噺の話

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八代目林家正蔵が『中村仲蔵』に込めた想い—暉峻康隆『落語藝談』より。

 浅草見番の雲助の高座を聴いてから、『中村仲蔵』のことについて何冊か本を眺めていたら、暉峻康隆の対談集『落語藝談』で、林家正蔵(もちろん八代目)が次のように語っているのを発見した。ちなみに、矢野誠一『落語手帖』でも「芸談」として引用している部分である。


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暉峻康隆『落語藝談』(小学館ライブラリー)

正蔵 「中村仲蔵」は、あたしがどこで聞いたんですか、若いうちですが、天野雉彦先生という童話作家の大家がいましてね、あの方が徳川夢声さんのおじさんなんですってね。
暉峻 ああ、そうですか。
正蔵 その方が、「中村仲蔵」をやったのをどこで聞いたんだか、場所も年代も覚えちゃいませんのですが、聞きましてね、これはいい咄だなとおっしゃったんですね。それから、あたくしは、はなし家になって何十年かたってから、「仲蔵」をやってみたいと思ったんです。
 で、あたくしの「仲蔵」は、あらかたは根岸の文治さんなんです、先代の(八代目文治)。
あの方の「仲蔵」をやるんですが、「仲蔵」のはご案内のとおり、二通りありましてね。一つは「手前味噌」(三代目中村仲蔵の随筆)に頼ってるほうの「仲蔵」なんです。片っ方は先代小円朝さんなんかの演っていたような、夜逃げをしようってんで、道具屋がきているところへ迎えがくるわけですわね、道具の競り市の最中へ。文治さんのは偶然にも「手前味噌」のほうの「仲蔵」なんです。それですから、覚えはいいし、自分の好きなほうですから、そこでいっぺん聞いたんですが、すっかり覚えちまいました。
 文治師匠に小山内薫先生がおっしゃったんです。「柳島の妙見様へ取って返しておみくじをもらったらば、天地人の人人人てえのが授かった」んです。で、仲蔵が決心するわけですね。「手前味噌」と変わっているのは、百姓してる兄弟ところへ相談に行かないんですよ。自分独断でみんな呼んで、そこで決心のほぞを固めちまうわけなんです。そんなところは、咄のほうは簡略なんですけれども。
「仲蔵」の替え紋が、源氏模様の「人」という字が三つついているんですね。ですから、小山内先生の言われたのが事実なんですね。で、あたしは「仲蔵」好きなんですな。「仲蔵」でいちばん好きなのはね、仲蔵がまったくやりそこなったと思って、江戸をあとにするわけでしょう。それで魚河岸のなかを通ると、年寄りと若い者が会話をしていて、中村座の噂になって、
「中村仲蔵の定九郎、よかったよ!」
 という話を仲蔵が聞きましてね。
「ああ、ありがたい!広い世間にたった一人だけ、おれの芸をいいと言ってくだすった方がいる。この人の言ったことを女房に聞かせて、これを置き土産に江戸をたとう」
 というんで、自分の家へ帰ってくると。それで中村伝九郎のところからのお使者とぶつかるんですがね、あすこんところがあたしはいちばん好きで、「広い世間にたった一人・・・・・・」って、あたしどもの境遇では、それが真実ですからね。
暉峻 人ごとならず身にしみる・・・・・・。
正蔵 ええ。それと、このごろ「仲蔵」をやっていましてね、仲蔵が舞台でほめられないんで、これは失敗したと思いますね。と、たいていの芸人なら、そこで芸を投げるわけだが、「失敗をしたこの芸は江戸できょう限りだ。これが舞台の踏み納めだ」と、いっそ力を入れましょう、ね。あそこのところが仲蔵のえらさだと、そういうところを強調したいんです。
暉峻 そうですね。咄をする人の気持が、どこかで出てこなきゃいけないわけですね。はなし家自身の身にしみた気持をどこかに出していくということですかね。
正蔵 ええ。

  

 過去に童話作家によって聞いたことが、仲蔵を演じるきっかけだったとは意外だ。

 天野雉彦については、出身の島根県のサイトで次のように紹介されていた。
島根県サイトの該当ページ

本名 天野 隆亮(1879~1945)児童文学者
 
鹿足郡津和野町に生まれる。明治23年に島根師範学校を卒業し、益田町立小学校訓導、島根師範学校付属小学校訓導を経て、明治38年に上京する。その後、久留島武彦の「お伽倶楽部」に参加し、坪内逍遙の指導を受ける。童話と講談の中間である独自の話風の口演童話家として活躍し、児童文学の普及に貢献した。徳川夢声は甥である。
 
