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小沢昭一さん、ありがとうございます。

先週亡くなった中村勘三郎のことをじっくりと偲ぶ間もない今日、小沢昭一さんの訃報が飛び込んだ。
*いつもは「敬称略」で書いていますが、小沢さんは例外です。

 同世代の名優の次に、落語を含む日本の芸能の良き“お旦”役であり、もちろん個性派俳優として高い実績を誇ったこの方の死は、勘三郎とは別な喪失感をもたらす。
 83歳とはいえ、私はもう少し生きていただき、後輩たちや落語など芸能愛好家に言葉を遺していただきたかった。

 以前に、『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』を紹介した。
2008年10月4日のブログ

小沢昭一さん、ありがとうございます。_e0337777_11052215.jpg


 この本については、書き始めて間もないブログでも取り上げたのだが、その前に、Amazonのレビューにも書いた。そのまま紹介したい。読みやすいように、少し体裁は替えている。満点の5点をつけた貴重なレビュー(?)である。
小沢昭一がめぐる寄席の世界

寄席大好きで聞き上手な小沢昭一さんならではの、傑作対談集。

 2004年に朝日新聞社から単行本で発行されたばかりなのに、うれしい文庫での発行。対談集なのだが、相手の選び方が“小沢昭一的こころ”で素晴らしい。
 落語家は桂米朝師匠と立川談志家元という大御所、泣きの桂小金治に笑福亭鶴瓶、そして41歳で入門という柳家り助(現麟太郎)の5名。相手に応じて聞き上手な小沢昭一さんが、語らせたい部分を無理なく引き出してくれている。
 名人の幇間は聞き上手だというが、聞き手の小沢さんにそんな名人芸を見る思いだ。

 研究者の立場から延広真治、講談から神田伯龍師匠(ご冥福をお祈りします)、浪曲界からは元気な国本武春。あした順子・ひろしの両師匠の話には、お二人の芸歴に関する多くの発見があり、基本が出来ているから何度も楽しめる芸なのだなぁ、と納得。これからも活躍していただきたいし、一席でも多くお二人の芸に接したい。
 出囃子の小松美枝子さんの話には、寄席の裏舞台を少し覗かせてもらう楽しさがあった。末広亭席亭北村幾夫さんには祖父銀太郎大御所からの伝統をぜひ守って欲しい。
 トリを俳句仲間の矢野誠一できっちり締めるというのも、よく出来たある日の寄席のようでなかなか考えられた構成だ。

 とにかく寄席の灯を消さないで欲しいし、そのためには、また寄席に行かなくては、と思わせてくれる。小沢昭一さんの若々しいポジティブな姿勢にも刺激を受けた。寄席ファン、落語や演芸ファン必読の好著である。


今でも、この思いはまったく変わらない。対談相手は次の目次からお分かりいただける。
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前口上   寄席と私
桂米朝   落語という゛ふるさと゛へ
延広真治  江戸には寄席が百二十軒もあった
柳家り助  背水の陣、四十一歳で前座になる
桂小金治  自分の落語をほめられて初めて泣いちゃったよ
国本武春  夢は、浪曲を「ROU MUSIC」に
小松美枝子 落語家と切っても切れない出囃子
神田伯龍  百二十五歳まで講談を続けたい
あした順子・ひろし 志ん朝師匠を張り扇でひっぱたいちゃった
笑福亭鶴瓶 上方落語の伝統を背負う予感
北村幾夫  新宿末広亭よ、永遠なれ!
立川談志  完璧な落語をやる奴より、俺のほうが狂気がある
矢野誠一  落語も浪曲も講談も、年をとるほど分かってくる
あとがきがわり
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 対談相手の第一弾は、同じ正岡容門下の桂米朝師匠。
 訃報に接した、米朝師のコメント。SANSPO.COMの該当記事
「今年の夏、私の米寿記念の落語会に小沢昭一も来てくれた。すでに彼は体調が悪かったんですが、座談の途中、(ともに薫陶を受けた)正岡容先生の話題になった時、いきなり大きな声で(浪曲の)「灰神楽三太郎」の冒頭をうなり、会場を大いに沸かせてくれた。またいろいろと芸談を交わそうと思てたのに…、また寂しさが一つ増えました」


