噺の話

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桂文字助のこと。

 桂文字助のことが、ニュースになっていた。

 スポニチから引用。

スポニチの該当記事
「笑点」初代・座布団運びを務めた落語家の現在…酒に溺れ、生活保護に

 国民的人気番組「笑点」の初代座布団運びを務めた桂文字助(もじのすけ、71)が22日放送の「爆報!THEフライデーSP」(金曜後7・00)に出演。笑点から降板した後に、落語界から“追放”された理由を告白した。

 46年生まれの文字助は18歳で落語の道へと進み、20歳のときに師匠・立川談志さんと運命的な出会いを果たす。気配り屋の文字助はある日、打ち合わせ中の師匠のもとへお茶を運ぶと「こいつを座布団運びにどうだい?」と談志さんの声が。このときの打ち合わせが、笑点の番組構成会議だった。異例の抜てきに喜び、芸に精進する文字助だったが1年半後、師匠に突然呼ばれて「毒蝮三太夫にやってもらうことになったから」と降板の宣告を受けることに。

 降板に納得がいかない文字助は酒に逃げ、借金は気づけば数百万円に。愛想を尽かした妻も出ていき、どん底の日々を過ごすようになる。酒量は増えて感情のコントロールができなくなる“異常酩酊”になり、些細な事でケンカをしては警察に連行された。悪評は広がり営業の数は激減。ついには談志さんにも喧嘩を売ってしまう。落語界で師匠に逆らうことはご法度。居場所がなくなり、落語から離れていった。

 現在の生活について尋ねると、自宅に番組スタッフを招待。家賃5万6千円というが「俺は払っていない。生活保護を受けているんだよ」と明かした。月に12、13万円の支給で、家賃や光熱費が引かれて手元に残る6万円で生活。5年前から近所の公園で毎朝掃除をし、近隣の人々から食料品や生活品をもらっているという。

 だが、酒量は今も減らず1日1升。飲酒中には“異常酩酊”になり、撮影する番組スタッフに突っかかることも。すると、文字助の話を聞いた2代目座布団運びの毒蝮が、番組にサプライズ出演。後輩にあたる文字助と久々の対面を果たした。思い出話に盛り上がるも、酒を飲もうとする文字助を見た毒蝮は「生活保護受けてんだろ!」「文句がくるぞ。生活保護を受けてるのになんで酒を飲んでいるんだと」と説教。“兄弟子”の言葉が効いたのか、文字助は神妙な表情を見せた。

 その後、毒蝮との再会に刺激を受けたのか、5年ぶりに高座へ。長年、談志さんに鍛えられた落語は錆びついておらず、客の笑いを誘って場を盛り上げていた。
[ 2017年9月22日 21:26 ]

 残念ながら、このテレビ放送は見逃した。

 しかし、文字助の日常は、立川談四楼のツィッターで適宜(?)報告されており、よく目にする。
 公園の清掃のことや、近所の人々との交流なども書かれていて、談四楼のツイッターの重要な登場人物^^

 結構、近所では人気者になっているようだ。家財道具は、ほとんど拾った物か、もらい物。
 たまに電話に出ないので談四楼が心配し、共通の友人が様子を見に行く、なども少なくない。

 「だんしろう商店」から「談四楼の日々のつぶやき」にリンクされている。
立川談四楼オフィシャルサイト「だんしろう商店」

 あら、ツイッター見たら、しっかりこのテレビのこと案内されていたなぁ。
 読み忘れていて録画もしていない。まぁ、しょうがない。

 談四楼の著作にも、たまに文字助は登場するが、正直なところ、あまり良いことは書かれたいない。とにかく、酒が好きで、飲むと喧嘩を売るのである。
 
 『古今東西落語家事典』から引用。
【桂文字助】
 松田治彦。昭和21年2月13日生まれ。昭和39年4月六代目三升家小勝に入門して勝松。43年5月同名で二ツ目。46年の師匠没後、立川談志門に移り談平と改名。55年9月四代目桂文字助を襲名して真打。

 私が持っているのは平成元(1989)年4月7日発行の初版第一刷。

 もちろん、生活保護を受けている現在の生活は、この事典には書かれていない。

 
 今の文字助が幸せなのかどうか・・・・・・。
 大好きな菊正宗で一杯やっている時は、間違いなく、幸せなのなのだろう。

 文字助が相撲噺の名手なので、談志が相撲噺を演らなくなった、と言われる。

 残念ながら、生の高座に出会っていない。

 談四楼の4月の独演会に助演したようだ。
 また出演の予定があれば、なんとか駆けつけたいものだ。
 
 今では、ほとんど見当たらない、貴重な(?)無頼派芸人の姿、それが文字助と言える。

 テレビに出たことで、生活保護が停止されるようなことがないことを祈る。
 保護の必要のない人を選ぶより、彼こそ、無形文化財の候補ではないか、などど思っている。

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# by kogotokoubei | 2017-09-23 10:43 | 落語家 | Comments(0)
 いよいよ、明日21日の新宿末広亭下席から、桂小南治の三代目桂小南襲名披露興行が始まる。
 小南治の父である二代目林家正楽の師匠、初代正楽のことを書いた記事でも紹介したが、この披露目には、協会の枠を超えて実弟の二楽も出演する。
2017年8月21日のブログ
 末広亭のサイトより、披露目の出演者をご紹介。
新宿末広亭のサイト
-新宿末広亭9月下席・夜の部-(末広亭のサイトより)
落語交互
 桂 鷹治
 山遊亭 くま八
漫談 新山 真理
落語 三笑亭 夢丸
落語 三笑亭 可龍
奇術 北見 伸・スティファニー
落語 三遊亭 遊之介
落語 桂 歌春
俗曲 桧山 うめ吉
落語 桂 南なん
落語 三遊亭 小遊三
-お仲入り-
襲名披露口上
落語 雷門 小助六
曲芸 ボンボンブラザース
落語 三遊亭 遊吉
落語 山遊亭 金太郎
交互出演
 物まね 江戸家 まねき猫
 紙切り 林家 二楽
主任 小南治改メ 桂 小南

 末広亭の後は、次のような日程。

 浅草演芸ホール 10月上席(昼の部)
 池袋演芸場 10月中席(夜の部)
 お江戸日本橋亭 10月25日(水)
 横浜にぎわい座 10月30日(月)
 上野広小路亭 11月5日(日)
 国立演芸場  11月中席

 せっかくなので(?)、ポスターの日程の画像も掲載。

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 落語芸術協会のメールマガジンに掲載中だった「小南への道」は、下席の案内をもって最終回だった。

 これが、なかなかいいのだ。

 全文引用したい。芸協さんも、怒らないだろう^^

【小南への道】 ~桂 小南治~
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私は本当に良い方々に恵まれました。

師匠の小南、、、。
カバン持ちで寝過ごしたり、また時間に遅れた事もありました。よくクビにせず側に置いてくれたと
思っています。入門当時、落語の難しさにしおれていた私を勇気付けてくれました。二つ目昇進の
際、私の気持ちを見抜いて噺家にと勧めてくれました。
本当に良い師匠に恵まれました。

そして、おカミさんです。

「自分を信じ勇気を持って踏み出しなさい。」

小南襲名を勧めてくれました。
師匠をしくじっても、おカミさんの助け舟に随分と救われました。
本当に良いおカミさんに恵まれました。

最後に、南なん兄さんと金太郎兄さんです。
楽屋のしきたりを教えて貰い、小南一門の色に染めてくれました。
「小南治が継ぐと言うなら異論はないよ。全面的に協力するよ。」
本当に良い兄弟子に恵まれました。

私の真打ち昇進の時、大喜びだった親父の正楽、、、。
きっと今回も手放しで喜んでいる事でしょう。

「今度から兄ちゃんが楽屋で「小南師匠!」って呼ばれるんだぁ~。時代が変わったねぇ~。」

やはり憎まれ口をききながら、、、。

そして、正楽とは対称的に
「これがゴールじゃ無いよ、、、、これからだよ、これからが肝心じゃ。」
「ワシらは死ぬまで勉強じゃよ。」

おそらく、師匠の小南はこう言うと思います。
何時ものメガネ越しに見るあの上目使いで。

小南への道、長い間の御付き合い、誠にありがとうございます。
そして、これからも三代目桂小南を宜しくお願い致します!
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 ねぇ、泣けるでしょう!

 芸協のメールマガジンは、寄席や落語会、そして、こういった連載もあって、実に有益。
 芸協ホームページのメルマガ募集ページから登録できる。ただし、PCアドレス専用。
落語芸術協会ホームページのメルマガ募集ページ

 ホームページの改悪を機に(?)にメルマガを止めてしまった、もう一つの協会とは大違いなのである。

 二代目桂小南には、上方ネタを含め多くの十八番があった。

 だから、『鋳掛屋』や『ぜんざい公社』などとともに、『帯久』、『菊江の仏壇』、『三十石』、『七度狐』、『胴乱の幸助』、『土橋萬歳』、『菜刀息子』なども、三代目ならではの味わいで聴かせてもらいたい。

 三代目小南の披露目、なんとか駆けつけるつもりだ。

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# by kogotokoubei | 2017-09-20 18:54 | 襲名 | Comments(4)

江戸庶民と、ご飯。

 明日は、旧暦の八月一日、八朔。

 六年前の新暦の8月1日に、八朔については記事を書いた。
2011年8月1日のブログ

 江戸では、家康が江戸城入りした日という記念日。
 吉原では紋日であることなども紹介したので、興味のある方はご覧のほどを。

 この時期に早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を贈る風習があったので、“田の実の節句”ともいう。
 「たのみ」を「頼み」にかけて、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、感謝の意味で贈り物をするようになった、と言われる。

 私は“田の実”からご飯を連想してしまうのだが、それは前回の記事で、江戸時代には一日ご飯を五合食べていた、ということを紹介したからかな。

 もうじき、今年の新米も出回るだろう。

 そこで、ご飯シリーズ。

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永山久夫著『大江戸食べもの歳時記』(新潮文庫)

 まず、最初はこの本から。

 食文化の研究者で、江戸時代の食事などに関し多数の著書がある永山久夫さんの『大江戸食べもの歳時記』からは、以前に蕎麦のことで引用したことがある。
2015年12月11日のブログ

