噺の話

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桂米朝


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*写真は東芝EMI Soundtownのサイトから
東芝EMI 桂米朝

 桂米朝師匠が落語家で初めて文化勲章を受勲した。(あえて三代目と書かなくてもいいだろう。)
まずは、おめでとうございます。今回の受勲が、昭和29年に八代目文楽が落語家で初めて芸術祭賞を受賞した時と比べてどちらが画期的なのかは分からないが、人間国宝は落語界で二人目だったので、少なくとも今回は“初”という意味で、歴史的快挙である。

 さて、今回はその米朝師匠について。(ここからは「師匠」の敬称を略させていただきます)

 とはいっても、その噺や芸については後日書かせていただくとして、今回は米朝が米朝となった(?)歴史的な出会いや、受勲理由でもある戦後衰退していた上方芸能復興に関して、他のメディアからの引用も含めて書いてみたい。
桂米朝のことを書こうとすると、どうしても正岡容のことにふれないわけにはいかなくなる。もちろん、米朝は正岡容と出会わなくても名人になったかもしれないが、歴史的事実として正岡容、そして正岡の同じ弟子仲間である小沢昭一や大西信行、永井啓夫等との交流があったことが、今日の米朝落語に少なからず影響していることは間違いないだろう。
 ちくま学芸文庫版の正岡容『東京恋慕帖』には巻末に「鼎談 師正岡容を語る」という有難い附録があって、大西信行、小沢昭一、そして米朝の対談が掲載されている。少し長くなるが、噺家桂米朝の、ある意味で運命的な“その時”が記されているので引用する。
この鼎談は昭和50(1975)年の九月に行われたもので、なんと47頁も掲載されている。
正岡容_東京恋慕帖


米朝 私が正岡容という名前を知ったのは、徳川夢声さんの『くらがり二十年』
   という本の中に名前がね、出てくるんです。ヘンな名前の人がいるん
   やなアと思うたんです。容という名前が不思議だった。中学四年生くら
   いの時やったと思うけど、古本屋で『円太郎馬車』という正岡先生の
   小説が目について、で、まあ落語が好きだったし、あんまりありません
   わね、落語に関する本ていうのは。それで買うたン・・・・・・。
小沢 なるほど。
米朝 それを買うたのが始まり、その次に『狐祭』というのを本屋で見つけて
   ネ、あと見つけ次第に正岡容の著作を買い込んで・・・・・・それから
   東京に出て来たわけ。
大西 いつ頃ですか。
米朝 昭和十八年。
小沢 その東京に出てきたのは、正岡容に会うためじゃなくて。
米朝 そうじゃあない。学校へ行ってたんです。東京新聞に落語相撲をやると
   いう記事が出ていた。いったいどんなもんかいっぺん見てみたいと思う
   て行ってみると、この会の主催者が正岡容だった。昭和十八年五月でし
   たョ。誰がどんなもんやったかも憶えてるな。確か、落語相撲について
   正岡容さんが出て来てちょっと喋ったな。
小沢 ハアハア、それで?
米朝 それから、検査役みたいな形で、野村無名庵さんと二人で高座に座っ
   てた。意外と若い人やったんやなアと思うた。今から思えば、あの頃
   の先生は今の私より若いですからな。
小沢 つまり、書いたものがバカに老けているというか・・・・・・(笑)。
米朝 それから、たまたま大塚の花柳界の中に甘いものを食わす喫茶店を
   発見した。その時分は甘いものはないし、よそにないような甘い
   お饅頭なんかが、少し値が高いけど、その喫茶店いくとあるんで
   すわ。それで、ちょいちょいその店へ通った。その道筋で、ヒョッ
   と見たら、表札に正岡容、花園歌子という二枚看板・・・・・・
   目についた。私はその時分は内気やったのになア、魔がさしたと
   いうか(笑)、縁があったというのか、ゴメンくださいといって
   入ってしもうた。
   それがキッカケなんですヨ。



