噺の話

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『武助馬』にまつわる、江戸落語の元祖を襲った悲劇。

 今年の落語初めは逗子だった。鯉昇の二席目は『武助馬』。この噺については、ミステリアスな歴史がある。

 鹿野武左衛門という江戸落語の元祖と言われる人にまつわる事件である。武左衛門は“座敷仕方噺”として人の家に招かれて噺をしたり、中橋広小路で小屋がけの興行もしたと言われる。この人の末路は悲惨だった。

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関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語名人伝』から引用したい。

 元禄六年(1693)の四月下旬に、江戸でソロリコロリという悪い病気が流行した。一万余人の人々が死んだという。妙な流言蜚語が江戸市中に飛び、大騒ぎとなった。そのころ、あるところの馬が人間のことばを使って「南天の実と梅干を煎じて飲めば即効がある」といったという、とんでもないデマが飛んだ。おまけに、その由をしたためた「梅干まじないの書」という小冊子が印刷され、その本がまた飛ぶように売れた。そして、南天の実と梅干の値段はたちまち騰貴して二十倍、三十倍にまではねあがった。人心を乱すことはなはだしかったのでついに六月十八日付で町奉行能勢出雲守から江戸市中へ触書を出して、厳重に取りしまることになった。
 いろいろ詮索した結果、その流言の犯人として神田須田町の八百屋惣右衛門と浪人の筑紫団右衛門の二人が逮捕されたが、この両人は、馬が人語を発したというのは、噺家の鹿野武左衛門が書いた『鹿の巻筆』第三「堺町馬の顔見世」の咄からヒントを得て、梅干と南天の実の値上げを考え、「梅干まじないの書」を出版したことを告白した。


 八百屋と浪人が悪巧みをするヒントになった咄とはいったいどんな内容だったのか。

 問題になった『鹿の巻筆』巻三「堺町馬の顔見世」の咄は次のようである。

   市村芝居へ去る霜月より出る斉藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は
  米河岸にて刻み煙草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角
  役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手
  を頼みけり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども
  頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼み
  ける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台
  に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛
  どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜
  び、さてさて恐らくは伊藤庄太夫と私、花が一番なり、とてもの事
  に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。

 ここまでは、斉藤甚五兵衛という元は刻み煙草売りが、器量(縹緻)もよく話しぶりもよいので、近所の人も役者になることを勧め、本人もその気になって役者になり、その初舞台に近所の人達が花や造りものの蛸まで贈って駆けつけた、というだけのこと。
 ここからが、詐欺師たち(?)にヒントを与えたらしい部分。

  されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬に
  なりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより
  甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴り
  も静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんと
  いいながら舞台うちを跳ね廻った。

 ここに出てくる伊藤庄太夫というものは、当時の座頭か人気者であろうと思われる。


 あくまで、甚五兵衛の馬は“いゝん”と鳴いただけなのだが、詐欺師二人がこの咄が騙しの手口のヒントと言ったために、悲劇が始まる。

 結局、元禄七年三月十三日に筑紫団右衛門は主犯として江戸市中引廻しの上、斬罪に処せられ、八百屋惣右衛門は従犯として流罪となった。気の毒なのは噺家の鹿野武左衛門で、彼も伊豆大島へ流されてしまった。『鹿の巻筆』の板木は焼かれ、版元の本屋弥吉も江戸追放、「梅干まじないの書」も焼却された。

 

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延広真治著『江戸落語』(講談社学術文庫)

 この鹿野武左衛門の大島流罪については延広真治が著書『江戸落語』で疑問を投げかけている。

大島遠島も証となるべき『流人帳』は現存せず(立木猛治『伊豆大島志考』、昭和三十六年)、赦免も、『旧幕府引継書』中の『赦帳』が、『正徳四年より享保九辰迄 御仕置ニ成候者此度赦ニ可罷成分窺帳』に始まるため、確認できない。八丈島遠島は、宇喜多秀家以来の『流人明細帳』により確認しうるが、武左衛門は不登城。したがって大島遠島に関しては確かめえないが、『延元年間秘事』も「板刻ハ焼捨」が、正徳六年(1716)板『鹿の巻筆』の存在により否定された以上、遠島も疑うべきであり、しかも無削除であるから、『鹿の巻筆』筆禍説は成り立つまい。


 武左衛門が流罪になったことを裏付ける証拠に乏しいのである。しかし、武左衛門のつくった滑稽噺が、江戸の詐欺事件に関係していたことは間違いなかろう。

 『落語名人伝』で著者関山和夫は、こう続けている。

 どうやら鹿野武左衛門は、この金もうけに一枚かんで、団右衛門らに頼まれて、南天と梅干の効能書「梅干まじないの書」を書いたらしい。そうでなければ、暗示を与えたぐらいで島流しの重罪に問われるはずがなかろう。もっとも噺家の武左衛門が、そんなに腹の悪い男とは思われないので、おそらくは八百屋惣右衛門らにおだてられて一筆書いてしまったものであろう。


 
 流罪になったのか牢獄だったのかは別として、江戸落語は武左衛門の事件以来、しばらく停滞する。

 出獄後の武左衛門については不明なところも多いが、延広真治は前掲の書で、京阪に上った可能性を指摘している。服役中の疲労が元で出獄後まもなく五十一歳で亡くなったという説もある。いずれにしても、事件前の人気、名声とはかけ離れた世界にいたことだろう。

 しかし、武左衛門の功績は小さくない。その一つが、今に残る噺の素材を残してくれたことだ。

 『落語名人伝』の内容を、あと少しだけご紹介。

 この話は、『徳川政府出版法規抄録』に見えるが、林若樹の『江戸の落語』(新潮社日本文学講座・江戸時代中篇)をはじめ、いろいろな本に紹介されているので、落語史に興味をもつ人なら、みんな知っている。この話を原典として落語「武助馬」ができている。因縁つきの落語である。上方でも「武助芝居」として上演される。「武助」の「武」はおそらく鹿野武左衛門の「武」をとったものであろう。



 このように、『武助馬』という噺には江戸落語の元祖と言われる鹿野武左衛門にまつわるミステリアスな逸話がついてまわる。午年の今年、この噺を聴く機会も増えるかもしれない。このネタとともに、古き江戸の噺家に思いを至らすのも、一興かもしれない。
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Commented by hajime at 2014-01-13 09:41 x
この事件で江戸の落語の発達が50~100年遅れたと言われていますね。
残念な事件でした。
遠島がハッキリとしていないと言う事実は初めて知りました。(^^)

Commented by 小言幸兵衛 at 2014-01-13 10:21 x
延広真治さんの本は『落語はいかにして形成されたか』(平凡社)が底本なんですが、この鹿野武左衛門の章が加わっているので、文庫も読まないわけにはいかなかった次第です^^
武左衛門に関しては資料不足のため、これまでは関根黙庵著『講談落語今昔譚』が定説の元になっていたと、著者は指摘していますが、黙庵の本は未読です。
まだまだ落語にはミステリーが残っていますね。

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by kogotokoubei | 2014-01-12 15:50 | 落語のネタ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