『道灌』に関する、大いなる見解の相違—円丈と喬太郎の著作より。
2013年 10月 16日
柳家喬太郎著『落語こてんパン』
柳家喬太郎の『落語こてんパン』は、ポプラ社のWebマガジン「ポプラビーチ」に掲載されていた内容を、最初ポプラ社から2009年3月に単行本で発行され、今年4月にちくま文庫によって再刊されたもの。
Webマガジンの頃も最初は読んでいたが、そのうち本になるだろうと疎遠になった。しかし、単行本を買う機会を逃していたら文庫になって、助かった。
「ごあいさつ」から引用。
いっとき、とあるウェブマガジンに連載をさせて頂いておりましたが、その連載に加筆訂正を致しまして一冊にまとめたのが、この本というわけで。
どういう連載かと申しますと、俗に古典と呼ばれている落語を、毎回一席ずつ取り上げて、あたくし喬太郎がなんかぐずぐず言うという・・・・・・あの、分析とか検証とか独自の解釈とか、そんな大層なもんじゃない。ましてや研究ってんでもない。ただ、ぐずぐず言うんです。ぐずぐず。
その“ぐずぐず”言うネタが50作並んだいる最初が、『道灌』である。あらすじの説明のあとで、次のように書かれている。
起承転結はあるけれど、殆どがご隠居と八っつぁんの会話で進行する噺で、派手さは無い。普通に演じてバカウケするなど、現在では至難の業である。
(中 略)
地味だしウケ場も少ないのだが、なんだか演ってて楽しいのだ。落語らしい落語を喋ってて、のんびりと楽しいのである。いや勿論、高座の上で独りよがりになってちゃいけないけれど。
将来『道灌』でトリをとれるようになるのが、夢である。いや、ただ演るだけなら今だって出来る。しかし、ただ演るだけではなくて、トリの『道灌』で、お客様達に充分な満足感を味わってもらって、その日の興行を終えるのが夢なのだ。ことさらなケレンなど無しに、である。
ハハハッ、いやはやたぶん生涯、無理だ。しかし存外、『道灌』でトリを・・・・・・なんて考えている、そういう噺家は多いのである。
勿論、特に、柳家に。
・・・・・・たぶんだけど。
これだけの強い思い入れのあるネタを、喬太郎は2011年の9月に「柳家と立川」という企画の立川談笑との二人会において、トリネタで演っている。WOWOWで、その模様を含め喬太郎の特集を放送したことは以前に書いた。
2012年1月6日のブログ
その時の高座の後の喬太郎の表情などはさておいて、この喬太郎の“トリ”で『道灌』という思いと比べて、このネタについて好対照なことを書いている本を最近読んだ。
三遊亭円丈著『落語家の通信簿』
祥伝社新書で今月出た本。先週から少しづつ読んでいて、今朝台風によって止まっていた電車が走るまでの待ち時間で読み終えた。
「前口上」にこう書いてある。
最近は、落語ブームのせいか、落語の出版物も多くなった。落語評論家が書いた本も売れているらしい。しかし、落語家から見て、落語評論家という存在はどうもウサン臭くて信用できない。
というのも、野球評論家は元野球選手だが、落語評論家は元素人なんだ。これが今ひとつ、プロの落語家から見ると説得力がない。芸について言われても、「じゃあ、アンタ人情噺『芝浜』ができるの?与太郎小噺『から抜け』はできるの?」と言いたくなる。
(中 略)
それならばと、と落語家である円丈が、他の落語家を評論しようということになった。円丈が少年時代から聴いている五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生から、最近真打になった春風亭一之輔まで五十三人を論評した「円丈による通信簿」である。
この部分を読んだ時、「じゃあ、文芸評論家は元小説家じゃなきゃだめなのか!?」「政治評論家の条件は元政治家か!?」などと思ったが、著者が円丈である。突っ込みはほどほどにして、読み進めることにした。
円丈は、この本を書くために、故人、現役を含め市販されているCDを数多く聴いたようだ。
さて、喬太郎が強い思い入れのあることを語った『道灌』について、円丈は実に興味深いことを書いていた。「第二章 やはり聴くべき!伝説の名人四人」の五代目柳家小さんについて書いた部分からの引用。