 大正十四(1925)年十一月六日、大連に生まれ、五歳の時に祖父が亡くなり、父が神主になるために日本に戻った落語好きの中川清少年が、その後、上述のように上京して入学したのは今の大東文化大学(当時の大東文化学院)である。本人も神主の仮免許を上京前に持っていたようだ。もし、「魔」がささなかったら、今頃は、単に落語好きの神主さんであったかもしれないわけだ。

 もちろん、歴史に「If(イフ)」は禁物だが、昭和十八年の正岡容との出会いは、その後の名人米朝を生むための重要な転機であったことは間違いない。正岡容は、桂文楽の師匠でもあった三代目三遊亭円馬に弟子入りし自ら落語を演じたことのある人で、小説家であり稀代の落語・芸能評論家でもあった。内気な中川清が“一瞬の魔”がさしたおかげで、我々は今日に至るまで米朝落語と米朝一門の落語を楽しませてもらう恩恵にあずかれたわけだ。やはり落語だけに「魔(間)」が重要(?)。

 さて、戦後上方で落語をはじめとして芸能全般が衰退している時に、正岡が米朝に対して上方落語の復興を叱咤激励しなかったら、『地獄八景亡者戯』『算段の平兵衛』などの埋もれた名作を蘇らせることもなかったかもしれないのだが、その上方芸能の衰退ぶりは昭和30年代後半に入っても深刻だったようだ。米朝は昨日11月16日の「米朝口まかせ」(asahi.comのコラム)で、文化勲章受章式のため上京した際に古くからの友人である演出家山田庄一さんと再会したことから過去を振り返って、次のように書いている。
米朝口まかせ 11月16日

 文化の日に、東京で演出家の山田庄一さんにお会いしました。山田さんは歌舞伎や文楽の生き字引のようなお方で、昭和38(1963)年から始まり、私も活動に加わった「上方風流(ぶり)」の発起人でした。それで、上方の文楽、歌舞伎、能、狂言、落語、漫才など幅広い世界からそれぞれ40歳までの芸人が集まって、上方風流という雑誌を出すことになったんです。
 私はもう細かいことは忘れてしもたんやが、そもそもは、新聞などに載る「芸能評」への反発もあって、芸人の方から何か発信できるものを作ろうというのが始まりやった。そやさかい、原稿を書けるというのが参加できる一つの条件やったと山田さんは当時を振り返ります。そのころ、私は千日劇場によう出てたんですが、落語について調べて書いても、載せるところがなかなかなかったんや。雑誌を出すこと自体、大変な時代やったさかいね。それで、この上方風流にいろいろと書いたんです。
 とはいえ、みんなからそう簡単には原稿が出てこなかったんやそうで、とりまとめをする山田さんは苦労したそうな。それで、まず何人かを集めて座談会をして、その内容を載せるようにしたんです。座談会と言うても、酒を飲みながらや。どこかの店に集まって、いろんな舞台の話をする。話題は尽きなんだな。
 雑誌は全部で8号出しているんやが、山田さんは7号まで携わったあと、仕事で東京に引っ越しました。発行してた部数が少なかったんで、あの雑誌をすべてお持ちの方は貴重やと思いますな。私もたまに見つけると、読みふけってきりがのうなってしまう。あの時分は、みんな懐もさみしかったな。広告も取ってはいましたが結局、赤字やったはずやで。
 今回、一緒に文化勲章を受章した坂田藤十郎(当時は中村扇雀)さんも、文化功労者になった吉田簑助さんも上方風流のメンバーでした。言い出した山田さんが感じてたように、あの活動を始めたころは、関西芸能の地盤沈下がどんどん進んでいました。集まった私たちも、それは危機感を持っていましたよ。当時はまさか、こんな日がやって来るとはだれも思ってもいなかったんです。


