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命日に“幻の二代目円朝”、初代三遊亭円右について想う。

11月2日は、初代三遊亭円右の命日。万延元(1860)年6月15日の生まれで、大正13(1924)年11月2日没。本名は沢木勘次郎。
 円朝門下で、四代目橘家円喬と並び称され、一代で円右の名跡を築いた名人である。そして、「幻の二代目円朝」とも呼ばれている。

 暉峻康隆著『落語の年輪』の「江戸・明治篇」から引用したい。
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   暉峻康隆著『落語の年輪』

名ばかりの二代目円朝

 円朝の名跡は、「名人に二代なし」というコトワザのとおり、さしあたって適任者のないままに、円朝ともっとも親しかった大根河岸(台東区蔵前三丁目)の藤浦三周氏が、遺品とともにあずかることとなった。当時門下のうち、すでに大看板となっていた円生、円馬、円遊、円喬らが噂にのぼり、そのほかに円橘、円左、円右などの俊秀も多かったが、いずれも帯にみじかくタスキに長く、円朝の名をつぐ最適の一人をえらぶことがむつかしかったからである。
 ところが星うつり物かわり、それから二十三年後、関東大震災のあった大正十二年(1923)になると、八月には円朝門の古老で三遊派の頭取をつとめていた二代目三遊亭小円朝も六十六で没し、円朝の遺弟は三遊亭円右と三遊一朝の二人だけとなった。しかも昭和五年十一月十七日に、「あの世にもいきな年増が居るかしら」という意気な辞世吟をのこして、八十四歳で没した一朝は、三代目橘家円蔵を円楽と改名し、さらに大正八年には四代目円蔵門の橘家二三蔵に円楽の名をゆずって、三遊一朝と名のった隠居の身であったから、当時現役の円朝の遺弟は、円右ただ一人であった。
 この円右は本名を沢木勘次郎といい、万延元年(1860)五月、水戸家の御作事大工の子として江戸に生まれ、はじめ薬研堀の師匠とよばれた二代目円橘の門に入って橘六と名のり、十三歳で高座にあがった。それから三橘となり、師匠の円橘とともに円朝門に入ったときに、師匠の右の腕ともなれと前途を祝われて円右と名のり、明治十六年(1883)に二十四歳で、深川富吉町(江東区永代一丁目)の広川亭で真打の初看板をあげ、芝居咄で売り出した人である。この円右について三代目小さんが、「円右はうまい、四人までは一時に咄の中へ出せるのだからなぁ」と評したほどの老巧なはなし家であった。


 三代目小さんという大名人が褒める技量の持ち主であった円右。そして、すでに円朝門下で、師匠の名を継ぐべき人が残っていなかった状況において、名跡を預かった藤浦三周は、大正十三年八月の円朝二十七回忌追善法要の席上で、円右の二代目円朝襲名を告げ、秋に披露目を行うこととなった。

 ところがその直後から円右は健康を害し、療養生活にはいったが、秋になっても病状ははかばかしくない。そこで周囲の希望により、十月二十四日の夜、下谷黒門町の自宅の病床で、三遊宗家をはじめ、親類門人一同立会いのうえ、二代目円朝襲名の式を挙げたのだあった。



 翌々二十六日付けの「都新聞」の演芸欄には襲名披露の広告を出して、世間にも円右の二代目円朝襲名は公表された。

 このように、病床においてではあったが、正式な手続きをふみ、三遊宗家ならびに一門立会いの上で襲名の式を挙げ、しかも新聞に二代目円朝の名で襲名披露のあいさつまでしている。
 (中 略)
 しかし病状はあらたまらず、翌十一月二日、円右は六十五歳でこの世を去った。在世わずか九日間ではあるが、二代目三遊亭円朝はたしかに実在したのである。ただし高座にあがることなく逝ったのであるから、実在感がともなわないのはやむをえない。


 この円右のことを考えると、どうしても七代目笑福亭松鶴を追贈された松葉のことを思い出す。しかし、松葉は亡くなってからの追贈であり、円右は、その時病床での意識の状態は分からないが、あくまで生前での襲名である。

