噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

漱石へのノスタルジー、里見美禰子のことなど。

テレビで高校野球を観ていると応援の歌が、結構、気になる。特にチャンスになって、いまだに山本リンダの昔の曲を元に「ウララ~、ウララ~」「狙い撃ち!」とやっているが、実に嫌だ。一つの伝統なのだろうが、そろそろ曲を替えてはいかがだろうか。決して上品とは言えないだろう。

 そんな、品のない今日この頃(?)なのでなおさらなのだろう、漱石のことを書いた後、ついノスタルジーに浸っている。
  
 特に、『三四郎』のヒロイン里見美禰子と、彼女が何度か口走った「ストレイ・シープ」(迷える子)を思い出す。

 青空文庫から、その言葉を含む部分を引用。青空文庫 夏目漱石『三四郎』

 美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。
「迷子」
 女は三四郎を見たままでこの一言(ひとこと)を繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子(ストレイ・シープ)——わかって?」
 三四郎はこういう場合になると挨拶(あいさつ)に困る男である。咄嗟(とっさ)の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間(はんま)であると自覚している。
 迷える子(ストレイ・シープ)という言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。
「私そんなに生意気に見えますか」
 その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。
 三四郎は美禰子の態度をもとのような、——二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、——意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻(もど)せるものではないと思った。女は卒然として、
「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味(いやみ)のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調(くちょう)であった。



 私は、当時自分の周囲にいそうもない、この美禰子という女性に、三四郎と同じような不思議な愛情を感じていた。

 他にも、この本には、適度に英語が登場する。

 美禰子と三四郎が戸口で本をそろえると、それを与次郎が受け取って部屋の中の書棚へ並べるという役割ができた。
「そう乱暴に、出しちゃ困る。まだこの続きが一冊あるはずだ」と与次郎が青い平たい本を振り回す。
「だってないんですもの」
「なにないことがあるものか」
「あった、あった」と三四郎が言う。
「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー・オフ・インテレクチュアル・デベロップメント。あらあったのね」
「あらあったもないもんだ。早くお出しなさい」
 三人は約三十分ばかり根気に働いた。しまいにはさすがの与次郎もあまりせっつかなくなった。見ると書棚の方を向いてあぐらをかいて黙っている。美禰子は三四郎の肩をちょっと突っついた。三四郎は笑いながら、
「おいどうした」と聞く。
「うん。先生もまあ、こんなにいりもしない本を集めてどうする気かなあ。まったく人泣かせだ。いまこれを売って株でも買っておくともうかるんだが、しかたがない」と嘆息したまま、やはり壁を向いてあぐらをかいている。
 三四郎と美禰子は顔を見合わせて笑った。肝心(かんじん)の主脳が動かないので、二人とも書物をそろえるのを控えている。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝(ひざ)の上に開いた。勝手の方では臨時雇いの車夫と下女がしきりに論判している。たいへん騒々しい。
「ちょっと御覧なさい」と美禰子が小さな声で言う。三四郎は及び腰になって、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪(あたま)で香水のにおいがする。
 絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛(くし)ですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
「人魚(マーメイド)」
「人魚(マーメイド)」
 頭をすりつけた二人は同じ事をささやいた。この時あぐらをかいていた与次郎がなんと思ったか、
「なんだ、何を見ているんだ」と言いながら廊下へ出て来た。三人は首をあつめて画帖を一枚ごとに繰っていった。いろいろな批評が出る。みんないいかげんである。


 英語が堪能な美禰子は、漱石の弟子である森田草平と心中未遂事件を起こした、婦人運動家平塚雷鳥がモデルと言われている。ちなみに、三四郎は弟子の小宮豊隆、野々宮は同じく弟子の寺田寅彦がモデルらしい。

 筋書きは特に書かない。未読の方は、ぜひ実際にお読みください。

 当時、戦前、大正や明治時代の知識が実に乏しい自分が、小説とはいえ、自分とその周囲にはない、品と格調が高い知識人が登場する世界、未知の日本と日本人の姿を発見したような気になったものだ。

 もしかすると、私のようなかつて漱石に親しんだ五十代、六十代の人たちのノスタルジーも、ブームの一端を担っているのかもしれない。そんな気がする。
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by kogotokoubei | 2014-08-16 15:34 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