噺の話

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』

 さて、この本のシリーズ4回目。

 前回は、高校の先生との面談における歴史的瞬間をご紹介した。

 その後、小さんに弟子入りするまでは、なんとも不思議な縁が、稲葉稔少年を導くことになる。

 まずは、ある親戚から紹介された、ある噺家さんのこと。

 噺家になろうと決めたそんな夏のある日、私の従姉が久しぶりに遊びに来ました。この従姉は浅草の田原町でちょいと気の利いたクラブをやっていまして、エキゾチックな顔立ちをしたなかなかの美人です。私が高校の時に二十七歳くらいでしたから、いまは・・・・・・まあいいか。
 従姉は来るなり「みっちゃん!」と声をかけてきました。当時は、家族、親戚、町内、悪童、みな私を「みっちゃん!」と呼んでいたんです。
「みっちゃんは落語が好きだよね?」
「うん、まあ」
「あのね、うちのお客さんでね、芸能学校を作った人がいてね」
「うん」
「その中に落語の教室もあってさ」
「うん」
「それがさ、生徒が集まらないのだ」
「うん」
「それでね、みっちゃん、その教室に入ってみない?」
 人の運命は好むと好まざるとにかかわらず自然とその方向に向いて行くものなのだろうか、私は従姉への義理もありその落語学校に通うことになりました。
 そこで教えて下さったのが当時二つ目で有望株の三遊亭吉生さん(現六代目三遊亭圓窓師匠)。半年も通ったころ、授業のあと吉生さんに呼び止められました。
「稲葉君は今年高校卒業でしょ?大学は行かないの?」
「はい」
「就職は?どうするの?」
「・・・・・・」
「噺家になるつもり?」
「は、はい!」
「やっぱりね!よした方がいいよ」
 そう言われると思ってはいたものの、でもなりたいんです、と私は珍しく真剣に喰らいつきました。
「どの師匠に弟子入りしたいの」
「小さん師匠です!」
「目白かーっ?」
 ご存知の通り、役者や噺家は住んでいる所で呼ばれます。文楽師匠は黒門町、志ん朝師匠は矢来町、三平師匠は根岸、正蔵師匠は稲荷町、三木助師匠は田端、志ん生師匠は日暮里。
 五代目小さん師匠は目白の閑静な住宅街に住んでいました。そこで師匠は「目白の師匠」となるわけです。吉生さんは「目白かーっ?」と腕を組んだまま。
「駄目ですか」
「いや駄目というわけではないけど、小さん師匠はお弟子さんが多いから難しいかもしれないよ」
 確かに吉生さんの言うとおりでした。のちに弟子入りをい許されたあとで先輩たちから「ひと雨ごとに弟子が増えるね、まるで蛙だね」と言われました。実際、半年の間に私を含め五人も弟子が増えたのですから、そう言われても仕方ないですが、雨後の竹の子ならず、雨後の蛙とはうまいことを言うものです。
 難しいとは言いつつも、吉生さんはいろいろな入門志願成功のノウハウを教えてくれました。
「でも無理だと思うけどなーっ」
 と、また腕を組む吉生さん。それをもいとわず私は、五代目小さんに弟子入り志願しようと心に決めました。

 従姉-お客さん(落語教室)-吉生(現圓窓)、とつながる縁があったとは。

 高校生時代の圓窓との出合いは、落語の世界に入った後も、大きな財産となったのではなかろうか。

 さて、稔少年の落語家になる夢を後押しする縁は、他にもあった。
 続きを引用。

 となれば、いつその目白のお宅へ行こうか。いろいろ考えあぐねていると、意外な展開が待ち受けていました。
 私の実家の洋食屋によく食事に来てくれたお客さんに大沢さんという方がいました。大沢さんがある日、私の父に向かって、
「ねえマスター、お宅の次男坊、今年高校卒業じゃないの、大学は決まったの?」
 親父は皿を拭き、
「それがねぇ、噺家になりてぇなんてとんでもなねぇことを言い出しゃがって、困ってるんですよ、まったく!」
「へー、そりゃいいや、で!誰の弟子になりたいの」
「小さん師匠のとこへ弟子入りしたいとか言ってやがるんですがね、どうもお弟子さんが多いからとってくれねぇかも知れねぇ、とか言ってやがるんですが、こっちはその方がいいと思っているんですがね!」
 大沢さんは水をグィッと飲み、
「そりゃいいや、小さん師匠なら紹介してあげるよ」
「えっ!」
 思わず親父の皿を拭く手が止まりました。大沢さんは、師匠の小さんが二つ目の頃からのご贔屓で「師匠!」「どうも!」の仲とのこと、紹介するくらいはたやすいことだと言います。果たせるかなその大沢さんの紹介で目白の五代目柳家小さん師匠の門をくぐることになるのです。
 大学進学をあきらめてから「噺家行き」という列車にいつの間にか乗っていて、駅、駅でそれぞれの人たちに迷うことなく乗り換えさせてもらい、この目白の五代目柳家小さんという駅に連れてきてもらったような気がします。そこには自分の噺家になりたいという意志とは別の力がはたらいていて、運命とはこんなものかとも思いましたが、それは噺家になれたから言えることなのでしょう。

 こんなこともあるんだぁ、という経緯(いきさつ)ではないか。

 たしかに、本人の意志とは別な運命的なものを感じるね。

 ということで、目白に通う前座修業が始まるのだ。

 その修業時代に、キッチンイナバのレシピ通りでさん喬(小稲)がある洋食を師匠のために作ったのだが・・・とか、喬太郎の名付け親や師匠さん喬でもなければ大師匠小さんでもない意外な人だった・・・とか、サッカーチームがつくれるほどの11人の弟子それぞれについてのさん喬による、とんでもない逸話を含む紹介・・・などなど興味深い内容がふんだんにあるのだが、やはり、それは実際に買って読んでいただきましょう。

 本シリーズ、これにてお開き。
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# by kogotokoubei | 2017-11-22 12:36 | 落語の本 | Comments(0)
 関内ホールの改修工事のため、今回から会場が、地下鉄駅で関内から三つ目の吉野町駅から数分の市民プラザに替わった。
 ちなみに関内ホールは竣工30年を超えての長寿命化工事とのことで、今月から来年9月まで休館。

 六時半の開演には間に合わず、ホールに着いたのが七時十分ほど前。受付の方が開口一番がちょうど終わって、一席目が始まるところと教えていただき、ホール内にこっそり入って空席を見つけ、なんとかマクラが始まってすぐのところに滑り込んだ。

 200席の会場は、七割ほどの、見た目はちょうど良い感じの入り。
 小満んの同級生有志が、頑張って動員したのではなかろうか。

 通路を隔ててお隣にI女史がいらっしゃったので、目でご挨拶。

 三席、順に感想などを記す。

柳家小満ん『奈良名所』 (15分 *18:48~)
 上方の『伊勢参宮神乃賑』、『東の旅』の冒頭部分にあたる。
 小満んが演じるので、旅をするのは江戸っ子の二人連れ。京大坂を見物して、奈良まで足を伸ばした。
 尼ケ辻で道が二つに分かれて右が大和郡山、左は南都奈良、「今なら、尼ケ辻ジャンクション」で軽く笑わせる。前にいたご一行の笠に○にアとあるから、「阿波の百人講だ」と分かる。腹がへったという相棒に、そういうときには「粋に、ラハが北山(きたやま)と言え」と叱る。ラハ は、腹のひっくり返し、北山は、天気がいいと透いて(空いて)見える、という洒落。やり込められた方が、「腹がラハなら、メは?」「ハ は?」とやり返そうとする会話は、『居酒屋』の酔っ払いと小僧のやりとりを思わせて可笑しい。
 着いたところが、奈良の宿屋町。うるさい客引きに、定宿がある、と断る。宿の女中に「定宿はどちらで?」と問われ、「インバイヤ・・・いや、インバンヤ・シュウエモンだ」「手前どもがインバンヤで」というやりとりの後、この噺の聴かせどころの奈良名所の流れるような紹介が続く。上方落語『猿後家』でもこの部分は登場するねぇ。
 興福寺の南円堂、西国三十三所九 番目の札所、三作の塚、三作という小僧が習字の半紙を食べた鹿を追い払おうと文鎮を投げたら死んでしまい、石子詰の刑に処せられたという逸話を披露。「いにしへの 奈良の都の八重桜 今日九重に匂ひぬるかな」は伊勢大輔の作、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠山に出でし月かも」は、阿倍仲麻呂、などの百人一首がズラっと並べられるなど、これぞ小満んワールド。
 春日神社では、その灯籠 の数と鹿の数をよんだら長者になると言われている。灯籠は数えることができても、鹿は皆同じような顔をしていて、しかとわからぬ、で笑わせて、奈良では放してある鹿を大事にしている・・・放してある鹿、はなしか、噺家を大事に、と畳み掛ける。 
 本来は大仏様で、目から鼻に抜ける、というネタのサゲだが、短縮版で切り上げた。とはいえ、小満んの奈良名所案内、実に結構でした。