  今回は、ご飯のことで、前回の記事の裏付け(?)的に、江戸時代にどれだけご飯を食べていたかについて引用。

現代人の二倍の米を食べていた 
 
 日本人は、昔から一人当り一年間に一石(150キロ)の米を食べてきた。江戸初期のの日本人の人口は3000万人で、米は3000万石生産されていた。
 明治になって、人口が5000万人になったとき、米は5000万石とれていた。大正末期に6000万人となったが、米の生産量は6000万石に達していた。米の生産量が、人口を増やしていたのである。
 一年に一石というと、一日には約410グラムになる。現在の日本人が食べている量は200グラム弱だから、江戸時代の人たちの半分以下。
 日本人が現在と同じように、一日に三回食事をするようになったのは、江戸時代の初期で、大人で一日ざっと五合(750グラム)の米を食べていた。
 三回になる前の時代は、ずっと朝と夕の二回食であり、一食分が二合五勺(約375グラム)。江戸時代には二合五勺の升があったが、二食時代の名残りである。

 ほらね、こっちの本でも、一日五合、でした。

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永山久夫著『江戸めしのスゝメ』(メディアファクトリー新書)


 こちらも永山久夫さんの本、『江戸めしのスゝメ』。
 一日二食から三食に替わったのはいつの頃か、ということについて。

 『おあむ物語』という江戸時代の書物には、それまで永らく一日二食だった人々が三度の習慣を新鮮に受け止めていた様子がわかる、興味深い記述がある。この本は石田三成の家臣として大垣城に仕えていた武士の娘が晩年、子どもたちに語った話を記録したもので、彼女は慶長五(1600)年の関ケ原の戦の後、父に従って土佐に趣き、寛文(1661~73)の頃に80歳前後で亡くなったとされている。
「私の父は知行300石をとっていたが、その頃は戦が多くて何事も不自由だった。朝夕には雑炊を食べていた。(中略)13歳のときに持っていた着物は手作りの帷子(ひとえの着物)が一着だけ。それを十七歳まで着ていたので、すねが出てしまい困り果てた。このように昔は物事が不自由だった。昼めしを食べるなんて夢にも思わなかったし、夜食もなかった。最近の若い者は服が好きだし、お金を使う。いろいろと食べ物の好みもある」 江戸後期の国学者、喜多村信節(のぶよ)はまた、庶民社会の風俗を記した『瓦礫雑考』のなかで「古くより朝餉夕餉といって、昼餉ということは聞かず、中食(昼食)は後世のことなるべし」と記している。
 もっとも、一日二食の習慣が長かったのは上流階級や武士だけで、農民や職人など労役者は古くから間食を自由にとっていた。江戸の庶民たちのあいだにも比較的、早い時期から三食の習慣が定着していたと考えられる。

 引用されている「おあむ物語」について、少し調べてみた。
 国立公文書館のサイトに、創立40周年記念貴重資料展「歴史と物語」のページがあり、その中で「おあむ物語」が紹介されていた。国立公文書館ができたのが昭和46(1971)年7月だから、六年前のイベントだ。
「国立公文書館」サイトの該当ページ

 引用する。

36.おあむ物語
おあんものがたり

戦国時代といえども、さすがに女性がいくさの前面に出て戦うということはめったにありません。しかし、血を見るのも怖い、と恐れるようなことは言っていられませんでした。
ここで取り上げた資料は、青春時代を戦国の混乱の中で過ごした女性の思い出話。主人公の「おあむ」は、石田三成の家臣の娘で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのおり、石田方の美濃大垣城に入ります。そこで待ちかまえていたのは、味方の獲ってきた敵方武将の首の処理。

みかたへ、とった首を、天守へあつめられて、札をつけて覚えおき、さいさい、くびにおはぐろを付ておじゃる・・・くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった。

戦後の恩賞のため、少しでも綺麗に見栄え良く化粧することが求められました。しかし、凄まじいのはこれから。「おあむ」は、目の前で実弟が射殺され、冷たくなっていくのを目の当たりにします。また、闇に紛れて城から逃げる際には、身重の母親が急に産気づき、田んぼの水を産湯代わりに妹を出産。すぐに父親が母親を肩にかけて落ち延びていきます。

「おあむ」の語りの言葉に、凄まじいまでの戦国の世の実像が感じとれます。

展示資料は、享保初年(1716)頃までに成立か。天保8年(1837)刊。全1冊。
 戦国の世の実態を物語る、なかなか貴重な記録であることが分かる。

 その貴重な記録、永山さんだから、食に関する部分に焦点を当てるのであって、磯田道史なら、この本をどう紹介してくれるかなぁ、などと思う。

 つい最近、CSで『殿、利息でござる』を観た。
 磯田道史の『無私の日本人』所収の「穀田屋十三郎」が原本。
 タイトルから、内容がお茶らけになっているのを危惧したが、そうではなかった。とはいえ、もう少しシリアスな描き方があったように思うが、それでは観客がついてこないのかもしれないなぁ。難しいところだ。

 『無私の日本人』には、他にも、「こんな人がいたのか!」と驚く日本人が紹介されていて、そのうち記事にしたいと思っている。
 磯田の本は結構読んでいる。読むうちに、彼のように古文書が読めるってぇのが、羨ましく思える。

 さて、永山さんの本にあった『瓦礫雑考』の著者である喜多村信節は、江戸後期の風俗百科事典と言える『嬉遊笑覧』の著者でもあり、喜多村筠庭(きたむら いんてい)という名の方が有名だろう。

 庶民が武士や公家などよりいち早く一日三食になっていたとはいえ、白米を食べるようになったのは、それほど早い時期ではない。

 永山さんの本から、引用。

 食卓への白米の定着を促した要因として真っ先に特筆すべきは、農業機具の発達だろう。たとえば水車が広まったことで玄米を搗くのが容易になり、大量の玄米が精白できるようになった。またこの時期、財政難に悩み始めた徳川幕府が新田開発などで米の増産を後押しする政策に力を入れたことの影響も大きい。
 白米の生産量が伸びた結果、供給量に余剰が生まれ、米の値段が下がっていった。これにより、いままで高価で手が出なかった町人たちでも白米を購入できるようになったのである。しばらくすると「米搗き屋」という精米所が江戸や大坂の都市部に広まり、やがて各地に普及していった。

 「搗き米屋」は、落語の『幾代餅』や『搗屋幸兵衛』に登場するから、落語愛好家にとっては馴染み深いね。
 
 では、いつ頃から白米が庶民の間に普及したのか。

 元禄の少し前の時代まで、白米を日常的に食べることができたのは将軍及び一部の特権階級だけであったが、1800年代に入る頃までに、江戸では下級階層まで日に三度の白米食が当たり前となった。「将軍さまと同じものを食べるんだ」という江戸っ子のプライド、あるいは意地のようなものが、白米の流行と浸透を助長した可能性は小さくない。

 なるほど。たしかに、「将軍さまと同じものを食べる」という意識は、江戸っ子にとっては、実に気持ちのいい感覚だったのだろう。
 そして、できるものなら将軍さまよりも美味く食べてやろう、という思いもあるから、白米を食べる方法にしても、江戸っ子は知恵を働かせるのだ。

 白米に熱中する庶民の様子は、米の炊き方一つとってみてもよくわかる。
 米は前の晩のうちにとぎ、朝まで水に浸けておいた。こうすることで芯まで熱が通り、ふっくらと炊けることを知っていたからだ。栄養学的にいえば、水に浸けておくことによって、能の血行をよくするギャバという成分が増える。
 江戸時代後期の国語辞典『俚言集覧』(太田全斎・著)には、こんな一文がある。
「ドウドウ火ニ チョロチョロ火 三尺サガッテ 猿ネムリ 親が死ストモ 蓋トルナ」
 まるで呪文のようだが、当時の米の炊き方をい教える遊び唄である。
 羽釜(はがま)に入れた米を最初は強火で炊く。それから弱火に変えて、猿が火の前で居眠りするくらいの、ほんのり温かい余熱で蒸らしていく。炊飯中は何が起きようとも絶対に蓋を取ってはいけない。
 沸騰中に米から出るオリゴ糖は水分中に流れ出る性質をもっており、このオリゴ糖が少ないと甘みのないまずい米になってしまう。外に出たオリゴ糖をもう一度米に吸収させるには充分に蒸らす必要がある。江戸の庶民が実践していたのは、とても的を射た炊飯方法だったわけだ。

 ギャバですよ、ギャバ!

 遊び唄は、その後、落語『権助芝居(一分茶番)』で飯炊きの権助が言う、次の歌詞(?)に変わっていったのだろう。

 169.pngはじめちょろちょろ中ぱっぱ ぶつぶついう頃火を引いて ひと握りのわら燃やし 赤子泣いても蓋とるな

 あらためて、思う。

 日本人は、ご飯だよなぁ。

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# by kogotokoubei | 2017-09-19 18:54 | 江戸関連 | Comments(0)
 食欲の秋、である。
 
 先日の同期会加賀の旅、山中温泉で夕食後の幹事部屋での仲間との会話で、私が春の合宿の朝食で、どんぶり飯を七杯食べたことも、ちょっとしたネタになった。

 そうそう。
 三杯目からは、仲間が食べない漬物などのおかずを集めて食べたものだ。

 それでも、午前中の練習後に、しっかり昼飯を食べることができたからねぇ。
 
 まぁ、四十年以上前のお話。

 今はどうか。
 日頃、私は一日の食事の中で、昼食でもっとも多い量のご飯を食べる。
 平日の外食の場合、おかわりをしたり、大盛りを食べる時も多い。

 最近、外食の際に気になるのが、若い男たちが少食であること。
 「ご飯少な目」なんて注文する人が、なんと多いことか。

 そんな思いがあるので、江戸や落語関連の本から江戸時代の食生活のことを知ると、あまりにも現代と違うことに驚くのだ。

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中込重明著「落語で読み解く『お江戸』の事情」

 まず、何度も引用しているこの本から。
 中込重明さんが若くして旅立ったことは、惜しんで余りある。

 『目黒のさんま』の章を読んでいて、あらためて江戸時代の食生活について再確認した。
 引用したい。

 『目黒のさんま』では、殿様ははじめてさんまを食したことになっている。寛永、宝暦から文化年間(1804~1817)頃までの、世情、売り物などに関する随筆『続飛鳥川』にも、さんまは下の魚だから、下々の者しか食べなかった、寛政の頃から追々食用になったと記されている。
 当時の庶民の食卓には、他にどんなものが上っていたのだろうか。『目黒のさんま』は江戸郊外の農家が舞台になっているが、江戸の長屋住まいの人々を基本に考えてみたい。『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によると、庶民の食事は一般に以下の通りということになる。朝、飯を炊き、味噌汁を合わせる。昼と夜は冷や飯。ただし昼食は野菜か魚のおかずを一品添える。夕飯はお茶漬けと漬物を食べる。
 また、『文政年間漫録』に記されている大工の一家の場合、夫婦に子供一人で、年間に米を三石五斗四升食したとある。これを手がかりに算出してみると、江戸では大人一人あたり一日に四合近くの米を食べていたことになる。出職の職人や棒手振などが持っていく手弁当も、握り飯にたくわんか梅干というのが定番だった。
 以上の情報をもとに推測すると、江戸の人々は現代に比べると米中心の食事であったと考えられる。

