見習うべきは、花魁の“張り”—『お江戸吉原ものしり帖』より。
2014年 06月 13日
北村鮭彦著『お江戸吉原ものしり帖』(新潮文庫)
ふたたび北村鮭彦の『お江戸吉原ものしり帖』より。
本書でたびたび出てくるのが、花魁の“張り”という言葉である。
張り、とは意気地のことで、面目上自分の意志を押し通すことである。
京町へ行っても張りは強いなり
思ひなし江戸町張りが強いなり
吉原の花魁が一番大切にした無形の価値である。
それに対して客の方が何よりも大切にするのは[粋」である。すっきりと垢抜けがして、そこはかとない色気のある行動、人物、とでも定義しておこう。これは「野暮」に対する言葉でもある。武左、浅葱裏などに代表される田舎侍や、遣っただけは元を取ろうと考えている金銭に執着の強い人物を野暮という。
本書では、【一口話】として、本編を補足するさまざまな話が登場するが、張りの説明の後に次のような事例が紹介されている。
扇屋司(おうぎやつかさ)
一度馴染になった花魁がいる客は、“切れ状”という格式ばった文書を渡さない限り、他の花魁の馴染にはなることができないことになっていた。
安永、天明の頃(1772~89)、江戸町一丁目の扇屋に司という全盛の遊女がいた。ある人がこの司に馴染んで半年余り通ったが、心移りしてよその花魁に通いたくなった。そこで“切れ状”など出して変な評判を立てられるのがいやで、金で済ませたいと思い、ある日百両の包みを持って会いに行き、いざ床入りの時、それを司に渡した。司は客の顔色を見て早くもさとり、
「心変わりした人を客とすることは出来ません。只今、私はあなたを外へ突き出しますから、どちらへでもおいで下さい。けれど司は客を金でよその遊君に売ったなどといわれるのは真っ平です。どうぞこれはお持ち下さい」
と百両を突きかえした、という。
司の姿には、惚れ惚れするねぇ。こんな花魁なら、私も是非お会いして、一晩じっくり話してみたいものだ。
政治家、役人、財界人など、すべからく“金、金、金”、まさに“野暮”な野郎ばかり!
何もかもが「昔は良かった」と言うつもりはない。
しかし、日本人は過去には持ち合わせていた精神面の美徳のいくつかを失ってきたのは事実だろう。
江戸時代の“張り”や“粋”には、人間にとって金銭や土地や家など有形なものだけが大事なのではない、という日本人の誇るべき特性が色濃く現れているように思う。
今の時代、無形の価値を尊ぶ、この花魁の“張り”こそ見習うべきではないだろうか。
ほんの一部をご紹介しているので、実際の本でしっかりお勉強(?)なさってください!
NHKで「吉原裏同心」が始まるのは、まったく偶然なのですが、これらの本を読むとより楽しく見ることができるかもしれません。
もしかするともう一冊、読みたくなる本が増えるかもしれませんよ^^