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金峯神社で、長岡の歴史を再発見。今年も、まだまだ、勉強だ!

昨日元旦の越後長岡は、みぞれまじりの雨。よって、少し晴れ間もあった今日、長岡で「蔵王さま」として親しまれている「金峯神社」へお参りに行ってきた。

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(私の携帯で撮った写真)

 「蔵王さま」については一昨年正月三日にも書いたが、その歴史のほんの一部のみ再度「金峯神社」サイトから引用。

金峯神社(きんぷじんじゃ)は近隣の方々には「蔵王さま」と呼ばれておりますが、明治時代までは蔵王権現(ざおうごんげん)と称し、神仏習合の特色が強い霊場でした。

古代
和銅二年(709年)四月元明天皇の勅願により、北国鎮護のため大和国吉野(奈良県吉野)の蔵王権現を古志郡楡原(新潟県長岡市楡原 現在蔵王社鎮座)の地に勧請したのがその創建と伝えております。大伽藍を建立し、寺院数ヶ寺、修験者秋葉三尺坊を始め三十八坊僧徒・山伏修験者を数千人有する巨大な勢力で、その勢力は北陸から奥州まで及んだという。秋葉三尺坊はこのあと信州戸隠にて修業の後、遠州にて一大修験勢力を築いた(秋葉山本宮秋葉神社)。後に蒲原地方の豪族と戦い破れ、大伽藍寺院は焼失し、仏体を守護して三島郡矢田(新潟県長岡市矢田 現在神明神社合祀)に隠遁する。

中世
仁治三年(1242年)当時越後中越地方の中心として栄えていた又倉村(新潟県長岡市蔵王)の地の産土神又倉神社と合祀して神仏習合の祭祀となった。離散した信者は集まり、蔵王権現の信仰が増すにつれて又倉村の地名は次第に蔵王村へと変わる。南北朝時代には南朝北朝両軍の紛争の焦点となり、神社隣接の蔵王堂城の勢力は北朝に属すが、宗良親王は三島郡王番田(新潟県長岡市王番田)まで進駐し、交渉した結果南朝に入るが、再び北朝に入る。合戦後北朝方が越後全域を支配下に治めた。
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 「蔵王さま」の起源が、なんと八世紀奈良時代まで遡ることを、あの時に初めて知った。

 ご興味のある方は一昨年のブログ、ならびに「金峯神社」のサイトをご参照のほどを。
2012年1月3日のブログ
「金峯神社」のサイト

 二礼二拍手一礼、の後、これまで気がつかなかった小高い丘が目に入ったので、上がって(登る、と言うより上がる、という高さ)みた。

 これが「蔵王堂城跡」だった。「金峯神社」サイトから引用。
「金峯神社」サイトの該当ページ

蔵王堂城跡

金峯神社に隣接する蔵王堂城跡について紹介します。
蔵王堂城(ざおうどうじょう)は、南北朝時代、当社に北朝方の中条氏が本陣を構えたことが始まりと伝えます。

後に上杉謙信へと続く古志長尾家の長尾為重(謙信の叔父)が蔵王堂脇に本格的に築城し、会津移封までは上杉家及びその家臣が治める。

上杉家が会津へ移封された後は春日山城に入府した堀秀治の弟、堀親良が入り、蔵王堂藩の初代藩主となる。なお、蔵王堂藩は養子、堀鶴千代が坂戸藩の堀直寄の後見の元に継ぐのだが、9歳で亡くなった為に断絶。坂戸藩に編入される。

堀直寄は飯山藩へ転封され、松平忠輝臣下の山田隼人が入城。この時は藩としての復活はなく、福嶋藩(高田藩)の属領扱いだった。

忠輝が大阪夏の陣の不手際により改易されると堀直寄が蔵王堂城主として戻り、蔵王堂藩が復活する。

堀直寄は以前の統治時代に開始し転封により中断していた長岡城建築を進め、長岡城完成と共に移動した為に蔵王堂城は廃城となり、蔵王堂藩は長岡藩へと移行する。またこの蔵王堂は天領(幕府の直轄地)となり、この地に蔵王代官所を設けた。

長岡移転は蔵王堂城が信濃川のすぐ脇にあった為、水害により城の一部が侵食される程の被害を度々受け、城の維持が難しかったためである。

現在はご覧のとおり桜の名所となっております。

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 こちらが今日、携帯で撮った写真。

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 越後長岡に関する歴史上の人物と言うと、山本五十六、『峠』の河井継之助、そして米百俵の小林虎三郎の名まではなんとか挙げることができる。殿様として徳川譜代の牧野家の名は思い浮かんでも、堀家の名は忘れていた。