 もう一冊。


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『杉浦日向子の江戸塾』

 七年余り前の記事と重複するが、『杉浦日向子の江戸塾』(PHP文庫)からも、江戸時代の食生活についてご紹介。
2010年7月22日のブログ
 日本橋生まれの杉浦さんと、深川育ちの宮部みゆきとの対談から。

宮部 江戸時代は初期から一日三食だったんですか。
杉浦 中期以降ですね。初期は二食です。
宮部 小説のなかで食事の回数を書くとき、いつも迷うんですよね。
杉浦 その家の風習にもよるんです。江戸の中期以降でも、二食で通して
   いた家もありました。
宮部 決まった時間に食べてはいなかったんですか。
杉浦 腹が減った時が食べる時。日に六度飯の人もいれば、一日一回、
   ドカ食いする人もいる。商家のように大人数を抱えているところ
   では、食べる時間が決まっていましたけどね。
宮部 朝昼晩で、どの食事が一番豪勢だったんでしょう。
杉浦 それはお昼。昼には焼き魚がつきましたから。ご飯は冷や飯
   だけどね。午前中でほぼ仕事が終わってしまう河岸の衆などは、
   酒も付けてまるまる一刻(二時間)かけて食べるんですよ。
宮部 ラテン系の人たちみたい。
杉浦 そう。それで夜はお茶漬けでさらさらっと。
宮部 たりない分は夜食で補う。
杉浦 そうなんです。
宮部 当時の人はたちは、お米をたくさん食べていたんですよね。
杉浦 一日五合が基準。二食のときは一食で二合半です。だからどこの
   家庭にも、二合半の升が必ずあった。一人前の分量ということで。
   それで、一人前じゃない人に対して「この一合野郎」という罵り
   言葉があったほどです。半人前以下ってことですね。
宮部 一合野郎か、今度使ってみよう。

 中込さんの本はある史料から一日約四合と記されていたが、杉浦さんは、一日五合と説明。

 二合半の升、という裏付けからも、一日五合に説得力があるなぁ。

 あっしも一日五合は、食べない。
 八っつぁんや熊さんから、「この一合野郎」と罵倒されるだろう^^
 
 こういう話を知って、すぐこう反応する人は少なくないだろう。
「だから、寿命が短かったんだ」。

 大きな誤解だ。江戸時代の統計として寿命が短かった大きな理由は、乳幼児死亡率が高かったからで、長生きした人はいくらでもいる。

 葛飾北斎などは九十まで生きた。

  炭水化物->血糖値上昇->糖尿病

 というイメージが、あまりにも沁みついていることもあるのだろうが、現代の日本人は、あまりにも米を食べなくなった。

 ご飯をよく噛むことで、栄養にもなり、満腹感も得られる。

 あのタニタの食堂だって、白米や玄米は重要な主食。

 二十代の二割の人が、一ヶ月に一度もご飯を食べていない、という統計もある。
 
 代わりに、お菓子にコーラ、サプリメント・・・・・・。

 日本の将来を考えると、この若者の食生活の問題、結構大きな危険性を孕んでいると思うなぁ。
 米をもっと食べないとねぇ。

 さぁ、これからご飯、米を食べよう!

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# by kogotokoubei | 2017-09-16 11:30 | 江戸関連 | Comments(2)
 私のブログは、時に“芋づる式”になる。

 加賀への旅から、加賀藩のことになり、今回は、落語のネタ『加賀の千代』。

 前田家、なかでも利常のことを中心に前回のシリーズで書いたが、彼の母親は、朝鮮出兵の前線基地となった肥前名護屋に、利家の洗濯女として出向いた下女の“ちよ”だった。
 そう、利常の母も、“加賀のちよ”ということ^^

 ということで、『加賀の千代』というネタについて。

 三代目桂三木助の十八番だった。
 逸話がある。浪曲師の二代目広沢菊春の得意ネタ「左甚五郎」を、三代目桂三木助が自分の十八番「加賀の千代」と交換した、とのこと。

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『落語の鑑賞201』延広真治編(新書館)

 『落語の鑑賞201』から、ご紹介。

【梗概】
 大晦日を間近にして、どうにも年が越せないで困っている夫婦。女房に加賀の千代の「朝顔に釣瓶とられてもらい水」の句を聞かされ、お前は旦那に、この朝顔のように可愛がられているから何とかなると言い含められて、金の借り方を女房から教わり旦那のところへ行き、まんまと成功。つい男が「やっぱり朝顔だ」とつぶやくと、旦那に訳を訊かれ、朝顔の句を説明する。旦那が、「ああ、加賀の千代の句か」と言うと、「かかの知恵だ」。

 内容は、『鮑のし』に似ているねぇ。

 少し頼りない夫と、しっかり者の女房の組合せは、落語の定番。

 千代のことや、この噺のことは次のように紹介されている。

 千代(元禄十六・1703~安永四・1775)は、江戸中期の俳人で、加賀国松任の人。「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな」も千代の句として伝えられるが、実はこれは別人のものである。
 東京では、三代目桂三木助や七代目橘家円蔵が演じた。
 他にも同題の落語があるが、これは亭主が二階の女中部屋に忍んでいくので、焼き餅を焼き、二階に上がるはしごをはずしてしまう女房の噺。

 亭主が二階に忍んでいく、という型は、聴いたことがないなぁ。
 
 当代の噺家さんでは、何と言っても柳家三三の十八番と言えるだろう。
 寄席のみならず、落語会でも聴いている。
 春風亭一之輔も、寄席のネタの一つとしてしている。彼の高座も、なかなか楽しい。

 たびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」のサイトでも三代目三木助版を元に解説がある。
「落語の舞台を歩く」サイトの該当ページ
 こちらのサイトからも、千代のことを引用したい。

経師表具師福増屋六兵衛の娘。母は村井屋の娘つる。幼名はつ。号は素園、草風。12歳ごろ同国本吉の北潟屋に奉公に出、主人岸弥左衛門(俳号は半睡、のち大睡)に俳諧を学ぶ。17歳の享保四年(1719)北陸地方巡遊中の芭蕉十傑の一人、各務支考(かがみしこう)に教えをうけ、秀句を詠んで人々を驚かせたという。
 18歳で金沢藩足軽福岡弥八と結婚、一児をもうけ早く夫と子に死別したというが確証はなく、未婚説もある。
 23・4歳のころ京に上り、さらに伊勢に麦林舎乙由(ばくりんしゃ_おつゆう。中川乙由)を訪ね師事する。25歳で実家に戻ったという。とかく伝説が多く、確証のあるのは少いが、美女であった。
 伝説が多く、美女。
 これが、後世に残るための重要な要素。
 
 前田利常の母、ちよが美人だったのかどうか・・・・・・。
 磯田道史著『殿様の通信簿』には、ちよ本人は、とりたてて器量よしではなかったらしいが、その母について、『天下一の美人にてまします』という記録(『三壺記』)が残っていると書かれている。
 
 美人の千代が教えをうけた各務支考といえば、二年余り前の柳家小満んの会、『江戸の夢』で、「宇治に似て 山なつかしき 新茶かな」という各務支考の句をはさんでいたなぁ。
2015年5月19日のブログ

 千代女は生涯に千七百句を残したと言われるが、「落語の舞台を歩く」には、代表的な句も紹介されている。朝顔の句のみ引用。

 「朝顔に つるべ取られて もらい水」(35歳の時に、朝顔や~ と詠み直される)
 「あさ顔や蝶のあゆみも夢うつゝ」
 「朝顔や宵から見ゆる花のかず」
 「あさがほや帯して寝ても起はづれ」
 「朝がほや宵に残りし針仕事」
   
 朝顔が、よほど千代の創作意欲を刺激した、ということか。

 ということで、拙ブログも、朝顔のデザインに替えた、というわけ^^
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# by kogotokoubei | 2017-09-15 12:45 | 落語のネタ | Comments(0)
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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 さて、このシリーズの三回目、最終回。

 お猿と呼ばれた幼少時の前田利常の人生の転機はいくつかあるが、その一つは「人質」となったことだ。

 『殿様の通信簿』より、兄の利長が関ケ原の戦いで、三州割拠の戦略のもとに中立を保っていた時の話をご紹介。

 この関ケ原の戦いのなかで、「お猿」こと前田利常が、重要な役割を演じている。
 -人質
 になったのである。もっとも、この時代、人質という言葉はつかわない。もっぱら「証人」といった。
 前田家の領地の南には小松城主・丹羽長重がいた。前田家が南下するには、丹羽領を通らねばならない。丹羽は西軍・石田方に与していたから。その領内を通れば、当然いくさになる。丹羽の領地は二十万石にすぎず、百万石の前田の敵ではない。たちまち破った。しかし、丹羽長重は丹羽長秀の子であり、もともと信長の家中であったから、前田家とは親しい。利長は丹羽に対して、これ以上ないというほどの寛大さを示した。
 関ケ原で東軍・徳川方が大勝利したとの一報に接し、負け組に入ってはならぬと思ったのであろう、それまで煮えきらぬ態度をみせてきた丹羽はあわてて講和に応じてきた。利長は、この虫のよい申し出をうけたばかりか、ともに手をたずさえ軍勢をそろえて、徳川家康の陣に向かうことまで約束した。まず丹羽の軍勢を先に歩かせ、その背中に前田の軍勢が火縄銃をつきつけながら、ともに行軍して京都に向かった。ただし、たがいに裏切らぬよう人質が交わされた。丹羽側は長重の弟長紹(ながつぐ)を人質によこし、そのかわりとして、前田側は利長の弟お猿(利常)が人質に遣わされることになった。

