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「芒種」に想うこと—井伏鱒二『黒い雨』について。


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井伏鱒二『黒い雨』(新潮文庫)

 『はだしのゲン』のことについて、先日テレビのニュースで放送していた。さまざまな言語による翻訳を手弁当で行っている人々が出演されていて、皆さん、「素晴らしい反戦作品」といった意味合いのことをおっしゃっていた。私もそう思う。作者の中沢啓治が昨年十二月に亡くなってから、この本のことが話題になることが多いようだが、よいことだと思う。

 同じように原爆を題材とした反戦文学作品として著名な井伏鱒二の『黒い雨』について、少し書く。

 本書は、実話に基づいている。主人公の閑間(しずま)重松とシゲ子夫婦は、姪の矢須子と同居している。その矢須子への縁談が持ちあがる度に、彼女は被爆者であるという噂が立ち、矢須子は縁遠いままになっている。実際に、矢須子は八月六日に、“黒い雨”を浴びている。

 書こうと思ったきっかけは、「芒種」について記された部分に触発されたから。

 明日六月五日は、二十四節気の芒種。梅雨入り前で、「芒(のぎ)」のある穀物、つまり稲や麦などの種をまく時期という意味だが、今日では種まきはもっと早まっている。ちょうど梅雨入りの頃で、体調管理に気を付けて栄養をとる、という意味あいもあるようだ。会社にいる中国出身の社員に聞いたら、彼女の故郷では、芒種には肉を食べる風習があるらしい。地域によっては違うと言っていた。

 芒種(ぼうしゅ)は、二十四節気では、小満の次、夏至の前。沖縄では、一つ前の節気と合わせて「小満芒種(すーまんぼーす)」と言うと、梅雨を意味するようだ


『黒い雨』から、かつて農村における芒種での風習ついて書かれている部分を引用したい。

「おいシゲ子、わしは思いついた」重松は、思いつきを云った。「お前、戦争中の我が家の食生活のことを、メモ風に書いてくれないか。献立表なら尚さらよいが、いちいち思い出すことは出来んだろう。明日でもメモ風に書いといてくれ」
「献立表と云うたって、ハコベのおひたし、ノビルのぬた。そんなことしか書けんでしょうが」
「それじゃよ、その散々な食生活のことじゃ。戦時下における閑間重松一家の、貧相この上もない食生活じゃ。それを『被爆日記』のなかに附加えて書かんならん。どうしてもっと早く、それに気がつかなんだろう」
「その気持なら、うちでは今後こうしたらどうかしら。これからは毎年八月六日の原爆記念日に、あの八月六日の朝の献立通りの朝飯を食べたらどうかしら。あの日の朝の献立なら、わたしは覚えておるわ。不思議に、はっきり覚えとるんよ」
「あの朝、何を食べたかな」
「浅蜊の塩汁と、御飯の代りに脱脂大豆。それだけですが。浅蜊は、三人で六箇しかなかったわ。あの前の日に、わたしと矢須子さんで御幸橋下で掘って来た浅蜊ですがな」
 重松は思い出すことが出来た。あの浅蜊は小粒で肉が透けているように見えたので、このごろは浅蜊まで栄養失調だと、冗談ではなしにシゲ子に愚痴を云ったのであった。
「あのなシゲ子、食生活の部門は一家の主婦の受持だから、お前に一役たのむんだ。メモ風でも書翰体の文章でも、何でもよい、明日にでも書きとめてくれないか。とにかく、わしは今日はもう寝るよ」
 そんなことで、重松はシゲ子に不慣れな記録仕事を押しつけた。
 その翌日は芒種の日にあたるので、重松は農家の戸主のお勤めとして百姓道具を整理した。鋤鍬や金梃子は洗って楔を打ちなおした。斧や鎌は研いだ。鋸は目たてをした。稲刈鎌にも目たてをして種油を塗った。屋敷神のまわりを除草して、ついでに庄吉さんのうちの池へも参勤交代に行って来た。これで結構半日が終った。



農家の戸主の芒種の役割を再度太字で。

“重松は農家の戸主のお勤めとして百姓道具を整理した。鋤鍬や金梃子は洗って楔を打ちなおした。斧や鎌は研いだ。鋸は目たてをした。稲刈鎌にも目たてをして種油を塗った。屋敷神のまわりを除草して、ついでに庄吉さんのうちの池へも参勤交代に行って来た”
 
