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英語教育の前にやるべきことがある。橋下徹の愚策などについて。

最近、内田樹のブログ「内田樹の研究室」の更新が続いていて、なかなか読むのが楽しい。5月11日掲載分は、橋下徹が「世界に通用する人材育成」のために知事時代に実施した、何とも馬鹿馬鹿しい制度が破綻しそうだ、という内容。内田樹の研究室

利益誘導教育の蹉跌

「世界に通用する人材育成」をめざして橋下徹大阪市長が府知事時代に始めた「TOEFL上位校に破格の助成金を与える施策」が行き詰まっている(朝日新聞5月11日朝刊)。
府は50校分5億円の助成金を準備したが、参加校はわずか8校。基準点をクリアできたのは4校。すべて私立だった。
一位の関西学院千里国際高等部は私も入試部長時代に営業に行ったことがあるが、帰国子女が多く、ほとんどアメリカのハイスクールみたいな雰囲気の学校だった。
授業を英語でやる学校とふつうの公立高校が英語のスコアを競っても勝負にならない。
助成金1800万円を受け取った千里国際は、生徒全員にiPadを配付したそうである。
でも、受け取った側もあまり浮かない顔をしている。
英語で授業をやっている学校がハイスコアを取るのは当たり前で、「現実に通用する英語教育を大阪全体で実現する」という政策の成否とはあまり関係ないのですが・・・という教頭先生のコメントが伝えられていた。
助成金事業への参加校が少なかったのは「100人以上のチームを作って参加する」ということと「受験料(17000円)は生徒負担」という条件がハードルになったからである。
実際には二位の関西外語専門学校の高等課程と四位の大阪YMCA国際専門学校の高等課程はそれぞれ23人、31人の参加であるので、基準を満たしていなかった。
平均点が基準値(38点)を突破すれば受験料は助成金で賄えるが、達しなければ返ってこない。
今回の受験校8校のうち4校は平均点が基準点に達しなかったので助成金はゼロ。
うち3校は次のコンテストにはもう参加しない意向だそうである。
となると、次回からは5校で助成金を分け合うことになる。
そんなことしても英語教育振興の効果はないから、たぶん三回目はないだろう。

学校が助成金を受けるための競争に、生徒たちを自己負担で参加させるというゲームのルールそのものがアイディアとしてあまりに偏差値が低かったと私は思う。


 
 まったく、同感だ。私も、仕事上やむを得なく英語で日本人以外の人と話す機会は過去に多かったし、今でもたまにある。一時海外企業との合弁会社にいた時は、ちょうど9.11の前後の時期に三か月ごとに会議のため渡米していた。特に2001年11月にアメリカに出張する際は、飛行機代が安かったのは良かったのだが、出発前夜は連れ合いと水盃をかわす思いで(少し大げさ^^)夕食をとり、ガラガラの飛行機でシカゴ経由でボストンに向かったのだった。あのボストンのローガン空港から、9.11前にも後にも飛行機に乗っている。今思うと、少しゾッとする。
 そんなことは置いておいて、自らの英語でのコミュニケーションの経験でもよく分かるが、英語はあくまでも道具であり、問題は中身なのである。そして、海外に行けば行くほど、日本と日本人への思いは強くなる。藤原正彦流に言うと「祖国愛」に目覚める。そして、体格の大きな外人と話したり、郊外の馬鹿でかいスーパーマーケットをうろついたりすると、「あぁ、戦争してこいつらに勝てるはずがない・・・・・・」などと思いながら、「しかし、俺は日本人だ!」などと、不思議な思いにかられる。
 
 その日本に対しては、技術や文化などの面に関しては、日本人以上に海外の人の関心は高いものがある。仕事の出来るあちらのビジネスマンと、食事をしてプライベートな話題になると、彼らの日本に関する旺盛な知識欲を知ることになる。特にユダヤ系のアメリカ人との会話が多かったのだが、彼らは自分たちが人種差別を受けてきた長い歴史があるので、極東の田舎者に対し、アングロサクソンの白人より親近感があるように思えた。
 食事や酒の席で、彼らから日本の文化や芸能、歴史的な出来事や人物などについて予想を超えるレベルの質問をされたことを思い出す。そして、落語や江戸文化のことを下手な英語を使って苦労して説明した記憶がある。たどたどしい私の英語力でも何とか通じ、会話の成り行きとして私が質問し、相手からはユダヤの祭事のことなど興味深いことを聞かせてもらった。

