月例三三独演「嶋鵆沖白浪」その十一、その十二 イイノホール 12月8日


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 なんとか、柳家三三の『嶋鵆沖白浪』の最終公演に駆けつけることができた。

 三遊派の円朝と同時代で芸を競った柳派の初代談洲楼燕枝の作品だ。

 この噺から独立した一篇『大坂屋花鳥』は、先代馬生一門を中心に複数の噺家さんが手掛けている。

 しかし、通し、となると三三の独壇場だ。

 5月31日の拙ブログ記事でも紹介したが、今年の開催が決まってから、毎日新聞でインタビュー記事が4月に掲載された。
2016年5月31日のブログ
毎日新聞の該当記事

 毎日の記事から引用。

 口演速記などを基に練り上げ構成、2010年11月に3日連続で口演。端正な語り口が躍動する物語を紡ぎ、大きな評判を呼んだ。さらに翌年、横浜にぎわい座では、6回にわたりほぼ全編を演じた。

 3度目となる今回。「この数年で、噺に対する感覚が変わった。今の時点でやってみたらどうなるか」と、また新たな気持ちでの挑戦だ。

 「いろんな所でやらせてもらうようになって活動の幅が広がり、調子に乗ってやっていると、自分の勉強会と位置づけていた『月例』を、何となく“こなす”ようになっていた。二つ目、真打ちと蓄えた貯金を、その場しのぎに吐き出してやっていた。気持ちがダレてるな、いかんなあと思いました」

 昨年の会から気持ちを巻き直し、「僕にしては驚異的に」稽古(けいこ)にこれまでより時間をかけ、一つの噺を丁寧に見つめ直すことを始めた。

 「スポーツ選手じゃないですけど、稽古は嘘(うそ)をつかないですね。一回ちゃんと体に噺を通しておくと、以前と同じ出たとこ勝負でも、噺の中で登場人物がどうこうしようというのを、落ち着いて楽しめるようになりました」

 実は噺家になって初めて登場人物が勝手に動き出すという体験をしたのが、「嶋鵆沖白浪」の初演だった。「エーッて言うくらい、どんどん勝手にしゃべり出した。今回、またどんな景色が見えて、どんな人たちと出会えるか」

 ほう、登場人物が勝手に動き出しましたか。
 先日、少しだけ私も経験した(^^)、あの感覚だな。

 私は、三三のこの噺と、縁がある。

 初演の2010年11月の紀尾井ホール「談洲楼三夜」に、私は初日のみだが行くことができた。
2010年11月16日のブログ

 この会に触発されて初代談洲楼燕枝のことを知りたくなり、記事にも書いた。
2010年11月19日のブログ

 紀尾井ホールの会で、三三は希望者には自筆のあらすじを送ると言ってくれたので、希望したところ、少し時間が経ってからだが、しっかり送ってもらえたのは嬉しかった。
2011年2月2日のブログ

 この、あらすじの最後に、この噺には後段があると書いていた。
 三三は、毎日の記事にもあるように、翌年、六回十二話に噺を練り直して横浜にぎわい座で公演。

 私は七月の第三夜(『大坂屋花鳥』に相当)と八月の第四夜(題をつけるなら『島抜け』)を聴くことができた。
 
2011年7月7日のブログ
2011年8月5日のブログ

 あの時は、毎回、ワープロのあらすじを渡してくれた。きっと、スタッフの方がパソコンで書いたのだろう。

 当時、私は、翌2012年にも、都内で再演するのではないかと思っていた。
 しかし、にぎわい座から五年を経て、今年開催のニュースを目にしたのだった。

 何かと野暮用もあり、これまでの五回の公演には行くことができなかった。
 都合が良い場合も、気が付いた時は、チケット完売。その人気の高さを感じたものだ。
 
 最終回は都合がつきそうなことと、チケット発売日が日曜で、テニスコートのすぐ脇にコンビニがあることに、私は縁を感じた。
 仲間に断って、午前10時になるのをコンビニで待ち、なんとか入手したチケットで行くことができたという次第。

 結果として、2010年の紀尾井ホールで前半、翌2011年の横浜にぎわい座で中盤、そして今回終盤を聴くことができた。

 イイノホールは2013年12月の、さん喬一門会以来、ほぼ三年ぶり。
 あの年は、一月には一之輔をゲストに迎えた三三の会にも行ったなぁ。

 大きさはほどほどだが、落語には似合わないなぁ、という印象は変わらない。
 立派過ぎるのだ。ドアも重すぎる^^

 500席のチケットは発売から時間をおかずに売り切れていたが、私の席の近くを含め、ちらほら空席もある。
 最近はチケット発売が早く、事前に購入していても都合が悪くなる人だっているだろうと思うので、あり得ることだ。

 次のような構成だった。
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柳家ろべい『替り目』
柳家三三 『嶋鵆沖白浪』<十一>
(仲入り)
柳家三三 『嶋鵆沖白浪』<十二>
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柳家ろべい『替り目』 (21分 *19:01~)
 久しぶりだ。昨年1月、横浜にぎわい座で白酒の会で聴いた『ぐつぐつ』以来。
 マクラで本人からも説明していたが、来春真打昇進し小八となる。
 落語ブームとやらでイケメンの若手が人気らしいが、年齢は三十前後の二ツ目が該当するらしく、自分は三十九だし、イケメンでもないので・・・などと語っていたが、結構この人も、いい男だと思うよ。他の流派の若手との交流も増えたが、中には酒癖の悪い人もいて・・・と本編へ。
 酔っ払い亭主としっかり者女房の掛け合いを、楽しく聴かせてくれた。この人らしい味わいが出てきたような気がする。いわゆる“フラ”がある。師匠は、あちらから見守ってくれているはずだ。来年昇進からの一層の飛躍を期待する。そのうち二代目を継いで欲しい。


 さて、三三の高座の前に、関連情報を。
 受付でもらったプログラムに、六人の主な登場人物の紹介と併せて、前回までのあらすじが載っていた。
 せっかくなので(?)で、あらすじを引用したい。
流罪になった三宅島で再会し結ばれた佐原の喜三郎と花鳥のお虎は、小菅の勝五郎、三日月小僧庄吉、僧侶の玄若と小舟で島抜けとし、銚子の浜に流れ着く。お虎とともに馬差しの菊造を討ち念願を果たした喜三郎は、弟・吉次郎に店や両親を託し別れを告げ、江戸へ出る。金に詰まり吉原時代の馴染み客を脅すお虎と喜三郎、そこに声を掛けたのは春木道斎と名乗る浪人。さらに道斎家の女中で梅津長門と父の仇と狙うお峰がいったいどう絡んでくるか・・・。
 馬差しの菊造とお虎、喜三郎との因縁は、紀尾井ホールで聴いている。
 『大坂屋花鳥』に相当する吉原放火事件、そして、島抜けは横浜にぎわい座で楽しんだ。
 なるほど、銚子に漂着した後、喜三郎とお虎は、菊造への仇討ちに成功したわけだ。

