噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

“ゆらぎ”について-「内田樹の研究室」より。

「内田樹の研究室」で久しぶりの更新。2月4日付けで、タイトルは“日本のメディアの病について”。フランスの雑誌 Zoom Japon から依頼された寄稿記事とのこと。「内田樹の研究室」

 読んでいて、「あっ・・・・・・」と言う部分があった。それは、昨日映画「山本五十六」のことを書いていた時に抱いていた、あの映画に「何が欠けているか」という思いに、次の「ゆらぎ」に関する文章が、「そうだ、人間五十六の“ゆらぎ”を上手く描けていないのだ!」と思ったのである。引用する。

生き延びるためには複雑な生体でなければならない。変化に応じられるためには、生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで構造化されていなければならない。ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、それが生物の本態である。私たちのうちには、気高さと卑しさ、寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、入り交じっている。私たちはそのような複雑な構造物としてのおのれを受け容れ、それらの要素を折り合わせ、共生をはかろうと努めている。そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人のことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。


 そう、「成熟した大人」として“たくみ”に「ゆらいでいる」五十六像が、あの映画では表現できていなかったのだ。
 気高さと卑しさ寛容と狭量熟慮と軽率が入り混じり、ゆらいでいながら、何とか折り合いをつけている人物が、映画では描けていないのだ。
 それは愛人のことのみならず、である。あの時代、あの立場にいたら、間違いなく揺らがざるを得ない。そして、その振幅は大きいはずであり、「非戦」と「講和」を主張しながらも時代の波に押し流され、「開戦」の火蓋を自らきらねばならなくなった時、彼は大きな“ゆらぎ”の真っ只中にあったはず。あの映画では、五十六の“気高さ”や“寛容”そして“熟慮”の場面は数多く登場するが、“卑しさ”“狭量”“軽率”な姿が極力削除されている。結果として人間五十六の姿が浮かび上がってこない。
 確かに、難しい仕事だが、事実とその背景への考察、いわばデジタルとアナログのハイブリット化が出来なければ、人物も歴史的な事実も立体的に描かないのではなかろうか。

 ゆらぎながらも真珠湾を敢行し、無理と分かっていながらもミッドウェイに向かったはずなのに、その心理描写が皮相的なのだ。ほとんど“英雄崇拝”的な演出は、ラストシーンまで一貫して彼を美化することとなっていた。

 あの映画で私が感じたものは、内田樹の次のメディアに関する指摘にも通じる。

メディアは「ゆらいだ」ものであるために、「デタッチメント」と「コミットメント」を同時的に果たすことを求められる。「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、それが何であるのか、なぜ起きたのか、どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、混沌としたこの世界の成り立ちを(多少とでも)明晰な語法で明らかにし、そこでの人間たちのふるまい方について(多少とでも)倫理的な指示を示すことができる。
メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を引き受けることではじめてその社会的機能を果たし得る。だが、現実に日本のメディアで起きているのは、「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。ある媒体はひたすら「デタッチメント」的であり、ある媒体はひたすら「コミットメント的」である。同一媒体の中でもある記事や番組は「デタッチメント」的であり、別の記事や番組は「コミットメント」的である。「デタッチメント」的報道はストレートな事実しか報道しない。その出来事がどういう文脈で起きたことなのか、どういう意味を持つものなのか、私たちはその出来事をどう解釈すべきなのかについて、何の手がかりも提供しない。そこに「主観的願望」が混じり込むことを嫌うのである。
「コミットメント」的報道は逆にその出来事がある具体的な個人にとってどういう意味を持つのかしか語らない。個人の喜怒哀楽の感情や、信念や思い込みを一方的に送り流すだけで、そのような情感や思念が他ならぬこの人において、なぜどのように生じたのかを「非人情」な視点から分析することを自制する。そこに「客観的冷静さ」が混じり込むことを嫌うからである。
「生の出来事」に対して、「デタッチメント」報道は過剰に非関与的にふるまうことで、「コミットメント」報道は過剰に関与的にふるまうことで、いずれも、出来事を適切に観察し、分析し、対処を論ずる道すじを自分で塞いでしまっている。
私たちの国のメディアの病態は人格解離であり、それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。