柳家小満ん『なめる』 (38分)
 いったん下手に引っ込んで、再登場。場所は変われど、この会の決め式は不変だ。
 「猿若に 七つ目を積む にぎやかさ」の川柳で始まった。
 『今昔物語集』に原話があるという由緒ある(?)艶笑噺で、だから、円生が十八番としていた。
 多くの落語と似た設定があるのを発見するのが、落語愛好家の別な楽しみかもしれない。
 前半、八五郎が猿若町の中村座の桟敷で、若くて綺麗なお嬢さんと連れの年増に頼まれ、「音羽屋!」の声をかけて喜ばれ、弁当をご馳走になり、その後、業平の寮(別荘)に招かれる、という件は、『浮世床』の「夢」に実によく似た設定。しかし、これは夢ではない。
 十八歳のお嬢さんは乳房の下にデキモノがあり、易者によると四つ上の男に舐めさせれば治るという。八五郎は、まさにその二十二。
 デキモノを舐めれば、この娘は自分のもの、と思って舐めた八五郎。さぁ、泊まっていこうかと思っていたところへ、酒乱の叔父さんが戸を叩く音。
 年増女によると、ついこの前、八百屋が訪ねてきていたところに酔ってやって来て、八百屋は斬られそうになったと聞けば、すたこら駒形の家へ逃げるしかない。このあたりは、『紙入れ』にも似た騒動だ。
 翌日、業平を再訪した八五郎。寮に着いたが、人気がない。隣の煙草屋の主に尋ねると、「あぁ、出入りの方。それならお話しましょう。こんな可笑しな話はない」というあたりからは、まるで『転宅』。
 こういう筋書きそのものの楽しさを十分に味わわせてくれるだけではないのが、小満ん落語。
 マクラでは、猿若町の芝居小屋の構造を、詳しく紹介してくれた。平土間に高土間、高土間の奥に上と下に桟敷(しゃじき)があり、下が「うずらの席」。八五郎が、二人の女性の計略とは露知らず、鼻の下を伸ばして「音羽屋!」と叫んでいたのは、この「うずらの席」だ。
 奈良名所案内の後には、猿若町芝居小屋案内。
 円生のこの噺をテレビで観たことがあるが、やや下卑た印象を受けた。小満んは、オデキを舐める場面、「こういうのは、私の柄じゃないんですが」と笑いながら、軽く演じて、後味も良かった。これまた、好高座。
 
 ここで、仲入り。
 ロビーでこの日の居残り会参加の方々と、居残りはできないながらお越しのお仲間にご挨拶。

 さて、トリネタは、あの噺だ。

柳家小満ん『お直し』 (40分 *~20:36)
 今度のマクラは、小満んの「吉原講座」だ。
 籬(まがき)の位置や、西の河岸が二朱店、東が羅生門河岸、などなど、勉強になったなぁ^^
 志ん生なら、「こんなこたぁ、学校じゃ教えない」と言いそうだ。
 その志ん生がこの噺で昭和31年の芸術祭文部大臣賞を受賞したのは、有名。
 筋書きは、吉原の中(位の)店で働いていたベテラン花魁と牛(妓夫)太郎の二人がいい仲になり、主人の計らいで証文を巻いて(棒引きにして)もらって夫婦になり、女は遣り手、男は変わらず店の若い衆(わかいし)として働くことになった。少し小金がたまってくると男が千住(こつ)で遊び始め、揚句には博打でスッカラカンとなって、羅生門河岸で二人で「けころ」を始める、というもの。
 私は、この噺、夫婦のみならず、店の主も重要な登場人物だと思っているが、小満んが演じる主人、良かったねぇ。
 威厳もあれば、あの世界で生きているだけあって、腹も座っている。
 けころまでになって客をとり、酔った客を手玉に取る女房の姿も、見て聴いていて、なんとも小気味がいい。
 「直してもらいなよ」と繰り返しながら、最後は感情が高ぶってくる男の様子の描写も見事。
 ヤキモチは焼くなと念を押していたのに、つい女房と客の会話で取り乱す姿に、男の弱さがしみじみと表される。
 そして、その旦那に「易者と同じで、口裏を合わせるのが商売なんだよ」と言い切る姿に、女の強さをまざまざと感じたなぁ。
 小満んは、志ん生版を土台にしていると察するが、着物などの形容も、実に渋いのだ。
 花魁が遣り手になった時の身なりの変化の描写、志ん生の高座では、次のようになる。
『志ん生廓ばなし』(ちくま文庫)
 緋縮緬の長襦袢に禰襠(しかけ)を着て、髪は赭熊(しゃぐま)に結って、お客をとっていたのが、今日はがらっと変わっちゃって、髷に結って眉を落として、唐桟の襟つきの着物に、八端の黒繻子の腹合わせの帯を引っ掛けに結んで、食いこむような白足袋ィはいて、煙管ゥ持って、お客と花魁の間の、つまりこのォ事を運ぶんですな。これをおばさんてェます。
 こういう描写は、誰でも似合うってぇことはない。
 しかし、小満んには、ピッタリだった。
 吉原講座のマクラと本編を含め、今年のマイベスト十席候補とする。
 

 終演後は、佐平次さんが前もって予約していたお店で、I女史、F女史とよったりでの居残り会。
 さすが、飲み屋の目利きでは日本一の佐平次さんの選択である。旨い焼き鳥と、楽しい落語談義で、松竹梅「辛口豪快」の二合徳利が、何本空いたのやら。
 居残り会を含め、小満んワールドに浸りきった夜だった。
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# by kogotokoubei | 2017-11-21 15:32 | 落語会 | Comments(2)
 日馬富士の暴行事件の報道が、なんとも言えない暗い気持ちにさせる。

 真相はどんどんグレイになっているなぁ。
 それにしても、貴乃花親方バッシングになりつつあるのが、実に嫌だ。
 協会が裏で、どんどんネタをリークしているのだろう。
 
 ここは、熊さんとご隠居の会話で、シャレのめしたい。

熊五郎 ご隠居、こんどの事件、ビール瓶じゃなくて素手だろうと、ありゃあ
    横綱のするこっちゃねぇでしょう。
ご隠居 そりゃそうだ、とてもプロの中の最上位の人間がやることではないな。
熊五郎 そうか、プロじゃないはずだ。
ご隠居 どうしてだい。
熊五郎 前の名前が「アマ(安馬)」でした!

 第二弾。

熊五郎 それにしても、相撲協会は、こんなことが公けになって困ってんで
    しょうね。
ご隠居 そうだよ、理事長だって、名前のように、ハッカクして欲しくなかった!

