足すると、全仏は1931年と1933年のベスト4、全英は1932年と1933年にベスト4である。四大大会通算32勝の記録は、今回の全米で錦織が更新した。
 昭和9(1934)年、佐藤はデビスカップの日本チーム主将として「箱根丸」でヨーロッパ遠征に出発するのだが、その帰途の4月5日、マラッカ海峡にて投身自殺し、26歳の短い生涯を閉じた。

 佐藤次郎については、深田祐介が 『さらば麗しきウィンブルドン』で書いているし、テレビなどでも取り上げたことがある。

 もう一人の偉大な先人について。96年前に日本人として初めて全米オープンの準決勝に進んだ熊谷一弥のことが、西日本新聞では次のように紹介されている。西日本新聞の該当記事

 宮崎県テニス協会名誉会長の渡邊理さん(83)は、熊谷さんが宮崎にいた旧制中学時代は福岡まで歩いて帰省していたと遺族から聞いた。九州でも熊谷さんのような選手を育てたいと75年に「熊谷杯テニストーナメント」を創設。今年40回目を迎え、毎年九州各地から約400人が参加する宮崎県内最大の大会に育った。

 60年ほど前、デ杯の監督を務めていた熊谷さんを福岡市内のコートで見た九州テニス協会常務理事の西村充生さん(77)は「古武士のような雰囲気が漂っていた。若い人たちはほとんど知らない。九州にもすごい選手がいたと知ることで、錦織選手に続けと励みになるはずだ」と声を弾ませた。


 記事には、デ杯監督時代の写真も掲載されているので、ご覧のほどを。

 出身地大牟田の「広報おおむた」のサイトに特設のページがあるので、ご紹介したい。
 まず、特集ページの冒頭を引用。「広報おおむた」サイトの該当ページ

特集 日本人初の五輪メダリスト 熊谷一彌  

 1920(大正9)年、ベルギーで開催された第7回オリンピック・アントワープ大会。日本人の参加が2度目となるこの大会に、大牟田出身の熊谷一彌(くまがいいちや)は、テニス選手として参加しました。競技の結果は、シングルス、ダブルスともに準優勝、日本人初となるメダル「銀」を2つ手にしました。その後テニスは、第8回大会以後60年の間、オリンピック種目から外れていたこともあって、大牟田市民でも熊谷一彌の名前を知っている人は多くありません。
今回、北京オリンピック開催(8月8日開会)を記念して、テニスプレイヤー・熊谷一彌を特集します。


 なんと、熊谷一弥は、五輪の日本人初メダリストでもあったのだ。

熊谷一彌 略歴

1890(明治23)年 大牟田町横須村に生まれる
1910(明治43)年 慶應義塾大学入学、庭球部入部
1913(大正2)年 同庭球部が軟式テニスから硬式へ
1914(大正3)年 マニラ選手権大会 単準優勝
1915(大正4)年 東洋選手権大会 単優勝、複準優勝 第2回極東選手権 単、複優勝
1916(大正5)年 大学を卒業し米国へテニス遊学 全米ランキング5位
1917(大正6)年 三菱合資会社銀工部へ入社 第3回極東選手権 単、複優勝 ニューヨーク支店勤務
1918(大正7)年 米国のテニストーナメントに参加
・1918年…全米ランキング7位
・1919年…全米ランキング3位
・1920年…全米ランキング5位
・1921年…全米ランキング7位
1920(大正9)年 アントワープ五輪テニス 単、複銀
1921(大正10)年 デビスカップ準優勝
1922(大正11)年 帰国
1929(昭和4)年 全日本選手権 複優勝、現役引退
1950(昭和25)年 デビスカップ日本チーム監督に
1968(昭和43)年 死去(77歳)



