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古今亭の十八番、『今戸の狐』が伝える、さまざまなこと。

 古今亭志ん朝生誕76周年の日に、古今亭の十八番の一つであるネタについて書きたい。

 先日の白酒の『今戸の狐』は、その昔の寄席の姿や風俗を伝えてくれる貴重な噺である。
 
 昨年の10月1日に、古今亭十八番を改訂した際に、下記のようにこのネタも加えている。
2013年10月1日のブログ

-古今亭 十八番(改訂版)-
(1)火焔太鼓 (2)黄金餅 (3)幾代餅 (4)柳田格之進 (5)井戸の茶碗 (6)抜け雀
(7)風呂敷 (8)替り目 (9)鮑のし (10)搗屋幸兵衛 (11)富久 (12)品川心中
(13)お直し (14)唐茄子屋政談 (15)お見立て (16)文違い (17)化け物使い (18)今戸の狐

 最初に案を書いた際、実に多くの方からコメントをいただいた。皆さんのコメントも参考にした改訂版である。

 もちろん、18席に絞ることに無理があるので、「あれはどうした」「これが抜けている」というご批判もあるでしょうが、お許しいただきたい。少なくとも、これらの噺が古今亭の代表的なネタであることは間違いないと思う。

 そして、『今戸の狐』は、古今亭の噺であり、美濃部家の噺とも言えるだろう。

大筋は次のようになっている。
(1)乾坤坊良斎の弟子の良助は初代三笑亭可楽の弟子になっている。住み込みではない
   良助は、家賃や日々の暮らしの足しにするために、住んでいる地元の今戸焼きの狐
   に彩色(絵付け)をする内職をしていた。
(2)良助の隣りの小間物屋は、、かつて千住(通称こつ)で花魁だった女性を女房にして
   いるが、女郎上りにしては珍しく働き者で、良助が内職をしてるのを見つけ、内職を
   禁じている師匠には内緒にするからと、彩色の方法を習い、同じように副業を始めた。
(3)可楽の家に住み込みの前座たちが、寄席のくじの売上を数えていた。急な雨で可楽の
   家の軒下で雨宿りしていたやくざ者が、金勘定をしている声を、博打のご開帳と勘違い。
(4)翌朝、やくざ者は可楽に会い、「狐(サイコロ三つでやる博打)ができているのは、
   わかっているんでぇ」とばかり脅して金を出させようとするが、可楽は断固として否定
   し席を立つ。それを聞いていた弟子が、「狐なら、今戸の良助のとことでできてます」
   と男に伝える。
(5)今戸の良助宅を訪ねた男。「狐をこしらえてるらしいな」「えっ、最近ようやく顔が
   揃うようになりました」などと、不思議に会話が合っていったが、今戸焼きの狐を見た
   男、「おれが言ってるのは“こつ(象牙のサイコロ)のの賽”だ」、聞いた良助「こつ
  (千住)のさい(妻)ならお向かいのおかみさんです」でサゲ。


 人によって微妙な違いがある。(2)の部分、志ん朝は、くじの売上の勘定ではなく、寄席のワリ(出演料)の勘定としている。今戸焼きの内職については、白酒は志ん朝と同様に小間物屋の女房が先に狐の彩色の内職をしていて、良助が彼女に習って始めたとしていたが、志ん生は、先に良助、それを見つけた千住の妻に、師匠への口止め料代わりとして教えた、となっている。後ほど紹介する野村無名庵の粗筋紹介も、先に良助が内職を始めている型。

 この寄席の仲入りでのくじについて、志ん生の速記を元にご紹介。
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 今では、ちくま文庫でも発行されているが、「志ん生 長屋ばなし」(立風書房)から引用。