 「デタッチメント」と「コミットメント」をバランス良く行うのは、確かに至難の技なのだろうし、日本のメディアや、あえて言えば、今日の日本人全体が、“ゆらぎ”のどちらか一方に偏ってしまいがちなのかもしれない。

 ここで指摘される「生身」「生き物」という言葉には説得力がある。そうなのだ、現在の日本のメディアには、“生きた”人間、赤い血の通った人の存在感が希薄だ。落語なら“丸太ん棒”なのだ。
 あるいは、最初は「生身」の感覚で記事を書いたり、シナリオを執筆したりするのだが、次第にどんどん「デタッチメント」化され、対岸の火事を見るような内容に変貌しているのかもしれない。その逆に、最初「デタッチメント」的な視点だったのに、その対象にのめりこみ、完全に当事者と同じ視線になって、木を見て森が見えなくなる、「コミットメント」への傾斜になる場合もあろう。
 
 そういえば、あの映画を観てからネットで少し調べたところ、脚本は相当書き直しをした(強いられた?)らしい。もしかすると、それは、当初存在した「生き物」感を削いでいく作業だったのかもしれない。“ゆらぎ”の振幅がどんどん縮められ、陽と陰、表と裏の双方が大事なのに、部分部分でどちらか一方が残った、そんな気がする。
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Commented by mama at 2012-02-06 22:38 x
私も今日、「内田樹の研究室」をのぞいたところ。メディアの劣化という言葉に目が留まりました。最近、読解能力が酷く落ちて、家庭科の半返し縫い・本返し縫いのごとくに読んだんですが(苦笑)
そうか、幸兵衛さんのように「ゆらぎ」をキーワードとして読めばよいのか!と納得。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-02-06 23:00 x
私も今夜、たまたま更新に気がついて読んだんです。
つい先日、大枚払って寄席にも行かずに観た映画「山本五十六」で感じたことに共鳴したもので書いてしまいました。
内田のおっさん(?)、なかなかいいとこ突いてます^^

Commented by ゆきりん at 2012-02-07 17:44 x
こんにちは。
人間は常に理想と現実の狭間で悩みジレンマに苦しむものですよね。そこを切り捨ててしまっては人間らしさが損なわれるのも自明のことです。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-02-07 18:02 x
お久しぶりです。
まったくその通りですね。日々、その“ジレンマ”の中で生きているのだと思います。
外面的に強いと思われる人が、なんとも繊細であったり、その逆もあり、です。
英雄礼賛的な映画や、マスコミの作為的な記事を目にすると、その反動として、亡くなった談志ではないですが、人間の“業”を肯定する落語の良さが、あらためて分かります。
人間は間違いもするし、傍で見て滑稽な行いもします。
そういうものだ、というところから出発しないと、どんどん厚い仮面の中に自分を閉じ込めることになるのではないでしょうか。
赤い血が通っている以上、「ゆらぎ」まくって生きているんだと思います。

Commented by ゆきりん at 2012-02-07 19:10 x
本当にご無沙汰でした(笑)病気でした。

全くおっしゃる通りだと思います。
人間である以上取り繕うことの出来ない「ゆらぎ」があり、それを出発点にする他ないでしょう。
高木さんの本の中に原発で働く作業員が自分の子どもには本物の卵を食べさせたいと家で鶏を飼っている話が出てきます。職場で機械的に働く一方で、家に帰れば自然と触れ合い情緒的な世界を求める、そのような矛盾を積極的に背負って立つことで内在的な批判が進められ展望が開けると書いてありました。白黒で単純に色分けされた世界では私たちはますます思考が硬直化し、非人間的になりますね。落語からいつの時代も変わらない人間のおかしみ憐れみを教えてもらっています。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-02-07 21:14 x
お病気だったのですか。ご快復ということですね。
『プルトニウムの恐怖』の第7章「未来への一視点」で高木さんは、機械的システムに順応するための教育が、子供たちからみずみずすしい人間的感性を奪うことを危惧されていますね。
まったくその通りで、新鮮な感受性や二者択一ではない柔軟な思考、そういうものを取り戻すことが、大袈裟に言えば、今後の日本人の課題なのではないでしょうか。
ちょっと偉そうでした^^

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by kogotokoubei | 2012-02-06 18:33 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

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