噺の話

kogotokoub.exblog.jp

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

体罰と処分について—「内田樹の研究室」より。

あの高校の問題に関連して、「内田樹の研究室」の記事のことを“書く”と言いながら、つい延び延びになってしまった。

 遅ればせながら、「内田樹の研究室」の『体罰と処分について』の記事を紹介したい。

 まず、同記事の後半から最後まで。
「内田樹の研究室」の該当記事

今回事件を起こした教員の行為がどこまで重い罪を問われるべきか、軽々には判断することができない。
現に、この教員がスポーツ指導ではなやかな実績を上げていた限りでは、その体罰行為は同僚のみならず生徒や保護者を含む関係者から黙認されてきていたからである。
同じような体罰をいまも日常的に繰り返しているスポーツ指導者は日本中に何千人何万人といる。
市長自身、この事件が起きるまでは学校における体罰を支持する立場を明らかにしていたし、政治的同志である石原慎太郎は人も知る「体罰有用論者」である。
「自分は潔白であると思う人間だけが石もて打て」という条件を課した場合、「この教員は社会通念を逸脱しており、許しがたい大罪を犯した」という批判をほとんどの人は口にする権利がないだろう。
誤解して欲しくないが、私はこの教員を擁護しているのではない。
体罰によって、あるいは心理的な抑圧によって短期的に心身を追い込んで「ブレークスルー」をもたらすというのは頭の悪いスポーツ指導者の常套手段であり、その有効性を信じている人間が日本には何十万人もおり、私はそういう人間が嫌いである。
ほとんど憎んでいる。
けれども、それでも、この教員「だけ」が、この教員のいる学校「だけ」が、この教員の在籍している自治体の教育機関「だけ」が政治的処罰の対象になるという事実に対しては「それはフェアではない」と言わざるを得ない。
そのような教員を野放しにしてきた人々、それをむしろ支援してきたような人々がここを先途と「処罰する側」に回って、ひとを罵倒しているさまを形容するのに「アンフェア」という言葉はあまりに穏やかすぎる。
この「組織的失態」をレバレッジにして、市長は教育行政に対する自己の支配力をさらに強化することをめざしている。
この生徒の自殺は、政治的水準では、教育現場への強権的干渉を正当化する「千載一遇の好機」として功利的に活用されようとしている。
「ひとの痛み弱みを功利的に利用して成果を上げる」技術の有効性を信じているという点で、この人々は私の眼には重なって見える。
私たちが批評的に対象化すべきなのは「処罰の恐怖のもとで人間はその限界を超えて、オーバーアチーブを達成する」という人間観そのものだと私は思う。



 私が、この問題について書いたことと思いを共有できるのは、次の部分。
“この教員「だけ」が、この教員のいる学校「だけ」が、この教員の在籍している自治体の教育機関「だけ」が政治的処罰の対象になるという事実に対しては「それはフェアではない」と言わざるを得ない。”

 大阪市に限っても、体罰やいじめによる自殺が他にもあるはずだろうし、その実態の解明を言わずして、橋下は、目の前にある「ひとの痛み弱みを功利的に利用して成果を上げる」 常套手段に出た。

 大阪市の教育委員会は、市全体の問題と認識して、生徒の自殺を契機に運動部の指導の実態調査と改善策の検討をすべきかと思うが、委員長が反対したところで、組織としては、役者橋下の介入を受け入れてしまった。体育科系で想定した内容のまま試験を実施し、まだ未定のまま受験生を混乱させている入学後のカリキュラムが、「体育」を優先するものだとしたら、それは普通科ではなくなるだろう。その場しのぎの辻褄合わせで取り繕うとするから、本来の教育の大義などは消滅し、まったく矛盾した学校のあり様が想定できてしまう。「予算権」を盾にされ、本来独立性を確保すべき教育委員会が、行政の横暴に屈したのである。

 内田のブログで、私が橋下の行為を、正義の味方をきどる“パフォーマンス”と表現したことと、似た文脈と思ったのが、次の部分。
“この「組織的失態」をレバレッジにして、市長は教育行政に対する自己の支配力をさらに強化することをめざしている。”

 まさに、これが橋下が目論んだことなのだ。


 私も、この件について、橋下が知事の時代に大阪府の職員が自殺してことを書いた。内田も次のように書いている。

大阪府でも大阪市でも公務員の自殺者はあった。だが、それについて府知事や市長が市民に陳謝し、辞表を出したという前例のあることを私は知らない。
社員や役人が自殺するのはあくまで「自己責任」であり、「組織の失態」ではない。
たぶんそういうことなのだろう。
「ひとりの人間の命は地球より重い」という黄金律は汎用性があるわけではないということである。
「命が重い場所」があり、「命が軽い場所」がある。
市立高校は「命が重い場所」で、企業や役所は「命が軽い場所」である、と。
命の重力が場所によって違うというのは、あるいはほんとうなのかも知れない。
では、いったいどういう基準でそれは分別されているのだろうか。
誰かその基準をご存じだろうか。
自殺が「組織の失態」とされる場所と「自己責任」として放置されるかの分岐線はどこに引かれるのだろう。
私はそれを知りたい。


 もちろん、内田の指摘する「組織の失態」と「自己責任」の境界を、“私も知りたい。”

 同じ大阪の教育機関での問題について、内田は次のような指摘をしている。

大阪の国立大学でも、在学生が殺人事件を起こしたことがあった。
このときも学長以下の謝罪記者会見はあったが、「組織的失態」の責任を問うて、在学していた学科の廃止や大学廃校を論じたものはいなかった。
刑事上の重罪を犯す構成員がいることは「組織的失態」としては重く問わないというのが日本の教育機関についてはどうやら「常識」のようである。
良いか悪いかは別にして、これまでは、そういうことになっている。殺人については、教育機関にその組織的瑕疵を問わない、と。
今回は、自殺した生徒が出たことが教育機関としてきわめて不適切であるとされている。
その判断に基づいて、入試中止や廃校、さらには教育委員会の改組や、政治家の教育行政への関与の必要性など、「学校内で殺人事件があったときも議論にならなかったトピック」が論じられている。
それほどまでに常軌を逸した大罪がなされたという話になっている。
この判断は適切なのであろうか。



 私も、“「学校内で殺人事件があったときも議論にならなかったトピック」が論じられている。” ことの異様さを感じるが、それは、「殺人事件」では橋下が吠えないからだ。
 きっと、「殺人事件」においては、すでに加害者と被害者が確定していて、橋下が好きな「いじめがいのある」対象を見つけにくいからなのだろう。

 紹介した記事のサゲは、内田の独特の表現になっている。
“私たちが批評的に対象化すべきなのは「処罰の恐怖のもとで人間はその限界を超えて、オーバーアチーブを達成する」という人間観そのものだと私は思う。”

 今回の件に沿って端的に言えば、「体罰により運動部員は成長でき、運動部は強くなる」という価値観が問題だ、ということ。まったく、その通りなのだが、“そこでサゲていいの、樹さん?”と思わないでもない。

 この記事の前半に、こう書かれている。

この時期における入試の変更は受験生への影響が大きい。
おそらく市長の指示通りにはならないだろうと私は予想している。


 内田樹の予想を超えた結果に、彼は次に何か書くのだろうか、時折覗いてみよう。
[PR]
名前
URL
画像認証
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by kogotokoubei | 2013-01-23 06:26 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