 あらためて、三三の高座。
 ややネタばれの内容も含むが、今回のあらすじが送られてくることはないので、備忘録として、お許しのほどを。

柳家三三『嶋鵆沖白浪』<十一>(「勝五郎仇討ち」、32分)
 さて、その後のお虎と喜三郎は、とすぐには進まず、この<十一>は、いわば「外伝」的な内容。
 主役は小菅の勝五郎だ。
 千住の旅籠小菅家の倅に生まれたが、道楽の挙句父から勘当された勝五郎。彼は、父の後妻お仙と情夫湯屋の重吉二人の策略で、父殺しの罪を着せられて島流しになったのだ。
 その勝五郎が、庄吉と一緒にお仙と重吉に、父殺しの仇を討つ話を、エンディングの前に挟んだのだった。
 この噺は、なかなか聴かせどころが多い。庄吉を先に小菅屋に行かせ、勝五郎は八年ぶりに会う女房のお吉に別れを告げに小菅に行く。島流しになった時には、まだお吉の腹の中だった倅の勝之助の顔も拝みたいのだ。
 あばら屋に住むお吉と再会した後の勝五郎夫婦の会話は、一幕の芝居だ。
 『子は鎹』を思わせる面もあるが、任侠の道にいる男と妻なのでやりとりは伝法だ。

 ・勝五郎が小菅屋にお仙と重吉を殺しに行くと聞いて、最初は止めるお吉。
 ・俺の女房なら威勢よく送り出してくれ、と勝五郎。
 ・「行っといで!」と気丈な姿を見せるお吉。
 ・寝入る勝之助の顔を見て、涙をぬぐう勝五郎。

 三三、女性を描くのが、ますます冴えてきたと思う。
 小菅屋でのお仙と重吉を殺す場面、あえて地で語ったのは、やや物足りなさもあったが、血生臭さを抑えようとしたのだろう。
 小菅屋の奉公人と飯盛り女を全員集め、頬被りを取った勝五郎。古参の弥助爺さんが、「勝五郎さんじゃないですか・・・・・・」と、驚く。この弥助爺さんは、お吉が食べるのにも困って小菅屋に来た時、お仙と重吉の二人から「父親殺しの女房に、くれてやるものなどない」と追い返されたのだが、そのお吉に優しい声をかけ、金を渡したのだった。その後も、店の若い者に金を届けさせてくれたから、なんとか八年の間、お吉と勝之助が暮らしてこれたのである。
 勝五郎は「蔵にある金をみんなで分けてくれ。女たちの証文は全部焼く。何か聞かれたら、二人連れの強盗が金を持ち去り、証文を焼いたと言ってくれ」と伝える。
 勝五郎と庄吉は、天保四年十二月二十日、小塚っ原で打ち首となり、短い生涯を終えたのだった。
 まさに、かつての東映の任侠映画を見るような、高座。
 五年前、紀尾井ホールの初日に喜三郎に感じたカッコの良さを、この高座では勝五郎に見た。
 この「外伝」、勝五郎を主役の一篇として独立した噺の可能性を感じたなぁ。単独の高座「勝五郎仇討ち」として、今年のマイベスト十席候補としたい。

柳家三三『嶋鵆沖白浪』<十二>(51分、*~21:00)
 仲入りの後は、ついに大団円。
 とは言っても、この噺だから、ハッピーエンドではない。いや、そうとも言えないか・・・・・・。
 前回、金に困ったお虎と喜三郎が、お虎(花鳥)の吉原時代の馴染みの客、通り四丁目の大文字屋の番頭に、喜三郎を強請りに行かせたところに登場したのが、春木道斎という浪人だったわけだが、今回は、その道斎に家を、お虎が訪ねた場面から。

 お虎は、喜三郎が道斎宅から十両をもらって帰ってきて「まるで、鏡を見ているようだった」と聞いて、道斎が梅津長門ではないかと察していたのだ。
 さて、この男に惚れ、大坂屋に放火までして長門を逃したために、三宅島に島流しとなったお虎。
 そのお虎の長門への復讐が始まる。

 その悪さ振りが、たまらない。
 目を三角にして、道斎を睨みつける。
 記憶をたどると、こんな感じ。
 

 お虎「まさか、たった十両で、終りにしようってんじゃないだろうね」
 長門「・・・・・・」
 お虎「あたしが、どれほど泥水を飲んできたか」
 長門「今は、せいぜい素読の指南位で日々をしのいでいる。十両が精一杯だ」
 お虎「そうかい。それじゃ、大音寺前の殺しのことをバラしてもいいんだよ」
 長門「・・・・・・」
 お虎「通りがかった商人から、二百両盗んで斬り殺したのは誰だったかねぇ」

 ちょっと、私の創作も入っているかも^^

 さて、この会話を聞いていたのが、長門に殺された商人与平の娘、お峰だった。
 探していた父親殺しの敵に仕えていたなんて・・・あくまで物語。
 
 さて、三角の目でじっと道斎を見つめ、あらたな十両をひねり出させて、お虎が家に帰る道すがら、その姿を見かけてついてきた、一人の乞食がいた。
 長屋の外でお虎と喜三郎の会話を確認して、「ごめんくだせえ」と乞食は声をかける。
 なんと、それは、病気で瘡蓋だらけの姿になった、島抜け仲間の湯島の納所坊主、玄若だった。
 さすが、死の淵をともに歩いた島抜け仲間の喜三郎とお虎は、熱い湯で玄若の躰を洗ってやり、食事もとらせる。
 疲れ切っていた玄若は、二階で眠りについた。
 喜三郎は、十両持って賭場へ。
 残ったお虎が一杯やっていると、玄若のとんでもない寝言が聞こえる。
 「お冬、許してくれ。お前がいたんじゃ、喜三郎、お虎と島抜けできねぇんだ」
 三宅島で玄若は、親切に世話を焼いてくれるお冬といい仲になったのだが、島抜けについて行くと言ってきかないので、首を絞めて殺したのだった。
 お虎にとって、玄若の寝言は、薄い壁一枚の長屋の住人には聞かれたくないものだった。
 何度も寝言を言い続ける玄若。怖い目で玄若を見つめるお虎。左手に握りしめた手拭いを丸めて玄若の口を塞ぎ、右手の短刀で心臓を突き刺し・・・とどめは首すじに。
 この場面、お虎が鬼に見えた。

