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上方落語界分裂の危機を救った人達-露の五郎『上方落語のはなし』より。

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 昨日、命日に五代目桂文枝のことを書く中で引用した露の五郎著『上方落語のはなし』は、著者の半生記を語りながら、同時代に経験した上方落語の歴史を解き明かしてくれる好著である。

 ただし、下記の朝日新聞出版のサイトには「再販未定」とある。こういう本は落語愛好家として、ぜひ重版を期待する。
露の五郎著『上方落語のはなし』(朝日新聞)

 昨日の記事で、昭和二十三年に、戎橋松竹派、と反戎橋派、言い換えると五代目松鶴派と二代目春団治派に分裂したことを書いた。

 では、その後はどうなったのかを、本書からご紹介。

関西演芸協会-大同団結への仕掛け人

 昭和二十四年四月二十三日、関西演芸協会が発足しました。
 役員は、会長に二代目旭堂南陵、副会長は五代目笑福亭松鶴、幹事として二代目桂春団冶、花月亭九里丸、芦の家雁玉、林田十郎が名を連ね、会員は三十六名。顧問には中田昌義、後に枚岡市長になった人で、この頃はまだ、ミナミの料亭「暫」(しばらく)のご主人でおました。
 粋人で世話好きで、或る時、中村メイコが厄介になってるかと思うと、中村あやめが仮寓していたり、若手落語家のだれかがころがり込んでたり、という具合。
 実は、関西演芸協会の仕掛け人は、この中田昌義で、関西芸能人の大同団結をはかるとともに、戎橋松竹と京都富貴に分かれて派を競う、松鶴と春団冶を和解させようという計らいでおましたのや。
 橋渡しは、会長にすえた講談の旭堂南陵。仲々の人格者で見た目も格調があり、つやつやしたそれでいて柔和な面ざし。これが高座へ上がると、キリっとしまって、リンとした風格朗々たる口跡。当時七十歳を超えた御老体とは、とても思えぬ堂々の高座。「太閤記」「難波戦記」などが得意で、私の師、春団冶いわく。「春坊よう見ときや。こういうのを重みのある芸というのやで」


 分裂の危機に、それを防ごうとした中田昌義と旭堂南陵の名は、上方落語界の歴史に名を残さなければならないだろう。

 料亭の主人から、市長へ。上方芸能の偉大な“お旦”であった中田昌義と、文楽の何たるかを知らず、税金の無駄使い選挙をしようとする橋下。この二人の文化の受容指数は月とスッポン、いや宇宙と深海ほどに違う。


 上方落語界分裂の危機を救った人は、他にもいた。

「ジャンケンポイ」
「アイコデホイ」
 二代目春団冶と五代目松鶴が無邪気にジャンケンをしているそばで、東京落語の三代目三遊亭金馬がニコニコと笑うてはりました。
 この三代目金馬という人、昭和三十九年十一月八日に亡くなりましたんで、まだまだご存じの方もぎょうさんいてはると思います。
 (中 略)
 時は昭和二十四年。ちょっとはっきりしまへんけど、関西演芸協会発足の前、三月ころやなかったかと思います。場所は京都の料理屋で、どこやったかこれもいまいちはっきりしまへん。何しろ、その時、その場にいたのは、富貴席主横田重雄、金主方小沢富次郎、五代目松鶴、付き人光鶴(後六代目松鶴)、二代目春団冶、付き人春坊(筆者)、仲人三遊亭金馬の七人。生きているのは私だけで、だれにも確かめようがおまへんのや。



 その露の五郎(露の五郎兵衛)も平成21(2009)年3月30日に亡くなった。今、この会合の行われた京都の料理屋を知る術は皆無となった、のだろう。

 戦後、復興途上で起こった上方落語界分裂の危機は、贔屓筋のお旦、別の演芸の仲間、そして東京の噺家などの努力もあって、なんとか救うことができた。

 こういう歴史も、知っておいて損はないと思う。

 この本の貴重な情報は、今後も何度かご紹介するつもりである。
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by kogotokoubei | 2014-03-13 19:07 | 上方落語 | Comments(0)

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