噺の話

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木村若友さんが亡くなって、永田貞雄さんや落語のことなどを思う。

最高齢の浪曲師、木村若友さんが亡くなった。47NEWSの該当記事

浪曲師の木村若友さんが死去 現役最高齢 
 現役最高齢の浪曲師として活躍した木村若友(本名大森政貫)さんが11月30日午後2時12分、動脈瘤破裂のため東京都北区の病院で死去したことが、6日分かった。100歳。福島県出身。葬儀は近親者のみで済ませた。喪主は長女大森政子さん。

 初代木村友衛に入門し、戦前から浪曲師として活躍。ことし4月に第45回吉川英治文化賞を受賞。5月に開かれた東京・国立演芸場での100歳を祝う会の出演直前に楽屋で倒れ、復帰に向けてリハビリ中だった。得意演目に「塩原多助」など。
2011/12/06 22:19 【共同通信】


 残念ながら木村若友さんの芸を拝見したことはないが、入門した初代木村友衛という名を見ると、浪曲興行で名を上げ、その後力道山を中心にプロレス興行に貢献し、ボリショイサーカスや大物シャンソン歌手などの来日興行などで幅広く活躍し、“最後の興行師”と言われた永田貞雄さんのことを思い浮かべてしまう。


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猪野健治著『興行界の顔役』(ちくま文庫)
 どんな人だったのか、以前に“やくざと芸能界”について書いた
2011年10月10日のブログ

 その際に紹介した、猪野健治著『興行界の顔役』から少し引用したい。

 永田が興行界入りするきっかけになったのは、浪曲界の大御所天中軒雲月に弟子入りしたことからだった。
 はじめは浪曲家として売り出すつもりだったが、変声期に声帯を痛め、舞台を諦めて興行界で身を立てる決意をしたのである。
 大正九年、雲月の元を去って東浅草の大谷興行部に押しかけて入った。永田の熱心な仕事ぶりに一目置いた社主の大谷光造は、まだ十七歳の永田に浅草初音会の浪曲興行をゆだねた。
 これを見事につとめた永田は、翌年十八歳で独立、鼈甲斎小虎丸を座長に女月(のちの女雲月)を助演にした一座を組んで、博多川丈夫座で旗揚げ興行、その成功を足がかりに、当時人気のあった木村友衛の九州興行を一カ月打って、興行師としての地盤を固めた。当時の興行界は未成熟で、一座を組んで興行を打つには、やくざとのやりとりから、海千山千の小家主たちとの交渉まで非常な労力を要した。永田はそれを十八歳の若さでやり遂げたのである。



 本書において、三波春夫は永田貞雄のことを次のように語っている。三波のプロィール部分から。

 三波春夫は、中学一年のとき、父の経営する商売が行き詰まり、新潟から上京して米屋の店員、製麺工場、魚河岸の問屋と転々としながら、十六歳で浪曲界に入った苦労人である。戦後の四年間はソ連に抑留され、昭和二十四年九月に帰国。しばらく郷里で自己流にアレンジした“社会主義浪曲”をうなっていた。
 しかし<眠れる農民よ、新しい時代に目覚めよ>といった生硬な、左翼臭ただよう浪曲が受けるはずがない。
 三波はほどなくシベリア洗脳症候群から立ち直って、民謡調歌謡曲という新しい分野を創り出す。永田と交流するようになるのは、三十二年春、テイチクから出した『チャンチキおけさ』『船方さん』が大ヒットしてからである。
 三波の永田評。
「永田さんに地方興行でお世話になるようになったのは、三十二年秋からですから、もう三十年ですね。
 多いときは、一年のうち四十日から四十五日ぐらい、私の仕事をやっておられたのではないでしょうか。東北二週間、北陸一週間、関東一週間、信州一週間といったぐあいで東北は長かったですね。
 東北の旅では、一日の公演が終わって、一緒に食事をすることがたびたびありました。記憶力が抜群なんですよ。会食しながら永田さんは、初代天中軒雲月の雲月節とか、東家楽燕の節使い、桃月軒雲右衛門の節使いなどのすばらしさの話をする。あそこがよかったここがよかったと、心の底に男の夢というかすごく美しいものを持っていらっしゃっいましたね。純粋な人なんですよ」
 そうしてこう結んだ。
「ひとことでいえば、永田さんは快男子ですよ。
 日本中に芸の華を咲かせた夢の勝負師だと思いますね。
 誰とだれを競演させたらいいんじゃないか、浪曲でも一人の名人よりも、何人も名人を集めてやった方がお客様が喜ぶんじゃないかというように。
 永田さんのちょっと先輩に亡くなった松尾国三さんという興行師がいましたが、松尾さんも永田さんも企画力、勝負どころのカン、人心をつかみ、時の流れを先取りすることにかけては天才じゃないですか。
 永田さんは仕事が生き甲斐で、真面目な人です。あのような人は二度と現れないでしょうね」



 永田さんの後に登場するには、“興行師”と言うよりも、永島達司(ナット・キングコールやビートルズを手がけた協同企画-現在のキョードー東京-の創立者)などの“イベント・プロデューサー”の時代になる。

 北海道の実家で今なお健在の八十四歳の母は、私が子供の頃テレビで浪曲や三波春夫の唄がかかると、店の商売の手を休めても見て聞いていたのを憶えている。また、その頃はテレビでも、今よりは浪曲、講談が頻繁に放送されていた。三代目の広沢虎造はよく見て聞いたものだ。十八番の「清水次郎長伝」が耳に残る。

 浪曲は、永田貞雄という稀代の興行師の熱い情熱で支えられ、それまでは地元やくざに牛耳られてきた興行の独占を永田が体を張って切りくずし、常にその番組を魅力的にする努力で大ブームを迎えた時代があった。その後、テレビの普及など時代の趨勢で、映像的には地味な「一人語り」の芸は講談と同様に勢いを失って、現在は決してメジャーな芸能とは言えなくなった。もちろん国本武春という新たなスターが登場してはいるが、その後に続く人材はそう多くはないのではなかろうか。しかし、昔テレビで見たかぎりの私の浪曲経験で、いい加減なことは言えないなぁ。だから、浅草の木馬亭に近いうちに行ってみようかと思う。定席があるだけでも、この芸の救いはあるのかもしれない。安藤鶴夫が直木賞を受賞した著書で題材になった本牧亭は、経営に苦労しながらもいくつか場所を替え、最近までは講談を聞ける料理屋として頑張ってきたが、九月に閉館した。しかし、再出発を目指しているとも聞くので、その時はぜひ行ってみたい。

 優れた興行師の存在なしでも、江戸から明治、大正、昭和という流れの中で、同じ寄席という場で浪曲や講談の後塵を拝してきた時期もある落語が、今日これだけ活気があることを、素直に感謝したい。

 落語という芸能が他の二つの「一人語り」芸と違って、今でもベテラン、中堅、若手の各層に魅力的な芸人を多数抱えて、寄席やホールを活気づけているのはなぜなのか。そんなことについても、そのうち考え、書いてみたいと思う。

 大ベテラン浪曲師木村若友さんの芸は一度も拝見したことがなかったが、その訃報は私に永田貞雄さんのこと、そして同じ一人芸の落語のことなど、さまざまな思いをめぐらせた。
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by kogotokoubei | 2011-12-10 10:24 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

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