噺の話

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NHK あの人に会いたい 桂枝雀

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NHKのホームページより
 初回放送は4月7日だったが見逃したので本日再放送で見た。昨年4月にも落語家の柳家金語楼が登場したことを思い出す。
 正直言って、見ていてつらいものがある。命日は平成11(1999)年4月19日なので、亡くなってすでに10年の歳月が過ぎようとしている。もう、十年か。

 神戸大学を中退し昭和35(1960)年に21歳で米朝師匠に入門し、ABCラジオの「漫才教室」で名を上げた漫才少年前田兄弟の兄、前田達(とおる)は落語家の桂小米となった。兄弟子は現在の月亭可朝を含め二人いたが、いずれも通いだったので、初の住み込み弟子であった。入門当時の稽古熱心ぶりはすごかったらしい。

 朝日新聞大阪の学芸部編集委員として枝雀本人とも懇意だった上田文世さんの著『笑わせて笑わせて 桂枝雀』(淡交社)から引用する。今日の内容は、引用のみならず、多くをこの本に因っている。
上田文世_笑わせて笑わせて 桂枝雀
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小米の稽古熱心さは尋常ではなかった。深夜、この道をブツブツ言いながら
歩いて、警察に通報されたことがあった。米朝家では、ちょうど、長男の現
小米朝に続いて、双子の二、三男が生まれた頃だ。子守を頼むと乳母車を
押して出て、しばしば行方不明になった。さほど遠くない所に住む姉の絢子
さんにも同じ年代の子どもがいた。小米は度々そこに双子を任せては、ネタ
繰りにでかけた。「一緒に外出しても駅のホームで稽古をする。こっちはホ
ームの端の方に寄っていったもんです。」と米朝は言う。
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 昭和48(1973)年に二代目枝雀と襲名する直前に、最初のうつ病になっている。放送は、その病気を振り返ったり、どう乗り越えたかということにも少ない中で多くの割合を割いている。収録された番組は昭和50年代後半が中心で、四十代で全盛期の彼の姿が映される。しかし、そこまでの道のりは決して平坦ではなかった。昭和45(1970)年、31歳の年に七歳年下で「ジョウサンズ」という女性漫才トリオのメンバーだった志代子さんと結婚し、二年後に長男が誕生。結婚した翌年に、弟子のべかこ(現、南光)と米治(現、雀三郎)との三人で「桂小米の会」が伊丹の杜若寺で始まった。その後、会場を変えながら枝雀襲名まで続いた、入場者の最低が23人、最高が120人というこの会が枝雀の重要な修業の場であったことは間違いない。そして、枝雀襲名を目前にして、病が襲った。前掲書には、その頃のことがこう書かれている。
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「好事魔多し」というが、すべてがうまく走り出したところで暗転があった。小米
が「演芸場に行きたくない」と言い出したのだ。73年2月1日、大阪・道頓堀の
演芸場、角座の上席(一日から十日までの興行)初日だった。志代子は「お父
さんを送ってくるわ」と弟子に言って、小米と一緒に自宅を出て、いつもの角で
タクシーを拾った。「車に乗ったので舞台着を渡そうとしたら、降りてきて『怖い、
行かへん』と言って、その場にしゃがみ込んでしまったんです」と志代子。
「えらいことになりました」と米朝に電話。会社にも電話して代演を頼んだ。それ
からは、いろんな病院、医院を巡った。診断は強い鬱病だった。
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 その後、定時制高校時代の恩師森本先生や、阪大病院(当時)の柿本医師の努力もあり、小米は快方に向かった。前掲書から再び引用する。
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「長らく『心の旅』に出ておりましたが桂小米がこの度、無事帰国いたしました
ので、再びここに『桂小米の会』を開かせていただきます。」73年4月16日に
再開した「第十八回小米の会」の案内状には、そう書かれている。小米の
「心の旅」は三カ月で終わった。小米の演目は『崇徳院』と『悋気の独楽』。
前回の五十人から百二十人と、倍増したお客さんで小米は力強く復活した。
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 しかし、四半世紀後に病が再発。そして十年前の3月13日に自殺をはかり約一ヶ月後に息を引き取った。この放送のキーワードとして取り上げられている、最初のうつ病を克服したことに関し語られた次の言葉は、あまりにも重い。
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「自分を思うことが 自分を滅ぼすこと。
人を思うことが 本当は 自分を思うこと。」

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 自殺の際に遺書はなかったが、枝雀が一枚残した紙きれに、復帰後予定していた20日間連続で毎日3席づつ披露する独演会「枝雀六十番」のネタ順が書かれていたという。その一部を紹介。
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初 日  延陽伯・一人酒盛・どうらんの幸助
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三日目  代書・植木屋娘・愛宕山
四日目  壷算・くやみ・高津の富
  ・
七日目  七度狐・くしゃみ講釈・寝床
  ・
十二日目 鷺とり・宿替え・仔猫
  ・
十四日目 時うどん・雨乞い源兵衛・質屋蔵
  ・
十九日目 幽霊の辻・替り目・茶漬けえんま
千秋楽 つる・景清・崇徳院
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 残念ながら実現しなかった六十席の豪華なこと。どのネタもいまだにしっかりと耳に蘇る名演だ。たった10分の放送の中でも、「代書」「壷算」他いくつかのネタのワンショットが盛り込められている。「たら」「れば」の話ではあるが、元気だったならば、十分実現できたと思う、実現して欲しかった。昭和56(1981)年と昭和60(1985)年の二回、枝雀は一日三席の連続六日間の独演会「枝雀十八番」をサンケイホールで開いている。しかし、幻の「枝雀六十番」は毎日ネタを替えての20日間。単純に比較はできないが、志の輔inパルコは、同じ三席での連続公演である。凄いイベントになっただろうし、もしチケットが手に入ったら会社を休んででも行ったかもしれない。

 放送のタイトル通り、まさに「あの人に、そして、あの噺に会いたい」と思わせる。

 笑福亭松鶴師匠は、どんな時でもネタを繰っていた枝雀を称して、「あの男は、雨のしょぼしょぼ降る晩に、窓を開けてニタニタと笑う癖がある」と言ったらしい。今日の放送でも、傘をさし「ニタニタ」して歩きながら稽古する姿が印象的だった。「天才」とも言われるが、とんでもない努力の人であり、目一杯に真面目な人だったのだろう。収録された番組の姿と晩年への思いが交錯し、切なさと懐かしさが一緒にあふれ出てきた。
*教育テレビとデジタル教育では、まだ再放送があります。興味のある方はどうぞ。
  ・4月14日火曜日 午後2:30 ~ 午後2:40 教育/デジタル教育

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Commented by 梅薫庵 at 2009-04-11 23:24 x
貴重な情報ありがとうございます。ここまではチェックできないですよねぇ、普通。そこで録画するために、番組表を見ていたらその前4月14日教育テレビ午後2時から日本の話芸「柳家権太楼 子別れ~浮き名のお勝~」をやるようです。権太楼と枝雀、何か因縁めいてますね。

Commented by 小言幸兵衛 at 2009-04-12 07:59 x
おっしゃる通りですね。今、東西の噺家さんでもっとも枝雀的なのは権太楼師匠だと思います。公の場で話しているのかどうか知りませんが、枝雀への尊敬の念もあるでしょう。先日の梅団治との二人会は、枝雀トリビュートの思いが間違いなくあったと思います。ご指摘の14日の番組としてのつながり、何かの「縁」なのでしょうね。

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by kogotokoubei | 2009-04-11 16:59 | テレビの落語 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