「参勤交代」という表現が何とも楽しい。庄吉とは、被爆により重労働ができない重松が、池で鯉の養殖を一緒に始めた仲間である。

 かつての日本の農村で、芒種がどのような意味を持っていたかが、よく分かる。この本を読んでから、芒種の時には、この本を思い出す。

 この後に、シゲ子が重松からの宿題(?)に答えた記録の内容があるのだが、その中に興味深いことが書いてあった。

さて、主食の米麦の配給について申しますと、初めのころは一人あたり一日量三合一勺ぐらいだったと記憶いたします。間もなく米麦の代りに大豆が相当多く配給されるようになりまして、次いで外米や因果な大豆のしぼり滓が配給されるようになり、次第に減量されて大豆のしぼり滓が一日量二合七八勺になっておりました。最初の頃の配給米は玄米でございまして、瓶に入れて米搗棒で搗いて白米にしないと食べにくいので、ぶつぶつ不平を言いながら夜鍋仕事で瓶搗きしておりました。それで搗減りがして、三合一勺ぐらいの頃でも一人一日量が二合五勺強ぐらいになりました。
たぶんその頃だっとと思います。隣組の宮地さんの奥さんがその筋に呼出されてお叱りを受けたことがございました。宮地さんの奥さんは農家へ食糧を買出しに行くとき、可部行の電車のなかで隣の席の人に「このごろ配給米が三合になったので、うちの子供の教科書のなかにある言葉が改悪されました」と申されたそうでした。それは子供さんの教科書のなかにあった詩の文句が「一日ニ玄米四合ト・・・・・・」となっていたのを、米の配給量と睨み合わして「一日ニ玄米三合ト・・・・・・」と改訂されてあったから、そう申されたのだそうでした。後で奥さんから聞いた話ですと、その詩は宮沢賢治という詩人の代表的な作品で、農民の耐乏生活をよく理解した修道的な美しさの光っている絶唱であったということです。「一日に四合というのを、三合と書きかえるのは、曲学阿世の徒のすることです。子供がこの事実を知ったら、どういうことになりますか。おそらく、学校で教わる日本歴史も信じなくなるでしょう。もし、宮沢賢治が生きかえって、自分で書きなおしたとすれば話はまた別ですが」と奥さんは仰有っていました。しかし、かりそめにも国家の大方針のもとに編纂された国定教科書に関する問題でございます。その筋の人は奥さんに向かって、
「流言蜚語は固く慎め。お前が闇の買出しに行った事実はわかっておる。そんな人間が、教科書のことに余計な容喙する資格はない。戦時下に於いて流言蜚語を放つ罪は、民法や刑法に抵触するばかりとは云われない」


 戦時下での食糧事情が分かることも重要だが、教科書にある宮沢賢治の名作『雨ニモマケズ』が、配給が減ったことから改悪されていた、ということにやや可笑しさとともに驚く。

ちなみに詩の冒頭はこうなっている。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  ・
  ・
  ・ 

 意に反して、「玄米四合」を「玄米三合」と変えなければならない時の教科者制作者や、その教科書で授業をしなくてはならない教師の心情が、察せられる。宮沢賢治も、さぞかし天国で嘆いていることだろう。
 

 主人公の閑間重松が日記に綴った原爆投下直後の広島の様子は、今回はあえて引用しないが、淡々とした写生的な記述だからこそ、戦争の悲惨さが深く重く伝わってくる。

 
 『黒い雨』は、実際に被爆を経験した重松静馬の『重松日記』を井伏が借り受け、重松の了解を得て出来上がった作品であることが、今では明らかになっている。しかし、『重松日記』は2001年に筑摩書房から世に出るまでは、あくまで子孫のために書かれた個人所蔵、門外不出の日記であった。

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重松静間『重松日記』(筑摩書房)

 この『重松日記』刊行に併せて、『黒い雨』に難癖をつけた人がいる。現在の都知事、猪瀬直樹である。彼は「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」という文章を『文学界』2001年8月号に書いており、その内容はネットで確認できる。
日本ペンクラブ「電子文藝館」の該当ページ
 まず、『重松日記』刊行のことや、その頃の自分の作品について書かれた部分から引用。

『重松日記』が奇跡的に刊行されたのは相馬正一氏(岐阜女子大学名誉教授)の尽力が大きい。相馬氏は幾度も重松家に通い、説得をつづけ、ついに遺族の了解を得るところまでこぎつけた。昨年の五月である。そのころ僕の『ピカレスク 太宰治伝』が週刊ポスト誌に連載中で、『重松日記』と『黒い雨』を比較考証した部分はすでに発表され話題をまいていた。