 国、民族、文化などについて会話する時に、英語は上手いが、江戸時代のことや、歌舞伎、能、あえて落語(!?)といった芸能、明治維新や漱石、鴎外などについて、何か一つでも自分の言葉で語ることができるものがないと、話の主導権は相手に持っていかれ、ただ聞き役になるだけとなる。まず、語れるだけのコンテンツが先にありきなのは明白なのだ。日本とはどんな国で、世界に誇れる文化や文学などは何なのか、また、戦後の成長の鍵は何だったのか、日本人のモノづくりの特長はどんなものなのか、などなどを日本語で語れない限り、英語で語れるはずがない。

 さて、話を内田樹に戻そう。上記の文章の後、アメリカの有名な起業家を引き合いにして、次のように書いている。

スティーブン・ジョブズも、マーク・ザッカーバーグもさっさと大学をドロップアウトして「他の方法」で世界的な富豪になった。
たぶん中学でも高校でも、このお二人は先生たちからは「反抗的なガキ」として憎まれていたと思う。
興味のない教科の勉強なんかぜんぜんやらなかったはずである。
彼らはたまたま英語を母国語とする国に生まれたから、英語を話したが、もし非英語圏で生まれていて「英語できないと、グローバル人材になれないぞ」と高校の教師に意地悪く言われたら、絶対に英語の勉強なんかやらなかったと思う。
「あ、そう。英語わりと好きだったけど、今お前がそう言ったから、もう生涯絶対やらねえよ」
というようなリアクションをするような人じゃないと、あそこまでにはなれません。
「やりたいこと」に達するために、しぶしぶ迂回的に「やりたくないこと」を我慢してやるようなタイプの人間は、どのような分野においても「イノベーターになる」ことはできない。
これは自信を以て断言することができる。
ぜったいに・なれません。



 橋下とその取り巻きは、日本の戦後の復興が、まったくアメリカ的な「競争至上主義」では起こり得なかった、ということを分かっていない。そして、近視眼的に日本企業、経済が停滞している原因を、「競争」の欠如に求めている。過去の成功体験にしがみついてはいけないが、日本と日本人の本来の持ち味や美徳までを、根こそぎ否定されてはたまらない。

 戦後の日本は、アメリカを数値的な目標としては上に見ながらも、その政治や経済のリーダー達は、どっぷりと日本ならではの教育環境で育ってきており、漢籍や日本の古典を学ぶことによって培われた教養を背景として、競争よりも協調と集団の力、高い勤労意欲で世界に秀でる日本を目指してきたのだ。もっとも肝腎な基礎教育は寺子屋を継承する「読み書き算盤」である。文盲率の低い優秀で均質な日本人が、同じ目標を共有して戦後の焼野原からの復興を果たした。それを忘れて「競争」のみを金科玉条とし形式だけの施策で「グローバル人材」など育てようとしても、まったく方向違いなのである。


 このところ、藤原正彦のエッセイをいくつか読んでいるのだが、その中の一冊『祖国とは国語』から引用したい。
英語教育の前にやるべきことがある。橋下徹の愚策などについて。_e0337777_11083845.jpg

藤原正彦著『祖国とは国語』(新潮文庫)
 この本は新聞や雑誌に掲載された内容を集めたもので、その中から文芸春秋の『日本の論点2001』に掲載された「英語第二公用語論に」の章から紹介したい。少し古い、とご指摘を受けそうだが、今回の橋下体制によって発生した問題と本質的には同じテーマを扱っている。

「二十一世紀日本の構想」懇談会が小渕首相に提出した報告書は論議を呼んだが、次の一節ほど物議を醸したものはなかったろう。
「社会人になるまでに日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするという具体的目標を設定し・・・・・・国、地方自治体などの公的機関の刊行物やホームページなどは和英両語での作成を義務付け・・・・・・長期的には英語を第二公用語にすることについて国民的論議が必要」
 この驚くべき提言はいくつかの誤解に立脚していると思われる。

 第一は「英語がうまくなれば経済が発展する」である。懇談会メンバーの頭には、経済発展著しいシンガポールがあるらしい。シンガポールが英語を公用語とし、それが経済発展に何らかの寄与をしたことは確かかも知れぬが、最近のシンガポールに起きた現象という一例から一般論を導出するのは乱暴である。六十は一、二、三、四、五、六のどれでも割れるから六十までのすべての整数で割り切れる、と主張するようなものである。実際、英語を公用語としながら経済不振をかこつ国はいくらもある。そして何より、世界で最も英語のうまいイギリスは二十世紀を通して経済的に斜陽だったし、最も英語のへたな日本は二十世紀を通して最大の経済成長をなしとげた。英語と経済発展の関係はほとんどないと言ってよいだろう。百歩譲って英語の有用性を認めても、大衆の高い教育水準に支えられた技術革新や質の高い労働者の方が圧倒的に重要である。

