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中島梓が20年前に指摘した「コミュニケーション不全症候群」について

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中島梓『コミュニケーション不全症候群』
 先にお断りしておきます。今回は引用を含めて少し長くなりますので、ご容赦のほどを。

 「おタク」という言葉はもはや十分に市民権(?)を得ている。ニュアンスは違うだろうが、最近は“ゆとり教育”世代を指す「ゆとり」という言葉もあるらしい。
 少し古くなるが、秋葉原事件は、ネットの“掲示板”への書き込みが犯人の行動に関係している。そしてつい最近の大学入試における、携帯電話でネットの質問掲示板を利用した“偽計”事件なども、過去にはありえなかったネット社会における新たなコミュニケーション形態が、事件に関係している。
 確かに事件の舞台や道具にはインターネットや最新の通信技術が登場するが、こういった事件が起こるたびに、20年前、1991年に筑摩書房から発行された(その後、1995年にちくま文庫でも発行)中島梓の『コミュニケーション不全症候群』を思い出す。「おタク」などの現象について論じている評論だが、その背景にある「コミュニケーション不全症候群」という現代の社会病理について指摘していることと、それが必ずしも“異常”ではないことを論じた貴重な本だと、私は思っている。そして、上述した事件などにおいても、この「コミュニケーション不全症候群」という現代病が背景にあるように思うのだ。
この本の章立ては次の通り。
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はじめに—私はなぜこの本を書こうと思ったのか
第1章 コミュニケーション不全症候群
第2章 おタクについて*1
第3章 おタクについて*2
第4章 ダイエット症候群*1
第5章 ダイエット症候群*2
第6章 病気の時代
第7章 僕の夢は少年を……
第8章 美少年なんか怖くない
第9章 最後の人間
第10章 コミュニケーション不全症候群のための処方箋
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 “第一章”は、「コミュニケーション不全症候群」とは何かについて、こう書くことで始まる。

 コミュニケーション不全症候群というのは私が勝手に名付けたのだが、その理由は、私がまあ毎日外を歩いたり、人とつきあったりして、あまりにも「ヘンな人」と出会うことが多いからであるのである。ヘン、というと今の用語としては結構ホメコトバなってしまったりするわけだが、ホメコトバとしてのヘンではなくて、コトバ本来の意味におけるほうに近いヘンだ。たとえばリカちゃん人形を手放せない四十のおじさんとか倦怠と頽廃に悩んでいる小学生とか、となりの主婦を刺殺してしまうきのうまでなんでもなかったおばさんとか、女の子の手首を食べちゃったあの人とか。実にいろいろな「ヘンな人」がこの世の中にはたくさんたくさんいることがいまや常識になってしまった。
 しかしそういうことが常識になっては実はいけないのである。ということを私は初めに言っておこうと思う。


 このしばらく後で、次のような体験談が書かれている。
 

・・・私がそれではじめて子供を幼稚園に入園させて、その送り迎えで幼稚園に毎日出かけるということになったときのことである。私のほうも何十年ぶり−はおおげさだが、のこととて、まったく見当がわからないでもたもたしてばかりいる。ところがそのときに、とにかくひどく人に突き当たるお母さんがいるのである。つきあたるというか、なんというかまったく私とかほかの人間などまったくこの世の中に存在していない、というようにふるまっている。うまくいえないのだが、つまりバックしたりとか方向転換したりするときに、必ずそこに誰も邪魔者はいないことをまったく確信して、というよりも邪魔者などというものはこの世にありえない、という動き方をするもので、いちいちうしろの人の足をふんづけたりつきあたったりするわけだ。これは必ずしも、注意して見ていると私一人にそういう態度をしているわけでもなんでもない。
(中 略)
 夫にそういう人が居るのだという話をしたら夫がそれは「運動神経障害」だろう、というようなことをいう。これがたいへん印象深かったので、ずっとその人を「運動神経障害」の人、と呼んでいて、きょうもあのひとがつきあたってきたよ、というような話をしたりしていたのだが、 同じ幼稚園の同じクラスで三年間いるうちには、どうしたってお母さんどうしも友人になる。そのうちにそのお母さんとも知合いになり、話をするようになり、互いに顔をよく知っているようになると、そのお母さんの「運動神経障害」はいっさい消滅したのであった。
 というか、彼女はあいてをよく知っている人だと認識すると、決してその人の足を踏んだり、まるでそこに空気しかないようにふるまったりしなくなったのである。そのかわりにに彼女はその相手に話しかけ、挨拶し、にっこり笑ったのだった。まあふつうは笑いかけながら足をふんだりはしないものである。つまりそのとき、彼女が相手を認識することによって、相手ははじめて彼女の知覚のなかに存在したのである。それまで石ころかそのへんの空気にすぎなかったものが、はじめて名前があり、家族や本人の意識もある「他の人間」として彼女に認識されたのだ。