 お虎が布団に玄若をくるんで、ようやくの思いで外に出し、捨て場を探しているところに、御用、御用の提灯が取り囲む。
 あのお峰が、番所に梅津長門のことを訴え出たのだ。長門も捕縛され、そこからお虎のことも明らかに。
 場面替わって、賭場からそろそろ帰ろうとしていた喜三郎の耳に、お虎捕縛のことが伝わる。
 そして、小塚っ原で、勝五郎と庄吉が打ち首になったことも知った喜三郎は北町奉行に自首。その後、牢名主となってしばらく後に釈放となって、島抜け仲間で唯一、畳の上で亡くなった。
 他の人物の最後は、どうだったのか。
 梅津長門は、武士らしく、と切腹となったのだが、怖気づいたのか嫌がり、最後は役人に刀に手を添えられて、形だけの切腹となった。
 対照的なのが、お虎。取り調べにも何も答えず、終始気味の悪い薄笑いを浮かべ、処刑の際も最後まで笑いながら死んでいった。
 果たして、どちらが男で、どちらが女なのか。
 いや、もしかすると、いざという時には、女の方が肝が据わっている、ということか。
 紀尾井ホールで六年前に聴いた第一話、神田三河町で人入れ稼業をしていた父が亡くなってから人生の歯車が狂い出し、成田で芸者をしていたお虎。
 その後、数奇な運命をたどり、最後に笑みを浮かべながら、いったい何を思っていたのだろうか。
 この噺は、喜三郎とお虎の物語と言えないこともないが、どちらかと言うと、主役はお虎だなぁ、と強く感じた。
 
 この回、火事や島抜け、大立ち回りなどドラマティックな場面に欠けるとはいえ、お虎と長門の冒頭の会話、お虎の玄若殺しなどに、見せ場、聞かせどころがしっかりあった。
 喜三郎があまり登場しなかったが、その分、お虎、そして玄若の不気味さが際立ったように思う。主役が何人もいては、ハレーションが起きる。

 とにかく、三三が、新聞のインタビューで答えたように、登場人物が勝手に話し始めるようなテンポの良さ、スピード感が素晴らしかった。
 迷わず、こちらも、今年のマイベスト十席候補とする。

 
 あらためて思うが、新聞記事にもあるように、よほど稽古したんだろうなぁ、と思わせる高座だった。

 そして、実に結構な芝居を観ているような気がしていた。

 十一と十二の、話の組合せも悪くない。

 しばらくぶりに聴いた三三だが、やはりこの人は凄い。
 
 アンケートに、無理は承知で、来年の横浜にぎわい座で再演希望、と書いたが、よく考えると、寄席で十日間通しにも作り替えることができるのではなかろうか。
 そして、毎年恒例にしても良いだけの噺である。
 演出だって、いろいろ替えていいだろう。
 たとえば、十一話相当の内容なら、勝五郎と庄吉がお仙と重吉を倒す場面を地ではなく、立ち回りにするなど、いろいろと試して欲しいとも思う。

 十二話から十話にするのは、可能だと思うなぁ。

 何も、円朝の怪談ばかりが、寄席の通し口演のネタでもなかろう。

 柳派に、その昔の頭取、初代談洲楼燕枝作の噺が見事に復活した、という嬉しい思いで帰路を急いだ。
 帰ってから、湯豆腐と一緒に呑む酒が、なんとも旨かったこと。

 師走に、なかなか結構な芝居を観させていただいた。そんな思いである。
 

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# by kogotokoubei | 2016-12-09 12:54 | 落語会 | Trackback | Comments(4)

ふたたび、小野お通のこと、など。

 日曜日、「真田丸」の第48回「引鉄」を見た。

 佐助が家康を必死の覚悟で倒しに行く前に、きりに自分の思いを伝えようとしたが、あっさり断られてすぐ消え去る場面には、笑った。
 
 しかし、あんなこと、ありえないと思うなぁ。

 きりが高梨内記の娘であるのなら、信繁の側室のはず。
 そして、二人の間には女の子がいたはずで、信繁はその娘の阿梅を、伊達藩の片倉小十郎重長に預けたと言われている。
 重長は、伊達政宗の家臣、片倉小十郎景綱の長男。ちなみに、片倉家は代々、小十郎を名乗る。

 なぜ、「真田丸」できりに信繁の子がいるという設定にしないのかは、よく分からないが、いずれにしても、主君を慕う彼女に惚れる佐助、という筋書きには無理がある。
 佐助がきりを好きであっても、それを口にすることはないはずだ。草の者なのだから。
 
 その佐助が倒したと思った相手は家康の影武者だった、なんて筋も、作り過ぎだ。

 NHKの番組サイトによると、次回「前夜」で、信之と信繁の対面があるようだが、池波正太郎が描くような、小野お通の家という設定ではないようだ。
NHKサイトの「真田丸」のページ

 やはり、私はお通の家であって欲しいなぁ。

 ということで、小野お通について、ふたたび。

 先日の記事では、池波正太郎の『信濃大名記』から、小野お通に関する記述を引用したが、別の池波の本から今回はご紹介。

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池波正太郎著『武士の紋章』(新潮文庫)

 『三代の風雪 真田信之』は、新潮文庫『武士の紋章』の中の一篇。
 ちなみに、武士は「おとこ」と読む。

 なお、池波は、作品によって信“幸”と信“之”の表記が混在する。

 私が知る範囲では、初期の作品では信幸、後半は信之を使っているようだ。
 本書では、信之。

 「信之の恋」と題された章から引用。
 もともと真田家は清和天皇の皇子、貞保親王から出ており、数代を経て、信之の祖父の幸隆の時代に信濃真田庄へ住みついたというわけで、京の公家たちの中には親類もかなりある。
 ときの菊亭大納言季持(すえもち)は、信之・幸村の義理の叔父に当る。
 余話になるが、菊亭大納言は、敵味方に別れた真田兄弟の身の上を心配し、何とか幸村を徳川方に引き入れようとして骨を折ったりしたものだ。
 そのとき四十七歳だった真田信之が、小野のお通という女性を知ったのも、おそらく、この菊亭大納言という叔父さんの紹介があったからであろう。
 小野のお通は、その当時何歳であったか明確でない。三十歳前後と推定してよかろうと思う。