 丹羽長重の所領は、空港のある小松。那谷寺も小松にある。

 この丹羽長重という人、結構苦労してきた。
 Wikipediaから引用したい。
 まず、関ケ原以前のこと。
Wikipedia「丹羽長重」

元亀2年(1571年)、織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として生まれる。

主君・織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(病床にあった父の代理)に出陣した。

天正13年(1585年)、秀吉から羽柴姓の名字を与えられた。 同年に父が死去し、越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を相続した。ところが、同年の佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに重臣の長束正家や溝口秀勝、村上頼勝らも召し上げられた。さらに天正15年(1587年)の九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

その後、秀吉による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康から前田利長監視の密命を受けている。
 結構、浮き沈みの激しい半生ではないか。
 たとえば石数は、123万石->15万石->4万石->12万石、と度々の変遷。

 そして、関ケ原以降。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる。慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の御伽衆として、細川興元、佐久間安政、立花宗茂らと共に抜擢される(この3名は長重より年長で、武功の実績も多かった)。その後、元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石にそれぞれ加増移封される(なお、前棚倉藩主は、長重と共に秀忠の御伽衆である立花宗茂)。

 最終的には白河に落ち着き小峰城を築く。築城の名手と呼ばれた。
 白河小峰城は日本百名城の一つ。

 関ヶ原の戦いで西軍に与し領土を失った大名の中で、その後返り咲いて最終的に十万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみ。

 あぁ、宗茂の名を見ると、今のNHK大河が、史料のほとんど存在しない人物を題材とするのではなく、同じ女城主ならば宗茂の妻、誾千代の物語りであったなら、と思わずにはいられない。
 葉室麟に『無双の花』という宗茂夫婦を素材にした名作もある。

 大河に関しては、ご興味のある方は昨年末の記事をご覧いただくとして、これ位で。
2016年12月19日のブログ


 さて、その丹羽長重は、人質にとった利常をどう扱ったのか。
 おかしなことであるが、人質となったお猿は、生まれてはじめて、まわりから大切にされた。前田家にいたときには、たいして可愛がられていなかったが、丹羽家ではお猿を下にもおかぬように扱った。話がのこっている。お猿が小松城にはいると、当主の丹羽長重がじきじきに出てきて、梨を食べさせてくれた。
 -自身、梨子の皮など取り進ぜられ候(『松梅語園』)
 とあるから、丹羽長重は八歳のお猿をみて、
「梨をむいてあげよう」
 といい、長重自身が小刀で梨の皮をむいてお猿に食べさせたことがわかる。利常はこのことをのちのちまで覚えていて、梨を食べるたびに、家来たちに語った。
 丹羽長重という人の優しさを物語る逸話だ。
 そして、長重には、人を見る目があった。
 お猿の非凡さをはじめに見ぬいたのは、どうもこの丹羽長重であったらしい。何を思ったのか、長重はお猿の顔を見るごとに、
「利長公はまだ若くて、これから子供も出来るだろうけれど、お前さんは何があっても最後には、三カ国を手にするだろう」
 八歳の子どもをまえにして、そういうことをいった(『耳底記』)。
 (中 略)
 八歳のお猿の心に、丹羽長重は、
(前田家の総大将になるかもしれない)
 という希望の種を植えた。
 この“希望の種”というのが、利常のその後の人生には大きかったように思う。

 後々まで梨を自ら皮をむいて食べさせてくれた丹羽長重のことを忘れなかった利常は、長重を父親のように慕っていたのだろう。
 利常が、寛永16(1639)年に、小松城を隠居城として再築していることからも、丹羽長重の存在は、利常には小さくなかったと察する。

 その人質生活を終えてからのこと。
 前田家では、関ケ原の貢献によって所領を加増された祝いがあった。

 当時、祝いといえば、能見物で、前田家一門の子どもたちが一堂にあつまっていた。ところが、どうもお猿だけは、他の子どもと異なっていた。まず、これから能がはじまるというのに、ちっとも落ち着いておらず、乳母につれられて、座敷のあちらこちらを遊びまわっている変な子どもが一人いた。お猿であった。生田四郎兵衛という侍が気づいて、乳母のほうに声をかけた。
「この子は誰の子ですかな。目のうちと、骨柄が、余人と違う」
 前田家の重臣の子どもとでも思ったのであろう。生田は重ねて、
「これは、ただの人の子ではない」 
 といった。
 (中 略)
「眼の見入りが、他に異なる。大名の子に見える。いい器量じゃ」
「ええ。越中守山で育ったお猿様です」
 そこで乳母は子どもの正体を明かした。生田は一瞬、驚いたような顔をして、それから破顔一笑して手をつくり、
「ただ者ではないはずじゃ。珍しい殿様ですなあ。そういう弟君がいるとは聞いていましたが、お目見えしたのは初めてです。今年でおいくつになられます」
 と急に丁寧な口調になった。生田はよほど感動したらしく、お猿を肩に抱き上げた。そして居並ぶ子どもたちの席をじっと見回し、一番、上座の席にお猿を置き、
「ここに座って、能見物をしなさい」
 と丁寧に言った。驚くべきことに、このときまでお猿は家来筋の子どもたちよりもずっと下座に座らされていたのである。これが、お猿こと利常が家来にまともに扱われた最初であった。
 この生田四郎兵衛の行動も、また、お猿の人生の転機と言えるのかもしれない。
 ちょうどそこに、利長がはいってきた。一番の上座に見慣れない子が座っている。
「あれは誰の子か」
 利長はいった。誰の子ではない。このお猿が人質になったおかげで、前田家は関ケ原合戦後、後顧の憂いなく、残敵をみな召し連れて、徳川家康のもとに上洛できたのである。今回んぽ加増もその功によるところが大きいのであるが、利長は本当にこの弟の顔を知らなかった。生田はあわてて、利長に、
「お猿様でございます」
 と耳打ちした。
 利長はすぐにお猿を側によび、その顔をまじまじとみた。お猿もじっと利長をみた。最初に、口をひらいたのは、利長のほうであった。
「大きくなったな。眼が大きい」(『三壺記』)、「おまえは目のうちが良い」(『微妙公(みみょうこう)夜話異本』)。
 そういった。利長が何より驚いたのは、お猿の体格であった。当座としては、異常な大男であった父・利家の体つきに、瓜二つなのである。
「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」
 とため息をついた。利長は、
(どうも、この子は、たくさん飯を喰いそうだ)
 と思ったのであろう。すぐに上木半兵衛をいう侍をよんで、怒鳴った。
「おい。おまえ。今日からこの子に付いて、朝夕に飯をしっかり食べさせてやれ。ちゃんと育てろ。へまをするな」
 養育係の侍二人と、権内という草履取もつけてくれた。お猿の暮らしぶりは、それまで悲惨であったから、かたわらにいた乳母の目には、涙が浮かんだと、記録にはある。

 この時から、お猿の運命が大きく変わったわけだ。
 
 利長には子がいなかったので、前田家の永続のためには、養子をとらなければならなかった。利長には他にも弟がいたのだが、その誰も養子にする決心がつきかねていた。
 
 あるとき、友人の浅野弾正・蒲生秀行・細川忠興らが前田屋敷にやってきて食事をした。そのとき、浅野と細川が、思い切って利長にいったらしい。
「あなた様には実子がない。誰か養子を決めておいたほうがよいのではないか」
 利長も心配であったらしい。こう答えた。
「内々、そう思っている。しかし、弟の大和(利孝五男)は公家のようで色が白くやわらかな男。ほかに七佐衛門(知好・同三男)とか七兵衛(利貞・同六男)というのがいるが、どちらも馬鹿なので、私は気に入っていない」(『三壺記』)
 あまりに弟たちを悪くいうので、浅野も細川も困った顔をして聞いていたのだろう。利長は言葉を続けた。
「ただ、猿という弟が一人いる。色が黒く、目玉が大きく、おおいに骨太な子。姉に養育させていますが、これを養子にしたい」
 いかなる気基準で、利長が前田家の跡継ぎをえらんだのかよくわかる。
 (中 略)
 こうして、お猿はあっという間に、
 -前田家の世子
 となった。越中の片田舎で暮らしていたときには考えられないことであり、
「まさか、あのお猿が・・・・・・」 
 と、人々は驚いた。世子になると、名前も変わる。利家公の輝かしい幼名、
 -犬千代
 を名乗ることがゆるされた。とうとう、猿が犬になるというあり得ないことがおきた。「猿」ではなく「犬」とよばれたこの瞬間から、利常の殿様らしい人生がはじまった。

 磯田道史の本には、その後の大坂夏の陣での利常の活躍なども記されている。
 武にも秀でていたが、この人、頭も良かった。
 家光の代には、廃藩につながるようなことはもちろんしないが、笑えるような小さな、そして無邪気な抵抗を利常は行って、「加賀様は、しょうがない。ほうっておけ」というムードをつくることに成功している。

 その後の代々の藩主や側近の努力も、加賀藩が江戸の世を生き延びた大きな要因ではあるだろう。

 利家の妻まつが、長きに渡って徳川家の人質になったことも、前田家存続の礎にはなった。
 
 なんといっても、利長は、藩のために自らの命を捨てたと言われる。
 家康に睨まれていた利長は、秀忠の娘を嫁にもらった利常に、いち早く藩主の座を譲るため、自ら毒を飲んだと金沢では信じられている。

 なにより、加賀藩が、もっとも存続の危機にあった家康、秀忠、家光の代において、利常という人材を得たことが、存続につながる大きな要因なのだと思う。

 利長は、利常なら加賀藩、前田家を任せられる、と考えたに違いない。

 利常が前田家三代目になったことこそ、徳川家最大の仮想敵であった百二十万石の加賀藩が、生き残った大きな理由であると、私は思う。

 ということで、このシリーズのお開き。

 つい、加賀への旅がきっかけで、長々と書いてしまいましたが、お付き合いいただき、ありがとうございます。


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# by kogotokoubei | 2017-09-13 12:59 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 さて、加賀前田藩が、なぜ江戸時代を生き延びることができたのか、磯田道史著『殿様の通信簿』を元に振り返る記事の二回目。

