噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

若い“地の塩”への期待—「内田樹の研究室」より。

昨日、原子力規制委員会が進めようとしている人命軽視の避難基準について書いた際、マスコミがフクシマのことを書かなくなったこと、自民政権による景気回復に期待する記事が増えたことについてふれた。今日「内田樹の研究室」の12月31日の記事を読んだら、やや類似した内容の文章も含まれていたのでご紹介。
「内田樹の研究室」の該当記事

まず、見出しと冒頭部分から。

新年のご挨拶がわり

大晦日なので、何かたのしいことを書きたいのだが、書くことがない。
しかたがないので、ある媒体の新年号に寄稿したものを転載する。



 原発問題から他のテーマへの重心の移動について、内田はこう書いている。

この文章を書いているのは衆院選挙戦の翌朝だが、選挙では「原発再稼働」やTPPだけでなく、「改憲」や「徴兵制」や「核武装」といった幻想的なイシューが「熱く」語られていた。
そういう論点を前景化する人たちが何を実現しようとしてそうしているのかは私にはよくわからない。
だが、彼らが震災と原発事故の話は「もうしたくない」と思っていることはよくわかる。「厭な話」はもう忘れたいのだ。
それよりは、どうすれば経済が成長するか、どうすれば税収が増えるか、どうすれば国際社会で威信が増すか、どうすれば国際競争に勝てるか。そういう話に切り替えたがっているのはよくわかる。震災だの原発事故だのという「辛気くさい話」はもう止めたいのだ。それよりはもっと「景気のいい話」をしようじゃないか。相当数の日本人がそういう気分になっている。その苛立ちが列島を覆っている。


 たしかに、フクシマを語ること、“ポスト3.11”の問題を指摘することは、ある意味で「厭な話」なのかもしれない。「景気のいい話」にはなりにくい。

 しかし、「景気のいい話」は、必ずしも実態として「景気」を良くするかどうかは分からない。

 民主政権下での大震災やフクシマのことを意図的に忘れて、自民政権下での景気回復を期待する気持ちが社会に横溢しつつあるのは確かだろうが、大震災もフクシマもたった二年前に起こった、紛れもない歴史上の事実であり、それによって多くの国民が「生活権」を剥奪されたままなのである。

 大震災とフクシマによる被災者のことがメディアから消えつつあっても、当たり前だが、決して被災者がいなくなったわけではない。そして、そういった被災者に対して、「相互扶助」の精神で自らの手を差し伸べている人も、現実にはいらっしゃる。

 被災者支援に関係して、内田は次のように書いている。

それに対して、震災や原発事故の被災者に継続的な支援を続けてきた人たちの姿はしだいメディアの後景に退いている。
もともと彼らを駆り立てていたのは、個人的な「惻隠の情」であった。被災者を支援しない奴は「非国民」だというような攻撃的な言葉遣いで被災者支援を語る人間は私の知る限りどこにもいない。他者の痛みや悲しみへの共感は政治的な語法となじみが悪いのだ。
でも、「口を動かすより手を動かす」という謙抑的な構えをとる人たちにメディアはすぐに関心を失ってしまう。メディアは、その本性からして、「ぺらぺら口を動かす人間」「何かを激しく攻撃している人間」を好むのである。
そういうふうにして日本人はいつのまにか二極化しつつある。それが「ポスト3・11」のもっとも際だった日本社会の変化ではないかと私は思う。



 「ポスト3.11」の二極化は、果たして今後その距離をより広げていくのか、あるいは、“口”より“手”を動かすことの尊さが、あらためて見直されるのだろうか。

 内田は、次のように、この記事を締めている。

一方に「賑やかだが空疎な言葉をがなり立てる人たち」、「何かを激しく攻撃する人たち」「他責的な言葉づかいで現状を説明する人たち」の群れがいる。メディアはこの「うつろな人たち」の言動を好んで報じている。
だが、他方に、個人としてできることを黙々と引き受けている人たちがいることを忘れたくないと私は思う。誰かを責め立てても事態がすぐに好転するはずがないことを知っており、まず自分の足元の空き缶一個を拾うところからしか秩序を再構築することはできないということを知っている人たちがいる。この人たちの声は小さく、表情は静かである。だが、彼らこそ「地の塩」だと私は思っている。
私が今の日本社会を見ていて、あまり絶望的にならずにいられるのは、周囲にいる若い人たちのうちにいくたりもの「地の塩」を数えることができるからである。誰に強制されたのでも、教え込まれたのでもないし、「そうすればいいことがある」という利益誘導に従ったのでもなく、黙って「空き缶を拾う」ような仕事を淡々と担っている若者たちの数はむしろどんどん増えているように思われる。苛立ち、怒声を上げている若者たちは目立つ。だから、世の中には「そんな若者」ばかりだと人々は思っているかも知れない。だが、静かな声で語る、穏やかなまなざしの若者もまたそれと同じくらいに多い。彼らに日本の希望を託したいと私は思っている



 結果として、全文の三分の二近く引用してしまったが、最後の部分を省略したくはなかったので、ご容赦のほどを。

 キリストの“山上の垂訓”から引用された「地の塩」という言葉からは、「模範」という言葉が連想される。

 内田ほどには、私は今日の若者について楽観できないのだが、「ポスト3.11」が、それまでは潜在的に存在していた、口よりは“手を動かす”若者を顕在化させたことは事実だろう。

 そして、ソーシャルメディアという日常的なネットワークによって、この顕在化した若い「地の塩」達の連帯が強まるとしたら、やかましく“口だけ動かす”大人たちに負けない、復興日本への力が生まれるかもしれない。

 大人たちよりも長い期間を「ポスト3.11」で生きる若者が、自分達にとって“良い祖国”を自らの“手”でつくっていこうという思いで結集するならば、ささやかなブログでも役立つことを考えていきたい。

 この内田樹の記事を読んだ時、彼も気弱になったのか、と思わないでもなかった。

 しかし、「ポスト3.11」の日本において、この国の将来の主役となって欲しい若い「地の塩」にしか、希望を託すことはできないのかもしれない。

 大震災とフクシマからの時間の経過、人心の変化によって、節電への協力を含む相互扶助の精神が風化しつつある時、「このままでいいのだろうか?」という素朴な疑問を抱き、「自分に何かできないだろうか」と考え行動する若者が数多くいてくれるのなら、それは救いである。
 そして、そういう若い「地の塩」に「自分は何をしてやれるだろうか?」と自問しながら、ささやかなブログで可能なことを見出していきたいと思う。
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by kogotokoubei | 2013-01-08 20:30 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