 「真田丸」では、北政所の侍女という設定で、信之との初めての出会いが描かれたが、たしかに侍女であったという説もある。

 少し時代を経てからのこと。
 元和六年の正月ー小松夫人が没した。
 風邪をこじらせたのがもとで、彼女は沼田の城に在ったのだが、信之は馬を飛ばしせて上田から駆けつけてきた。
「春も近い。それまでの辛抱じゃ」
 本気で、信之はそういった。
 こうなってみると、小松が妻として、留守居がちの家を治めた功績は大きい。それが、信之には、ひしと感じられたのである。
 小松は首を振って見せ、それから、いたずらっぽい微笑を信之に投げ、
「京の方をお呼び遊ばしても構いませぬ」といった。
 ちゃんと知っていたのである。
 信之も、小松の死後になり、思いきって京へのぼり、久しぶりにお通と会い、
「信濃へ来てはくれぬか」と切り出した。
 お通は、これを拒絶した。
「大名の家のものとなるのは、わたくし、のぞむところではございませぬ」
 信之を愛してはいるが、武家の社会ほど不安と危険が多いものはない。それを身にしみて知っているから・・・・・・というのである。
「それほどに、わたくしのことをお想い下さいますならば、真田十万石を捨て、一人の男として京へおいで下さいませ」
 理性の強い女性であったと見える。
 信之も一時は迷いに迷ったようだが、帰するところは、
(これからの真田家に、わしが居(お)らねばどうなる? まして家を潰し、家来と領民を苦しませることなどは・・・・・・)
 とうてい出来得ぬ信之であった。
 かくて信之は、お通と別れ、新領地松代へ国入りをした。
 のち数年を経て、お通も一度、松代を訪ねた形跡があるが、たしかな資料は残っていない。
 しかし、お通の娘(信之と別れてからなのか、その前からいたものか、判然としないが)のお伏が、信之の息・信政の側室となった事実がある。

 小松(お稲)の姿、「真田丸」では気丈な面ばかり目立つが、池波作品では、女性としての優しさも描かれている。

 そして、謎の才女、お通。
 実に魅力的だ。

 信之と小松は、実に良い夫婦だったのだろう。

 たしかに、小松は本多忠勝の娘らしく気丈夫だが、女らしさも十分に備えていたと思いたい。

 
 「真田丸」を見ると、どうしても、池波作品と比較してしまう。

 「えっ!?」とか、「そりゃない!」などと思いながら、もう残り二回。

 来年は、井伊直虎か・・・・・・。

 直虎より、もっと相応しい戦国の女性がいると思うなぁ。

 戦国時代に、女性が家を継ぐ例は、直虎だけではない。

 豊後大友氏の家臣である戸次鑑連(立花道雪)の娘の誾(ぎん)千代が、家督を継いでいる。
 彼女の婿となったのが、同じ大友氏家臣高橋紹運の長男である立花宗茂。
 宗茂は筑後柳川藩の初代藩主。
 関ケ原で豊臣側について改易されて、その後に旧領を回復した唯一の大名だ。
 宗茂と誾千代を中心とする傑作時代小説が葉室麟の『無双の花』。
 誾千代に関しては、山本兼一の『まりしてん誾千代姫』がある。

 直虎より、ずっと面白いドラマになると思うので、そのうち実現するのを期待しよう。
 再来年は、西郷隆盛か。

 去年が長州の『花燃ゆ』だったので、薩摩もやらなきゃ、というバランス感覚が背景にあるような気がする。


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# by kogotokoubei | 2016-12-06 12:52 | 歴史ドラマや時代劇 | Trackback | Comments(0)

場で朽ちるから、バクチ。


 真珠湾訪問のニュースは、別として、政府の悪行について。

 「統合型リゾート(IR)整備推進法案」なんて誤魔化しのお題をつけ、与党が賭場(博打場)の開設を推進しようとしている。

 法案の実態は、「博打推進法」である。

 そもそも「IR」は、“Investor Relations”という株主・投資家向けの情報活動という言葉の略として定着している。言葉自体が、混乱の種になっている。

 衆議院のサイトに、この法案の内容が掲載されている。
衆議院サイトの該当ページ

 「第一章 総則」から引用する。

第一章 総則

 (目的)
第一条 この法律は、特定複合観光施設区域の整備の推進が、観光及び地域経済の振興に寄与するとともに、財政の改善に資するものであることに鑑み、特定複合観光施設区域の整備の推進に関する基本理念及び基本方針その他の基本となる事項を定めるとともに、特定複合観光施設区域整備推進本部を設置することにより、これを総合的かつ集中的に行うことを目的とする。

 (定義)
第二条 この法律において「特定複合観光施設」とは、カジノ施設(別に法律で定めるところにより第十一条のカジノ管理委員会の許可を受けた民間事業者により特定複合観光施設区域において設置され、及び運営されるものに限る。以下同じ。)及び会議場施設、レクリエーション施設、展示施設、宿泊施設その他の観光の振興に寄与すると認められる施設が一体となっている施設であって、民間事業者が設置及び運営をするものをいう。

 第一条の(目的)、“特定複合観光施設区域の整備の推進が、観光及び地域経済の振興に寄与するとともに、財政の改善に資するものであることに鑑み”という前提が、そもそも間違いではないのか。

 「特定複合観光施設」に限らず、地域経済の振興のためには、他にもいろんな対策が検討されてしかるべきである。

 第二条で「特定複合観光施設」が、“カジノ施設及び会議場施設、レクリエーション施設、展示施設、宿泊施設その他の観光の振興に寄与すると認められる施設が一体となっている施設”と定義されているが、カジノが必然なのだろうか。

 兄弟ブログの「幸兵衛の小言」の2014年10月28日の記事で、「内田樹の研究室」の記事の引用を中心に、カジノ法案に関する記事を書いた。
「幸兵衛の小言」の該当記事
 同記事と重複するが、あらためて、今回の政府の暴挙について。

 昔の人は、寄席に行くのにも、後ろめたい思いを抱いていた、ということを本などで読むことがある。

 悪場所、悪所、という表現もある。

 さすがに、今日の寄席通いには、そういった心情と縁遠くなってきたが、賭場に行く場合は、この‘後ろめたさ’を感じるだろうし、そういう感覚、結構大事なのではなかろうか。

 人によっては、地下に潜る感覚が、楽しみを倍加させる効果もあるだろう。

 本来、そこは秘密の場所なのである。

 落語では、たとえば『品川心中』などで博打をしている場面で、「大きな声を出すな。俺たちゃ親孝行してるんじゃねえんだ」という科白を挟むことが多いが、この感覚である。

 博打は、そもそも陽の当たる場所で行うものではないのだ。
 それこそ、国が率先して賭場を作ろうなんてことは、大間違い。

 ギャンブル依存症者を増やすだけである。

 立川談春は『文七元結』において佐野槌の女将に、「その場で朽ちるから、博打なんだ」と言わせる。

 勝つにしたって、まさにあぶく銭。

 あぶく銭か、その場で朽ちるか、という世界は決して真っ当な場所とは言えまい。

 『文七元結』は落語だから、左官の長兵衛が博打で首が回らなくなっても、吉原に沈んでくれようとする娘のお久がいて、五十両貸してくれる佐野槌の女将がいる。
 そして、長兵衛がその五十両を、吾妻橋から飛び込もうとしている初対面の文七に恵んでくれたことに感謝し、お久を請け出してくれる鼈甲問屋、近江屋卯兵衛がいるのだ。