 自分の作品について、「話題をまいていた」と書く人は、あまりいないではないか。せいぜい、「少し話題になっていた」位の謙虚さがあってしかるべきだろう。このあたりに、猪瀬の持つ傲慢さが見える。

 そして、猪瀬が『黒い雨』が野間文芸賞を受賞した際の井伏の受賞スピーチなどに対して、いちゃもんをつけている部分を引用。

『黒い雨』は、『新潮』昭和四十(一九六五)年一月号から四十一年九月号まで一年半にわたり連載された。スタートの一月号から七月号までのタイトルは『姪の結婚』で、八月号から突然『黒い雨』に変えられた。連載が完結して以降、比較的地味な作家と目されていた井伏鱒二に対する注目度は『黒い雨』とともに高まるばかりだった。単行本が発刊されたのは昭和四十一(一九六六)年十月二十五日だが、四日前の十月二十一日にこの年の文化勲章受章者に決定した。

十一月十日には野間文芸賞の受賞が選考委員の全員一致で決まった。選考委員の井上靖は感嘆しながら述べた。

「『黒い雨』は異常な大事件を、市井の男女の眼で見させ、肌で感じさせ、それに依って描く手だてを見付け、また完全に描ききることができたということは、立派というほかありません。構成にも苦心のほどが窺われ、細部の描写など不思議と言いたいほど現実性を持っています」

 大岡昇平も同様にほめた。

「『黒い雨』は戦後現われた最も優れた作品かも知れない。広島の原爆について、多くの小説やルポルタージュが書かれているが、被爆の惨状をこれほど如実に伝えたものはなかった。作家の眼のたしかさと技術的円熟が、この結果を生んだことは疑いない」

 だが、つぎの井伏の「受賞のことば」(『群像』昭和42年1月号)に、ちょっと含んだニュアンスを感じるのは僕だけだろうか。

「私は『黒い雨』で二人の人物の手記その他の記録を扱ったが、取材のとき被爆者の有様を話してくれる人たちに共通していることは、初めのうちは原爆の話をしたがらないことであった。もう一つ共通していることは、話しているうちに実感を蘇らせて来ると絶句してぐっと息をつまらせることであった。思い出す阿鼻叫喚の光景に圧倒されるのだ。そのつど私は、ノートを取っている自分を浅間しく思った。

 要するにこの作品は新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音、などによって書いたものである。ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない。その点、今度の野間賞を受けるについて少し気にかかる」

 井伏は「ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない」と言いながら重松静馬とその日記についてはまったく触れず、「新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音」と数多くの記録類に拡散させてしまう。

 野間文芸賞をもらう三カ月前、井伏は重松静馬に向かいはっきり「これは共著」と言ったのだ。今回の『重松日記』解説(相馬氏)で、その事実が判明した。引いてみる。

「昭和四十一年八月十八日の午前十時頃に福山市の小林旅館で井伏と落ち合い、二人で早速初出訂正稿の読み合わせを始めた。その日は小林旅館に宿泊し、翌日も朝から読み合わせを続け、『午后五時、黒い雨の精読一通り完了。先生と打合せも完了』(「当用日記」)し、そのあと重松の慰労を兼ねて尾道の向島にある高見山荘に一泊する。その際井伏は重松に対して『これを二人の共著にしたいと思うが、どうですか』と申し入れたが、重松は『そんなことをすれば、先生のお名前に瑕(きず)がつきます。私は資料提供者として充分報われていますから""』と言って固辞したという話を重松家の当主から伺った」

 相馬氏はあまり疑問に感じていないようだが、僕は野間文芸賞の「受賞のことば」と「これを二人の共著にしたいと思うが」という申し入れとの落差に驚くのである。


 私は『重松日記』をまだ読んでいない。そのうち読もうとは思っている。だから、現時点で、『黒い雨』と『重松日記』を読み比べて何かを語ることはできない。しかし、「日記」と文学「作品」、あるいは「ルポルタージュ」という作品は、自ずと違うものであろうことは想像ができる。日記が元になっていたとはいえ、井伏鱒二の文章力なくして、『黒い雨』は成り立たなかったと思う。

 そして、猪瀬が紹介した文章で引用した、『重松日記』刊行に尽力した相馬正一の同書の解説文を読めば、重松静馬が、井伏からの「共著」にしようという申し出を辞退していることを、そのご子孫が証言している。重松静馬も、井伏の文学作品に自分の名を出すことを憚ったのは、日記との違いを十分認識していたからだろう。