 この後、中島梓は、現代は自分のテリトリーを守ることが難しいことを指摘する。

 大都市では、ラッシュの乗物のなかでは、まったくたがいにあいてを何者であるとも知らない同士が、恋人同士よりも密着して何十分なり何時間をおくらざるを得ない。私たちはそんな現象をまったくあたりまえであると思ってしまっていて、まったく疑いを持たないが、これはほんとうは、動物として考えると、きわめて異常なことであるといっていいのである。動物にはそれぞれの個体についての適正な互いの距離が、「テリトリー」としてある。たいていの動物が他の動物を攻撃するのは、もちろん摂食行動を行う時は別として、自分のテリトリーを侵されたときである。別種の動物ならもちろんだが、同族の動物にたいしても、自分のテリトリーの範囲を(これは、もちろん別種と同種、あるいは群の外部の個体と群の内部の個体、また繁殖期とそれ以外のときなどのいろいろな条件によって変動するだろうが)侵された時に他の動物を攻撃するのだ。
 しかしもちろん私たちは満員電車の状況を自然だと思っているのでもないし、それを受入れているわけでもないが、しかしそれを「自分のテリトリーを侵されている」というように感じてはならないわけである。テリトリーとはつまり個体と個体とが互いに攻撃しなくてはならないと判断するくらいに脅威を感じだすことのない、限界の広さであるが、それはいまの人間にとっては、もちろん満員電車のなかではまったく失われているが、たとえば会社においてもそれはキープされてはいない。また、行楽にいっても、車にのっていてもそれはそれは保つことができないだけではない。家庭のなかでは個人個人が充分な精神的ゆとりを持つことのできるスペースはないほうが多いし、それに加えて。その家庭自体が、都市のなかで、各家庭というテリトリーというに充分な広さと独立性を保つことの出来る家はまれだという状況になっているわけだ。


 第一章から相当長い引用をしているが、最後に肝腎な部分を引用したい。
 

 私たちはみんなひとしなみに、コミュニケーション不全症候群だと思うが、それは必ずしも私たちの個体としての素質からきたものであるのではなく、むしろ、コミュニケーション不全症候群というかたちで私たちは現代という、適応不能が頂点に達した時代に適応しようとしているのではないかという気がする。
 (中略)
 私のいいたいのは、状況が病的であるときには、健全な適応のほうがむしろ不自然であり、病的シチュエーションには病的反応のほうが自然だとさえいえるかもしれないのだ。このもっとも端的な例としては、第二次世界大戦中に、現代の我々から見ればきわめて健全な反戦思想を抱いていた個人が、「非国民」と呼ばれて犯罪者のようにあつかわれたのであるという事実である。状況に応じて適応そのものもまた変わってくる。ただ問題は、その現代の状況というのが、既にして不適応を内包した状況であるといってよいことである。


 この後、さまざまな“異常“と思われる現象について、中島梓は、「コミュニケーション不全症候群」の観点から論じるのだが、興味のある方は本書を読んでいただきたい。しかし、文庫も重版されていないので古書店でしか入手できないかもしれない。だからこの本のことを書いた、ということもある。

 重要なのは、「おタク」や「ダイエット/摂食障害」、今で言うところの「ボーイズラブ」などについて、単純に「良い」とか「悪い」、あるいは「好き」「嫌い」という二元論で著者が述べているのではなく、それぞれの現象に潜む本質に迫ろうとしている、ということ。先入観で“異常”と思ってしまう危険性を指摘している。これは、今のマスコミとはまったく違うスタンスである。特定の個人が“異常”でした、と言うことは、ある意味簡単だ。しかし、「それは異常ではないかもしれない?」という自問が、本質に迫るきっかけになるかもしれない。そんな、気づきをさせてくれるのがこの本である。

 さて、この本が世に出てから20年。この「コミュニケーション不全症候群」という病に効く特効薬も現れていなければ、病根はますます深く、そして伝染の範囲が広がるばかりのように思えてならない。中島さんは、「コミュニケーション不全症候群」への過剰適合、ニュータイプとして「おタク」を説明している。しかし、20年経過して、その「おタク」も大きく変貌しているように思う。なぜなら、社会の病状が悪化しているから、いっそう過剰適合した「病的おタク」になっているはずなのだ。「おタク」について語られることは多いが、その背景にある社会の“病状”については、あまり深く語られることはない。

 また、攻撃するかしないかの境界としての“テリトリー”は、20年前より一層狭まってはいないだろうか。いわゆる“キレル”若者が増えたといわれるが、そういった日常の事件や騒動に対し、その個人を単に“ヘン”“異常”と非難するだけではなく、「なぜ?」ということを本質的に探ろうというジャーナリズムの論調は、まず見かけない。ますます狭くなるテリトリーや、その環境が与えるストレスなどをどう改善するかということが、個人を攻撃するよりはるかに重要であろう。
  
 あまり偉そうなことは言えないが、少なくとも私が思うのは、「運動神経障害」と中島さんの旦那さんが喩えた、あの“ぶつかる”お母さんでは、その子供の将来は心配だ、ということ。自分のテリトリー以外の人に対しても、足を踏んだり、ぶつかったりしないように行動する、そういう心構えをするということから始まる気がしている。なぜなら、あのお母さんの姿を見て育った子供は、自分のテリトリー外の人にやさしくなれない気がするからだ。もっと個人的な好みで言うなら、「傘かしげ」「肩引き」「膝送り」など、“江戸しぐさ”を教えるお母さんの子供ならば、非行に走ることも、簡単に“キレル”ことも少ないのではないだろうか。だから、落語が好きな人に悪い人はいない、などと言うと、短絡、とか暴言などとお叱りを受けそうだ。私も“小言幸兵衛”などという名前でこんなブログを書いているから、まさに「コミュニケーション不全症候群」なのだと思うばかりである。
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by kogotokoubei | 2011-03-05 15:29 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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