 戦後、上方落語復興の中心的役割を果たした落語家を四天王と呼ぶことがある。六代目笑福亭松鶴、三代目桂春団治、三代目桂小文枝(五代目文枝)、そして米朝であるが、この中で、テレビを中心にマスコミへの露出がもっとも多かったのは、間違いなく米朝であろう。私が米朝を知ったのも、落語ではなく、小学生の頃に見たテレビでのゲスト出演か何かだったように記憶する。今思うに、その昭和30年代後半から40年代にかけた時期というのは、意図的にマスコミに出演し落語をはじめとする上方芸能の復興への一助とすべく考えていたのではないだろうか。当時は大阪キー局制作の番組では、薬師寺管主だった高田好胤と米朝の二人をやたら見た記憶がある。

 このマスコミでの露出の多さが、他の四天王やそれ以外の上方、いや東京も含む噺家と米朝のイメージの圧倒的な差を生み出しているように思うのだ。ともかく、親しみやすい関西の好々爺のイメージが先にある。それに加えて落語の語り口も妙に気張らずに、日常会話の延長のようなマクラで肩の力を抜かせておいて、次第に米朝落語の世界に自然に誘い込む。CDで音声だけを聞いていても、ビジュアルの潜在的な記憶が強いので、その表情や仕草を容易にイメージできる。もちろん、“話芸”そのものが際立っているから、イメージも広がり膨らむのだが、ビジュアル面での絶対的な記憶量は、そのイメージ化を強力に支援していると思うのだ。

 米朝には正岡容という師匠と、もう一人、実際の噺家としての師匠桂米團治がいるが、この二人も、実は、あの“魔”が関係している。昭和22(1947)年に会社勤めをしながら入門した4代目桂米團治との縁をとりもったのも、正岡を通じて知り合った大阪の映画館主の息子である矢倉、後の3代目桂米之助である。やはりあの“魔”が米朝の人生にもたらしたインパクトは大きい。

 その師匠米團治の米朝への影響力の大きさを知るために、落語入門書としても優れている『落語と私』(昭和50年ポプラ社から発行され、その後昭和61年文春文庫に収録。2005年にはポプラ社から新装版が発行)の最終章「末路哀れは覚悟の前やで」から少し抜粋する。桂米朝_落語と私

 落語は、古典芸能のはしくれに入れてもらいましても、権威のある芸術性ゆたかな数々の伝統芸能と肩を並べるのは本当はいけないのだと思います。「わたくしどもはそんな御大層なものではございません。ごくつまらないものなんです」という・・・・・・。ちょっとキザな気どりに思われるかもしれませんが、本来はそういう芸なのです。
 前にも、「落語は正面きって述べたてるものではない」と書きましたが、汗を流して大熱演する芸ではないのです。・・・・・・実際は、汗を流して大熱演していても、根底の、そもそもが、「これは嘘ですよ、おどけばなしなんです。だまされたでしょう。アッハッハッハ」という姿勢のものなのです。
 芸人はどんなにえらくなっても、つまりは遊民(何の仕事もしないで暮らしている人)なのです。世の中の余裕------おあまりで生きているものです。ことに、落語というものは、「人を馬鹿にした芸」なのですから、洒落が生命(いのち)なのです。
 わたしがむかし、師匠米団治から言われた言葉を最後に記します。
 『芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良(え)えの悪いのと言うて、好きな芸をやって
 一生を送るもんやさかい、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみ
 がく以外に、世間へお返しの途(みち)はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで』


 前半の落語家という芸と芸人についての記述は、米朝一門のDNAとして弟子達に十分に継承されたと思う。「だまされたでしょう。アッハッハッハ」の部分など、まるで枝雀がマクラで語っている声が聞こえてきそうだ。そして、最後の師匠米團治が米朝に送った言葉の意図も、きっと折に触れ弟子達に諭してきたことなのだろう。

 世間は、その米朝の“ねうち”を予想外の高みにまで評価した。そして、今でも米朝は「末路哀れは覚悟の前」という精神でいるからこそ、その84歳の老体をマスコミに曝すことを厭わないのだろう。
 本物の上方芸人というものは、なんと強く、そしてしなやかであることか。いまや存在そのものが“宝”、一日でも長生きしていただきたい。来月は多摩川を越えた落語会にまでご出演予定。ぜひお元気な姿を拝見したいものだ。
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by kogotokoubei | 2009-11-17 20:48 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