噺の話

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『たがや』 落語らしい夏の噺

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*東都両国大花火眺望(とうとりようこくおおはなびちょうぽう)。歌川国貞[天明6(1786)年~元治元(1864)年]の安政 4(1857)年4月の作品 。すみだ郷土文化資料館蔵。  

 この絵と後で紹介する広重の絵は、隅田川花火大会の沿革などでも参考にさせていただいたNPO法人「すみだ学習ガーデン」さんのホームページから拝借しました。

 もちろん河合昌次さんの『江戸落語の舞台を歩く』の中でも紹介されている噺。

 そろそろ聞く機会が多くなる季節になった。そう言うと、「え~つ、隅田川の花火大会は7月でしょう?」という声が聞こえそうだが、その通り今年の隅田川花火大会も7月25日(土)。しかし、この噺の題材である両国の川開きでの花火は、享保18(1733)年の旧暦5月28日に始まっており、新暦では6月20日頃、ということになる。
「すみだ学習ガーデン」さんのホームペーから沿革の抜粋。。
NPO法人「すみだ学習ガーデン」
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□慶長18(1613)年
  徳川家康、駿府城で明国及び英国人を引見、花火見物。
□明暦3(1657)年 大火。
□寛文3(1663)年
  江戸市中に於いて花火の製造禁止。
   ・
   ・
(享保17年に大飢饉)
□享保18(1733)年 5月28日
  水神祭を行い、その際、両国川開き大花火創始。この時の花火師は、
  鍵屋六代目篠原弥兵衛。当時一晩に上げた花火の数は仕掛、打上げ、
  あわせて20発内外といわれる。
□文化5(1808)年
  鍵屋番頭の清七、のれんわけして、両国吉川 町で玉屋を名乗る。
□天保13(1842)年 5月24日
  幕府は、花火師鍵屋弥兵衛、玉屋市兵衛を呼び出し、大川筋の花火
  に代銀三匁以上の費用をかけることと、花火からくり(仕 掛花火)、
  筒物を禁止した。
□天保14(1843)年 4月17日
  吉川町花火商玉屋、将軍御成の前夜失火して所払いとなり、誓願寺前
  へ移る。(または深川海辺大工町とも)
□明治元(1868)年 6月8日
  両国の川開き挙行される。近年打ち絶えていたため、大盛況を極める。
□明治5(1872)年 5月28日
  両国川開きを挙行する。天候よ〈人出盛ん。納涼船の数、屋形船5隻、
  伝馬船70隻、日除船250隻にのぼる。
□明治6(1873)年
  両国川開き当夜、横浜在住の遊客便宜のため初めて汽車の臨時列車
  運転の旨、外字新聞に広告出る。上下あわせて3本。
   ・
   ・
□昭和37(1962)年
  交通事情の悪化により川開き大花火禁止。
□昭和53(1978)年 7月20日
  隅田川花火大会と呼び名をかえて復活。打上げ数は1万5000発。財源
  は公共予算 (東京都及び墨田区・台東区・中央区・江東区)が主体
  となり、住民を代表する実行委員会が運営にあたる。
□昭和58(1983)年 7月30日
  両国川開き250周年記念隅田川花火大会実施。
□平成15(2003)年 7月26日
  「江戸開府400年記念隅田川花火大会」を開催。記念事業として
  「和火」を再現する。
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 この噺のマクラでもよく使われる台詞だが「江戸の名物、火事・喧嘩・伊勢屋・稲荷に犬の糞」とあるように、江戸時代は火事が多かった。有名な明暦の大火などもあり、当時普及しつつあった花火製造が中止されたが、享保17年の大飢饉の翌年、水神祭を行ったことが、両国川開きでの花火大会を始めるきっかけだったわけだ。
 この沿革には「玉屋」は「鍵屋」の番頭清七がのれんわけした店であること、そして玉屋が失火のため江戸から所払いになったことも記されている。しかし、その後も両国の花火における掛け声は「た~まやぁ~」が主流。それは、「か~ぎやぁ~」より言いやすいからとも、お上によって所払いになった玉屋への同情、あるいはお上への庶民の抵抗の表れとも言われる。