 第二の誤解は「英語はすべての日本国民に必要」である。某新聞の世論調査によると、国民の八割は「英語がもっとできたら」と思っているが、「いつそう思うか」と尋ねると、多い方から海外旅行時、外人に道を聞かれた時、映画やテレビを見る時と続くそうである。仕事の上で必要という人は全体のたった18パーセントである。一生に国民一人平均で数十日の海外旅行や、一生にほんの数回だけ外人に道を聞かれる時のために、英語修得という膨大な労力を全国民に強要するわけにはいかない。
 インターネットの普及に伴い英語が全国民に必要な道具となるという人も多いが、それは英語がインターネットを君臨しているという現在の情況が永遠に続く、という仮説に立ったものに過ぎない。英語君臨の不当についてはすでにフランスなどでも反発が起きており、早晩改められると見た方がよい。いずれにせよ十年もしないうちに、安価で高性能な翻訳ソフトによりほとんどの情報交換は母国語で用をすませられる時代がくる。
 英語に関しては、国民の五割が学習し、20パーセントがどうにか使え、5パーセントくらいのエリートが流暢に操れる、英語を学ばない五割は中国語やハングルなどのアジア言語を学ぶか外国語を一切学ばない、くらいでちょうどよいのではないか。使いものになるはずもない英語学習に全国民を追い込むのは、壮大なエネルギーの浪費であろう。

 第三の誤解は「英語がうまければ国際人になれる」である。国際人の定義はいろいろあるが、ここでは一応、世界の人々に敬意を払われる人間、ということにする。そうすれば大切なのは伝達手段より圧倒的に伝達内容である。これは、片言の英語ながら尊敬されている日本人がいくらもいること、英語を得意とする英米人の中でも国際人と呼べる人間はほんのわずか、などから明らかであろう。
(中略)

 第四の誤解は「授業時間が無限にある」である。現在、日本の中高生は全勉強時間の三分の一を英語にさいている。にもかかわらず世論調査によると、使いこなせると自認する人は1.3パーセントに過ぎない。日本語が英語からあまりに隔たっていること、英語を公用語にせざるを得なかったインドやシンガポールやフィリピンなどとは異なり、国内では日本語だけで何の不自由もないこと、等の理由により日本人にとって英語修得は格別に難しい。日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするには、教育方法の改善や多少の授業時間増ではとうてい間に合わない。中高で英語を倍増し、小学校で週五時間を英語に向けても、せいぜい1.3パーセントが13パーセントになるくらいだろう。
 その上、それだけ英語を増強したら、週当たり総時間数はたったの二十数時間だから、他教科は必然的におろそかになる。漢字も九九も駄目という日本人であふれることになろう。母国語はすべての知的活動の基礎であり、これが確立されてないと思考の基礎が得られず、内容の空疎な人間にしかなれない。また数学はすべての科学の言葉であり、これが軽視されると科学技術立国は覚束ないから、経済発展どころか資源のない我が国は食べていくことさえままならなくなる。


 こういう文章を読むと、私は「その通り!」と心の中で喝采を上げたくなる。

 著者は独身時代にアメリカへ留学し、後年は子供を含む一家五人でケンブリッジに留学した経験をもつ。こういう人が、「英語より国語」「英語より九九」と主張するのに比べ、過去の「二十一世紀日本の構想」懇談会や、橋下一家(彼らの群れ方や自分よがりな活動は、暴力団の一家に似ていませんか?)の主張は、笑うに笑えない馬鹿馬鹿しさである。

 藤原正彦は、四つの誤解を明示した後、次のようにつなぐ。

このように四つの誤解に基づいた英語第二公用語論だが、実はこの論の最も救いようのない所は、母国語=文化伝統=民族としてのアイデンティティー、という視点の完全な欠如である。言語を伝達の手段としてしか見ていない。



 そして、独自の言語がその民族の文化、そして民族そのものの存続と密接な関係があることを、アイヌや琉球のたどった運命で例示する。

 もし、肝腎な日本人としての基礎学習をないがしろにして、会話の手段でしかない英語の勉強時間を増やし英会話が上達したところで、日本語の「超~」や「ダサイ」、「ウザイ」に該当する英語しか話せなければ、愚かな日本人を水面下から明るみに露出させるだけだろう。しかし、当の本人は、「英語で話せた!」と喜んでいるかもしれない。恥を恥とは思わない日本人が増えてきたことも、これまた問題である。とにかく、英語を話せれば「グローバル人材」という短絡な主張をする人は、橋下より以前からいたようだが、困ったものだ。
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by kogotokoubei | 2012-05-14 15:51 | 責任者出て来い! | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