 オソマツ・・・・・・。

 では、気分をかえて。

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』

 さん喬の著書からの三回目。

 今回は、本所の洋食屋「キッチンイナバ」の倅だった稲葉稔が、なぜ噺家の世界に飛び込むことになったのか、ということについて。

 さん喬は昭和23(1948)年生まれ。まさに、“団塊の世代”だ。
 
 彼が子供の頃、昭和20年代後半から30年代には、ラジオでは落語がたくさん流れていた。

 そのころはもちろんテレビなどはありません。ラジオが何よりも庶民の楽しみでした。今とはちがい、どの局に合わせても演芸番組が花盛り、幼い私でも、金語楼・柳橋・志ん生・文楽・金馬・痴楽・エンタツアチャコ・牧野周一・木下華声・千太万吉・英二喜美江等々の師匠方の名前は聞き覚えていました。のちに芸人の世界に入って、中のは、まだお元気に高座をお務めになっておられるそんな師匠方のお身回りのお世話をさせていただけるのは、なんとも心躍る気持ちでした。
 ラジオにかじりついていたのは、六、七歳の頃ですが、私は小学校の卒業作文に「将来は人を楽しませる職業につきたい、喜劇役者、落語家、映画監督や俳優」などと書いた覚えがあります。そのころはテレビも普及し始めて、八波むと志や三木のり平などにあこがれていました。

 芸人への憧れ・・・分かるなぁ、この気持ち。

 私も、小学校時代からお笑いが好きで、ベニヤ板で作ったウクレレもどきを学校に持って行って「あ~ぁ、やんなっちゃったぁ」なんて友達の前でやっていたものだ。
 そんな少年の高校時代は、70年安保闘争が始まっていた。

 そういう時代性が、彼の人生に大きく影響した。

 学生運動華やかなりし頃で、毎日のように学生運動の報道がなされていました。そんな高校二年のある日の授業中のこと、親大学の学生が、突然校庭にトラックで乗りつけ、スピーカーのボリュウム一杯に、
「君たちは、やがて大学に進学し学問をおさめようと、大きな夢を描いているだろうが、今、わが大学はそのような価値もなく、ただ漫然と・・・・・・しかるにわが国家の政治家どもは・・・・・・」
 とか訳のわからないアジ演説をとうとうと始める。もちろん授業にはならず、先生や職員がやめさせようと校庭に出てはみるものの収まろうはずもない。多くの人に迷惑をかけている自分勝手な行動に、少年の心の中にあった大きな夢は大阪城が焼け落ちるがごとく大きな音を立てて崩れ落ちた・・・・・・のであります。自分の憧れていた大学と目の前で見せつけられた大学生の姿、すべての学生がそうでないことはわかっていても、自分の中で憧れががらがら崩れたことはまちがいありません。

 昭和23(1948)年8月生まれだから、稔少年が中央大学附属高校に在籍していたのは、昭和39(1964)年から42(1967)年までだろう。

 70年安保闘争の先がけ的な時期であるとともに、当時、中央や他のいくつかの大学では、学費値上げ反対運動が盛んだったはず。

 同級生の中には、大学生のアジ演説に感化され学生運動に走った人もいたに違いない。そして、さん喬のように、大学に進学する意欲を失った人も少なくなかろう。

 さて、その後、稲葉稔少年はどうなったのか。

 私は目標もなくなり勉強する気にもならず、成績はどんどん落ち、とうとうクラスで最後から二番目。私より下がいたのが驚きだが、ゴルフならブービー。コンペなら賞品が出ますが、学校じゃ出ません。出てきたのは心配した担任の先生、何か悩みでもあるのではないかと私は職員室に呼び出し、
「稲葉!こんな成績では、いくら附属高校でも、学内選考で落とされて大学に進学できないぞ、お前どうするつもりだ?」
 返事もせずにうつむいている私に、先生が肩に優しく手をかけて、
「どうするつもりなんだ?」
 とさらに言いつのります。先生の気持ちを思うと、何かすぐに答えをださなくてはいけないような脅迫観念にかられた私は思わず、
「大丈夫です先生、僕、落語家になるんです!」
 と口にしていました。
 えっ、なんで、おれが噺家?どうして?自分の中に潜在的にひそんでいたものが、追い込まれたその時に、窮鼠猫をかむが如くピュッと飛び出したのか?自分でもわかりません。
 そのとき、私の肩に置かれた先生の優しい手が一瞬離れました。
「おい、稲葉!何を言ってるんだ、そんなこと言わずに頑張れ。お前なら上にいけるんだから」
 当然そんな言葉が返ってくると思っていたその瞬間、
「そうか、お前ならいいかもな」
 と、先生の手は私の肩には戻らず自分の膝に戻ったのでした。

 まことに失礼ながら、この部分を読んで、私はプッと噴出してしまった^^

 先生も、稲葉稔少年のことをよく見ていて、その適性を感じていたということなのだろうが、なんともあっさりと落語家志望に同意したものだ。

 もし、担任の先生が強力に反対したら、いったいどうなっていたのかは、歴史のタブーの「IF」だね。

 ともかく、この歴史的瞬間を経て、稔少年は次の段階に進むことになる。

 さて、その後、目白に弟子入り志願するまでに、どんな物語があったのか・・・は、次回のお楽しみ。

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# by kogotokoubei | 2017-11-20 12:27 | 落語の本 | Comments(6)

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』
 さん喬の著書からの二回目。

 まずは、ご本人の実家のこと。

 私の生まれ育ったのは、東京の本所という町です。浅草から吾妻橋を渡って四、五分歩きますと本所吾妻橋という地下鉄の駅があります。この交差点の一角にあります「キッチンイナバ」という洋食屋が私の実家であります。そうです私は洋食屋の小倅です。それが何で噺家になったのかと?それはまあ、あとでお話しするとして。


 私も、何で噺家になったのかは、あとのことにする。
 
 なぜなら、この後に続く文章が、なかなか良いので、今回はこの内容を主役(?)としたい。

 昭和四十四年までは都電が走っていましたっけ。家の前が吾妻橋二丁目という停留所でした。月島から柳島(福神橋)へ行く二十三番と、須田町から東向島三丁目へ行く二十四番と三十番の二路線が走っておりました。この吾妻橋二丁目の停留所で向島へ行く電車が大きく左へ曲がっていくのと真っ直ぐ柳島へ行く電車とが軌道のポイントを使い行き交っていまして、当然逆方向もありますから、その騒音は言うまでもありません。さらに深夜に土浦の駐屯地へ向かう警察予備隊(現自衛隊)の戦車が都電の軌道を通り抜けると、キャタピラとレールとの摩擦で放たれる火花と轟音はさながら雷がおちたようでした。昼間は昼間で馬車が肥桶を載せて、ヒズメの音をさせながらパカパカ、ゴロゴロ、ピチャピチャ、ヒヒーンと騒がしく往来し、時折定斎屋(薬売り)が引き出しの環をカタカタ言わせながら売り歩き、キセルの羅宇屋が蒸気の音をピーッと響かせながら街角で客待ちしていたり、爆弾あられ屋が大きな音を立てたりで、とにかくうるさい、いやもうそりゃやかましいったらありゃしない!でもそのやかましさは戦後復興の音であったかもしれません。

 ねぇ、いい文章でしょ!
 ぜひ、そのうち高座のマクラでお聞きしたいような内容。

 映像が眼に浮かび、その音が耳に聞こえそうである。

 以前、八代目林家正蔵のことを書いた記事で、「二邑亭駄菓子屋のよろず話」のサイトから、正蔵や“留さん”文治が住んでいた稲荷町の長屋の写真をお借りした。
2013年1月29日のブログ


 その「二邑亭駄菓子屋のよろず話」のサイトに、都電23番と24番が並んだ写真があったのでお借りした。
「二邑亭駄菓子屋のよろず話」の該当ページ

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 この写真には、
柳島車庫前で出発を待つ[23][24]番。向こう側が福神橋(終点)
7両もつまっている……。1972.7
というキャプションがついている。

 二邑亭駄菓子屋さんは、この都電の写真のページで次のように綴っている。
 1960年代は、都内のおもな通りにはすべて都電が走っていたように思う。
 放浪癖があった私は、小学生時代から都電を乗り換えてあちこちに行ったものだった。
 浅草に住んでいた小学生時代は、銀座と南千住を結ぶ[22]番(系統)や、三筋町にある図書館に向かうために[23][24][31]番にお世話になった。
 中学生になると、[16]番で通っていた時代もあった。

 だが、いつのまにか路線も少なくなり、写真を残そうと思ったときは、だいぶ減ってしまっていたのは残念である。
 それでも、なんとか、両親の実家がある墨田区を中心にして、小学校時代に住んでいた台東区、そして江東区、中央区という下町を走っていた都電の最後の姿を写真に残すことができたのは幸いである。