 現実の世界なら、長兵衛一家には悲惨な末路が待っているに違いない。

 
 石破茂は、当初否定的だったがシンガポールのカジノの管理体制を見て、考えが変わったらしい。
朝日新聞の該当記事

 では、韓国の実態も見ろ、といいたい。
 
 あの国に一か所だけある韓国の人が行くことのできる賭場「江原ランドカジノ」が、どれほど多くの不幸を作っているのかを。

 昨日の「報道ステーション SUNDAY」でも長野智子が現地で取材した内容を取り上げていたが、「Business Journal」の記事から引用する。
「Business Journal」の該当記事

 1967年、韓国では外貨獲得のためにカジノが解禁され、当初は韓国人も使用できたが、さまざまな不正が発覚し、2年後には外国人専用となり韓国人は出入り禁止になってしまう。その後、70年~90年にかけてカジノ建設ラッシュとなり、外国人専用カジノが全国に16カ所も建設されたのだ。2000年になり、ようやく韓国人でも楽しめるカジノ「江原ランドカジノ」がオープンし、1年目に約170億円もの利益を上げた。

「一時は炭鉱の町として栄えていた江原に活気を取り戻すべく、カジノを誘致しました。毎年300万人の人々が訪れるようになり、街に活気は戻ったのですが、カジノ中毒に陥る韓国人が続出したのです」(韓国一般紙記者)

 韓国政府は月15回までの入場制限を定め、2カ月続けて15回通うと「賭博中毒センター」でのカウンセリングが義務付けられ、現在までに約5万人の人が利用したという。

「江原ランドカジノの近くには質屋が立ち並び、異様な雰囲気が漂っています。貴金属や宝石を売り払うならまだしも、自分が乗ってきた自動車を売り払う人もいます。今、問題になっているのは“カジノホームレス”。カジノで財産を失った人が行く当てもなく、カジノ周辺に住み込み、その数は100人以上に上るといわれています」(同)

 昨日の「報道ステーション SUNDAY」では、質屋への取材が放送され、駐車場に多くの車が並んでいる映像も紹介された。

 小さな韓国の町の賭博場を石破が見て、果たして、彼はどう言うだろう。

 「日本は、韓国とは違う」とでも言うかもしれない。

 しかし、同じ人間なのだ。

 射幸心をあおられ、ついつい抜けられなくなり、質屋に通い、あげくの果てにホームレスになる日本人も間違いなく増えるだろう。
 最近では、高齢者のパチンコ、パチスロ依存症者が増えているらしい。
 きっと、そういう人たちも、“カジノ”に行くことだろう。

 ‘カジノ’とか統合型リゾートなどというカタカナで誤魔化されてはいけない。

 博打であり、賭場なのだ。

 横浜の林市長まで、賛成しているようだ。
日本経済新聞の該当記事

 おいおい、ちょっと待って欲しい。

 地域“経済”は、別な方法で活性化させることを考えようじゃないか。
 博打の上がりに頼らない方法は、必ずあるはずだ。

 真っ当に税金を払えない国民を増やしては、元も子もなくなるじゃないか。


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# by kogotokoubei | 2016-12-05 21:16 | 幸兵衛の独り言 | Trackback | Comments(6)

噺を演じることの、難しさ、楽しさ。

 昨日と今日は、テニス仲間との合宿だった。
 年に二回行っており、今回は、初めての場所。
 宿泊は、あしがら温泉の宿、テニスコートはその近くの公営の運動場のコート。
 テニスコートもオム二で問題なかったし、宿も料理、温泉を含めなかなか良かった。
 チェックアウトの際、来年5月の予約をした。

 夕食後はカラオケで懐かしい曲を皆で歌ってから幹事部屋で三次会。
 そして、余興の落語を披露。
 
 同期会とテニス合宿のそれぞれの高座(?)において、一度演じたネタはやりたくないので、最近はネタ選びに悩む。

 これまでは、こんな噺を酒の勢いで披露してきた。

 『道灌』・『金明竹』・『寿限無』・『牛ほめ』・『替り目』・
 『小言念仏』・『千早ふる』・『代書屋』・『高砂や』・
 『居酒屋』・『うどん屋』・『雑排』・『厩火事』・『買い物ブギ』・
 『看板のピン』・『天災』・『目黒のさんま』・『紙入れ』・
 『元犬』・『持参金』・『三方一両損』・『たらちね』・『そば清』・
 『親子酒』・『藪入り』・『子ほめ』・『夜の慣用句』・
 『あくび指南』・『転失気』

 これに、先月の同期会で演じた『二人癖(のめる)』が加わる。京都でのもう一席は、テニス合宿でウケた『夜の慣用句』だった。

 しかし、この喬太郎の新作、京都でのウケは今一つだった。すべった、あるいは、蹴られたと言って良いだろう。少し油断していたのかもしれない。
 飲みすぎたこともあり、飛ばした部分もあった。
 なんとか、『二人癖』で面目は保った、と自分では思っている。

 今回の一席は、京都でまあまあだった『二人癖』に決めていた。元になる音源は八代目春風亭柳枝。
 もう一席は何にするか迷っていた。
 最近はラジオ番組を録音しておいて、後で携帯音楽プレーヤーで聞くことが多く、NHKラジオの「すっぴん」で喬太郎二人会という企画の日に、林家彦いちが、彼がNHK新人演芸大賞で優勝した時の新作『睨み合い』を披露していたのを聞いた。
 短縮版でもなかなか楽しく、「これかな」と思い、京浜東北線を田園都市線に替えるなどして演じることにした。

 さて、昨夜どうなったのか。

 まず、『睨み合い』を10分ほどで披露。おばちゃん達の会話のギャグ(缶詰に蛾が入って解雇(蚕)になった)などは結構ウケた。
 続いて『二人癖』。こちらもまあまあ。
 テーブルの上に座布団を敷いた高座から降りようとすると、いつもは寝る人が、「もう、終わるの・・・・・・」。
 他の人からも、「もう一席!」という無茶ぶり。
 要するに、短くした『睨み合い』は、少し長いマクラという理解だったようだ。
 
 ゲッ、と思ったが、これも酒の勢いだろうなぁ、やる気になった^^
 実は、最近よく聴いていたのが、志ん朝と小三治の『子別れ』だった。
 志ん朝は大須での「上」「下」で、「中」の部分は地での説明が中心。
 小三治は、しっかり「中」も語った、本多劇場での歴史的な名作。
 次回のネタとしては「下」の『子は鎹』を考えていたものの、今回披露するつもりはなかった。もちろん、聴くだけで稽古もしていない。

