四年前、最初で最後の談志の高座の思い出、など。
2011年 11月 24日
-----------「立川談志落語会----------
(麻生市民館 2007年10月22日)
立川志らべ 『浮世根問』
立川談修 『目黒のさんま』
立川談笑 『片棒』
(仲入り)
松元ヒロ
立川談志 『田能久』&アメリカン・ジョークなど
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「喉頭がん」が見つかる前年で、その予兆はあって体調は万全ではなかったのだろうが、談志の高座はサービス(?)のアメリカン・ジョークを含めて一時間近かったように記憶している。結構満足して帰ったものだ。
当時の他の方のブログでも書かれていたが、その頃の談志が高座でよく口走っていた言葉、「早く死にたい」で始まったはずだ。本編の前には、「つまんない噺で・・・・・・」と言いながらも、『田能久』というネタの背景を結構詳しく語ってくれた。途中途中で突っかかることがあって言い直しなどもあったが、しっかりとサゲまで演じて、「このサゲ、いいでしょ」とニッコリ笑った顔を思い出す。幕が閉まってからだったか閉まるのを止めたのか記憶が曖昧だが、オマケでアメリカン・ジョークやフランスの小噺を披露してくれた。その一つは今でも覚えている。細かなところまで正確ではないとは思うが、こんなジョーク。
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いつも同じレストランで顔を合わせる二人の男。一人が相手に聞く。
男A「よく、お会いしますね」
男B「えぇ、かみさんが夕食をつくってくれないもので・・・・・・。
おたくも、そうですか?」
男A「いえ、うちのかみさんが毎晩夕食をつくるものですから」
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こういうジョークは好きだ。酒宴の中で何かおもしろいネタを言う機会に、今でも使わせてもらっている。ほかにもいくつか笑えるジョークを披露してくれたが、ブログを書く前だったので終演後にメモをする習慣もなく、忘れてしまったのは残念。
今あらためて思い出すと、志らべ、談修、談笑もその時に初めて聞いたはず、松元ヒロも同様。しかし、談志以外の高座を、思い出せない。記憶力の低下もあるが、やはり談志を聞きに行って、その一時間近い高座の強い印象に他の演者の内容が消されてしまったように思う。
その時の高座全体から感じたものは、地域の落語会といえども、手を抜かないで会場を楽しませようというサービス精神である。その後、志の輔や談春を同じ会場や町田で聞いた際、必ずと言ってよいほど、談志が地域の会のほうが凄い高座になる、といったエピソードを話していた。町田の『居残り佐平次』の思い出を談春が語っていたのは、よく覚えている。
昨日の茅ケ崎での権太楼にも通じるが、たまにしか落語を味わえない東京郊外や地方のお客さんへの思い入れの強さ、これは談志には際立っていたのだろう。堀井憲一郎も、談志の都内を離れた落語会は目を離せない、といったことをどこかに書いていたような気がする。また、それは定席に出ない立川流としては、ある意味で当然のことだったのかもしれない。一期一会の高座に賭ける熱気、のようなものが、本来は談志が立川流のDNAとして伝えたかったことではなかったのか。
志らくの弟子、よって談志の孫弟子が二人、初めて真打ちに昇進するらしい。志らくの評価基準の一つは、「どれだけ談志のDNAを持っているか」ということらしいが、さて、そのDNAが表象するものは、いったいどんなことなのだろう。まさか、談志の“毒舌”を形だけ真似ることではないだろう。もちろん、昔の歌謡曲を好きになることでもないと、私は思っている。
四年前の高座から私が感じた談志DNAの表わすものは、精一杯のサービス精神であり、客への気配りだった。そういった部分をしっかり継承できなければ、御大亡き後の立川流の将来は決して明るくない、そう私は思っている。
古今亭志ん朝の追悼番組の中で、談志は、いろんな思い出を語りながら、あえて「いい時に死んだよ」という言葉を贈っている。それは、“死んだら終わり”という落語的な死への向き合い方の、根が同じながら別な表現なのだろうと思う。何をもって「いい時か?!」などと掘り下げてもしょうがない。「その時」が「いい時」と思わない限り、未練が残るだけ、という精神なのだろう。
精一杯「五代目立川談志」を演じてきた松岡克由という偉大な男に、「いい時に死んだね、談志さん!」と私も言葉を贈りたい。たった一回の高座だったが、談志のDNAを感じることのできた高座は、私にとっては大切な思い出になった。
昨夜は携帯音楽プレーヤーで『鼠穴』を聞きながら帰宅しました。
私が友人との旅行の余興で以前に披露した『道灌』は、談志の音源を元にしました。
発禁もの(?)も良いですが、本寸法の談志落語も結構ですね。
テレビなどで演じられた、いわゆる漫談も、あれだけ国内外の笑いのネタに通じていたから、その楽しさは追随を許さなかったように思います。今のお笑い芸人には爪の垢を煎じて飲ませたいものです。
「現代落語論」を読み直しているので、近いうちに何か書くかもしれません。
二十代であの本を書いたのです。あらためてその才能の高さが分かります。
やはり3年前か、「談志まるごと10時間」は、まるで談志の遺言を聞いているような気分になりましたっけ。
志ん朝びいきの私にとって談志には複雑な思いもありますが・・・こういう人はもう出ないですねえ。
私も談志のことは、どうしても志ん朝との関係で考えてしまいます。
末広亭の裏の喫茶へ行き、「あぁ、ここで談志は志ん朝に、真打昇進を断れ、と迫ったのか・・・・・・」など。昭和53年のことがあるので、その芸は認めますが、心から好きにはなれない。
今ほどNHKの「日本の話芸」追悼番組で昭和54年の『居残り佐平次』を見ましたが、やはり私の好みは間違いなく、志ん朝です。
しかし、志ん朝が亡くなって十年、そのライバルも消えた寂しさは、もちろん小さくはありません。志の輔、談春などの存在を考えると、その功績も間違いなく大きい。立川流は、さてどうなるのか。