 二邑亭駄菓子屋さんも、23番や24番にお乗りになっていたんですねぇ。

 駄菓子屋さん、都電の最後の姿を残していただき、ありがとうございます。

 さん喬が書いている都電の軌道に響く「戦後復興の音」、二邑亭駄菓子屋さんが残していただいた貴重な写真を見ると、聞こえてきそうだ。

 「三丁目の夕日」という漫画が好きだが、それは、やはり昭和三十年代後半から四十年代前半の、“あの頃”のことに浸れるからだろう。

 私が子供の頃、北海道の田舎では、定斎屋(薬売り)が引き出しの環をカタカタ言わせながら売り歩く音や、キセルの羅宇屋が蒸気の音をピーッと響かせる音は聞かなかったが、「ドン」という名で親しまれたトウキビの爆弾あられの音は、懐かしい。
 肥桶を載せた馬車のヒズメの音も覚えているし、その後に残った落し物の臭いも、思い出すなぁ^^

 ということで、今回は、さん喬の持ち味である丁寧さあふれる文章で、昭和の“あの頃”を振り返って、お開き。
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# by kogotokoubei | 2017-11-18 12:42 | 落語の本 | Comments(0)

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』
 
 11月5日の東雲寺寄席で、著者柳家さん喬ご本人からサイン入りの本をいただいた。
 筑摩書房のwebマガジン「webちくま」に連載したエッセイを元にした本。

 「第一部 修業時代」「第二部 師匠時代」「第三部 外つ国にて」「第四部 師匠と弟子」の四部構成、全部で二十九の章がある。

 この本、さん喬の修業時代のことを知り、また、人間としていろんな面を知ることができて、楽しく読めた。

 何回かに分けて紹介したいが、最初は、初鰻の思い出。

 文章の途中に挟まれる「落語キッチン」の二回目にある内容なのだが、なかなか趣向を凝らした文体で書かれているのである。

 忘れもしない、鰻を初めて食べたのは、噺家になった十八歳の時です。もっと詳しく言うと、昭和42年7月31日午後六時過ぎのことです。
 入門した年の、落語協会恒例の「夏の寄り合い」の日とデパートの閉店時間という、これらの記憶を辿ると確実な時間や場所が限定させるのです。
 うなぎ初体験のあらましは、こんな事でした。

 被疑者・柳家さん喬は、昭和42年7月31日に千葉県・成田山新勝寺で行われた落語協会「夏の寄り合い」に協会員95名余と参詣し、その後割烹旅館梅屋大広間に於いて親睦会と称した宴会に参加。
 その際、文楽・圓生・正蔵・小さん、超人気者の三平・圓歌、まだ若手だった、志ん朝・小三治・扇橋が余興を行い、全協会員が抱腹絶倒・・・・・・
ーエーッ、どんなことがあったの、教えて教えて!
ーウォッホン、これは本件と関係なき事であるゆえ割愛いたします。
 さて、被疑者は師匠五代目柳家小さんの供をして午後三時過ぎの矯京成電車特急にて成田駅から上野駅に向かい、同駅より地下鉄銀座線に乗り換え銀座駅にて下車、デパート松屋銀座店へ向かった。
 当日は、同店ギャラリーで開催されていた彫刻家・植木力氏の個展の最終日であり、展示作品の中に含まれていた五代目小さんの胸像を、展示会終了後に植木氏より贈呈される約束がなされていた。
 しかしその胸像が大変重く、担ぎ手が必要とされ、被疑者は師の命にて同店に同行した。
 無事植木氏より胸像を受け取り、その場を立ち去ったのが閉店時間の午後六時。
 ここで師より「おい!鰻を食いにいこうか!」と誘われ、いまだに食したことのない鰻なるものに大いなる抵抗を覚えたものの、師の誘いを断る勇気は出ず、未知の食い物への興味関心も抗いがたく、ついに禁断の一口を頬張ることになった。
 それ以来被疑者は鰻の虜となり、何かにつけて無意識に鰻に手を出すことになってしまったのであります。
 裁判長。本件は決して自らが選んだ道とは考えづらく、師の甘言によってかような人間に作り上げられしものと推察するものであります。
 以上陳べましたことを考慮して頂き、寛大なる裁定を願うものであります・・・・・・と、何も裁判風に書く必要もないですが。

 たしかに、裁判風にする必要はないが、さん喬の意外なお茶目な面が出ているようで、楽しい。

 この日の余興の内容、本件(?)とは無関係とはいえ、知りたいねぇ^^

 店の名は出していないが、銀座であることは間違いなかろう。

 あるいは、当時の松屋銀座に鰻屋さんがあったのかな。

 引用を続ける。

 初めて鰻を食べた時、世の中にこんな旨いものがあるかと思ったくらい美味しく感じました。
 その時「噺家になって良かった。これからこんなに旨いものがいくらでも食べさせてもらえるなんて!」と、とんでもない罰当たりなことを考えました。
 (中 略)
 あれから四十年余、それ以上の旨い鰻にめぐり会えません。
 確実にあれより旨い鰻を食べているはずなのですが、初めて師匠にご馳走になった時のあの喜びと感動がない限り、あれ以上の旨い鰻にはもう出会えないのかなあ・・・・・・。
 いやいや、今度あなたがご馳走してくださる鰻こそは!

 さん喬って、こんな楽しい文章書くんだ、と私は意外な思いだった。

 落語愛好家の間では、本所にあった洋食屋「キッチンイナバ」が実家だったことは有名だろう。
 結局、開店している間に行くことができなかったなぁ。

 その洋食屋の倅が、なぜ噺家の道を目指すことになったのか・・・・・・。

 次回は、そのあたりをご紹介するつもり。

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# by kogotokoubei | 2017-11-16 22:37 | 落語の本 | Comments(4)

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 8月に、ある映画を観て感動し、記事を書いた。
2017年8月24日のブログ

その映画、『約束の地、メンフィス テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー』が、高円寺Unknown Theaterで、11月22日から12月3日まで上映される。
高円寺Unknown Theaterのサイト

 あらためて、公式サイトから引用。
「約束の地、メンフィス」公式サイト

テネシー州メンフィス。ここでは多種多様な音楽が生まれ融合し、また、数々の“生ける伝説”と呼ばれる世界的ミュージシャンたちを輩出してきた。彼らを今一度この故郷に呼び戻し、名門ロイヤル・スタジオ等にて、ジャンルや人種、世代を超えた新たなレコーディングを行い、メンフィスの音楽と精神を現代の世界に再び送り出そう――この破天荒なプロジェクトの過程を追ったドキュメンタリーである本作。

ブッカーT.ジョーンズやメイヴィス・ステイプルズ、惜しくも収録後にこの世を去ったボビー・ブランドやスキップ・ピッツといった巨匠たちが次世代を担う若者に音楽を継承する貴重なセッションの数々を、かのスタックス・レコードの盛衰に象徴される黒人差別の歴史と絡めつつ綴っていく。偉大なる先人たちがプレイの秘訣を惜しげもなく伝授してゆくシーンが印象深く、過去から現代へ粛々と受け継がれるこの地の“ソウル”がスクリーンから溢れ出す。音楽の本質を垣間見せてくれる感動作。
 
 メンフィスのスタジオに集まった歴史に名を残すミュージシャン、そして彼らを尊敬してやまない若者たちとの交流。
 練習しながら、突如予定していなかった曲の収録が始まる場面や、若いラッパーとレジェンドの競演で年の差を超えたシンクロナイゼーションが起こる場面など、私は身震いしながら観て、聴いていた。


 音楽好きはもちろん、アメリカの公民権運動や歴史に興味のある方など、幅広くお奨め。

 出演した何人かの素晴らしいミュージシャンは、すでに天国に旅立っていることもあり、アメリカ音楽史に関する貴重な記録でもある。

 サウンドトラックも素晴らしかったので、ついAmazonにレビューを書いてしまった。
サウンドトラック『約束の地、メンフィス ~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~』

 いまだに、私は携帯音楽プレーヤーで毎日のように聞いている。

 高円寺か・・・なんとか時間を見つけて、もう一度観たいなぁ。


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# by kogotokoubei | 2017-11-14 19:19 | 映画など | Comments(0)