 しかし、せっかくのアンコール(?)の声。
 思い切って、小三治版を元に『子は鎹』を始めたのだった。

 番頭さんが熊さんを長屋に訪ねる場面から。
 どうなるかと思いながら進めたのだが、この噺、結構頭に入っていた。
 また、演っていて、自分で楽しくなったのだ。
 熊さんにも、亀にも、お徳さんにも、結構感情移入できたように思う。

 一瞬だが、登場人物が勝手に話し出す、という感覚もあった。

 聞き手は皆、鎹も玄能も知っている年齢層^^
 サゲも無理なく分かってもらえたようで、終わってからも「良かったよ」の」声。

 不思議だねぇ。
 演るつもりのなかった噺なのだが・・・・・・。

 以前演じてウケたネタは、やはり甘く見た部分があるのだろう、先月の『夜の慣用句』は、すべった。

 そして、次回のネタのつもりで、小満んの高座との違いを確認するためもあり、結構集中して小三治の音源を聴いたこと、そして、あの小満んの名演に出会ったことが、予想外の三席目を、なんとか無事に演じさせてくれたように思う。

 自分で演じてみて、あらためて落語という芸の難しさを京都で感じ、今回の合宿では、その楽しさを味わった。

 しかし、来年9月開催となった同期会で、図に乗って甘く見ると、またすべるに違いない。

 とはいえ、人情噺への扉を開いてくれた今回の『子は鎹』の経験は、きっと忘れないだろう。
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# by kogotokoubei | 2016-12-04 17:59 | 幸兵衛の独り言 | Trackback | Comments(6)

11月の月間アクセスランキング

 11月の記事別のアクセスランキングは、次のようになった。

1. NHK新人落語大賞の放送を見て。(2016.10/31)
2. NHK「超入門!落語 THE MOVIE」、10月19日よりレギュラー放送開始。
  (2016.9/30)
3. 落語協会ホームページで、来春の真打昇進披露興行のニュース掲載。
  (2016.11/11)
4. 談四楼と権太楼ー立川談四楼著『談志が死んだ』より。(2016.11/2)
5. 三遊亭小円歌が、二代目立花家橘之助を襲名。(2016.11/24)
6. 談志の命日に思う、いろいろー立川談四楼著『談志が死んだ』より。
  (2016.11/21)
7. 落語協会HP、三代目橘家文蔵襲名披露興行の記事に、絶句した。
  (2016.7/26)
8. 志ん輔の会 国立演芸場 11月17日(2016.11/8)
9. 談志の心身を蝕んだものは何か-立川談四楼著『談志が死んだ』より。
  (2016.11/10)
10. 談四楼のご贔屓のこと、などー立川談四楼著『談志が死んだ』より。
  (2016.11/5)


 1000を超えるアクセス数の記事はなかったが、1位と2位が700前後となった。

 1位のNHK新人落語大賞の感想の記事は、審査員の採点への小言が多くなってしまったが、予選が非公開であることも含め、この賞もこのままでは権威が失墜しそうな気がする。
 雀太が優勝したこと自体は、良かったと思う。師匠雀三郎が関西のラジオ番組で、ほっとした、というようなことを語っていた。

 2位に、「落語 THE MOVIE」の記事が入ったのは意外。番組そのものについては、あれだけの噺家を登場させているのだから、アテブリではなく高座だけを楽しみたい、というのが本音だ。

 3位は来春の落語協会の真打昇進披露興行のホームページ掲載内容の紹介なのだが、あのサイトが味気ないからこそアクセスも多いのか、などと思っている。
 日程や主任の名は、ぜひ文字として掲載してもらいたいものだ。ポスターを載せているからそれでいいだろう、という姿勢は、7位に入った文蔵襲名披露興行のニュースと同様。

 談志の命日までに、談四楼の著書から計四回記事を掲載したが、その四つともトップ10に入った。遅ればせながら読んだ本なのだが、なかなか読みごたえ、書きごたえがあったなぁ。

 5位に小円歌の二代目橘之助襲名の記事が入った。
 色物での襲名披露興行はそう多くはないので、来年が楽しみ。

 落語会の記事では、志ん輔の独演会について書いた記事が、結構読まれていた。
 来年は、連雀亭にもっと行きたいなぁ、と思っている。

 小満んの会の記事のアクセス数も少なくはないが、記事公開が28日だからねぇ。


 さぁ、師走。

 あと、何回落語を楽しむことができるものやら。

 
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# by kogotokoubei | 2016-12-02 12:59 | 幸兵衛の独り言 | Trackback | Comments(0)

『文七元結』に見る、落語の伝承と創作。

 いわゆる「流行語大賞」が、「神ってる」、に決まったとのこと。

 私は、広島の監督が、単に「神がかってる」を言い間違えてしまったのだろうと思っているのだが・・・・・・。

 今回は、言葉も時代によって変わるが、落語も、時代や噺家さんによって違う、というお話。

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今村信雄 『落語の世界』

 三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名するというニュースを目にしてから、あらためて今村信雄の『落語の世界』(平凡社ライブラリー、初版は青蛙房から昭和31年発行)を読み返していた。

 本書で、初代橘之助に可愛がられた三代目三遊亭円馬のことに関する章に、今ではお目にかかることのない『文七元結』の演出があるのに気づいた。

 以前も読んでいるはずなのだが、まったく忘れていたなぁ。

 「むらく芸談」の章から引用する。

 昭和五年の六月、数年振りで上京したむらく改め三代目円馬が、当時神田の立花亭でやっていた第二次落語研究会の第二十六回に出演した。-かつてむらく時代に出ていた時とは内容は違っていても落語研究会という名は、なつかしいものだったし、会員の連中も文治、円生、小さん、文楽、円蔵、小円朝など昔なじみの者ばかりだ。それに自分の芸を慕って旅を一緒にまでした金馬が、今日は自分の出番を譲ってくれたと聞いた。何もかも嬉しいことだらけー。これから年に一回はぜひ出てほしいとみんなが云うし、円馬自身も東京に来る度に出たいといっていたのだが、縁がなく、第二次の研究会出演はついにその時だけで終った。


 文中の文治は八代目、俗に山路の文治のこと。円生は五代目、小さんは四代目、文楽は八代目だ。円蔵は六代目で後の六代目円生であり、小円朝は三代目である。
 金馬は、もちろん三代目。

 円馬は、最初に上京した時に初代三遊亭円左に師事して立花家左近を名乗り、第一次落語研究会の準幹部に抜擢された。
 上方の噺を東京向きに演じ、三代目小さんとともに、東京落語のネタを飛躍的に増やした功績は小さくない。
 大阪弁、京都弁、江戸弁を見事に使い分けた唯一の噺家とも言われている。
 