 前回の記事では、利家の長男で二代目の利長が、その客観的な自己分析や「三州割拠」という戦略で前田家の存続を図ったことを紹介した。

 今回は、利長の異母弟であり、利長の後を継いだ利常について。

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 写真は、那谷寺の「奇岩遊仙境」。

 利常の名は、この度の同期会加賀の旅の最終日に訪れた那谷寺で目にした。
那谷寺のサイト
 那谷寺のサイトには、寛永年間に、火災で衰退していた那谷寺を利常が鷹狩りの時に見つけて、本殿、唐門、拝殿などを造ったと紹介されている。
 利常は、この那谷寺がある那谷村付近を自身の隠居領としたほどだった。

 さて、その利常、すんなりと兄の利長の後を継いだわけではない。

 『殿様の通信簿』には、その出生につながる出来事について次のように書かれている。
 そもそも、この前田利常という男、その生い立ちからして、歴史に登場するはずの人物ではなかった。産声をあげ、へその緒を切ったときには、誰も、その赤ん坊が加賀百二十万石の太守になる、とは思っていなかった。前田利家の胤(たね)ではあったけれども、あまりにも、母親の身分が低すぎた。
 天正二十(1592)年、豊臣秀吉は朝鮮への出兵をはかり、日本中の大名を九州に集めた。
 -肥前名護屋
 というところに築城し、男くさい武将たちをそっくり集めたのである。陣中だから、当然、女はいない。女がいなければ、男の不満はつのる。それでなくても、朝鮮への出兵には異論が多いのに、女もいない、となれば、まったく目もあてられないことになる。喧嘩狼藉さもなくば脱走がはじまる。そのあたり、さすがに秀吉は人物のい機微に通じている。一つの命令を下した。
「陣中では、さぞ不自由であろう。ここで洗濯女を雇うように、国元から下女を呼び寄せるのも勝手次第」
 秀吉は機智がはたらく、そう言っておいて、次の一言を付け加えるのを忘れなかった。
「嫉妬するような妻で、下女を遣わさないようなところは、妻本人が来なさい」
 こういわれると、妻は来られない。のこのこ出て行けば「私は嫉妬する妻」ということになり、物笑いの種になる。それをいいことに、武将たちはこぞって、妻よりも若く見目の良い女を洗濯女として呼び寄せはじめた。

 あの朝鮮出兵が、前田利常の出生に関係していたのだ。
 戦地での大名たちの気を紛らわすための秀吉の知恵が、妻ではなく洗濯女呼び寄せだったのだが、前田家でもその洗濯女の“応募”が始まった。

 しかし、前田家では困ったことになった。前田利家の妻まつは、まさに「嫉妬するような妻」で、気が強い。ほかの女が夫に近づくなど許せないたちである。しかし、秀吉に言われ、下女を肥前名護屋に送らぬわけにはいかなくなった。『残嚢拾玉集』という古書によれば、金沢城にあって、まつは下女たちに言ったらしい。
「誰か、肥前名護屋に下るものはいないか」
 ところが、女たちは誰一人として、声をあげるものがいない。まつの性格のきつさは天下に知れ渡っている。
(下手のことをいいだせば、まつ様に殺される)
 そのぐらいに思っていたのであろう。


 前田利家の正室、まつ。その後の芳春院は、NHKの大河「利家とまつ」でも描かれたように、実に気丈な女。いくつも逸話は残っているが、たとえば天正十一(1583)年、あの賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方に与した利家が敗走した危機一髪の時に、越前府中で羽柴秀吉に会って和議を講じ、夫利家の危機を救ったことは有名。また、翌天正十二年には、佐々成政に末森城を強襲された際、蓄財に努めていた利家に対し「金銀を召し連れて槍を突かせたら」と皮肉って鼓舞したと言われている。
 利家の出世、いわば加賀百二十万石には、まつの存在が大きい。
 
 誰も肥前名護屋に行くとは、言い出しかねる状況であったことは、十分に察することができる。
 しかし・・・だった。

 しばらく、沈黙が流れた。末席から声がした。
「私が行きましょうか(私、まかり下るべきや)」
 という二十二歳の娘があらわれた。名を「ちよ」。皆は「ちよぼ。ちよぼ」とゆんでいた。下女である。
 まつは表向き喜んだふりをして、
「それならば、名護屋陣中に下っておくれ」
 といったが、その内心は穏やかではなかった。ちよに対して、まつが笑顔をみせたのは、この日一日だけであり、その後、何十年にもわたって、無視しつづけ、無言の苛めをやりつくし、最後に、再会したときには、
「おまえ!いざという時は前田家の為に死になさい。それを言いたかっただけ」
 そうピシリといって、さっさと対面をきりあげたと記録にはある。
 まさに、恐れ知らずの行動。
 著者磯田道史は、その強烈な遺伝子こそが、その後の前田家の運命を左右することになる、と書いている。

 そう、この下女ちよこそが、前田利常の母。
 文禄二(1593)年、ちよは名護屋の陣中で利家の子をひっそりと産み落とす。
 利家とまつの間には多くの子が産まれ、男の子も多かったから、下女の産んだ子はまったく大事にされることはなかった。
 だが、この子に転機が訪れる。とはいっても、利常には何度も運命を変える“あの時”があるのだが、その最初の転機は、怖い存在である、まつのいる加賀の地から離れたことだと思う。
 この赤子は母親のちよと、ひっそりと暮らしていた。ところが、だいぶん育ってきて、かわいくなってきた盛りに、突然、父の利家がこういった。
「この子は越中の前田対馬に預ける」
 この一言で、母親と引き離された。当時、大名の子が、里子に出されるのは、珍しいことではなかったが、城下の家臣のところに遣るのが普通で、遠い隣国に遣るのはめずらしかった。一説によると、利家がまつに遠慮したため、そんな遠くへ遣ったのだという。
 まつが利常の母ちよに最後に語った言葉から察しても、もし、金沢城下に母子が住んでいたなら、利常が前田家の三代目の太守になることはありえなかったと思う。
 
 そもそも、利常の幼年期につけられた名が、当時の利常への扱い方を示していた。
 このとき、利常は「お猿」とよばれていた。誰がそう名づけたのかはわからない。父・利家の幼名は「犬千代」であって「お犬」とよばれていた。大名の子どもの幼名は、そのまま身分をあらわす。徳川家では家康の幼名「竹千代」が、前田家では利家の幼名「犬千代」が重んぜられた。家をうけぐ嫡子には、必ずといってよいほど、この名がつけられた。実際、幕末まで、前田家では嫡子には「犬千代」とつけ、「高徳院(利家)様のようにおなりなさいませ」
 と、奥の女たちに常に言われながら育てられた。だから、前田家の奥向きでは「犬」とよばれている子どもだけが特別の存在で、それ以外は、どうでもよい子どもであった。犬とは疎遠の「猿」などと名づけられ利常のような子は、生きようが死のうがどうでもよいあつかいであった。

 では、越中で暮らす「猿」に、その後なにが起こったのか。

 六歳になったとき、急に、父の利家が「会いたい」といってきた。慶長三(1598)年三月下旬のことである。
「これから草津の湯に入りに行く。越中を通るから、お猿を宿につれてこい」 
 利家はそういい、にわかに親子の対面がきまった。「御成人にて初で大納言(利家)様に御対面」(『陳善録』)とあるから、それまで一度も会っていなかったのは確かである。お猿をみて、利家は大層よろこんだらしい。
 -ご機嫌よく、御いとおしがり、大方ならず
 と伝わっている。利家はお猿の姿をみるや、大声でいった。
「刀と脇差を持ってまいれ!」
 利家はお猿に与える刀と脇差を用意していた。運ばれてきた刀が豪華なものであった。金箔が打ってあって、金色にピカピカ光っていた。お猿(利常)はのどをゴクリとならし、夢心地でその刀を父の手から受け取っている。

 
 この内容からしても、利家は、たんに思い付きで、草津に湯治に行くついでに「お札」に会おうとしていたわけではないような気がする。
 女房まつの性格を思い、遠く越中に遣ったものの、寂しく暮らす子への思いが日々募っていたのではなかろうか。


 そうそう、この後に、今回の旅行でも箔座本店を訪ねたが、加賀の金への執着のルーツについて記されているのでご紹介。

 前田家には、信長ゆずりの華美な家風がある。信長の家中は武具が派手で、赤や金色の刀や槍で衆目を驚かした。前田家中は信長軍団の「破片(はへん)」といってよい。信長の残した軍団がそのまま北国の地に根付いたもので、思想も、美意識も、信長の好みを受け継ぎ、金箔の文化もその一つであった。信長は居城安土城の屋根に金箔を貼りまくったように異様に金を好んだ。金を愛でる美意識は、信長・秀吉・利家ときて、利常とうけつがれていく。ともかくも、幼い日、利常の目に焼きついた金箔の光はのちのちまで加賀の文化に影響した。


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      *箔座本店の「金の茶室」

 箔座本店には、上のような「金の茶室」があって、つい、「秀吉と箔座さんだけですねぇ」なんて軽口をたたいたのだが、あくまで、前田家の金の伝統は、織田信長譲り、ということだね。
 箔座では金箔入りのお茶をいただき、金粉を手や顔に塗り、金箔で表面を覆ったチョコレートケーキを土産に買った。なかなか美味かったよ、あのケーキ。

 さて、「お猿」と呼ばれていた利常に初めて対面した利家は、ただ、刀や脇差を与えただけではなかった。

 このとき、利家は、余程、お猿が気に入ったらしく、思わず抱きついたらしい。面白いのは、現代の我々のように、ただ抱きついただけではないことである。戦国武将らしく、我が子の肉付きをみた。
 -ふところまでも御さすり御覧なされ候
 利家はお猿のふところに手を入れ、丈夫な子であるかどうか、肉を触ってみたのである。戦国の武士にとって、筋肉は死活をわけるこのであり、我が子の肉付きをみて、その戦士としての性能をみるという究極のリアリズムが利家にはあった。
 事実、お猿は、どの子よりも利家の体つきをよく受け継いでいた。六歳にしては異様に体が大きく、頑強にみえる。利家がお猿をみて、はしゃいだのは。そのせいもあった。利家が死んだのは、そのちょうど一年後のことであった。

 利家の妻、怖い怖いまつに恐れることなく、肥前名護屋に洗濯女として利家の寵愛を受けることになった、母ちよの豪胆さ。
 その妻まつから遠ざけるため、越中で母ちよと暮すことになった、お猿と呼ばれた利常。
 そして、草津の湯治の通り道ということで、その頑強な体を見た利家が喜んだ初の対面。