初代林家正楽のこと。

 紙切りの林家正楽、私は初代どころか二代目さえ生で見たことはない。

 しかし、先日書いた二代目正楽の記事には、二代目のみならず初代もご覧の方からコメントを頂戴した。

 ということで、やはり初代についても書かねばなるまい。

 とは言っても、初代正楽について書くのは、初めてではない。
 今年8月に、この人が残した貴重な戦争の記録(日記)について、小島貞二さんの二冊の本から、二回に分けて記事を書いた。
2017年8月21日のブログ
2017年8月22日のブログ


 あらためて、どんな方だったのか。
 『古今東西落語家事典』などによると、上方にも同じ名前があったので、正しくは「江戸の初代」としなければならないが、初代林家正楽は、明治28(1895)年11月18日生まれで、昭和41(1966)年4月15日に旅立った。
 長野県出身で、本名は一柳金次郎。
 生前は当時の日本芸術協会、現在の落語芸術協会に所属。
 大正6(1917年)に、後に六代目林家正蔵となる四代目の五明楼春輔門下となり、正福と名乗った。 大正8(1919)年1月に、睦会設立に合流して二ツ目となり、「睦」の字に因んで四代目睦月家林蔵(むつきやりんぞう)を名乗ったが、その翌年には、六代目桂才賀を襲名。
 二代目が春日部訛りで苦労したことは書いたが、初代も 出身地であった信州の訛りが治らず落語家としての将来に不安を抱いたことが、紙切りに転ずるに至った大きな理由だったようだ。

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今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)

 もう少し、初代正楽の人物像が推し量れる内容を紹介したい。

 初版は1956年11月に青蛙房から刊行され、平凡社ライブラリーから2000年3月に再刊された、今村信雄著『落語の世界』の「紙切りと正楽」の章より引用する。

 紙切りの林家正楽も、以前は桂才賀という落語家だった。趣味ではじめた紙切りが今は本職となり、余技と本芸とは入れ替ってしまった。過去四十年間に切った紙は実にお三十五、六万枚に及ぶという。今はまったく名人の域に達し、海外にまでその名が響いている。鋏で持って紙を切ることは昔も吉田小広などという人がいたがそれは文字を切ったもので、又おもちゃという紙切りもあったが、註文の通りに絵を切るようになったのは正楽がはじめてである。現在では三遊亭円雀ら二、三の人がいるが、その技術は正楽に遠く及ばない。

 ちなみに、当代の桂才賀が七代目なので、初代正楽は、先代の才賀ということ。
 円雀は四代目のことで、五代目は昨年旅立っている。

 引用を続ける。

 父は表具師であたが芸事が好きで、始終寄席や芝居に行っていた。正楽が傍で遊んでいると、父が木鋏で種々な物を切ってくれた。正楽はその真似をして様々な物を切ったのがはじめなそうだ。
 父は正楽が十三の時に死んだので、当時日本橋馬喰町で小間物屋をしていた兄の許に引き取られ、小僧と一緒に働いていたが、後には番頭として兄を助けるようになった。外に道楽はなかったが、親父譲りで寄席が大好き、近くの立花家へ定連のように通っていたが、お約束で、聞くだけでは満足出来ず、店の小僧や若い者を集めて、はなしをやって聞かせた。時には貸席を借りて近所の者を集めて煎餅などを出して聞かせることもあった。
 ちなみに、『古今東西落語家事典』では、十三歳で姉の嫁ぎ先のリボン問屋に奉公のため上京、となっている。
 いずれにしても、信州から東京に出たわけだ。

 そうか、お父さんの趣味だった紙切りの思い出が、金次郎少年の心に残っていたんだね。

 つい趣味が高じて他人にはなしをきかせたという逸話、旅行の宴会で下手な落語を友人に聞かせる私などは、大いに親近感を抱く^^

 天狗連からプロとなったのだが、その後に紙切りに替わるきっかけは、前述したように、睦会の二ツ目時代のこと。

 寄席で紙を切るようになったのはこの二ツ目時代で、四谷の喜よし亭で、暮れのある日珍芸会が催されて、皆歌ったり、踊ったり、ふだんやらない芸をやったとき正楽は、あいにく隠し芸が何もないので、紙切りをやって見せた。それが大好評で、「そんなに立派な芸があるのに、なざやらなかった。これから毎晩やれ」といわれて、その後は落語のあとで、二、三枚ずつ切っていた。当時大家が大勢そろっていたから、なかなか深いところへなぞはあがれなかったが、色物だから大家の間に挟まってかけもちをして歩いた。
 やがて先代文楽、後のやまとから、桂才賀という名をもらい、大正13年に林家正楽となった。一柳金次郎の名で新作落語を多く書いているが、落語家の上りだけにコツを知っているから、あの人の書くものはやりよいと皆がいう。傑作には『壺』『案山子』『さんま火事』などがある。

 落語作家でもあったわけだ。
 とはいえ、『さんま火事』は聴いたことがあるが、『壺』『案山子』は聴いたことがないなぁ。『峠の茶屋』というネタも作ったらしいが、知らない。
 そういった正楽作の噺、誰か、演っているのだろうか。

 信州訛りに苦労する金次郎少年を救ったのが、芸事の好きだった父親が見せてくれた紙切りだったわけだ。
 
 紙切りは、文字などを切る「切り絵」として最初は演芸の仲間入りをしたようなので、初代正楽のお父上は、切り絵の芸を真似ていたのかもしれない。
 その父の素人芸から、今につながる「紙切り」という確固たる色物につながったということか。
 林家系以外にも紙切りの芸人さんはいるが、初代林家正楽につながる系統は次のようになるはず。

             初代正楽
               |
               |
               ---------------
               |      |
            二代目正楽    今丸
               |      |
               |       -------------
               |      |      |
               |      花    今寿
               |
               ---------------
               |      |
             三代目正楽   二楽
               |
              楽一

 当代の正楽には、今後も頑張っていただきたい。
 あの話芸も、なんとも得難い味がある。

 また、二楽、楽一と若手が紙切りという芸を継承してくれているのは、嬉しい限りだ。


 三代目小南の誕生、そして、協会の壁を超えた弟二楽の披露目への出演で、二代目正楽や初代正楽のことが振り返られると良いなぁ、と思っている。

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# by kogotokoubei | 2017-11-13 18:45 | ある芸人さんのこと | Comments(0)

二代目林家正樂のこと。


 三代目桂小南の襲名披露興行は、都内定席三つでの開催から少し間が空いて、国立演芸場の今月中席で再開される。

 小南、そして二楽の父は、ご存じのように、二代目の林家正樂。

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矢野誠一著『昭和の藝人 千夜一夜』

 矢野誠一さんの『昭和の藝人 千夜一夜』(文春新書)から、どんな人だったのかを紹介したい。

 
【二代目林家正樂】佐藤栄作作に可愛がられた紙切り紙ちゃん

  1935(昭和10)ー98(平成10) 埼玉県春日部生まれ。本名山崎景作。紙切り職人。
  54年八代目林家正蔵(彦六)に入門、正作。翌年紙切りに転じ、林家正樂に師事。
  56年小正樂、66年二代目正樂襲名

 二代目林家正樂の愛称は紙ちゃん。初代は「紙工藝」と称していたが、高座で一枚の白紙の注文に応じて鋏で切りぬく、「紙切り」の藝人だからである。この紙ちゃん、1954年に八代目林家正蔵(彦六)に入門したときは、落語家志望だった。
 生まれ育ったのが埼玉県の春日部。春日部といえば、いまでこそ東京の一大ベッドタウンと化しているが、紙ちゃんの入門した頃はのどかな田園風景のひろがる農村地帯だった。当然のことながら強烈な春日部訛りの持主で、師匠正蔵のつけた前座名が正作。これ落語では田舎者の代名詞なのである。
 上野鈴本で『本膳』を春日部訛りで演っていると、最前列に陣取った田舎の客が怒り出した。
「あまりオラたつをバカにするでねェ」
 すかさず答えた。
「バカにすてるでねェ。オラ、まずめにやってるだ」
 人形町末廣で、高座に穴があきそうになり、上野鈴本から誰か応援をたのむべく電話したとき、
「人形町に穴っこあいてるだ」
 とやった一件は、しばし楽屋の語り草になった。落語家の見込みはないと、師の正蔵が判断して、名人だった初代のところへ連れて行き「紙切り」の道へ。もらった名刺が小正樂、紙ちゃん誕生である。

