噺の話

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『居残り佐平次』を磨き上げた、初代柳家小せんの執念。

先日の古今亭菊之丞の『居残り佐平次』には、やや厳しい注文をつけた。

 このネタに関連することとして、このネタを基本として数々の古典落語の名作をストーリーにちりばめた傑作映画『幕末太陽傳』がある。この映画については、一昨年書いたので、関心のある方はご覧のほどを。佐平次役のフランキー堺をはじめ、豪華絢爛のキャスト。日本映画の金字塔だと私は思っている。
2012年1月9日のブログ

 初代春風亭柳枝の作と伝えられる。『子別れ』の作者でもある。初代柳枝と『子別れ』については、ずいぶん前に書いたこともあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2009年4月18日のブログ

 ちなみに、「佐平次」(左平次、左平治とも)という言葉には、もとは人形浄瑠璃の社会における隠語で、口きき、差し出口、追従、出すぎたまね、余計な世話、などの意味があるらしい。(榎本滋民著『榎本版 志ん朝落語』より)

 今回は、菊之丞の高座に関しても書いたのだが、ある噺家による見事な演出について書きたい。

 その噺家とは、「めくらの小せん」の別名をもつ、初代柳家小せんである。

 初代小せんについて、当代小せんの襲名に際して書いたことだが、今村信雄著『落語の世界』の「盲(めくら)の小せん」の章から再度引用する。
2010年2月17日のブログ

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今村信雄 『落語の世界』
 柳家小せんは明治16年4月15日浅草区福井町で提灯屋をしていた四代目花山文(後に二代目万橘と改名)の倅に生まれた。本名は鈴木万次郎。十五の時に座り踊りの達人四代目柳橋の門人になって柳松、後に三代目小さんの門に移って小せんと名乗った。二代目小さんの門人にも小せんというのがあったようだが、世の中に現れたのは、この盲小せんからである。
 才人小せんは、十五歳で落語家になり、二十七歳で腰が抜け、三十歳にして失明し、三十七歳で没した。大正八年五月二十六日である。
 (中 略)
 小せんは三代目小さんの弟子であっても、三代目のやる落語はほとんどやらなかった。それは師匠の前に高座に上がって、師匠のやり物をやってしまうことは失礼だという遠慮だったかも知れないが、二代目小さん、即ち禽語楼の物はよくやっていた。「鉄かい」にしろ「五人回し」にしろ、そうであった。小せんにはまた「白銅」だの「ハイカラ」だのという新作もあり、古い落語も得意の警句を入れて新しくしていた。
 小せんの所には、大勢若い者が稽古に来ていた。

 “二十七歳で腰が抜け、三十歳にして失明し、三十七歳で没した”早世の噺家だが、彼が遺した財産は小さくはない。

 女郎屋通いが講じて病になり、最後を看取った女房もその世界の人だったこともあり、とにかく廓噺では他を圧していたようだ。名のある文人たちも認める実力者だったのである。

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 旺文社文庫の興津要著『恋しき落語家たち』から紹介したい。「佳き時代の薄幸の落語家 初代柳家小せん」より。

 すでに失明していた小せんだが、彼の芸を惜しむ岡村柿虹、久保田万太郎、吉井勇、鈴木台水などの支援で、新石町の立花亭で「小せん会」が始まった。大正三年(1914)のことである。
 からだは不自由になる一方だったが、それでも小せんは人気者で、大正六年(1917)四月三十日の独演会では、「小せんの五女郎買い」と銘打って、天地紅の巻き紙に、おいらんの文のような色っぽい挨拶状を配り、「五人廻し」「磯のあわび」「お茶汲み」「居残り」「羽織」など五席の廓噺で聴衆を酔わせるのだった。



 そして、師匠三代目小さんの支援もあり、若い噺家が稽古代を持って噺を教わりに来た。

 稽古は、一席の噺を三回ぐらいに切って教える親切な方法なので、まことに覚えやすいとよろこばれた。
 五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、春風亭柳橋、六代目三遊亭円生など、昭和落語界の重鎮となるひとたちが、小せんの指導のなかから育っていったのだから、小せん自身は、メイン・ストリートから姿を消したとはいいながら、その功績は大きかった。

 

 若手に教えるばかりでなく、小せんは自分の芸の精進を続けていた。

 研究熱心な小せんは、ある日、久保田万太郎といっしょに、ふらりとやって来た岡村柿虹に向って、いきなり話しかけた。
「ねえ岡村先生、あのう、白浪五人男の稲瀬川の勢ぞろいの場で、それぞれツラネのせりふがありますね。あのなかの忠信利平のはなんといいましたかね。餓鬼のときから手くせが悪く・・・・・・」
「抜け参りからぐれ出して」
「ああ、そうそう。旅から旅を稼ぎ廻り」
 と、いいかける小せんのことばを受けて、柿紅は、すらすらと、
「碁打ちといって寺方や、物持ち百姓の家へ押し入り、盗んだ金の罪科(つみとが)は、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし・・・・・・というんだろう」
 といってから、
「なんだい。なにかに、これを使うのかい?」
 と聞くと、小せんの顔に微笑が浮かんだ。
「ええ、じつは、このつぎの小せん会で、居残りをやろうと思って、いろいろと工夫をしているんですが・・・・・・」
 と話しはじめた。
 (中 略)
「しまいのほうに、女郎屋の主人が、すっかり佐平次をもてあまして、ひとまず金の算段に出ていってくれというところがあるでしょう」
「ああ、あすこね」
「こいつを使おうというんですよ。へえ、それがね、もし旦那え、と芝居がかったせりふになってから、こちらの敷居をまたいで外へ出られないというのは、じつは旦那、人殺しこそしていませんが、夜盗、かっさり、家尻切り、悪いに悪いということをし尽くしまして、五尺のからだの置きどころのない身の上でございますというと、主人はおどろいて、そんな悪いことをしそうにも見えないといいます」
「うん、それから?」
「ええ、それからが、このせりふですが、すっかり調子をくだいてしまって、持って生まれた悪性で、餓鬼のときから手くせが悪うございまして、抜け参りからぐれ出しまして、旅から旅を稼ぎ廻り、碁打ちといっては寺方だの、物持ち百姓の家へ押し入りまして、盗んだ金の罪科は、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなしというと、主人が、なんだか聞いたような文句だといいます。いかがでしょう?ひとつ、こんどは、こういうふうにやってみようと思っているんですが・・・・・・」
 と小せんがいうと、
「なるほど、こいつあ、きっとうけるね」
「おもしろいよ」
 と、万太郎と柿紅が口をそろえていったが、果たしてその通りで、当日になって、忠信利平のせりふまで来ると、寄席が、どっとひっくりかえらんばかりのうけかただった。
 