 えー、どんな商売でも、むかしと今では、いろいろに変わって参りましたが、わたくしどもが落語を演ります・・・・・・この寄席てェのも、そうでありまして、江戸のころより、えー明治のごく初めのころまで、前座が、寄席でもって、このォ・・・・・・クジをお客さまに売ったものでございます。
 (前 略)
 お仲入り・・・・・・休憩のとき、さきほど高座をつとめました前座が、客席へ出て参りまして、
前座「えー、すみませんけれど、ひとつ私の小づかいになるんですが、クジを買ってやっていただきたいんですが・・・・・・。ええ、ここにきんか糖の鯛と、布袋さまと、いろンなものが出ております。当たったおかたへ差しあげるんですが、どうかひとつ・・・・・・」
 てンで・・・・・・えエ、どうも前座に買ってくれっていわれるってェと、客のほうだって、いやってェわけにいかねえですからナ、
客「おーう、そうかい、一つおくれ」
 いくらでもない金ですから、そいつを買ってやる。たいがい当たらないんですが、どうかすると当たるのがある。
客「おい、当たったよ」
前「あ、さいですか。へェ、どうもお当たりになりましたか・・・・・・えー、きんか糖と布袋さまと・・・・・・いろいろあるんですがナ、エー、お持ちになりますか?へい、お持ちにならンければ、あたくし、たいへん助かるんでございますがなア・・・・・・」
 どうも前座にこういわれては、ちょいと持ってくわけにはいかねえから、
客「ああ、いいよ、おめえにやるよ」
前「さいでございますか、どうもありがとうござんす・・・・・・」
 のべつ、その鯛と布袋さまが出てくる。えー、なにしろ、きんか糖ですからナ、鯛なんぞ、もう鱗(こけら)なんぞありゃァしません。布袋さまの顔なンぞ、ノッペラボーになっちゃったりなんかして・・・・・・。


 志ん生は、マクラでその昔の噺家の貧乏ぶり、なかでも前座の厳しさなどを回顧する。ちなみに、志ん朝はマクラで、博打の説明や「コツ」などの符丁について、楽しく紹介してくれる。

 くじがもし当たると、景品をまた仕入れなければならないので、お客に諦めさせるよう懇願する件、白酒は彼ならではの工夫をしていた。
 本来は当たりクジを初めから入れないのだが、兄弟子が意地悪をして当たりを入れることがある、という設定で笑いをとった。
 前座が「えっ、当たりですか!(顔全体で驚きの表情)・・・・・・おかしいなぁ、(少し小声で)入ってないはずなのに。・・・(他の客にも聞こえる大きな声で)まさか、お客さん景品を持って行こうなんて、思ってないですよね!」といった具合に、悲哀感より脅しに近い^^

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佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)

 『合本 東京落語地図』は、著者佐藤光房が、朝日新聞東京版の日曜日のコラムとして昭和61年から一年おきに三回連載した内容を一冊にまとめたもので平成4(1992)年初版発行。

 本書のこの噺の章から、少しご紹介。

 乾坤坊良斎が、自身の体験を弟子の二代目菅良助に託して作ったといわれる。良斎は自分の演者としての才能が乏しいことに気づき、弟子の良助を可楽に託して台本作者に徹した。『白子屋政談』(髪結新三)などの人情噺や世話講談に優れた作品がある。万延元年(1860)、九十二歳で没。
 初代可楽の家があった日本橋中橋は、東京駅八重洲口正面大通りあたり、隣家には浮世絵師の歌川豊国が住んでいた。
 前座たちが売り上げを勘定する音をやくざに聞きつけられるくじは、寄席の仲入り(休憩時間)に前座が売った。当たるときんか糖の鯛や布袋様が貰えるはずなのだが、前座が「お持ちになりますか?お持ちにならないと私たいへん助かるんですが」などというので貰うわけにはいかない。だから布袋様の顔がのっぺらぼうになっていた、という。
 このくじ売りは明治十年ごろ、三遊亭円朝の提案で廃止された。


 可楽の隣家、豊国との交流なども、何か物語がありそうだ。

 円朝がくじ売りを廃止したのは、きっと円朝の“美学”に沿わないという思いがあってのことだろう。そして、そんなことをしなくても、前座が何とか喰えるようにしてあげたのではなかろうか。

 さて、くじの景品であった、きんか糖の鯛や布袋様って、どんなものなのか。
「江戸駄菓子まんねん堂」さんサイトの金花糖のページ
 江戸駄菓子のまんねん堂さんのサイトから、写真をお借りした。布袋様はなかったが、招き猫があった。
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*金花糖の鯛と海老。

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*金花糖の招き猫。

 まんねん堂さんのサイトに、金花糖について説明がある。

金花糖の文化が失われつつある理由のひとつは「作る技術が難しい」ということがあります。
原料は「砂糖と水だけ」というシンプルなものだけに逆に作ることが難しく、大量生産はほぼ無理。手作りで一つずつ注意をはらって作らなければなりません。
また、砂糖が固まりやすい寒い時期でないと作れなかったこと、その日の気温・水温・湿度によって出来上がりが変わってくるため、経験と勘が重要となることもあり、職人が後輩や弟子に技術を伝えるのも難しく、そのために金花糖の職人は後継者がおらず年々人数が少なくなっていきました。