 鈴本での客とのやりとり、なんとも笑える。

 私は、北海道生まれでそれほど訛りは強くなく、学生時代を関西で過ごし、就職してから新潟、そして今の関東と渡り歩いて(?)きたので、それほど訛りで苦労したことはないが、東北や北関東で訛りが体の芯まで染みついた人は、東京言葉の相手と会話する上で大変だろうと思う。

 特に、話すことを生業(なりわい)とする仕事で、いわゆる標準語や江戸弁を求められる場合は、その苦労は並大抵ではないだろう。

 ということで、ついに、落語家の林家正作は、紙切りの林家小正樂に転じたわけだ。

 引用を続ける。

 訛りもひどかったが、ふだんの身装(なり)も垢抜けなかった。兄弟子で身装のいいのが自慢だった春風亭柳朝に誘われて浅草に出かけたはいいが、人混みでまぎれてしまった。しかななく雷門の交番にかけこんだときいた正蔵が、
「藝人が浅草でお巡(まわ)りに道をきくとは・・・・・・」
 と嘆いてみせた。
 ケイタイはおろか固定電話だっていまほど普及していない時代とあって、春日部の自宅では農協が管理する有線による共同電話を使用していた。かかってくると「小正樂さん小正樂さん、受話器をお取り下さい」というアナウンスがなりひびき、会話のすべてが村中にきこえる。おかげで春日部のひとはみんな落語家の符牒をおぼえてしまい、東武線のホームで電車を待っている紙ちゃんに、顔見知りがニヤニヤしながら声をかけてくるそうだ。
「きょうの仕事のギャラがいいね」

 昭和30年代初頭の春日部の通信事情は、そうだったのだねぇ。

 村中にきこえたんじゃ、悪いことはできねぇや^^

 皮肉屋で知られた初代正樂の指導は、きびしいものだった。徹底的なスパルタ教育で、うまく切れないと、「明日から来なくていい」と言われた。技術もさることながら、この藝には知識が大切だから広く浅くでいいから本を読め、芝居を観る金がなければ小屋の前の看板だけでも見ておけと教えられた。
 教えをまもり、毎日欠かさずテレビのニュースを見て、新聞をすみからすみまで読むのだが、家から寄席に行くあいだに起こったことまでは手がまわらない。三島事件のあった日、三島事件を切れと言われて往生した。なかには意地の悪い客もいて、象の背中のノミだの、紅梅白梅なんて注文もある。紅梅白梅というのは洒落た題なので頓智をはたらけせて、急な坂を白バイがのぼっているところを切って喝采をあびたが、次のチルチル・ミチルの出題に、「どんな漫才ですか」とききかえし、客席を爆笑させた。

 たしかに、仕事がら、幅広い知識も求められるし、日々のニュースにも敏感である必要があるだろうなぁ。

 さて、努力の結果、二代目正樂は、ある人物に可愛がられることになる。

 宰相だった佐藤栄作のお座敷にはしばしばよばれた。あのひと、柄に似合わず犬だのライオンだのと子供みたいなものしか注文しない。しかたがないから、「似顔を切りましょう」と鋏を持って近くに寄ったら、言われたそうだ。
「総理大臣のそばまで刃物手にして行ったのはおまえくらい」

 なかなか洒落の効いた逸話^^

 現在の総理大臣には、お座敷に紙切りを呼ぶような遊び心などなかろう。
 
 二代目正樂は、終生、八代目正蔵の弟子と称していたらしい。
 
 矢野さんの短い文章からでも、二代目正樂の人柄が浮かんでくるようだ。

 噺家から紙切りに転じた紙ちゃんの子息は、一人は噺家になり、もう一人は紙切りを継いでくれている。

 実に親孝行な兄弟ではないか。
 
 国立での披露目、二楽は毎日ではないが、数日は兄の膝替わりを務める。

 末広亭の次に、なんとかこの披露目に行きたいものだが、野暮用続きでどうなることやら。

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# by kogotokoubei | 2017-11-09 21:39 | ある芸人さんのこと | Comments(6)
 昨日の記事で書いた通り、11月4日に放送された「NHK新人落語大賞」は、録画予約を忘れてしまった。

 しかし、ネット、SNSの時代、動画で見ることができるということに気が付いた^^

 Daily Motionで二つに分けて動画が掲載されているのを発見。
Dailymotion該当動画前半
Dailymotion該当動画後半
 
 出演者は、高座順に、立川こはる、桂三度、古今亭志ん吉、三遊亭歌太郎、笑福亭喬介。
 事前に出演者が分かっていたので、私なりの予想(希望かな)を書いた。
2017年10月13日のブログ

 結果はwebニュースなどで知っていたので、大きく外れ^^

 どんな高座で、どう採点されたのかは気になっていた。

 その気になる審査員は、桂文珍、柳家権太楼、近藤正臣、やまだりよこ(演芸ジャーナリスト)、井上勝弘(NHK大阪制作部長)。

では、まず出演者とネタ、私の感想と採点。

立川こはる『権助魚』
 私が「○」の対抗と予想した人。
 短いマクラで、これでも女の子です、は余計だったかな。
 本編に入り羽織を脱ごうとするが、少し時間がかかったのは、印象的には良くなかったかもしれない。
 ネタそのものは、なかなか楽しかったし、この人の口調の良さは相変わらずだ。
 しかし、女流落語家は、えてして女性の描き方で損をする場合もある。二人以上登場するのなら描き分けの妙で見せ場をつくれるが、このネタでは女房一人。登場人物ではなく、自分の柄に見えてしまうのだ。男性の噺家が女を描く方が色気が出るのは、志ん吉の高座でも証明されている。難しいところだなぁ。
 もっと持ち味の江戸っ子の啖呵が生かせるネタの方が良かったかと思わせた。私の採点は、「8」点。
 文珍が「最初は大変だね、あったまってなくて」と同情するような講評だったが、そんなに悪かったか?
 そのコメントを聞いたこはるの口から、予選参加含めて初めての良い経験と聞いて、来年頑張れ、と思ったなぁ。

桂三度『つる(と、そのつづき)』
 今回も「お邪魔いたします」で始まったのは、感心しない。
 甚兵衛さんにつるの名の由来を聞く中で、「なんで、首が長いんです?」は、言い間違いだろう。
 また、タケやんのところから甚兵衛さんの家に戻ってから「タケやん・・・タケやん違う、甚兵衛さん」と言い直して笑って誤魔化したのも、短い時間の高座においては、減点材料。創作した鷺を使った内容やサゲも、取り立てて良いとは思えなかった。
 権太楼が年齢(48歳)を聞いて「だからいいんだね」と褒めたのは意外だった。
 やまだりよこが面白いネタのスライドの仕方、と評価したが、彼女の鑑識眼は、採点を含め大いに疑問。
 私の採点は「7」。

古今亭志ん吉『紙入れ』
 私が優勝の本命にした人。
 若手には難しいネタだが、女房の色気もほどほどに描いたし、旦那、新吉という登場人物全員がしっかりと造形されていた。
 審査員の近藤正臣が女房の艶っぽさを褒めていたが、同感だ。
 権太楼は、旦那が登場する場面での演出に具体的な助言をしていたが、これは、高座全体を評価していたからでもあるだろう、とこの時は思っていた。
 講評を聞いた志ん吉が、もっと上方では笑いがないかと心配していたが、思いのほかだったと答えていたが、笑いが少ないのは、このネタそのものの特性。
 権太楼は、このネタを古今亭の十八番、と言っていたが、そうかな。
 ちなみに、志ん生は十八番だったかもしれないが、志ん朝が396回の主要落語会で演じた485席の題目に、この噺は二回しか存在しない。私は、この噺では、権太楼の師匠、五代目小さんの音源が好きだ。
 それはそれとして、私の採点は「9」。そんなに悪くない。

