噺の話

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「菊吉爺」や「團菊爺」のこと

7月10日は、六代目尾上菊五郎の祥月命日だった。明治18(1885)年8月26日生まれ、 昭和24(1949)年の7月10日に亡くなった。大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者であり、屋号はもちろん、音羽屋。歌舞伎界で単に「六代目」と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指すらしい。初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉(きくきち)時代」の全盛期を築いた人。ちなみに、初代中村吉右衛門は明治19(1886)年3月24日生まれで六代目より一つ年下、亡くなったのは昭和29(1954)年9月5日である。屋号は播磨屋だが、「大播磨」の掛け声で知られたらしい。

古今亭志ん生(五代目、明治23年生まれ)は、この二人に贔屓にされており、酒席などにも数多く誘われていたようだ。『なめくじ艦隊』(ちくま文庫)によると次のような記述がある。少し長いが六代目との初対面の思い出が書かれた、なかなか心温まる話なので引用する。
古今亭志ん生_なめくじ艦隊
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 音羽屋(六代目菊五郎)とも、あたしはしたしくしていました。あるときあたしに
一席きかしてくれというんです。はじめあたしは、音羽屋という人は傲慢で、ぶっ
きらぼうで何だかつきあいにくい人だときいていたから、行くのがあんまり気が
すすまなかった。
 とにかく、あたしだって、音羽屋になにかしてもらわねば食っていけないという
訳じゃない。もしも気にくわんことがあったら、サッサと帰ってきちゃおうとハラを
きめて、築地のやしきへ出かけていったんです。
 するとそこに、さきごろ亡くなった三升がいて、音羽屋を火鉢をかこんで何か
話をしている。あたしがその部屋へスーッと入っていくてえと、
 「いくつになったい?」
 音羽屋はぶっつけにこう言った。その調子ったらないんです。たいていの人
だったら、おたがいに一礼して、それから初対面のあいさつをして、年配だから
「あなたはいくつになられました」とくるのが常識でしょう。それなのに座敷に入っ
て行ってあたしが、坐るかすわらないうちにこうきくんですよ。文字にしてしまっ
たんじゃわかんないでしょうけれど、その発音間合がとてもうまくて、なんとも
いえぬ親しみがある。で、あたしがそれに答えると、
 「そうかい。いつのまにかお互いに年をとったね、ハハハハ・・・・・・」
 といった調子なんです。あたしはそれがスッカリ気にいっちまいましてね。
そのぶっきらぼうなことばの中にこもっているあたたかい親しみぶかい気持が、
あたしの心をスーッとほぐしてくれたんです。あたしはうれしくなりましてね。
 「おらァ、なんだよ、おめえの師匠とは、すいぶんいろんなことがあったよ」
 といった話っぷり、まるで肩をたたいて話しあっているようで、まったく十年も
つきあった友達に出くわしたような気持になったんですよ。
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話し言葉そのままのような楽しい文章を読んでいると、まるで二人が旧知の仲のように軽口をたたいているその初対面の光景が現れてくるようだ。

さて、六代目で思い出すのは、「菊吉爺(きくきち じじい)」という言葉である。その前の時代なら「團菊爺(だんぎく じじい)」である。
歌舞伎好きの中で用いられる俗語が一般化した言葉である。九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎が最高の歌舞伎役者であって、他の若い役者を認めない頑固爺が「團菊爺」であり、その対象が六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門になると「菊吉爺」となる。
“菊吉爺”は言う。
 「六代目に比べりゃあ、今の役者なんて・・・」
 「初代吉右衛門を知らないって、それじゃあ話にならん」

自分が同時代でその至芸を経験した名人・達人を、ノスタルジーもあるのだろう、過大に賛美するあまり、ついつい若者に憎まれ口をたたく爺(あるいは婆!?)は、間違いなく後輩世代から煙たがれる。しかし、この「爺」たちはどんな世界にでもいた。もちろん、落語の世界でもである。
たとえば、小島貞二さんが「四代目橘家圓喬爺」だったのは有名。先日取り上げた『祇園会』も、圓喬が最高だった、と小島さんは書いている。志ん生や文楽なら小島さんの噺を聞いても実際に圓喬の芸に接し尊敬していたから納得できたのだろうが、圓喬の生の落語に接することができなかったそれより若い世代は、小島さんの話を聞いて、さぞやストレスがたまっただろうと思う。