ここで詫びなければいけないことがひとつ。実は、円丈は“柳家音痴”なんだ。落語界最大派閥で一番隆盛を誇っている柳家。その柳家音痴なのだ。なぜかと言えば、三遊派に入門した円丈にとって、どうも柳家がパーフェクトにわからない。
そもそも、柳家に入門したら誰もが最初に教わる前座噺「道灌」のいったいどこがおもしろいのかまったく理解できない。
「道灌」は中学生の頃、落語全集で読んだのが最初で、「この『道灌』って、どこがおもしろいの?」と思って以来、上京して落語家になって、何度も直に聴いたが、いまだにどこがおもしろいのか、さっぱりわからない。
だいたい、太田道灌ってオッサンは徳川家康以前の武将だ。円丈の住んでいる足立区は江戸期以前には、ほとんど人間が生息していなかったんだ。そんな足立区がいない時代に、道灌が和歌を知らないばかりに田舎娘に恥をかいたという噺だ。それで「おめえも歌道に暗いな」って言われても、「そう言うおめえは足立に暗いな」って言いたくなる。
喬太郎は、“円丈チルドレン”と言われる新作派の一人である。円丈の新作落語を勉強する会から、あのSWAができたと言ってもよいだろう。だから、なおさら『道灌』という一つのネタに関する、この二人の大いなる見解の相違が印象的だった。もちろん、円丈は三遊亭であり、喬太郎は柳家という違いはある。
円丈が、ここまで『道灌』のおもしろさが理解できないことも、喬太郎がトリネタとまでこの噺に思い入れを強くしているのも、正直なところ私には“同感”できなかった^^
この二冊の本については、今後も紹介する機会があると思う。落語のネタ、落語家を通して著者の本音をかいま見ることができて、結構楽しいのだ。なかには“同感”できる部分も、もちろんある。
あれは読む噺じゃないし、下手がやったら全然面白くない噺。
噺家のリトマス試験紙みたいなものかな。
しかし、喬太郎のように“トリネタ”にしようとすると、少し辛いと思います。
内容は相当違いますが、同じ前座噺の入門ネタということで言えば、古今亭なら『からぬけ』でトリ、ということになりますか・・・・・・。
二人で前座噺しばりにしたようです。
結構良かったと、うすぼんやりながら覚えています。(6年前ですから)
なぜ円丈があの噺のおもしろさが分からないのかが、分からない^^
と歌道に暗い→その道に暗い(だから提灯を借りる9という意味だと思うのですが、
そこに行くまでがやや長いですね。
圓丈師はその辺りを面白く無いと言っているのでしょうか?
でも、幸兵衛さんのブログだから書いちゃいますが、圓丈師も決して古典褒められるほど上手く無いですよね。
圓生直伝!なんて言ってますが、ハッキリ言って圓生師が泣きます。
喬太郎師は逆説的に言っていて、面白く無い「道灌」をトリを取る程上手に演じたいという気持ちの現われでしょうか?
あ、わたし、でも圓丈師好きですよ。はい(^^)
紹介した番組で、談笑との二人会の後の喬太郎の落胆ぶりを見ましたが、会場がよみうりホールということもあるでしょうしテレビカメラも入って、相当緊張したのではないでしょうか。
会場にいらっしゃった落語愛好家の方のブログでは、噛みまくっていた、とのこと。
あの噺は、小三治のように、飄々と、自分も会話を楽しむような気分で演ってもらえば、非常に楽しいネタだと思います。
以前にテニス仲間との合宿の宴会で演じて、予想以上に受けたことを思い出します。逆にすべったのが『代書屋』でした・・・・・・。
「笑わせてやろう!」と力んだからでしょう、きっと。
先代小さんはこのネタを含めいわゆる前座噺の多くをトリで演じていますが、本来なら邪道でしょう。小さんだから許されたということだと思います。あんまり真似をして欲しくないですね。
円丈が「道灌」をつまらないと言っているのは、自分が演ったらさぞかしつまらないだろうという意味ですかね。そういう意味なら同感です。
最後のサゲも、“同感”です^^
「道灌」、無理にトリに演るネタではないでしょう。
他にたくさんトリに相応しいネタを喬太郎は持っています。
先日のネタおろしの「品川心中」は良かったようですね。
少し前になりますが、師匠さん喬の通しを、県民ホールで聴いたことがありましたが、結構でした。
柳家のネタ、ということで言えば、さん喬と喬太郎の親子会で、「子別れ」のリレー落語など期待したいものです。