三遊亭歌太郎『磯の鮑』
 ここからの二席は、鸚鵡返しの可笑しさが主体となる噺が続いた。
 このネタは、与太郎が登場するネタでは、彼がもっとも賢く描かれている噺と言えるだろう。
 なんといっても、教わった科白をカンニングペーパーなしで、ある程度は覚えているのだから。その間違った覚え方が、笑いを誘うネタだが、なるほど、歌太郎はこの噺の勘所を外さず、メリハリをつけて演じていたと思う。
 文珍が、不思議な魅力と講評したが、明るい個性にはニンのネタが好印象を与えたのは事実だろう。
 私の採点は、「9」。
 私は予想する上で、この人の線の細さから本命にも対抗にも穴にも推さなかったが、なかなか堂々とした、ある意味で開き直りもあるような高座だった。
 放送では語らなかったが、前日新幹線の中に11時間閉じ込められていたらしい。そのハプニングが、なるようになれと腹を決めることにつながったのかもしれない。

笑福亭喬介『牛ほめ』
 予想で、穴「▲」印をつけた人。
 この人の生の高座は、にぎわい座と国立で二度聴いているが、どちらもこのネタだった。
2014年2月16日のブログ
2015年9月14日のブログ
 よほど好きなのか、得意なのだろう、科白が体の中にしっかりと定着しているような印象。前のネタと同じような鸚鵡返しネタだが、こちらは紙に書いた科白を読む中で可笑しみを出す演出。掛け合い漫才のような池田の伯父さんと甥の会話のリズムも良かった。私の採点は、「9」。
 

 ということで、私の採点結果は次の通り。

        こはる   三度   志ん吉   歌太郎   喬介
幸兵衛      8    7     9     9     9


 審査員の採点結果は、次のようになった。

        こはる   三度   志ん吉   歌太郎   喬介
桂文珍      8    9     9     8     9 
柳家権太楼    8    9     8    10     9 
近藤正臣     8    9     9    10    10
やまだりよこ  10   10     8    10    10
井上勝弘     8    9     9    10     9
 合計     42   46    43    48    47


 いろいろ言いたいことはあるが、歌太郎の優勝は、良かったと思う。
 文珍は、三度の点以外は、そう不思議ではない。
 権ちゃん、志ん吉の8は、厳しすぎるんじゃないの。
 近藤の採点、三度以外は、理解できる。
 志ん吉のみ8点で、他は10点と採点する審査員の顔は、来年は見たくない。
 井上の採点は、三度以外は、まあ許容範囲。

 ということで、なぜあの三度の高座に、全員が9以上なのかが、大いに疑問。
 どうしても作為的なものを感じるのは、私だけか。

 来年は、どうなるものやら。
 志ん吉、こはるには、来年もぜひ挑戦してもらいたい。
 とはいえ、小辰や小痴楽の顔も見たいものだ。

 ということで、動画のおかげで書けた記事であった。
 
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# by kogotokoubei | 2017-11-07 08:47 | テレビの落語 | Comments(4)
 最近は、物忘れが激しくなった。
 何かをしている時に、他の何かが発生すると、最初の何かを、忘れる。
 外出するため家を出てから忘れ物を思い出し、取りに帰ることも多くなった。
 我が家の二匹のシーズーにとっては、もう一度エサをもらえるから、嬉しいのだろうが^^

 なんと、4日放送のNHK新人落語大賞の録画予約するのを忘れた。
 夜外出から帰宅して放送のことを思い出したが、アフターフェスティバル・・・・・・。

 事前の予想(希望?)が外れた罰かな^^

 ということでテレビではなく、生の落語会について。

 雨にたたられ続けていた日曜だったが、昨日は久し振りにテニスを楽しんだ後、テニスコートからも近い東雲寺さん主催の落語会、さん喬・新治二人会に行った。

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 画像は、主催者である成瀬の東雲寺さんのブログからお借りした。
「東雲寺ブログ」

 この会に行くのは、2013年、そして昨年に続き三回目。
2013年11月4日のブログ
2016年11月7日のブログ

 檀家の方など毎回満員に近い盛況の会。
 この会に気付いたのが開催日近くで半分あきらめていたのだが、なんとか席を確保することができた。
 もしかすると、こっちの僥倖とテレビ放送の予約忘れで、バランスが取れているのかもしれない。

 テニスクラブの前からバスに乗り、10分足らずのバス亭で降り徒歩5分ほどで東雲寺。

 お寺のサイトにあるように、曹洞宗の禅寺。
東雲寺のサイト
 まだ開場していなかったが、すでに三十人ほど並んでいる。
 檀家の方が多いとお見受けした。
 しばらくして開場となり私もお寺の中へ。
 なんと、一番太鼓を叩いているのは、露の新治師匠ご本人!
 なかなか上手だったので、打ち終わってから私を含めて拍手^^

 席は前の方は地元の方に遠慮して、真ん中から少し後ろの方、テニスのバッグを置きやすい場所に席を確保し、コンビニで仕入れていたおにぎりを食べて開演を待った。
 お客様の来場が続き、ほぼ満席という感じ。
 毎年、この会を楽しみになさっている方が多いのだなぁ。
 近くの席の方の会話から分かったのだが、新治師匠と同級生の方もいらっしゃるようだ。
 お寺、出演者とのいろんなご縁の方が多い中、地元の住人でもない私は、いつも恐縮するのである。
 
 さて、1時半、定刻で開演。
 感想などを記す。ここからは、いつものように「師匠」を省略。
 
開演の挨拶 東雲寺ご住職 (2分 *13:30~)
 ご住職によると、通算で九回目、さん喬・新治二人会となって八回目、とのこと。

露の新治『阿弥陀池』 (19分)
 今回は、さん喬が春に紫綬褒章を受章した記念の会、さん喬の一席目の後にお祝いをする、とマクラで説明があった。
 昨年の会では、新治が「奈良人権文化選奨」と「文化庁芸術祭優秀賞」の受賞記念の会として住職から花束と金一封が贈呈されたから、二年続いてのオメデタだ。
 ネタの方は、新治では初めて聴くこの噺。
 叫び声のクスグリで、ヒエダノアレェーから、マエカワキヘェーには笑った。
 このネタは、鸚鵡返しを楽しむ噺と言えるが、「心臓」という言葉に辿りつくまでのクスグリは、人それぞれに工夫している。
 新治は、「しんねこ」->「しんとら」->「しんてんぐ」->「しんぞう」だった。
 もちろん、今後変化することもあるだろう。
 立川雲水の、「しんおおありくい」を思い出した^^
 新治には大ネタをどうしても期待してしまうのだが、こういう噺も、楽しく演じてくれる。
 しかし、久しぶりなのかもしれないが、途中で少し言いよどみがあったのが、残念。
 ちなみに、この噺を『新聞記事』として東京に移したのは、初代の桃太郎。
 どちらも軽い滑稽噺としては秀逸だと思うが、前半に「日露戦争」が登場する硬い話から始まっておいて、サゲを地口で落とすネタの可笑しみは、オリジナルでしか味わえない。

柳家さん喬『ちりとてちん』 (38分)
 マクラでは、「やばい」や「超~」などの若者言葉や、電車の中で一列七人中六人はスマホを見ている、など何度か聴いているが頷ける話。
 ほんとに、電車の中の光景は異様だと思うなぁ。
 本編は、さん喬では初めて聴くはずの、柳家の十八番。
 結論から書くが、この高座、実に良かった。
 さん喬の持ち味である丁寧な人物造形は、まず、最初の客であるお世辞のうまい、低姿勢の金さんの姿で発揮される。
 「灘の生一本・・・ですか。世の中に灘の生一本というものがあるとは聞いておりましたが、これが・・・」という科白は、「鯛の刺身・・・」「鰻の蒲焼・・・」そして、「ご飯・・・」にまで踏襲され、鰻当たりでは、科白の冒頭で笑いが起こる。
 金さんの姿、そしてその姿に微笑む旦那。
 そういった光景がしっかり描かれるから、その後に登場する六さんの乱暴な物言いが生きる。「灘の生一本・・・どうせ水で薄めてるから、灘の水一本」「鯛の刺身・・・腐っても鯛、って言うからね」「鰻・・・どうせ養殖でしょ」
 となって、ついに旦那の策略実行の機が熟す。
 六さんが「ちりとてちん」を目をつむり、鼻をつまんで飲み込んで七転八倒する場面の可笑しさは、格別だ。
 金さん、六さんが料理を食べる場面も、それぞれの素材に応じて、さもあるべし、という仕草で、つい、見ているこちらが食べているような気になってくる。
 現役の噺家さんでは瀧川鯉昇が十八番にしていて、とにかく何かを食べる場面が挟まれるネタでは群を抜いているのだが、さん喬は柳家の格、品を見事に提示するような高座。
 今年のマイベスト十席候補とするのに、まったく迷いなし。