 引用を続ける。
 現在金馬がやっているはなしは、すべて円馬から教えられたものばかりだ。「唐茄子屋」にしても「佃祭」にしても「孝行糖」にしても、その他数々の落語は、みんな一緒に旅をしている間に円馬から教えられたものだ。一席の落語ばかりではない。はなしのイキとかコツとかいうものを教えてもらった。それが今日の金馬を作り上げてくれたのだ。金馬はこういっている。「私はね、酒が飲めるおかげでずいぶん得をした。酒の強かったむらく師匠のお相手をするのは大概私でしたが、飲みながら話してくれた芸談は、改まって教えてくれる時とはまた違って、大変に薬になりました。師匠は芸が好きだったんだなァ、飲みながら話をするのはたいてい芸談だった。もっとも私の方からそのように持ちかけたせいもあるが、面倒がらずに喜んで話をしてくれました」
 「文七元結」というはなし、左官の長兵衛が、バクチで着物も何もなくしてしまい、年の瀬をこせない。
  (中略)
 女の着物だから身幅が狭く、ややともすると膝小僧が出るから、絶えずそれを気にしていなければいけない。また佐野槌のおかみさんに懇々と意見をされて、恐縮しながら、新しい畳のケバを骨を折ってむしって叱られるところがあるが、これは単なるクスグリと思ってはいけない。帰る時に長兵衛はシビレが切れて立てない。そこで前にむしった畳のケバの落ちているのを拾って唾をつけて額にはるという大きなクスグリの伏線になっている。また帰りの吾妻橋の上で空を見上げて思わず「明日は雨だな」というのは、始終天気を気にしている職人を現すために必要なセリフだから落してはいけない。空に水気(すいき)があるから、下のあかりが映って赤い。まして吉原方面は真っ赤だ。それを見て長兵衛が今別れて来た娘のことを連想するという段どりになるのだから、ここらは一言一句おろそかには出来ないと、円馬は丹念に教えた。

 足のシビレを治すのに、指に唾をつけて額(眉間)にあてたり足の裏にあてるというおまじない(?)は、もはや過去のものとなりつつあるので、このクスグリはなくなってきたのだろう。

 また、吾妻橋で長兵衛が空を見上げる演出も、現役の噺家さんで出会うことは稀有だ。
 
 『文七元結』は、以前からあった噺を円朝が磨き上げたと言われる。

 果たして円馬が重要視した演出は円朝からの継承なのかどうか気になり、青空文庫で円朝のこの噺を確認した。
青空文庫 三遊亭円朝「文七元結」

 実は、畳のケバをむしって、足がシビレたまじないにつながるという演出は、存在しない。
 吾妻橋で、空も見上げない。

 もっと、驚いたことがあったので、引用する。
 角海老の内儀と長兵衛との会話部分だ。

内儀「百両で宜いのかえ」
長「へえ…」
内儀「それではお前に百両のお金を上げるが、それというのも此の娘の親孝行に免じて上げるのだよ、お前持って往って又うっかり使ってしまっては往けないよ、今度のお金ばかりは一生懸命にお前が持って往くんだよ、よ、いゝかえ、此の娘の事だから私も店へは出し度たくもない、というは又悪い病でも受けて、床にでも着かれると可哀そうだから、斯う云う真実の娘ゆえ、私の塩梅の悪い時に手許へ置いて、看病がさせ度いが、私の手許へ置くと思うと、お前に油断が出るといけないから、精出して稼いで、この娘を請出しに来るが宜いよ」
長「へえ私(わっち)も一生懸命になって稼ぎやすが、何うぞ一年か二年と思って下せえまし」
内儀「それでは二年経って身請に来ないと、お気の毒だが店へ出すよ、店へ出して悪い病でも出ると、お前この娘の罰は当らないでも神様の罰が当るよ」

 あら、円朝においては、長兵衛が借りるのは百両で、その返済期限は二年。

 今日演じられるこの噺では、大半が五十両で一年。

 円馬のこの噺が円朝->円左->円馬と伝わったのかどうかは、不勉強で分からない。
 だから、畳のケバ、空を見上げる、といった演出が円馬によるものなのかどうかは不明なのだが、私は、どちらも円馬の工夫ではないかと思っている。

 それにしても思うのは、なるほど、落語は生きているなぁ、ということ。

 同じ噺でも、その時代によって、そして、噺家さんによっても内容は変わる。

 それは、悪いことではないだろう。

 円馬が、左官職人の長兵衛が吾妻橋でつい空を見上げる場面を大事にするように、人それぞれ、譲れない演出やクスグリがあって良いだろう。
 
 また、その噺のどこを変えるか、また、どこを変えないか、ということで噺家は自問自答を繰り返すのかもしれない。

 その噺の本質的な部分を壊さない限り、同じネタでも十人十色で良いだろうし、それが、落語の魅力でもある。

 大事なことは、伝承されてきた原典を分かった上での工夫なのか、どうか。

 「昔は、こう演じていた」ということを分かった上での改作なのか、原典を知らずに自由気ままな変更なのか、には大きな違いがあるだろう。

 自分の師匠はもちろん多くの先輩噺家からネタを教わり、芸にまつわる様々な話を聞くことが、噺家の糧、財産となる。

 そして、一人一人が得た財産が、その弟子や後輩たちに伝わっていくことで、落語という芸が長らえてきたと思う。

 それこそが、伝統の継承ということだ。

 だから、金馬が酒の相手をしながら聞いていた円馬の芸談が、金馬がその後一枚看板になるためには、実に重要だったのだと思う。


 まさに、伝承の芸、落語。

 しかし、伝承されてきた基本の筋、型、了見といったものに、どのように時代の空気を反映し、自分なりの解釈や感性で創作をほどこすかが、噺家一人一人に重要な仕事なのだろう。

 伝承と創作、その積み重ねが、数々の古典落語の名作を残してくれたのだと、一つの噺からも痛感するのだった。
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# by kogotokoubei | 2016-12-01 21:09 | 落語のネタ | Trackback | Comments(2)

「真田丸」と池波正太郎の描く、ある女性像の違い。

 まず、ある小説から、ある女性に関する文章を引用する。

 こちらに背を向け、茶を点じているそのひとの、つややかな垂れ髪を分けて見える耳朶は、春の陽ざしに濡れた桃の花片のようだった。
「どうぞ・・・・・・」
 そのひとの躰(からだ)からただよってくる香の匂いが近寄り、うすく脂がのった、むっちりと白い二つの手が茶碗をささげ真田伊豆守信幸の前へ置いた。


 さて、これは誰か・・・・・・。

 正解は、小野お通。

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池波正太郎著『真田騒動ー恩田木工ー』(新潮文庫)