 たしかに、四代目円喬が大正元年(1912)に亡くなるなど、他の円朝襲名候補者が没し競争相手がいなくなってからの襲名とは言え、円右に実力がなければ藤浦三周他関係者が襲名を認めることはなかっただろう。

 では、どんな噺家だったのか。

 その音源が残っている。
 
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落語蔵出しシリーズ(9)

 コロムビアから発売されている「落語蔵出しシリーズ」の第九集に、かつてSP盤で録音された円右の『鍋草履』が、八分ほどと短いながらも収録されている。

このCDの収録内容は下記の通り。
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1. 太鼓の当込(初代 三遊亭圓遊)
2. 附焼刃(半分垢)(四代目 橘家圓喬)
3. 長屋の花見(三代目 蝶花樓馬樂)
4. 後に心がつかぬ(曽呂利新左衛門)
5. 鍋草履(初代 三遊亭圓右)
6. 近江八景(六代目 林家正蔵)
7. うどんや(三代目 柳家小さん)
8. 厄払い(初代 柳家三語樓)
9. 区画整理(五代目 三弁家小勝)
10. 動物園(二代目 桂三木助)
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 ご覧のように、ライバル(?)四代目円喬の『附焼刃』(『半分垢』)や三代目小さん『うどんや』他、凄い名前が並ぶ貴重な記録である。

 あらためて、この『鍋草履』を聴くと、その語り口は、どことなく三代目の金馬にも似た感じがあるが、雑音のある中でも、その上手さ、そして楽しさは十分に分かる。芝居の声色も挟んだ楽しい高座が思い浮かぶ。

 名人円朝の名を、たった九日とはいえ継ぐことができた円右。その人生の最後は、彼の考えた“サゲ”とは違っていたかもしれない。しかし、藤浦三周をはじめとする後援者の方々の暖かい目で見送られて襲名できた幸せを、辛い病床にあってもきっと感じることのできた最後ではなかったか、いや、そうであったのだと信じたい。
 それは、まったく時代も状況も違うが、先日逝った円菊が、文菊の真打昇進を知った上で、幸せな気持で旅立ったであろうと思う気持と、どこか近い願望なのかもしれない。
Commented by 彗風月 at 2012-11-05 14:31 x
こんにちは。
このような、襲名に対して暖かい気持ちで受け止められるのは、良いことですね。
昨今の襲名については、色々な問題がやたら噴出し、どうにも皆が納得ずくで、となりにくいケースが散見されます。個人的には、大きな名を空き家のままにしておくことを余り好まないのですが、それが取引の材料の如く扱われるのは、もっと忍びありません。
襲名と言えば、直近では文治の名乗りがありました。代々文治は取り廻しの良い名前なのか、割合すぐ襲名されて行きますね。落語ファンの中では、山路の文治、留さんの文治、伸治の文治、がまだお馴染みなので、当代と合わせ、4世が同じ時代に同じ名前で語られる、稀有な例かもしれませんね。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-11-05 16:32 x
円朝という大きな名前を継ぐことになったのに、自分自身が病床にあり、円右の気持ちは決して明るくはなかったでしょう。
しかし、新聞に広告まで出してくれた後援者の方々の思いは、きっと円右に伝わったでしょうし、感謝の気持ちで旅立てたのではないかと想像しています。

文治の名は、良い形で継承されていると思います。
それぞれに個性も実力もあり、決して“セコ”文治はいない。

東で残っている大きな名跡となると、円生、柳枝、そして志ん生あたりでしょうか。
時間を経れば経るだけ、襲名に二の足を踏むのでしょうから、志ん輔には、「早く志ん生を継いでしまえ!」、と言いたいくらいです。
まだ、先代のことを語り合えるうちに継いで欲しいと切に思いますが、円生は当分の間は止め名なのでしょうね。
春風亭柳枝の名は、いったいどうなるのやら・・・・・・。

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by kogotokoubei | 2012-11-02 21:33 | 落語家 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