 凄い経歴だ。熊谷は清水の一歳上だが学年は同じ、佐藤次郎よりは18歳年上になる。
 世界への挑戦の歴史を引き続きご紹介。

世界への挑戦

 中学校は伝習館へ1年通ったあと宮崎県へ引越し、宮崎中学校へ転校します。野球部で活動しながらテニスも続けていたようですが、本格的にテニスを始めたのは、1910(明治43)年、慶應義塾大学へ入学し庭球部員となってからです。
同庭球部は世界を目指すために、1913(大正2)年4月に硬式テニスへと転向します。熊谷は、翌1914年1月、初の海外遠征となったマニラ選手権大会でシングルス準優勝を果たします。熊谷の世界への挑戦が始まった年でした。
特に活躍したのは、1917(大正6)年に入社した三菱合資会社銀工部のニューヨーク支店に勤務した5年間です。オリンピックとデビスカップ(男子テニス国別対抗戦)へ出場したのもこの期間内でした。
体格が勝る外国人選手に対して、熊谷の身長は約170センチ。左利きの熊谷は、硬式ラケットを軟式ラケットの標準的な握り方である「ウエスタングリップ」で握り、鋭くドライブ(こすり上げるような回転)のかかった打球を繰り出して、並み居る強豪を倒していきました。軟式テニスの技を、硬式テニスに通用するものに磨いていったのです。
当時アメリカに、テニスの神様といわれたビル・チルデン選手がいました。世界4大大会で10勝をあげた選手で、熊谷とテニスツアーの中で何度か決勝戦などを戦っています。チルデンは著書に「熊谷は、ハード・コートでの試合を得意とする世界で最も偉大な選手の一人。いついかなるときであっても、どんな種類のコートの上であっても、最も危険な対戦相手だ」と残しています。


  中学時代は野球部(主将)、大学で軟式テニスを始め、その後、部そのものが硬式に転向している。
 野球から軟式テニスという経歴が私と一緒なので、とても親近感がある^^

 紹介されているように、熊谷は硬式になっても軟式テニスの標準的なグリップである「ウエスタングリップ」でプレーした。それは、先に紹介した清水善造も同様。

 ウェスタングリップは、俗に「厚い」握りと言うが、地面に置いたラケットを手に持った状態のグリップと思えばほぼ間違いがない。逆に「薄い」グリップと言うイースタンは、ラケットの面を地面に垂直方向にして握る感じ。アマチュアの硬式テニスプレーヤーは、ほぼイースタン気味である。また、熊谷が活躍した当時の他のプロテニスプレーヤーもイースタングリップ中心だったので、熊谷はまったく異色の存在であった。加えてサウスポー。相手はやりくかったらしい。
 現代のプロテニスプレーヤーは、ほとんどがウェスタン気味のグリップになっているから、清水や熊谷のような軟式出身の先人達は、硬式テニスのグリップに関する先駆けと言ってよいだろう。ちなみに、ウェスタンにも、セミ・ウェスタン、ウェスタン、エクストリーム・ウェスタンなどの用語があるように、握り方の違いがある。

 錦織のグリップはナダルやフェレールと同様、地面に置いたラケットを持ってから、また手を右(時計方向)に回したグリップで、エクストリーム・ウェスタンに近く、アマチュアではとても打てないグリップ。彼が子どもの頃から慣れたグリップなのだろう。ボールにスピンがかかりやすい長所はあるが、相手のスライスのボールへの処理が難しいなどの欠点もある。
 
 熊谷一弥、ウェスタン・グリップで左利き、古武士のような雰囲気、となると今回の全米を棄権したナダルをイメージしないでもない。

 錦織の活躍のおかげで、清水善造、熊谷一弥、佐藤次郎といった日本テニス界の先人達が回想される状況は、10年前にイチローが262本のMLB年間最多安打記録をつくった際、それより84年も前に257本の記録をつくったジョージ・シスラーの名がメディアを賑わわせたことと同じような思いを抱いた。

 錦織は、数年以内に四大大会で優勝する可能性が十分にあると思う。それを予感させる大会だった。

 昨夜は旧暦8月15日の中秋の名月を曇天のためあいにく拝めなかったが、今夜が月齢で満月。綺麗な真ん丸お月さんが見える。きっと、お月様も、「錦織、○、良くやった!」と褒めているのだろう。
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by kogotokoubei | 2014-09-09 12:05 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

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