しかし、「菊吉爺」達は、ある意味で伝統芸能の歴史に関する「口承者」であると思うし、その芸の詳細に渡って語ることができる場合は、「口伝」の役割さえ担っているように思うのだ。
もちろん、今や昭和や平成の名人上手の芸はCDやDVDで再現することはできる。しかし、ある特定の「一期一会」に居合わせた人にしか語れないことは間違いなくある。特に、「落語の神」が舞い降りたと思われるような至芸の場に出会った場合など、その時の「背筋がぞっとする」感覚などは、同じ時間と空間を共有した者しか語れないことである。

もう数年すると、「談志爺」とか「志ん朝爺」、あるいは「談朝爺(?)」が登場するのだろう。
私は残念ながら全盛期の二人の“生の芸”にほとんど接していない。もっぱらCDの音源を楽しむばかりなので、「志ん朝爺」と言う資格はない。もし15年後、20年後になれるとしたら、「さん喬爺」とか「鯉昇爺」かな・・・・・・。そして、このブログを見ている私より若い落語ファンの方々も、これから先には次のように後輩の落語愛好家から言われるだろうか。「談春爺」「喬太郎爺」・・・・・・。
「xxx爺」のxxxに入るだけの名前になったら、それは凄いことなのである。もしこの先、いろんな「xxx爺」が存在感を持つことができたら、それは今が落語ファンにとって素晴らしい時期にある、ということなのだろう。間違いなく落語家の人数は昔に比べ格段に多い。好きな噺家のバリエーションが増えるということは、きっと良いことに違いない。

でも、よく考えたら、いくら「xxx爺」のxxxが増えようと、自分より若い人達に嫌われるのを承知で「xxx爺」になる人そのものが少なくなるだろう。煙たがられるのが嫌で小言を言う人が少なくなるのと同じ理屈である。せっかく後輩達に自慢できるだけの、自分が同時代で経験した贔屓のエンターティナーの思い出があるのに、それを嫌がられてでも語ろうとする「爺」は少なくなるのは、世の中にとって寂しいこと、もったいないことだと思う。

昔は、日本全国、家の近所には“恐い”おじさん、おばさんが必ずいて、他人の子であっても、マナーやルールを守れない子供を叱ったものだ。だからこそ、「これはやっちゃいけないことなんだ」と、身をもって学ぶことができた。小刀やナイフで鉛筆を削り、刃を滑らせて怪我をするからこそ、刃物による人の痛みが分かる、のと同じ道理であろう。
昨今は市町村合併やら道路拡張やらで、伝統的な地名は消え去るばかりだし、地域の共同体としてのつながりは、ますます希薄になっている。こういうことがボディブローとなって、他人の迷惑を省みない子供と親が充満する世の中になるのではなかろうか。モンスターペアレントなんていうのは、この悪い風潮の最悪な事例だと思う。私が小学校、中学校時代、先生に叱られ殴られて帰ると、親は先生にお礼を言いこそすれ抗議するなど考えられなかった。もちろん、先生の能力も権威も、そして品格も昔とはまるで違うのではあるが・・・・・・。

話はちょっと脱線気味になってきたが、「團菊爺」や「菊吉爺」といった言葉も死語になりそうな趨勢が、誠に寂しいじゃないですか。いいじゃないの、自分より若い人に嫌われても。どんどん「xxx爺」になりましょう、とあえて言いたい。子供の頃、近所や銭湯などで叱られた恐いおじさん達のことって、結構覚えていて、「あ~、そういえばあのおじさんに、あんなこと教わったなぁ」なんて今になって思い出すのである。恐い人達って、それだけいろんなことも知っていたなぁ、とも思う。そんなことを思い出しながら、こんなブログでもそれなりにがんばって「小言」を書いていこう、と気持を新たにするのである。
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by kogotokoubei | 2009-07-13 12:02 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