 ぜひ、江戸駄菓子の伝統をつないでいただきたいと思う。

 こういう製法なのだから、景品の“看板”として長い時間を経れば、布袋様の顔がノッペラボーになるはずである。客の方も、欲しいとは思わないだろう。

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野村無名庵『本朝話人伝』

 東京大空襲と言うと、昭和20年の3月10日を連想するが、実は5月にも大空襲があった。その昭和20年5月25日の東京空襲で亡くなった野村無名庵の『本朝話人伝』から、この噺の作者について紹介したい。
 ちなみに5月25日の空襲では八代目春風亭柳枝の父、四代目柳家枝太郎も亡くなっている。

 『本朝話人伝』の「可楽と良斎」より引用。『今戸の狐』の粗筋を紹介しているサゲの部分から。

 「アア、こつのさいなら、お向こうのおかみさんでざいます」
 これがこの「今戸の狐」という落語のサゲになっております。このサゲは甚だ手際もよろしからず、少々こじつけでもありますが、それまでの運びは、滑稽も上乗なもので、その上前にも申しました通り、その頃の落語家の生活を十分に描写してあるところ、文献的価値のある落語だと思います。
 けだし、良助自身が、自分の体験へ多少の脚色を加えまして、この話にまとめたのであろうと思われますのは、この良助という人が、多分に創作の才を持ち合わせておりましたからで、しかも、そんな才分はありながら、文を綴ってものを書くことと、人にそれを話して聞かせることとは、また別の技巧が備わるものと見えて、良助は結局、落語家としては成功しませんでした。そこで天保の末年に剃髪して軍書読みに宗旨を変え、名もそれらしく改めましたのが、即ち乾坤坊良斎であります。
 しかし講釈師になっても不弁のため、高座はあまり振いませんでしたが、前述のごとく創作の才があったので、盛んに世話講談の種をこしらえ、自分も演れば他人にも供給し、これが今日まで伝えられている物も少なくありません。全くこの人は、台本作家としての功労者でありました。しかして良斎は、万延元年九十二歳の高齢を保って没し、浅草阿部川町天台宗延命院へ葬り、法号は乾坤坊良斎更勝居士と申します。



 良斎は、『白子屋政談』(髪結新三) 、『佃の白浪』(小猿七之助)、『与話情浮名横櫛』(お富与三郎)など、人情噺・世話講談の傑作を多く残した。非常に優れた作者であったことは間違いないだろう。

 乾坤坊良斎という実在の講釈師の存在、江戸時代の寄席の様子、やくざと博打のこと、昔の符牒のことなど、さまざまな要素が盛り込まれた噺は、ぜひ古今亭の噺家さん達に語りつないで欲しい。

 さて、最期のご紹介。題目の今戸焼きの狐とは、どんなものだったのか。

 いつもお世話になる「落語の舞台を歩く」の『今戸の狐』より、今戸焼の狐をご紹介。この章で紹介されているのは志ん朝の一席。「落語の舞台を歩く」の『今戸の狐』

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*今戸焼きで江戸時代制作され近年出土した狐。高さ6cm位

 良助がこしらえているのが博打の狐ではなくて、今戸焼きの狐と知った男、良助に「お前のとこへなんぞ、もう、コン、コン」と言ったとか言わなかったとか・・・・・・。(お粗末)
Commented by ほめ・く at 2014-03-11 10:41 x
今戸焼の狐については下記サイトに詳しく解説されています。今戸人形とも呼ばれていたようです。
http://imadoki.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/05/post_b9a3.html

Commented by 佐平次 at 2014-03-11 10:58 x
金花糖、文字で読むわけじゃないから、砂糖菓子くらいの説明は必要でしたね。
もしかして私が聞き逃したのかもしれないが。

Commented by 小言幸兵衛 at 2014-03-11 11:19 x
情報ありがとうございます。
私はこちらのブログ、見つけ損なっておりました。
へぇ、「金貼り」「銀貼り」は、専門家でも見たことがないんですねぇ。
金花糖と同様、今戸焼きもなんとか伝統が絶えないで欲しいと思います。

Commented by 小言幸兵衛 at 2014-03-11 11:24 x
砂糖菓子であることは白酒は説明していなかったと思います。
「糖」で想像はつきましたが。
古今亭の重要なネタの、うってつけの後継者が現われた、そんな感じでうれしい限りです。
ただし、可楽の弟子は円楽ではないほうがいいですね。

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by kogotokoubei | 2014-03-10 06:20 | 落語のネタ | Trackback | Comments(4)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