*この逸話は、もっと短縮されてはいるが、講談社学術文庫の『落語-笑いの年輪』にも紹介されている。しかし、たった10年前に発行された同書が重版されていないため、ほとんど古書扱い。講談社のBOOK倶楽部のサイトでも取り扱っていない。不思議だ。
興津要著『落語-笑いの年輪』(講談社学術文庫)

 腰が抜け、目も見えない小せんにとって、「小せん会」の高座は、生きている証そのものであり、すべてを注ぎ込む対象とも言えたのではなかろうか。

 じっと部屋で座したまま、四六時中、このネタをどう磨き上げるかを考えた末の忠信利平だったのだろう。この科白には、小せんのこの噺と、残り少ないと自覚した彼の“生”に対する執念を感じるのだ。
 だからこそ、初代小せんの名演出は、昭和を経て平成の世までに伝わっている。

 そんな歴史を感じる故に、先日の菊之丞にも、短縮版にせずに演じて欲しかったのである。

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 私の座右の書、興津要の『古典落語』シリーズでは「上」に掲載されているが、著者は巻末で、この噺の要点を次のように書いている。

 この噺は、佐平次が徹頭徹尾相手をだますストーリーなので、達者な演者が、佐平次の人物像を淡彩にえがくために軽快なテンポで噺をすすめないと、佐平次が悪党じみてしまって、噺のおもしろさが半減されてしまう。
 はじめに若い衆に勘定といわせず煙にまくところ、どさくさまぎれに客をとりまくところ、旦那をおどかして金や衣類をまきあげるところ、最後に、ついてきた若い衆に自分の素性をあかすところなど、いずれもがおもしろいが、むずかしい場面といえる。



 まったくその通りだと思う。だから、それ相応の芸達者でなければ名演は生まれない。

 『幕末太陽傳』の佐平次は、咳きこむ姿を時おり見せ、ラストシーンの墓場の舞台設定も含めて暗さが伴う。あくまでも、映画としての演出である。映画の佐平次には、監督川島雄三の人生哲学が、色濃く反映されているのだろう。
 しかし、前半から中盤までの明るい居残り役としてのフランキーの演技には、卓越したスピード感やリズム感の良さなどが生かされており、落語の名高座と相通じるものがある。

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*写真は日活のサイトから借用。当時、フランキー28歳、南田洋子24歳。若い!「日活」サイトの該当ページ

 『幕末太陽傳』の舞台は、品川の通称「土蔵相模」の相模屋である。

 四国新聞社のサイトに二年前に開催した浮世絵展のページが残っていたので、喜多川歌麿の「土蔵相模月下遊宴図」の画像をお借りした。
四国新聞社サイトの該当ページ

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 ちなみに、円生の回顧では、小せんは同じ品川なのだが、「島崎(楼)へ登楼(あが)る」と演じていたらしい。この島崎楼は、当時品川で唯一、桟橋を備えていた貸座敷だったらしく、『品川心中』の舞台である白木屋のモデルは島崎楼だと言われている。


 さて、初代柳枝が創り、初代小せんが磨き上げたこの噺、過去の名演として落語愛好家の方なら、まず円生を挙げるだろう。円生は、初代小せんからじかに教わった。だから、もちろん円生の佐平次もいい。
 しかし、私のお気に入りは、やはり志ん朝なのだ。菊之丞の高座を聴きながら、「あ~っ、志ん朝なら、こうやるのに・・・・・・」などと思っていたのだから、菊之丞には、誠に申し訳ない。
 当代では、佐平次が真っ赤な着物で「唐辛子踊り」を披露して廓の客を楽しませる権太楼の高座も好きだ。

 よ~く考えれば(いや、考えなくても^^)、佐平次のやっていることは、ほとんど犯罪である。少なくとも無銭飲食と詐欺は該当するだろう。だから、悪い奴に描こうとするなら、案外簡単なのだ。
 それを、いかにテンポ良く、後味良く描くかが肝腎。聴く客に、「なかなか憎めない奴!」と思わせて、なおかつ彼が療養するために居残りするという話も信じられそうになり、ついには親孝行までする「いい奴!」に思わせることができたら、その高座は成功なのだろう。


 これからもさまざまな佐平次に出会いたいものだ。
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by kogotokoubei | 2014-01-23 00:12 | 落語のネタ | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