 そういった幼少年期を過ごした利常が、加賀藩三代目太守となるその後のいきさつは、次の三回目の記事でご紹介することにしよう。

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# by kogotokoubei | 2017-09-12 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 同期会加賀の旅から帰って思い出した本を、棚から引っ張り出した。

 磯田道史の『殿様の通信簿』は、多くの古文書を元に書かれた本だが、その中でも特筆すべきなのが、元禄期に書かれた『土芥寇讎記(どかい こうしゅうき)』だ。
 同書は、謎の本と言われており、幕府隠密による秘密諜報の記録で、諸大名の内情を幕府高官がまとめたものという説がある、と著者は解説している。
 とにかく、貴重な本であることは、「はじめに」で次のように書かれていることでも分かる。
書き写すことが、よほど厳しく禁じられていたようで伝来する写本が極めて少ない。かつては二冊の写本が残っていて、東京大学史料編纂所に一冊、旧広島藩主浅野侯爵家にもう一冊あったが、浅野本家は原爆で焼かれてしまい、今では、この世に一冊しか存在しない。

 この世に、ただ一冊、なのだ。
 戦争、あるいは原爆は、いろんな日本の宝を焼き尽くしてしまったのだなぁ。
 「はじめに」のこの続きをご紹介。
 この書物を世に出したのは、東京大学史料編纂所の金井圓(まどか)教授(当時)であった。金井教授は、この書物が、
①おそらく幕府高官が隠密の「探索」に基づいて書いたものであること、
②元禄三(1690)年ごろに書かれたもので、当時の大名二百四十三人の人物評価を載せた稀有な書物であること、
③現存するのは東京大学史料編纂所の一冊だけであること、
 などを明らかにし、昭和四十二(1967)年に、みずから原文を解読されて、この書物を活字化された。これが校注・金井圓『土芥寇讎記』である。

 金井教授の努力によって、貴重な記録が発掘された、ということか。
 この後に、「土芥寇讎」の意味についても、説明がある。

 「土芥寇讎」とは聞きなれない言葉だが、『孟子』にその出典がある。
「君の臣をみること、土芥のごとければ、すなわち、臣の君をみること寇讎のごとし」
「殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を仇のようにみる」
 そういう意味である。江戸時代には「四書五経」を、そらんじているのが、教養人の基準になっていたから、『孟子』のなかにある「土芥寇讎」という言葉は江戸の士人にとっては、ごくありふれた言葉であった。
 殿様が家来をゴミのように扱うと、家来は殿様を仇(かたき)のようにみる・・・か。
 今の日本がそうだ、と言うと言い過ぎかな。

 あらためて江戸時代の教育と現在のそれと、果たしてどちらが正しいのか、という疑問が浮かぶ。
 「四書五経」などと言うと、現在では右がかったかのような印象を与えるが、かつては寺子屋で子供たちが学んでいたのだ。
 平成の世と江戸時代を比べるのは無理があるのは承知だが、読み書き算盤が男の子への教育の基本であり、武家屋敷や商家への奉公のために女の子は裁縫などを習い行儀見習いに出ていた江戸時代の教育事情は、あらためて見直されて然るべきではなかろうか。

 そして、敗戦後、学ぶべき相手が中国からアメリカに変わってから、果たしてどれほど日本は大きなものを失ってきたか、と思わないではいられない。これ以上この件について考えると『日本辺境論』(内田樹著)のことを書くことになるので、ここまで。

 『土芥寇讎』に登場する水戸黄門や浅野内匠頭などの中から何名か選び、他の史料も最大限に参照して書かれたのが、本書だ。
 
 その中に、「前田利常」の章がある。
 もっとも多くの頁が割かれており、「その壱」「その弐」「その三」合わせて約九十頁に及ぶ。

 まず、冒頭から引用。
 徳川幕府が三百年ちかく続いたその理由について考えたい。それを考えていくと、結局徳川に謀反する大名が出てこなかったのは、なぜか、という話になっていく。徳川時代、最大の大名は加賀の前田家であって、謀反をおこし、徳川にとってかわるとすれば、まずはこの家であった。

 そうなのだ。
 織田信長に仕えた後、盟友の秀吉を支えた前田家が、なぜ、徳川の世を生き延びたのかは、疑問だ。
 次のように、利家が長子の利長に言い残した言葉だって、決して、その後の安泰につながるものではない。

 いまわのきわに、利家は利長を枕元によび、
「おれが死んでも三年は金沢に帰るな。大坂城にいて、秀頼公をお守りせよ」 
 と厳命している。
ー守りに入るな。徳川と対決せよ。中央に出て、あわよくば、天下に号令せよ
 というのが、利家の一貫した外交方針であり、中央にあって天下に号令する夢を捨てていなかった。
 この父、利家の遺言に対して、利長をどう考え行動したのか。
 引用を続ける。
 だが利長はさっさと金沢に帰って城に引き籠ってしまう。この時点で、前田家は「守り」にはいったといっていい。家老たちは「これで前田家も終わりだ」と不平を口にしたが、利長には利長なりの考えがあった。のちに、
 ー三州割拠
 とよばれるようになる独特の外交戦略である。第一に、中央での政権争いには加わらない。第二に、穴熊になったつもりで加賀・越中・能登の三カ国に立て籠もり、ひたすら時を待つ。そのうち、中央での政権争いで、覇者たちが疲れるから、そこに出て行って、漁夫の利をしめる。そういう一種の持久戦法であった。結局、これが、明治維新にいたるまで、前田家の伝統的な外交方針になる。利長は一見、愚鈍にみえて、実は賢い。常に偉大な父を仰ぎみながら育っただけに、なによりも、自分の力の限界を知り尽くしていた。目から鼻に抜けるほど賢く、下手に才のある石田三成のように、無理をするところがなかった。

 利長が、自分の能力を実に客観的に評価するだけ賢明であったこと、そして、この「三州割拠」という戦略が、加賀藩存続のために重要だったわけだ。
 
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 同期会加賀の旅で、初日に宿のすぐ近くの尾山神社に行った。その記事と重複するが、神社のサイトからの引用を再度ご紹介。
尾山神社のサイト
尾山神社の歴史

慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。

そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。

ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。

加賀藩祖前田利家公と正室お松の方を祀る

さて、廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。

 もし、利長が公然と利家を祀る神社を建立していたら、家康が前田家を取り潰す格好のネタになったことだろう。

 利長が関ケ原でとった行動も、見事に彼ならではの戦略に基づくものだった。

家康は利長に猛烈に書状を送り、「前田南下」作戦を実行するように求めた。利長の弱点は母のまつを人質にとられていることであった。利長は母親のまつが、たまらなく好きであった。前田家にとって、まつの存在は大きく、家康は、
(まつさえおさえておけば、前田はどうにでもなる)
 とみていた。事実、それは正しい。この時期に、家康が利長に送った書状ほど、いやらしいものはない。家康は「まつ殿が、まつ殿が・・・・・・」と、人質にとったまつの近況をやたらと書状にしたためて送り、
(忘れるな。いつでもお前の母親は殺せるぞ)
 ということを示した。
 この家康のもとめに応じて、利長は二万五千人の軍勢を率いて、南下をはじめた。だが、まじめに南下作戦をやらない。福井方面にむかって南下するのだが、小さな勝利を得ると、さっさと兵を返して、金沢城に戻って休んだ。そして、しばらくすると、また金沢から出てきて、南下をはじめる。そういう奇妙な軍事行動おとった。
 ー関ケ原の混乱に乗じて前田家の領地を拡大する
 利長にしてみれば、これが唯一の軍事目的である。
(まじめに南下すれば、家康を大勝利させてしまうだけである)
 そういう考えがあった。しかし、家康にしてみれば、これだけでも有り難い。前田の大軍が相手方に加わらず、実質的中立をたもってくれれば、それでよかった。
 なるほど、なかなか、微妙な駆け引きがあったんだねぇ。

 加賀藩が江戸時代を生き延びた理由の一つは、この利長の慎重な姿勢、三州割拠という戦略によるところが大であろう。
 
 そして、利長の後を継いだ利常の功績も大きいのだが、それは次回としたい。

 子どもの頃「猿」と言われた利常が、父利家の幼名と同じ「犬」千代となるまでには、なかなか興味深いいきさつがあるのだが、それは、次の記事までお待ちのほどを。


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# by kogotokoubei | 2017-09-11 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 さて、箔座で金粉を手や顔に塗って、美肌になったと錯覚している女性陣三名を含む一行は、加賀うどんで有名な「小橋お多福」へ向かった。

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「福わ屋」サイトの「小橋お多福」のページ

 帰ってから調べたのだが、このお店は、鍋と釜ごはんの「福わ屋」と、加賀うどん・そばが中心の「お多福」が隣同士にあるお店。

 サイトにある、経営母体の福和商事のあゆみのページには、次のように説明がある。

「小橋お多福」 創業 昭和5年6月13日
その後
昭和47年 饂飩処「福わ家」開店
昭和53年 蕎麦処「鬼は外」開店
昭和61年 釜ごはん「鬼やしき」開店
平成11年に「福わ家」と「鬼やしき」が合体
       「小橋お多福」と「鬼は外」が合体
  現在の2店舗になりました。
       ■饂飩と釜ごはん「福わ家」    ■うどん・そば「小橋お多福」

 このページには、小橋鉄橋が竣工した時の記念写真や、昭和初期のお店など、セピア色の懐かしい世界があって、なぜか、ほっとする。
「福わ屋」サイトの該当ページ

 私は福々定食を注文。
 コシのある加賀うどんにかき揚、ご飯に小鉢付き。
 先輩がおっしゃる上品な甘さのダシで美味しいうどんだった。

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 これは、Sちゃんが食べた、お多福の加賀うどん。

 そのSちゃんに先輩が感想を聞くと、「縮れ麺」と言うべきところを「縮れ毛が美味しい!」の答えに、一同爆笑!
 