 同じ正岡容門下生で、麻布中学以来の親友である加藤武さんのコメント。朝日新聞サイトの該当記事
2012年12月10日16時52分
「尊敬できる友達」加藤武さん<小沢昭一さん死去>

■俳優で旧制麻布中学校の同級生でもある加藤武さんの話

 普段の小沢が目をつぶり、安らかに眠っていた。不覚にも涙した。フランキー堺ら中学からの同級生がみんな死んじゃって、悲しいなと言い合っていたら、ついに彼も行っちゃうとは、ショック。彼は独立独歩の人。人を頼らず、自分を信じて生きていく人だった。俳句が好きで、うまく、毎月開く句会には、何があっても参加した。それがここ最近、出なくなり、出ても普通の会話ができず、悲しかった。

 普段の付き合いはでれでれだが、仕事はピシッと厳しく、それがよかった。俳優以外にも、放浪芸や大道芸などの研究にも興味があり、文化的偉業で私をはるかに超えていた。尊敬できる友達でした。力が抜けてぼーっとしている。


 とにかく、小沢昭一さんは、寄席が好き落語が好き、大道芸なども含め芸能大好き、という方だったと思う。

 今年正月、二谷英明の訃報に接し、『幕末太陽傳』を休日にじっくり見直してブログに書いた。その後で、監督川島雄三のことを、もっと知りたくなって、『KAWADE夢ムック・文藝別冊 総特集 小沢昭一』の川島雄三関連の部分を読み、こちらもブログに書いた。
2012年1月5日のブログ

小沢昭一さん、ありがとうございます。_e0337777_11081566.jpg
KAWADE夢ムック・文藝別冊 総特集 小沢昭一

「前口上」の一部を引用。
 ひと様が、私メのことをあれこれ書いて下さった文章ばかりを、集めて下さいました。
 恐縮しております。文字どおり、恐れ縮むのでありまして、「恐縮」は辞書では「相手の厚意に対して申しわけなく思うこと」とあります。
 (中 略)
 人間、八十路に入りますと、クソ爺ィ、であると同時に、子供にも帰ってゆく面もある様で、間もなく、地獄極楽、どちらかへ行くのでしょうが、もし地獄へ行くことがあれば、私、閻魔様にこの本を見せて、お仕置を少しでも軽くしてもらおうと思っております。
 何はさて、書いて下さった皆々様に、改めて三拝九拝。本当にありがとうございました。
  2010年 夏
                                       小沢昭一敬白


 なんとも、小沢昭一さんらしい“まえがき”である。

 以前のブログの内容と重複するが、小沢昭一という人物を再確認するために、この本の巻末にある略年譜から一部をご紹介したい。
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1929年(昭和4年) 0歳
四月六日、東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現・京王線代田橋付近)に生れる。


1936年(昭和11年) 七歳
小学校入学。この頃からラジオで落語や漫才を聞くようになる。


1945年(総和20年) 十六歳
海軍兵学校第78期生(予科)として長崎で入校も、終戦のために退校。麻布中学四年に復学。

1946年(昭和21年) 十七歳
生徒からの発案でやった「芸能祭」をきっかけに演劇に興味をもち、加藤武、大西信行
らと演劇部をつくる。久保田万太郎作『ふくろうと子供』、山本有三作『盲目の弟』など
を上演、また機関誌『あさのは』を刊行。高座研究の「末廣会」に加入。顧問の正岡容に
私淑する。
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 小沢昭一さんは、ラジオで落語や漫才を楽しむ少年時代を過ごしながら、そのうち太平洋戦争が勃発。一度は、お国のために海軍兵学校に入校したが終戦。戦後すぐに演劇や、落語への情熱が舞い戻ってきたようである。その後、早稲田に在学中、二十歳の時に俳優座付属俳優養成所に二期生として入所する。映画への出演は二十四歳、『広場の孤独』(佐分利信監督、新東宝)が最初。 
 川島雄三作品には、昭和30年に二十六歳で『愛のお荷物』、『幕末太陽傳』の前年昭和31年にも、『洲崎パラダイス・赤信号』、『わが町』に出演している。