 猪瀬は、“井伏は「ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない」と言いながら重松静馬とその日記についてはまったく触れず、「新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音」と数多くの記録類に拡散させてしまう”と言うが、これは“拡散”したのではなく、スピーチの際に“逡巡”したのだと思う。
 察するに、井伏は野間文芸賞受賞スピーチで、重松のこと、日記のことを言おうか言うまいか、相当煩悶していたのではなかろうか。
 井伏の当時の心境を察すると、「本当は、この本は重松日記が元である。しかし、ご本人は表舞台に出ることを拒んでいる・・・・・・。私のことを気遣っている」という思いが、井伏をして、歯切れの悪い受賞スピーチをさせたのではなかろうか。
 だから、私は猪瀬が書いているような“落差”に驚くことはないし、まるで盗作であることを仄めかす猪瀬の文章には抵抗がある。盗作は、原作者に無断で行うことであり、了解の元で出来上がった作品を盗作とは言わない。だから、猪瀬も盗作の二字は使っていないものの、井伏が重松日記のことを明らかにしなかったことを責める姿勢は強い。

 猪瀬がどう言おうが、『黒い雨』は、反戦文学の傑作の一つであることは間違いがないし、その原典に『重松日記』の存在があろうと、その日記が出版されようと、『黒い雨』の価値は損なわれることはないと私は思う。

 私は、猪瀬が政治の世界に転身する前のいくつかの著作(『ミカドの肖像』『天皇の影法師』『日本国の研究』など)は、結構好意的に評価していたが、井伏鱒二の『黒い雨』についての彼の姿勢は、あまり良く思えない。

 井伏鱒二は、あえて『黒い雨』を発表する際に、その原典について語ることはなかった。しかし、重松静馬の日記を埋もれさせてはいけない、という思いで、日記を元に一つの作品として世に出したのであろう。被爆者のことを、何とか世に伝えようという情熱がそうさせたのだと思う。実話を元にしているからこそ、八月六日の原爆投下の後の広島近郊の悲惨な光景、そしてその後の後遺症に苦しむ人々のことを、農村で生きる庶民の視点で淡々と綴ることで、反戦への説得力を持つ作品となった。

 そもそも、井伏が原典の日記の存在をどうしても隠したかったのなら、主人公の名前を、単に姓と名を逆にした閑間重松にしただろうか。この名前にこそ、できれば「共著」にしたかった、という井伏の想いが込められているように、私には思える。

 この作品に原典があることを大げさに取り上げ、まるで井伏鱒二が盗作したかのような言い様をする猪瀬は、作品の持つ本当の価値を見ようとする姿勢と視点に欠けている。


 『黒い雨』は、ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを経験した日本人にとって、必読書だと思う。そして、読者が戦争と原子力というものに対して正しい認識と姿勢を獲得することが、井伏鱒二と重松静馬にとっての望みではないだろうか。

 芒種のことから、ついいつもの癖で話がそれていったが、ご容赦のほどを。しかし、芒種の頃、『黒い雨』とともに猪瀬のことも連想してしまうのが、何ともすっきりしない。井伏鱒二と猪瀬直樹との間にこそ、大きな“落差”があるのだ。
Tracked from じゅうのblog at 2016-08-22 22:37
タイトル : 『黒い雨』 井伏鱒二
「井伏鱒二」が広島への原爆投下から数年後の被爆者の苦悩を描いた作品『黒い雨』を読みました。 [黒い雨] 「原民喜」の『夏の花』に続き、原爆関係の作品です。 -----story------------- あの20世紀最大の悲劇を、坦々と、静かな語り口で後世に伝える――小説の力だ。 一瞬の閃光に街は焼けくずれ、放射能の雨のなかを人々はさまよい歩く。 原爆の広島――罪なき市民が負わねばならなかった未曾有の惨事を直視し、“黒い雨”にうたれただけで原爆病に蝕まれてゆく姪との忍苦と不安の日常を、無言のい...... more
Commented by 佐平次 at 2013-06-05 09:46 x
せんじつテレビで猪瀬がオリンピックのプレゼンテーションをしている映像がありました。
ひどい言い方ですが”まるで猿”でした。
猿が人真似をしても可愛げのある仕草もありますが、人間のいやらしいところを真似されるととても嫌ですね。

Commented by 小言幸兵衛 at 2013-06-05 11:51 x
信州生まれでかつての学生運動のリーダーも、権力の座に長く座っていると次第に堕落していく、ということなのでしょうか。
だんだんあの顔を見るのが嫌になりますね。

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by kogotokoubei | 2013-06-04 00:43 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback(1) | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