 どんな人だったのかをWikipediaより。
Wikipedia「堀直寄」


大坂夏の陣に弟の直之と共に参陣。大和口の軍将水野勝成の手に属し、1番に直寄、2番に松倉重政とした。5月5日、水野、松倉らが田尻越えを経て河内へ入ったという知らせを聞き、里人に近道を尋ねた。古老がいうには「亀瀬より入らば道は近し、されどその昔、守屋大臣、此の道を通り河内へ往きて、戦ひに敗れし故、聖徳太子の御世より、赴軍の者、この道を戒められて、石に亀を刻み、その印とせられたが、刻みし亀は、その後首を隠せりにより、首なき亀を見て、戦に利なきと戒めて、この道を通らずと云う、」直寄、之を聞いて、「我いま、人に先立ってこの道を進み、敵に勝つときは千年の禁忌を破りて、愚者の迷を解かん、守屋大臣は戦いに敗れ死す、我は勝ちて生きん、若し戦に利なくして、死なば、末世の勇者の戒めとすべし、」と亀瀬を越え、河内の国府へ駆けつけ、しばらくすると、水野、松倉らも到着した。

夜も更けて、水野勝成より、「敵寄せ来たると見えて、松明多く見ゆ、あなどるべからず、」と諸将に伝言があった。直寄之を聞きて、「勝成は物に馴れたると聞きしに、巧者とも思はれず、寄せ来たる敵、何んぞ松明を多く燈さんや、敵にはあらず」というところに、再び伝令がきて、「松明皆消えたり、敵にはあらず」告げると、直寄は「これぞまさしく敵なり、なに心なく松明をとぼしたるが、巧者あって消させたり」といった。これが敵将後藤基次の部隊であった。6日未明、片山・道明寺の戦いで松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れた所を一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田兼相らの名将は戦死した。7日の天王寺の戦いを経て、8日に大坂城は陥落、大坂夏の陣は終結した。

元和2年(1616年)4月1日、家康は病重く、寝殿に直寄を召して、大坂の軍功、平時の武備を称美し、「我れ、死せる後に、若し国家擾乱せば、藤堂高虎を将軍の一陣とし、井伊直孝を二陣とし、汝は両陣の間にたむろし、其の横を打ってこれを破るべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。

長岡8万石、村上10万石

元和2年7月、松平忠輝が改易となり、10月に直寄は3万石加増で再び長岡の領主となり、越後長岡藩が立藩された。築城と共に城下町の整備も行い、外港の新潟町(新潟港、現在の新潟市古町付近)は交易や人口増加の事を考えて諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。

元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、越後村上藩10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかった事もあり、明暦3年(1657年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。



 二十代の終盤を長岡で六年過ごした。徳川時代の牧野藩としての長岡の前に堀氏と縁があったことは知っていたが、このような歴史を歩んだ人であったことは、本日初めて知った。

 少し調べてみた。堀直寄は堀直政の次男である。父の直政は織田信長に小姓時代から仕え、本能寺の変で信長が倒れた後は豊臣秀吉の家臣となり、山崎の戦い、北ノ庄の戦い、小牧長久手の戦い、島津征伐に戦功をあげた。
 秀吉の小田原討伐の陣中で没している。
 その直政の次男直寄による村上藩主としての歴史は長続きしなかったようだ。しかし、直寄の次男の直時の後、村松藩(現在の新潟県五泉市近辺)主として十二代に渡って家名を残している。

 かつて六年も住んだ街だが、今になって街の歴史を再発見することが、何と多いことか。春から「まだまだ勉強!」という教訓のような気がしてならない。

 さて、私は日本のことを、いったいどれだけ知っているのだろう。少なくとも、安陪晋三よりは母国の過去、現在、そして未来についてしっかり知る努力をしたいと思う正月である。
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Commented by 創塁パパ at 2014-01-03 13:15 x
堀直寄ですか。知らなかった。また、勉強します(笑)

Commented by 小言幸兵衛 at 2014-01-03 13:51 x
そうなんですよ、まだまだ知らないことだらけ。
だからこそ、楽しいのでしょうね。
まぁ、紅白学芸会の日本語もまともに話せない主演者など、知らなくてもいいいですけどね^^

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by kogotokoubei | 2014-01-02 15:13 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