柳家さん喬紫綬褒章受章表彰式 (4分)
 司会は新治が務め、住職から金一封、法被を着た女性から花束が贈呈された。
 すでに権太楼、雲助が受賞しているし、なんと立川志の輔も受賞しているのだ、遅すぎたくらいである。

 さん喬は、「こういう落語会で表彰されたのは初めて」と、心底喜んでいたように思う。
 新治から、「さん喬師匠は、小さん師匠に入門されてから五十周年でもあります」と紹介されて、「ついこの前と思っていましたが。記念というわけではもないですが、本を書きまして、まだ書店に並んでいないのですが、仲入りで販売します。今日は特別にトートバックつきです」と、宣伝も忘れなかった^^

 仲入りとなり、外で一服した後、私もその本を買う列に並んだ。
 さん喬自らがサイン入り本の入ったトートバックを渡してくれた。

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』
 これが、その本。
 筑摩書房のwebマガジン「webちくま」に連載したエッセイを元にした本のようだ。
 webマガジンから書籍化という路線(?)では、弟子の喬太郎が先に本を出しているから、筑摩が師匠にも同様のステップを踏んでもらった、ということか。

 読んでから、記事を書くつもり。

 さて、書籍特別販売を含む仲入りの後、こちらも楽しみにしていたご夫婦の芸で再開。

夫婦楽団 ジキジキ 音曲漫才 (25分)
 今年六月に落語協会に入会した夫婦。
 ほぼ六年ぶりだ。
 当初2011年3月12日に予定していた茅ヶ崎の落語会が、11月に変更となったのだが、その時に初めて聴いたのだった。
2011年11月23日のブログ
 夫の世田谷ヒロシがギター、奥さんのカオルコさんが、ピアニカを担当するが、他にも、いろんな楽器が登場する。
 一度登場して自己紹介し、いったん下がって、いつものように演奏しながら再登場。
 ご挨拶代わりとも言える「農協のテーマソング」(「東京ナイトクラブ」の替え歌)以降、この二人の絶妙な芸に客席から笑いが途切れなかった。
 「ブルーシャトウ」の替え歌で「モリトーモガクエン、囲まれて、激しく震える、ブルブル~首相」なんて、傑作だね。
 民謡調の手拍子にのって、すぐ覚えられる短い歌をいくつか披露(「船の歌」->「あら、ヨット!」など^^)してから、二人それぞれに省エネソング(いくつかの歌が混在してもの)で笑わせる。
 「浦和のテーマ」は、なんとも秀逸だ。 
 締めは、カオルコさん十八番の、おでこで弾くピアニァの至芸。
 「男はつらいよのテーマ」の後「笑点のテーマ」で会場割れんばかりの拍手。
 いいねぇ、この二人。
 落語協会は、ジキジキと、先日浅草で初めて聴いた夫婦「おしどり」の二組の加入で、俄然、色物が充実したと思う。
 ジキジキは、今月は池袋の下席に出演。
 他にも、いろんなイベントに出演しているので、ご興味のある方は、ぜひホームページでご確認のほどを。
「ジキジキ」ホームページ

露の新治『権兵衛狸』 (30分)
 英語が嫌いだった、と思い出話をふる。「This is a penって、外人が質問しますか」、「誰かに、I am s boyって言われたら、その人危ないでしょう」、などで笑いが渦巻く。スポーツも苦手で、運動会の前の晩には、次の日地球が爆発しないかと願っていた、とのこと。「あのボルトだって、急ぐ時は車に乗りますよ」には、笑った。
 その後は、日常会話の不思議さというネタ。「スーパーで、『お買い物ですか』って、他に何しますの」などは、何度聴いても可笑しい。
 その後、滋賀の山里では土葬で、行きと帰りでは仏さんが戻らないよう道順を変える、という話から「奈良の山里に」と本編につないだが、約13分と長めのマクラだった。
 四年ほど前、内幸町での独演会で聴いた三席の内の一席が、この噺だった。
2013年9月10日のブログ
 あの時は、とにかく『たちきり』(『立ち切れ線香』)が絶品だったなぁ。
 さん喬の人情噺の長講があるので、今回は軽めの滑稽噺を選択したような気がする。
 「ごんべい」「ごんべい」と後頭部で権兵衛さんの家の戸を叩く狸の姿が可愛い。
 ネタとしては20分に足らない噺を楽しみながら「今日は、あくまで、さん喬が主役、ということだな」と思いながら聴いていた。

柳家さん喬『子別れ-下-』(『子は鎹』) (41分 *~16:25)
 本は、まだ十冊ほど残っていると営業告知^^
 昔の遊びと今の子どもの遊びの比較など短めのマクラから、予想外のこのネタへ。
 といっても、昨年も二席目は『文七元結』だったからね。
 熊が吉原から酔った状態で帰る場面から。
 だから、『子別れ』の「中」とも味わいが違う。「中」ならば、帰る前の逡巡があるはず。しかし、この高座では、乱暴な酔っ払いの熊さんが、最初に登場。
 夫婦喧嘩の仲裁に長屋の六さんが入る。もちろん、一席目の六さんとは別人^^
 その六さんの忠告にも熊は怒鳴り返し、結局女房お徳と亀が出て行く。
 それから三年・・・となり本来の『子は鎹』になった。
 高座に上がってから約10分後、ここで時刻は15:55だった。
 素朴な疑問が浮かんだ。
 なぜ、通常の『子は鎹』ではいけなかったのだろうか・・・・・・。
 そんな疑問を抱きながら聴いていた。
 熊さんを訪ねた番頭さんは、最後にも鰻屋に登場する。
 亀に会ってからの熊さんは、何度か、目頭を拭う。
 熊の声が、いつもの高座に比べて、あまりにも小さく、低く感じる。
 後ろのお客さんには、聞きとりにくかったのではなかろうか。
 亀の大きな声との対比を出そうという試みかとも思うが、ささやくような声が続くのは、ちょっと疲れる。
 亀がぶたれそうになるのは、玄能ではなく、カナヅチ。私は、玄能であって欲しい。
 その後に、亀が五十銭はお父っあんにもらったと白状したが、その後の会話が端折られた、と思う。
 今は吉原の女とも別れ、酒もやめて仕事に励んでいて、立派なナリをしていた、という説明を省いた(忘れた?)。
 鰻屋での再会に、番頭が登場する必然性も、あまり感じなかったなぁ。
 噺家さんそれぞれではあるが、冒頭の酔った熊さんからという演出の必然性はあまり感じず、逆に、必要と思われた母親と亀との大事な会話がなかったのが、残念。
 あえて付け加えるが、あくまで私の感想であって、場内は二人の再開場面でシーンと静まり返り、目頭を押さえていた方もいたから、悪い高座であろうはずはない。
 

 さん喬の持ち味であると思う丁寧さは、見方によっては、くどさとも言える。
 この日、一席目の滑稽噺では、お世辞屋の金さんと、対照的な六さんを描くのには、その丁寧さが生きたと思う。
 二席目人情噺では、冒頭の演出としてのくどさが、全体のリズムを悪くした、そんな私の印象だ。
 飲んだくれの熊と三年後の熊の対比を描きたかったのかもしれないが・・・・・・。

 繰り返しになるが、新治は、さん喬を立てるための二席の高座だったように思う。
 その、さん喬は、柳家を代表する滑稽噺と人情噺の長講を演じてくれた。
 それは、それで、実に有り難いこと。

 やはり、さん喬落語、私は『棒鱈』や、この日の『ちりとてちん』のような滑稽噺が好きだなぁ。

 とにもかくにも、東西の芸達者による四席と、久し振りのジキジキを、充分に楽しんだ会だった。
 
 外は、少し寒くなったとはいえ、晴天。
 久しぶりの落語会の余韻に浸りながら、ゆっくりと成瀬の駅に向かった。

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# by kogotokoubei | 2017-11-06 15:17 | 落語会 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