 この本には、川島雄三について小沢昭一さんと藤本義一さんの対談が掲載されており、ブログでも引用した。対談からも、小沢昭一さんの川島雄三監督への深い思い入れが伝わってきた。

 俳優としての実績は素晴らしいし、ラジオの長寿番組で披露し続けた見事な話術も周知のこと。
 
 その話芸について、私が結局一度も行くことがなかった「噺の扉」を開催する時の、新聞記事における春風亭小朝のコメントをご紹介。朝日新聞サイトの該当記事

春風亭小朝、新落語会「噺の扉」 4月から
2010年3月7日

 春風亭小朝が新しい落語会「噺(はなし)の扉」を始める。メンバーは小朝、柳家小満ん、小沢昭一の3人。年に4回を目標に当分続けたいという。

 小満んは八代目桂文楽に弟子入りし、文楽の没後、五代目柳家小さん門下に移ったベテランだ。小朝は「繁華街じゃない目立たない場所にポツンとある、いいお店のご主人という感じ。噺家仲間にも小満ん師匠のファンは多い」という。

 一方の小沢は話芸の達人。大銀座落語祭でも小朝は、小沢を中心にした会を開いてきた。「話すことが楽しくて仕方ない、という姿勢が素晴らしい。昔の話芸家たちを聞いてきた蓄積で、我々が気づかないテクニックを相当持っている」という。

 大銀座や大宮崎落語祭の運営など、ここ数年の小朝はプロデューサーとしての仕事が多かった。だが最近、「自分の血や肉を増やすようなことをしたい。本当に力のある方の近くで時間を過ごしたい」という気持ちになった。

 そこで考えたのがこの会。「一緒に会をやるということは楽屋も一緒ということ。この2人とそういう会をしたかった。僕のファンにも、2人の面白さを知ってほしい」



 小朝本人の落語会には落胆させられていたが、このお二人と会を開くということについては、小朝を見直したものだ。
 落語ブログ仲間の方から、この会のことをお知らせいただいていたこともあるのに、結局縁がなかった。今にして思えば、無理をしてでも一度は行くべきだったなぁ。もうあの名調子もハーモニカも聴くことができないのだから・・・・・・。

 そういえば、大相撲について、メディアが頓珍漢でファッショに近い記事で埋め尽くされていた時、伝統芸能の本質をとらえた小沢さんのコメントを読んで紹介したこともあった。
2010年7月8日のブログ

 小沢昭一さんを形容する言葉は、無数に存在するのではなかろうか。一人の演技者に留まらず、あれだけ芸能全般を愛し、そして通じていた人は二度と現れないように思う。
 古典芸能に関する、素晴らしい指南役を失った気がする。『幕末太陽傳』の貸本屋金造の演技は、いまだに瞼に蘇る。追悼番組できっと放送されるだろう。未見の落語愛好家の方は必見ですよ。


 今頃、あちらの方では、つい先ごろ早めに旅立った藤本義一さんが、「あら、お付き合いがよろしいこと!」と迎えており、川島雄三監督を囲んでの映画談議が盛り上がろうとしているのだろう。


 今日、最後に書きたいのは、ただただ感謝の言葉である。

 小沢昭一さん、ありがとうございます。
 

 合掌。
Commented by 佐平次 at 2012-12-11 10:32 x
「噺の扉」で最後の舞台を見られたのが思い出になりました。
かなりエンドレステープ状態でしたがきらっと光る話術は生きていました。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-12-11 13:24 x
お誘いいただいた時に、無理をしてでも行くべきでした・・・・・・。

米朝のコメントが今日も各紙に載っていますが、相当ショックだったように見受けます。
そりゃあ、七十年近いお付き合いですからね。

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by kogotokoubei | 2012-12-10 20:10 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