この噺のマクラでは次の狂歌がつきものである。
「橋の上 玉屋玉屋の人の声 なぜか鍵屋と言わぬ情(じょう)なし」
”情”は、鍵屋の”錠”にかけた洒落である。

花火大会の背景はこれくらいにして、噺のあらすじは次の通り。
(1)両国の川開きで、両国橋の上は見物人で大混雑している中、通りかかったのが
   商売物の、青竹で作った桶の箍(たが)の束をかついだ「たがや」。
(2)押されたはずみで、かついでいた箍がはずれ、そこを通りかかっていた馬上の
   侍の笠の縁をはがしてしまった。恥をかかされ怒る侍、平身低頭し詫びるたがや。
(3)たがやが侍に対し、いくら年老いた親のことなどを説明して詫びようと、侍は
   許す気配がない。しまいに開き直ったたがや、「血も涙もねえ、目も鼻も口もねえ
   丸太ん棒め」とべらんめい口調でののしった。
(4)勘弁ならない侍は供の部下に「斬りすてい!」」と命じたが、普段使っていない
   から刀は錆びてうまく抜けない。ついにたがやが刀を奪って供侍を斬った。
(5)やむなく侍が刀を抜いて斬りかかったが、またもこれを奪ったたがや、勢いあまって
   侍の首をはねた。その首が宙天に上るのを見た見物人、「あ、上がった上がったィ、
   たァがやァ~」でサゲ。

 ヤマは、まず最初にマクラにおける川開き情景描写にあり、本筋としては、最初平身低頭しているたがやが、ついに開き直り、両国橋上で大活劇をするアクションにあるだろう。
かつては、首が飛ぶのはたがやの方だったのに、幕末近くになって職人の給金も上がり寄席にたくさんの職人が通うようになってから、侍への抵抗もあり侍の首が飛ぶ噺になったと言われている。見物人達の会話は、それぞれの噺家の個性を発揮させる部分だ。

この噺のお奨めCDは、何と言っても三代目桂三木助、そして三代目三遊亭金馬。

 三木助の噺には、江戸時代の情景描写の妙がある。また、生の高座はもちろん見たことがないが、踊りの素養があって手さばき、指さばきも見事だったらしい。
次の広重の浮世絵のような情景が、噺を聞いていると浮かんでくる。
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*江戸名所両国花火の図(えどめいしょりょうごくはなびのず) 。 歌川広重[寛政9(1797)年~安政5(1858)年] の天保14(1843)年~弘化4(1847)年頃の作品。すみだ郷土文化資料館蔵。

三木助は「たがや」という商売についても、丁寧に説明してくれる。

 桶屋というのは、自店(ウチ)で桶を商いますのが桶屋、または桶を拵いる店(ウチ)が桶屋さんでして、箍屋さんてえのは、皆さんがお買いになった桶を長くお使いになっておりますと、箍が緩んでき
ましたり、少ゥし水ィ入りませんと弛んできましてねェ、水が洩ったりなんかいたします、そういうのを直してくれるのが、箍屋さん。箍の仕替えをいたしますので、箍屋というのが本当です。

(ちくま文庫『古典落語 正蔵・三木助集』飯島友治編より)
ちくま文庫_正蔵・三木助集*残念ながら現在増刷されていない模様。筑摩さんに皆で版を重ねるよう要望しましょう。

 三木助と金馬の噺の内容には共通点が多い。三木助は、この噺を『芝浜』と同じ四代目の柳家つばめに教わり、自分なりに工夫を加えたらしいが、金馬の師匠は分からない。しかし、金馬の噺は、そのオリジナルのマクラだけでも十分楽しめる。金馬はマクラで、その博識からさまざまな江戸時代の風俗や庶民の気風などを教えてくれる。たとえば、江戸時代の都都逸
 「鴨川の 水がきれいと自慢をするな くやしきゃ紫染めてみろ」
が紹介される。
 これは江戸の着物にこだわる人達が、京織物や友禅染めの評判が高く、高額でもわざわざ京都へ注文していたことへの江戸っ子のくやしさの現れでもあるが、「むらさき」だけは玉川上水でなきゃ色が出ない、という自負があったことを裏づけている。

 『胴斬り』『あたま山』や『首提灯』などと同様、ヘタなSFよりもSF的であり、荒唐無稽なことや残酷なことを描いていても決して下品にならず十分笑えて楽しめる、というネタの中の一つ。もちろん、季節情緒もたっぷり。加えて、死語となりつつある昔の仕事の名前を今に残す歴史的な意義だってある噺だと思う。地名もそうだが、昔あって今はない仕事を題材にした落語、ぜひ末永くたくさんの噺家さんが高座にかけ続けて欲しい。

桂三木助_たがや・三井の大黒
三遊亭金馬_たがや他
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by kogotokoubei | 2009-06-03 12:17 | 落語のネタ | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