 私は、ANAの機内で聞いたナオユキの、あるネタを思い出した。

 女「私、天然って言われるけど、そんなことないよ」
 俺は、そういうやつには、こう言って、その反応で天然かどうか判断することにしている。
 俺「まさか、養殖じゃないだろう」
 女「えっ、養殖の人って、いるのぉ?」
 こいつは、天然だ。

 どう?
 やはり、あっしがやると、スベルかな^^

 お多福で先輩が食べていた「名物」(メニューには海外からの旅行者のために、手書きながらRecommended Nudleの文字も!)じゃぁじゃあ麺も試食させてもらったが、なかなかの味だった。

 満足して店を出ると、先に外に出ていた仲間のK君と、注文を取りに来たり配膳をしてくれたお店の若い方が釣りの話で盛り上がっていた。
 駐車場に止めていた車の話題から発展したらしい。

 お店の方はご主人のご子息(次男)で、三代目(四代目?)を継ぐ予定、だったかな。
 彼はブラックバス釣りが好きらしく、K君もよく行く琵琶湖に次の休みに出かける予定とのこと。
 K君が、ポイントやら道具のことなどを教えていた。彼の釣り、結構本格的と察した。
 彼らの会話の専門用語は、チンプンカンプン^^

 少し、嬉しくなった。
 なぜなら、ちょっと元気のなかったK君の生き生きとした顔を見ることができたからだ。

 二日目の午後の行動範囲は、次のような地域になる。
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「地図提供:金沢市」


 箔座からお多福のみならず主計(かずえ)町茶屋街も東茶屋街も、歩いて行ける場所。近くに有名な飴の俵屋もあるのだよ。

 お多福は浅野川の西岸の彦三町で小橋を渡ってすぐ。
 すぐ近くに、主計町茶屋街。
 東茶屋街は、川の反対側。
 
 こういうロケーションを設定してもらい、散策しながら金沢の歴史やそれぞれの名所のガイドを聴くことができる・・・T先輩には本当に感謝なのである。

 お多福の食時の腹ごなしをしながら、浅野川に沿った、主計(かずえ)町茶屋街へ。

 ここは、西、東と比べると、料亭が多い。それも、高級、と言って良いのだろう。

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 その名の通りほの暗い「暗がり坂」は、主計町茶屋街と、坂の上にある久保市乙剣宮という神社を結んでいて、かつて旦那衆が人目を避けて茶屋街に通うために通った、とのこと。

 主計町茶屋街には、趣きのある家並みが続く。

 先輩から、「ここは、予約がとれないことで有名」「ここは、牡蠣鍋が美味い」「ここは、寄せ鍋が絶品」などお店の説明があり、「夜なら、浅野川に灯が映って、綺麗なんだけどね」とのこと。

 金沢市観光協会「金沢旅物語」から、夜景を拝借。
金沢市観光協会「金沢旅物語」のサイト
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「写真提供:金沢市」

 なるほど、次の機会は夜に来よう。
 でも、高級料亭での食事は、難しいだろなぁ^^

 浅野川大橋を渡り、次は東茶屋街。
 これが、私のガラケーの写真。

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 こちらが、「金沢旅物語」の、夕方の写真。
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「写真提供:金沢市」

 月曜というのに、多くの観光客。やはり、北陸新幹線開通は大きな契機となっているのだろう。
 後で知ったのだが、この日、一便限りで東北新幹線の仙台駅から大宮で乗り換えずに直通で金沢に来た特別便があったようだ。

 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

直通新幹線
金沢駅に到着 仙台駅から4時間の旅

毎日新聞2017年9月4日 18時18分(最終更新 9月4日 19時47分)
.
 仙台-金沢を乗り換えなしで直通運転する北陸新幹線用のE7系車両が4日午後、金沢駅に到着し、約4時間の旅を楽しんだツアー客約440人を加賀友禅大使の女性らが出迎えた。

 午前10時半ごろに仙台駅を出発した新幹線は、福島や長野、富山の各県内の駅を経由し、午後2時45分に金沢駅に到着。観光客は大使らのもてなしに手を振って応えると、貸し切りバスに乗り込んだ。ツアー客は和倉温泉(石川県七尾市)や永平寺(福井県永平寺町)などを巡り、6日に帰路に就く。

 直通新幹線は、JR東日本と西日本が北陸を観光してもらおうと、昨年に続き1往復限定で企画した。10月にも企画している。(共同)

 う~ん、午後2時45分金沢駅着・・・・・・。

 我々が東茶屋街に滞在したのが、たぶん、1時半位から2時半くらいかな。
 まだ、仙台から直通のご一行は、茶屋街には着いていなかった、ということ。
 ということは、仲間のM君が、東茶屋街でレンタル着物の三人娘に「一緒に写真撮りませんか」と、還暦過ぎの恥を知らないナンパオヤジの乗りで声をかけたら、「いいですよ」と気軽に写真に収まってくれた宮城から来た彼女たちは、この新幹線の客ではなかったのだな。

 私はその場にいなかったが、M君がその日何度「宮城の二十歳の子、可愛かったなぁ!」と言ったことか^^

 その都度、こっちは一人で二十歳三人、二人で六人、という声がかかるのである。

 東茶屋街で仲間の数人は、891円の金箔入りソフトクリームを食べていたなぁ。
 お店が、歩きながら食べさせない、というのは、実に正しいルールだと思う。

 その近くにある“きんつば”屋さんで、買い物をした人もいた。
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 しばらく、その昔の花街の雰囲気を味わった後、お約束で俵屋に寄って飴を買う人も。
 もちろん(?)、写真を撮った。

 実は、メンバーの数名は、大学四年の新潟でのインカレの後、T先輩を頼って金沢に来ていおり、ここで写真を撮っている。
 できるだけ、あの時の同じような格好で、なんて誰か言ってたが、どんな風に撮れたかな。

 すぐ近くの箔座に戻って車で金沢駅へ。
 Tちゃんとここで、涙の別れなのだ。
 全員でお見送り。

 さすがに先輩は駅近くの安い駐車場を知っているのだ。

 北陸新幹線開通で、こんなに立派な鼓門ができた。
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「写真提供:金沢市」

 少し駅の喫茶でお茶を飲みからTちゃんを見送って、我々は山中温泉に移動するのだが、T先輩、途中まで道を先導してくれたのだった。

 T先輩、本当にありがとうございました、と車中で心から叫び、七名を乗せた車は山中温泉に向かったのである。

 山中温泉の大浴場で、朝宿を出てから一万八千歩の疲れを癒したのであった。

 夕食の後は幹事部屋へ集合し、懐かしい話やら何やら、途中で買い出ししたビールとワイン、乾き物で会話が弾んだなぁ。

 翌朝は沖縄に帰るS君と羽田に行く私のために山中温泉から小松空港に送っておもらうことになったのだが、ホテル備え付けのパンフレットで、その途中に那谷寺という名を車の運転手Y君が発見。
那谷寺のサイト
 サイトによると、加賀には古くから、白き神々の座「しらやま」に魂が昇り、地上に回帰する、という白山信仰が根付いており、自然の神を崇めてきたとのこと。
 なるほど、まさに、その自然の荘厳な景色に目を見張った。
 これが、私のガラケーの写真。

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 参道。歩いているのは仲間達。
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 奈良時代以降の歴史がサイトで紹介されている。

 Wikipedia「那谷寺」からも引用する。
Wikipedia「那谷寺」
歴史

寺伝によれば、養老元年(717年)泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる。その後寛和2年(986年)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求る観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名。

南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃した。近世に入って加賀藩藩主前田利常が再建。この時の大工は気多大社拝殿を建てたのと同じ山上善右衛門である。

前田利常は、江沼郡の大半を支藩の大聖寺藩に分置したが、この那谷寺がある那谷村付近は自身の隠居領としたため、その死後も加賀藩領となった。(後に領地交換で大聖寺藩領となる)

元禄2年(新暦1689年)奥の細道の松尾芭蕉は弟子の河合曾良と山中温泉で別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中参詣し、奇岩霊石がそそりたつ遊仙境の岩肌を臨み句を詠んでいる。
石山の 石より白し 秋の風 芭蕉 (境内には句碑もある。)

 芭蕉、ここにも来てましたねぇ。

 「開創一千三百年大祭」という時期に訪ねることができた。
 秘仏である御本尊「十一面千手観世音菩薩」が安置されている厨子の扉を開く、33年に一度の法要「御開帳」でもあった。

 本殿(いわや)の暗い堂内を一周すれば、母の胎内をくぐり抜けたことになり、罪と穢れを洗い清められるとのことで、一行が胎内めぐり。

 果たして、どれほど穢れを清められたものか。

 庚申塚の立札に、「なむしょうめんこんごう(南無青面金剛)」と三回ご真言を唱えて下さいと書かれており、何かとネタを振りまくSちゃんが「なむしょんべん」と言ったものだから、吹き出してしまった。

 やはり、養殖じゃなく、天然か^^

 さて、三十三年に一度のご開帳の年に那谷寺を訪れることができ、胎内めぐりで穢れを洗い清めてから、小松空港へ送ってもらい、関西組みと涙の別れ。

 U君と空港の「空門」という洒落たお店に入る。
 少し待ち時間があるのに付き合った私へのお礼なのだろう、沖縄便の乗るU君にビールをご馳走となって、しばらくしてU君と別れ、私は、優しい店員さんがコンセントがあるから、どうぞお使いくださいと言ってもらって、パソコンを出し、さっそく初日の記事を書き始めたのであった。
 四時過ぎの便までは、あっと言う間のい時間が過ぎた。

 これにて、同期会加賀の旅は、お開き。

 T先輩には、あらためて大いに感謝!
 女性陣の幹事役Sちゃん、たくさんネタを提供してもらいありがとう!
 車の運転や山中温泉の予約などでもう一人の幹事の役割と果たしてくれたY君にも助けられた。ありがとう!
 もちろん、皆が協力してくれたから、事故などもなく無事、加賀の旅を満喫できたのだ。
 写真担当のM君、これからSちゃんと私が編集担当の同期会便りづくりで頼りにしてるよ!
 U君、あのビール美味かったぜ!
 K君、元気だしてね。
 落語もよく知っていて、一番鋭い批評をするTちゃん、来年は汚名挽回するぞ!
 Aちゃは、現役時代のキャプテンらしい仕切りで、流石だったよ!

 みんなありがとね!

 そして、長い記事にお付き合いいただいた皆さんにも感謝。
 ありがとうございます!


