人気ブログランキング | 話題のタグを見る

上方を抜きには語れない東京落語—暉峻康隆著『落語の年輪』より。

昨日、明治の上方落語黄金期にかけられていた噺について書いたが、そこから“芋づる”式で連想したのが、三代目柳家小さんのことである。

 夏目漱石が作品の中で“名人”として讃えたことはよく知られている三代目小さんの功績は、その芸のみならず、上方で修業中に四代目桂文吾などの噺家から数多くの上方噺を授けられ、積極的に東京に移植したことである。三代目小さんを筆頭とする東の噺家が、多くの上方ネタを、時に改訂や改題して東京に移植したからこそ、今日、数多くの傑作ネタを聴くことができる。

暉峻康隆著『落語の年輪』の「江戸・明治篇」から引用したい。
*本書は、初版が昭和四十三(1978)年に講談社より発行。現在では河出文庫で入手可能。

上方を抜きには語れない東京落語—暉峻康隆著『落語の年輪』より。_e0337777_11091986.jpg

   暉峻康隆著『落語の年輪』

 三代目小さんも、もちろん咄のうまいほうの組ではあるが、しかし彼はそれなりに、東京人に目新しい上方の咄を仕込んでレパートリーをふやしている。だいたい、初代三笑亭可楽と同時に(寛政十年<1798>)に、江戸で寄席をはじめた岡本万作は大阪の咄家だったのであるし、その前後の咄本を見ても、大阪の小咄が江戸へ、江戸のが大阪へと、すこしずつ手直ししながらキャッチボールしている。近代に入って咄家の往来がしげくなると、東京では珍しい大阪の咄を、地名・人名・風俗・会話を江戸前に仕立て直して高座にかけることが多くなったのは当然である。中でも小三治時代(明治二十年代)に大阪へ修業へ行って腕を磨いてきた三代目小さんは、移植につとめている。


 小三治時代の明治二十年代の上方は、まさに上方落語が「桂派」「浪花三友派」の好ライバルの切磋琢磨で黄金期にあった時期に重なる。

 さて、三代目はどんな咄を東京に持ち帰ったのか。

 つぎの一覧表は私がまとめた原稿を、明治四十五年(1912)五月に円童から小円蔵となった生証人の現六代目三遊亭円生さんにチェックしてもらったものである。確実なもののみを挙げる。

 上方種の東京落語
 「あんまの炬燵」四代目桂文吾(大正四年<1915>九月没)より伝授。
 「市助酒」同じく桂文吾より伝授。
 「馬の田楽」
 「お神酒徳利」(占い八百屋)
 「しめ込み」(盗人の仲裁)ともに三代目の移植。
 「時そば」大阪の「時うどん」を三代目が移植改題。
 「二階ぞめき」三代目の移植。ただし三代目春風亭柳枝(明治三十三年没)
  の速記の中に小咄で出ている。
 「にらみ返し」桂文吾より伝授。小さん十八番の一。
 「猫の災難」
 「百年目」三代目小さんの速記がある。現円生の咄は二代目三木助より
  伝授。
 「不動坊」二代目林家菊丸作という。
 「宿屋の富」大阪の「高津の富」を桂文吾より伝授改題。
 「らくだ」大阪の「らくだの祭礼」を大正時代に三代目が桂文吾より
  譲られ、その後また文吾の師匠の桂文左衛門から教えを受け、東京風
  に直す。
  
 まだほかにもあるかもしれないが、これらは確かなもので、完全に東京化した三代目小さんの手腕と熱意を評価したい。


 三代目小さんが移植した上方落語が、何と今日まで東京落語の重要な演題となっているかが分かる。
 もちろん、小さんばかりが上方の噺を東京に移植したわけではない。本書は次のように続く。

 事のついでに、東京化されためぼしい上方落語を、円生加筆の原稿によって列挙しておこう。
 「愛宕山」三代目三遊亭円馬(橋本川柳)が東京で盛んにやり、故桂文楽
  が十八番とした。
 「阿弥陀ヶ池」初代三遊亭右女助(のち五代目古今亭今輔)の持ち咄。
 「あわびのし」(生貝)三代円馬が移植。
 「按七」(七の字)三代目円馬の招来かという。
 「大どこの犬」(鴻の池の犬)三代目円馬が「大どこの犬」と題して演ず。
 「青菜」初代円左が移植。
 「唖の釣」(唖の魚釣り)二代目桂三木助が現八代目正蔵に伝授。
 「親子茶屋」初代桂小南(大正六年に上京)持ち来たる。八代目桂文治
  (三遊亭円馬門人の小円馬)「夜桜」と題して口演。
 「書置違い」(ふたなり)二代目柳亭燕枝(三代目小さん門の小三治)口演。
 「景清」(盲景清)三代目円馬の移植。故桂文楽の十八番。
 「菊江の仏壇」(白ざつま)初代円右の移植。
 「金明竹」三代目円馬の移植。
 「鍬潟」五代目円生の移植。
 「稽古屋」初代桂小南、持ち来たる。
 「孝行糖」三代目三遊亭金馬(大正十五年五月襲名)が三代目円馬より
  伝授さる。

 
 この後も二頁半に渡って、上方から移植された噺の紹介が続く。その中には、「笊屋」「三枚起請」「粗忽の釘」「二番煎じ」「人形買い」「抜け雀」「寝床」「初天神」などが、ずらっと並ぶ。

 これだけのネタを見て、これらの上方噺が、もし東京に移植されなかったら、と思うと寒気がするではないか。

 上方落語を知らずに東京の落語を聴いて楽しんでいる落語愛好家も、実は、上方落語の伝統の継承、それらのネタを東京に移植した三代目小さんや三代目円馬たちの活動、そして移植された噺を今日まで繋ぎ続けた噺家たち、という長い歴史における噺家たちの努力の恩恵にあずかっているということを、時には考えてもいいように思う。

 だからこそ、昨日書いたように、明治の上方落語黄金期に演じられ、今ではほとんど聴くことのなくなった噺を、ぜひ復活させて欲しいとも思うのだ。
Commented by 明彦 at 2012-11-25 00:14 x
『二階ぞめき』は、今は上方では全く演じられていないと思います・・・。
座談会本「落語教育委員会」で、「今の上方では演じられるネタが少ない」と言われてしまっていましたが、珍品もさることながら江戸で栄え上方ですたれてしまったネタも復活させて欲しいものですね。
生喬師匠が小里ん師匠から『笠碁』を「上方に返します」と言われ教わったように。
そして、上方落語をよく知らない江戸の落語ファンの方々には、ポピュラーなネタの上方での形も、出来るだけ聴いて頂きたいと思います。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-11-25 08:16 x
あらためて該当本を読み直して、「えっ、あの噺も!」と私も驚くネタが結構ありました。
同書の紹介部分のサゲに「江戸以来の持ち咄では間に合わなくなり、明治三十年代から大正時代にかけて、めぼしい上方落語の移植につとめたのである。東京落語は輸血によって再生を図ったのである。」と書かれています。
上方は、東京落語の輸血という手もありますが、埋もれた上方落語という細胞の再生の方が大事だと思います。iPSが必要かもしれません^^

名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by kogotokoubei | 2012-11-24 10:24 | 上方落語 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