主な著書
『七婦人』『実演お話集』


 
 正蔵は明治28(1895)年生まれなので、天野雉彦が上京した明治38年には10歳。きっと十代の時に、天野による “童話と講談の中間である独自の口演”による仲蔵を聞いて憶えていたということなのだろう。

 そして、実際の噺の方は、三代目仲蔵の「手前味噌」を元にした八代目文治の型を踏襲したわけだ。八代目桂文治は、顔が黒くて面長の顔から「写真の原板」とか「茄子」という綽名や、根岸に住んでいた事から「根岸の師匠」と言われていた。初代四代目小さん亡き後は落語協会の二代目会長だった人。いっとき八代目文楽もこの人の弟子になっている。

 もう一方の型で演じる三遊亭小圓朝は、志ん生の最初の師匠である二代目のことだろう。二代目を父にもつ三代目は昭和48年に没していて、この対談の時期は存命中のはず。

 ちなみに雲助の師匠馬生は仲蔵と女房が夜逃げをする設定なので、その部分においては小圓朝の型。

 小山内薫の指摘による妙見様のおみくじ「人人人」や紋のこと、正蔵はしっかり語っている。

 何と言っても、紹介した対談の中で印象深いのは、次の部分。くどくなるが、再度掲載する。

正蔵 「ああ、ありがたい!広い世間にたった一人だけ、おれの芸をいいと言ってくだすった方がいる。この人の言ったことを女房に聞かせて、これを置き土産に江戸をたとう」
 というんで、自分の家へ帰ってくると。それで中村伝九郎のところからのお使者とぶつかるんですがね、あすこんところがあたしはいちばん好きで、「広い世間にたった一人・・・・・・」って、あたしどもの境遇では、それが真実ですからね。
暉峻 人ごとならず身にしみる・・・・・・。
正蔵 ええ。それと、このごろ「仲蔵」をやっていましてね、仲蔵が舞台でほめられないんで、これは失敗したと思いますね。と、たいていの芸人なら、そこで芸を投げるわけだが、「失敗をしたこの芸は江戸できょう限りだ。これが舞台の踏み納めだ」と、いっそ力を入れましょう、ね。あそこのところが仲蔵のえらさだと、そういうところを強調したいんです。
暉峻 そうですね。咄をする人の気持が、どこかで出てこなきゃいけないわけですね。はなし家自身の身にしみた気持をどこかに出していくということですかね。



 “「広い世間にたった一人・・・・・・」って、あたしどもの境遇では、それが真実ですから”
 “人ごとならず身にしみる”
 “咄をする人の気持ちが、どこかで出てこなきゃいけない”


 こういった言葉に、正蔵の『中村仲蔵』が素晴らしい理由があると思う。私も“あすこんところ”が大好きだ。

 紹介した『落語藝談』だが、Amazonに私が書いたレビューをご紹介する。

企画されたのが昭和43年冬で、最初に三省堂から出版されたのが昭和51年4月なので、掲載された文楽、正蔵、円生、そして小さんという「明治・大正の格調を伝える四人の長老」(本書「再刊の辞」より)への対談は昭和40年代半ばから50年代初期まで、各師匠の都合や体調を十分見極めて丁寧に行われたのであろう。すでに志ん生は高座に上っていないことと、4時間にも及ぶ対談による体調への影響を考慮し企画からはずれたらしいが、非常に残念。しかし、志ん生が欠けていても、終戦後間もなく自身が教授として勤める早稲田大学の落語研究会会長として各師匠との深い親交があった著者の好リードにより、この4人の名人達が、入門前の動機、師匠のこと、落語哲学などを、まさに肉声が聞こえんばかりに吐露している本書の値打ちはいささかも下がらない。後半の「笑いの芸能」「近代落語について」も小品だが佳作。


 今や古書店でしか手に入らないが、ぜひ、復刊して欲しい好著。
 
 ちなみに、私の座右の書(?)興津要さんの『古典落語』には、なぜか、『中村仲蔵』は含まれていない。

 麻生芳伸さんは『落語百選』ではなく、『落語特選』の下巻に収容している。正蔵を評価しているのが、うれしい。なお、正蔵は中村座としているのだが、麻生さんは記録を元に市村座に訂正している。しかし、基本的には正蔵版を元にしたものだ。


 そうなのだ。
 拙ブログも、広い世間で“たった一人でも”、「いいね」、と言っていただければ本望。そういった謙虚な気持にもさせてくれた、正蔵のい~い話だった。
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by kogotokoubei | 2014-07-08 00:53 | 落語のネタ | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