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# by kogotokoubei | 2017-09-09 12:20 | 小さな旅ー2017同期会加賀の旅 | Comments(0)
 9月4日の二日目の記事の前に、使用する一部の写真について説明したい。

 昨日の記事で掲載した地図は、金沢市観光協会の「金沢旅物語」からお借りしている。
 問い合わせメールでは返事が遅くなるかもしれないので、窓口にお電話をした。
 個人ブログでの使用なら掲載可能で、ぜひ金沢をPRして欲しいと言われ、実に嬉しかった。

 同サイトには、数多くの写真も掲載されているが、使用については次のように記載されている。
金沢市観光協会「金沢旅物語」のサイト

使用について

 本写真素材集に収録されている画像データについては、金沢市の観光をPRする目的において、ご利用いただくことができ、データはそのまま、又は加工してご使用いただけます。
 画像データ(ダウンロード画像を含む)を掲載する場合には、写真の下などに「写真提供:金沢市」と掲載してください。
 なお、雑誌等で使用された場合は、完成品を1部ご恵送いただけると幸いです。

 金沢市、太っ腹でしょう!

 ますます、金沢が好きになる。

 ということで、自分で写真を撮っていな場所などは、金沢市のご好意に甘えてお借りすることにした。

 さっそく、初日に金沢21世紀美術館の後に立ち寄った、西茶屋街の写真を、お借りした。

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「写真提供:金沢市」

 なかなか、趣きのある佇まい。

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「地図提供:金沢市」

 初日は、上の地図の金沢21世紀美術館から長町武家屋敷を経由して、犀川をわたって西茶屋街に行ったのであった。

 言うまでもなく、茶屋街とは、昔の遊郭を含む“花街”のあった場所。
 少し調べてみると、金沢の遊郭は、最盛期には、東新地、西新地、北新地、主計町、愛宕の五か所あったらしい。

 その中で、今、茶屋街として観光客が多く訪れるのが、犀川の西岸の西茶屋街と浅野川の東岸の東茶屋街。東茶屋街の近くには、料亭が多い主計町茶屋街もある。
 
 先輩のガイドによれば、金沢の西、東は、あくまでお城を中心にした方角とのこと。

 花街は、料亭・待合茶屋・芸者置屋という三業で構成されている。そこで働く女性には、芸妓と娼妓がいるわけだが、東と主計はその割合がほぼ半々、西は娼妓の方が多かったらしい。

 それが、現在の姿にも反映しているのだろうか、観光客で賑やかなのは、この日の昼食後に訪ねた東茶屋街だった。
 

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 この日の最初の金沢巡りは、宿のロビーに七時に集合して行った近江町市場。

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「地図提供:金沢市」

 尾崎神社近くの宿から徒歩で十分もかからない近さ。

 当初はお寿司の朝食をと思い、昨夜先輩から聞いていた七時半開店のお寿司屋さんを、ひとまず訪ねたが、遅い夏休みなのか、なんとお休みだった。

 開いていたとしても、昨夜の酒が残っている者も私も含め多いし、皆がコーヒーを飲みたいで一致し、武蔵の辻の近くの、一人の時は滅多に入らないスタバへ。
 私は、コーヒーとパンケーキのようなバターミルクビスケットを食す。ハチミツをかけて、なかなか旨かった。他のメンバーは、コーヒーとサンドイッチが多かったかな。

 その後、近江町市場に戻り、土産を買いたい人もいれば、そうじゃない人もいるので、先輩が宿に来られる九時に宿で集合ということで、解散。
 私は土産をまとめて買って宿に戻ったが、仲間の数名はお寿司を食べたようだ。元気だね^^
 さて、先輩も宿にいらっしゃって、金沢城公園、そして兼六園に向かう。

 石川県が管理する「金沢城と兼六園」というサイトがある。
「金沢城と兼六園」のサイト

 同サイトからはパンフレットがダウンロードできるので、PDFデータから金沢城公園の地図を抽出して掲載。
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 宿から近い地図左上の黒門口から入り、右中央少し上の石川門から兼六園へ、というコースを歩く。

 新丸広場の緑が、なんとも鮮やかで、つい記念写真を撮ろう、と提案した。

 河北門、橋爪門をくぐる際も先輩の名ガイドが続く。
 
 金沢は落雷が多く、金沢城も落雷によって焼失したことや、石垣の作り方にもいろいろあること、門が二重になっていて、敵が攻めてきたら門を閉め、門と門との間に閉じ込めて攻撃する、などなど。
 先輩のガイドの内容にもあったこの城のことについて、Wikipediaの「金沢城」から引用したい。
Wikipedia「金沢城」
概要

金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。

この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた大名庭園である。

なお、金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られているが、尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていた。佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。だが、金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されている。

 「尾山御坊」は、先輩のガイドで何度もお聞きした言葉。。

 上記のように、金沢の街は犀川と浅野川に挟まれた一帯に作られたお城を中心に発展した。

 そのお城の見学は、ほどほどにして、お目当ての兼六園を目指し、一行は石川門へ急ぐ。

 石川門から出て兼六園につながる石川橋の下の道路は、かつての百間堀だった場所だったと、先輩の説明。

 佐久間盛政の時代につくられ、前田利家の入城後、その子利長により改修されたと言われている。銃弾が飛ばないだけの幅のあった、防衛上重要な堀で、長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4m、その大きさから百間堀の呼び名がついたとのこと。

 その百間堀を越えて到着した兼六園。

 先輩から「兼六」の由来は「六勝」であるとお聞きしたが、「六勝」の内容は宿題として残された^^

「金沢城と兼六園」のサイトに次のような説明が載っていた。
すぐれた景観の代名詞「六勝(ろくしょう)」

六勝とは、[宏大(こうだい)][幽邃(ゆうすい)][人力(じんりょく)][蒼古(そうこ)][水泉(すいせん)][眺望(ちょうぼう)]のこと。宋の時代の書物『洛陽名園記(らくようめいえんき)』には、「洛人云う園圃(えんぽ)の勝 相兼ぬる能わざるは六 宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは 惟湖園のみ」という記述があります。その伝えるところは、以下の通りです。「庭園では六つのすぐれた景観を兼ね備えることはできない。広々とした様子(宏大)を表そうとすれば、静寂と奥深さ(幽邃)が少なくなってしまう。人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(蒼古)が乏しい。また、滝や池など(水泉)を多くすれば、遠くを眺めることができない」そして、「この六つの景観が共存しているのは湖園(こえん)だけだ」と結ぶのです。すばらしい景観を持した庭園として賞された湖園。兼六園は、この湖園に似つかわしく、六勝を兼ね備えているという理由から、文政5年(1822)、その名を与えられました。

 要するに、宏大<->幽邃、人力<->蒼古、水泉<->眺望は、それぞれ「あちらを立てれば、こちらが立たず」、英語の「トレードオフ」の関係にあるが、洛陽の湖園だけはその六つを兼ね備えている、と言われた、その湖園に似つかわしいから兼六園、ということか。

 園の名の由来だけでも、実に深~い^^

地図を「金沢城と兼六園」のサイトからご紹介。
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 金沢城公園の石川門を出てから、この地図の上にある桂坂口から入る。
 もちろん、入園料310円を払って。
 仲間の一人が、「六十五歳以上は、無料か。もうすぐその年齢になるんだなぁ」
 と、やや感慨深く呟く。
 たしかに、映画なども含め、六十五歳が一つの境目になっているが、自分たちがその区切り目に近いとは、誰ひとり実感がないのだよ。
 久しぶりに会うと、一気に四十年前に戻っているので、皆、二十歳そこそこの自分と同化しているのだ^^

 最初の写真スポットは、霞ヶ池。

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 私のガラケーで少し離れた場所から撮った、徽軫灯籠(ことじとうろう)。

 金沢旅物語の綺麗な写真もご紹介。
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「写真提供:金沢市」

 徽軫灯籠は、形が楽器の琴の糸を支え音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたと言われていると先輩のガイドもあり、全員で灯籠をバックに撮った写真は・・・個人情報になるので掲載しないよ^^

 その後、雁が渡る姿に似た雁行橋などを眺めながら、園内を散策。

 途中に、芭蕉の句碑。
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  あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風

 奥の細道にある句で、旧暦七月の晩夏から初秋にかけた時期に、夕陽を見ながら詠んだとされている。
 訪れたのが旧暦七月十四日で、ちょうど同じ頃、同じような季節といえるだろう。
 
 現代語訳は、立秋も過ぎたというのに、夕日は相変わらず赤々と照りつけ残暑はきびしいが、さすがに風だけは秋の気配を感じさせる、という意味のようだ。
 たしかに、今はそういう時期といえるだろう。
「秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」という『古今和歌集』の歌を念頭に置いて詠んでいるとされている。

 途中で休憩を挟んで、一時間ほど園内を散策しただろうか。

 宿に戻って、駐車場の京都からやって来た仲間の車、そして先輩の車の2台に乗り込み、向かったのは、先輩お奨めの金沢の伝統工芸のお店。

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 それは、金箔と金箔製品の製造、販売の「箔座」本店だった。
「箔座」のサイト
 箔座のコーポレートサイトから、引用。
社名であり、ブランド名でもある「箔座」は、金箔の歴史において実際に存在した金銀箔類の統制機関「箔座」に由来。
そこには、世界に誇る技を残しながら質の高い箔をつくり、日本の伝統文化に貢献できる箔のギルドの中心でありたい、という思いがこめられています。

 お店の方と先輩は懇意にされているようで、他の見学者もちょうどいなかったこともあり、九人は店の中に入って、金箔のお勉強。

 このお店の方が、実に流暢に金箔の歴史から製法、そして、店にある「黄金の茶室」のこと、そして、ちょうど職人さんが働いていたので、その仕事ぶりを見ながらの解説をしていただいた。

 この人の名調子を聴いて、仲間からは昨日の私の落語の大スベリをからかう声、多数^^

 写真が、「黄金の茶室」。

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 もっと鮮やかな写真は、コーポレートサイトでご確認のほどを。

 同サイトによると、国宝修復に使われる最高級の「縁付金箔」約4万枚を用い、職人たちの技術の粋をあつめてつくり上げた「黄金の茶室」。

 つい、「秀吉と箔座だけですねぇ」、なんて言っちゃった^^

 皆は、思い思いのお買い物。
 奥さんにアクセサリーを買った仲間もいたが、私は、金箔入りのチョコレートケーキ。

 さて、ここまでが、二日目の午前中・・・フーッ(と、ため息)。

 お店のご好意により駐車場に車を置かせていただき、徒歩で昼食に向かったのであった。

 昼食から午後の散策については、明日(か、明後日)の心だ!


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# by kogotokoubei | 2017-09-07 21:37 | 小さな旅ー2017同期会加賀の旅 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