 この小説は、池波正太郎の『信濃大名記』(新潮文庫『真田騒動ー恩田木工ー』所収)だ。
 この作品集『真田騒動』には、直木賞受賞作の『錯乱』も収められている。

 代表作『真田太平記』にも、もちろんお通は登場するが、信幸とお通の関係については、この短編の方が、読み応えがある。
 
 池波正太郎は、お通について次のように書いている。
 小野のお通は、その才色を世にうたわれ、宮中にも仕えて女ながら金子二百両、百人扶持を賜わったこともあり、諸礼式、礼法にも通暁しているところから、後には秀吉にも仕え、今は家康の庇護を受けている。先年、千姫が秀頼に嫁したときには、その介添えとして招かれ、大阪城にも暮したことがあったらしい。
 また、お通は、浄瑠璃節の作者でもあり、笹島検校が節付をして名曲と評判の「十二段草紙」は彼女の筆になったものだった。

 時は大阪冬の陣の和議の後。
 引用したのは、お通の家で、信幸と信繁が密会する場面へと続く前段の部分。

 二人が、どんな会話をしたのかは…本書をお読みのほどを。

 さて、池波が、夏の陣を前にして、信幸と信繁の兄弟を引き合わせた家の主、小野お通という女性は、謎の多い人だ。

 引用した「十二段草紙」の作者という説は、浄瑠璃節はもっと以前からあったとされており、彼女の作という説はほぼ否定されているようだが、才色兼備の女性だったことは間違いなさそうだ。

 書の大家として「お通流」という名もあったらしい。

 夏の陣の後に時を進めて、引用を続ける。
 幸村の遺髪が、この手に届くなどとは、思ってもみなかっただけに、沈着な信幸も、
「あ・・・・・・」と、低く叫んだ。
 遺髪は、小野のお通から送られたものだった。
 鈴木右近が、お通の手紙と幸村の遺髪を持ち、単身、沼田へ戻って来たのは、あと数日で元和元年(1615年)も暮れようとする今日の、たった今しがたのことである。
 城内三の丸にある居館の一室には、信幸と右近だけが向い合っていた。
「どうして、手に入れたものであろう・・・・・・?」
「私も、少々驚きました。何度も問うてみましたが、話してはくれませぬ」
「そのほうが、お通殿の館へ受け取りにまいったのか?」
「はい。一人きりで、隠密に来てくれとの知らせがありましたので・・・・・・殿。京で小野のお通と申せば、宮中はもとより諸侯方も一目置くほどの才女。ました大御所様から扶持を頂いているだけに顔も広く、幸村様御討死と聞き、大坂へ手を廻してくれたかとも・・・・・・」
「いや・・・・・・すでに、その前に・・・・・・手を廻してくれていたのかも知れぬ」
 幸村の首は、家康や秀忠の首実検に供えられた後、どこかへ埋められたことは確かだが、その間隙を縫って、お通の手がどこからどうして伸び、一握りの遺髪をつかみ取ってくれたのだろうか。
 お通の手紙には・・・・・・幸村様の御遺髪をお届けする、と簡単に記され、その後に、
「私の父も良人(おっと)も兄も、今川から徳川、豊臣に仕え、度重なる合戦に皆死に果ててしまいました。貴方(あなた)様が幸村様とお会いになされたときのことが、この胸の中から拭うても拭い切れずにおりまする」
 とある。
 あの日、自分へ示してくれた好意は、成程こういうところから出たものかと、信幸は、合戦の傷跡が、女にとって、どれだけ深いものなのかを今更に思い知らされたような気がした。
「再び何時(いつ)、お目にかかれることかも知れず、ひたすらに・・・・・・」
 ひたすらに御自愛をお祈りする、と書かれてある、その一字一句を食い入るように追いながら、あわただしい動乱と心痛に耐えつつ、努めて追い払い掻き消そうとしてきた彼女の面影が、今はどうしようもなく信幸の血を騒がせずにはおかなかった。
(会うとも・・・・・・会わずにはおかないぞ)
 信幸は叫んだ。

 さて、その後、信幸はお通と会うことはできたのかどうか・・・は、本書でお確かめのほどを。


 池波正太郎は、お通と信幸の関係について、実に清々しく、かつ謎めいた描き方をしている。

 だからこそ、読む者は、お通という人物像への空想が膨らみもする。

 戦乱の世に翻弄され、頼るべきは自分自身とばかりに芸を一心に磨いて生き抜いてきた、一人の女性像が浮かぶ。

 さて次は、大河「真田丸」だ。

 27日の日曜日、関内での柳家小満んの会の余韻に浸りながら、「真田丸」第47回の「反撃」を見た。

 冬の陣の後の和睦、そして徳川の策略通りに大阪城の堀の埋め立てが始まり、豊臣方の武士たちが分裂しかかる。
 しかし、後藤又兵衛が率先し、信繁をリーダーとして反撃しよう、と皆の気持ちがまとまったということが骨子なのだろうが、私はある場面で驚いた。

 それは、小野のお通の家で、彼女の膝枕でくつろぐ信幸の元に、正室の小松(お稲)と側室の清音院(おこう)が乗り込んだ場面だった。

 まず、信幸とお通が、そんな関係であること自体、違和感あり。

 そして、正室と側室の行動も、ありえないと思う。

 小野お通の住まいは、京都だ。

 いわば、夫の浮気の現場を押さえるために、沼田から京都に二人は出向いた、ということ。

 そして、二人の追求に対し、お通は、信幸はあくまで客の一人、と言って請求書を信幸に渡す。
 そして、次の客がすでに待っているから早く帰ってくれと言う始末。


 私が池波作品を読んで描いてきたお通像から、あまりにかけ離れていた。

 演じる女優さんのことは置いておく。
 ちなみに、NHKのドラマ「真田太平記」(昭和60年4月~昭和61年3月)では、お通を竹下景子が演じた。
 30年前、である。

 史料に乏しく謎の多い女性だから、お通をどう描くかは、作家、脚本家の腕次第という面もあるだろう。

 しかし、小野お通が、あんな人物であるとは、私には思えない。


 NHKの大河は、数年前から、若い世代の視聴者率アップを意識しているのか、お手軽なホームドラマのような内容になりつつある。

 だから、きりは、現代風の言葉づかいになっているのだろう。
 まるで、電車の中で耳にする若者たちの口調ではないか。

 過日、真田丸の大阪を名ガイドとして一緒に散策していただいた山茶花さんは、きりは枝雀の落語理論における「緊張」と「緩和」の「緩和」でしょう、と見事な指摘をされた。
 
 たしかに、ドラマの中では、そういう役割はあるのだろう。

 しかし、まだ修業の足らない私は、きりの言葉づかいや、今回のようなお通の姿を見ることで、やたら「緊張」を強いられるのである。

 小田原攻めの際、北條に降伏を進言する役を黒田官兵衛ではなく信繁にしたことで、一度は見るのをやめようと思っていながら、なんとかここまできてしまった。

 最後まで付き合うつもりだが、しばらく控えていた小言は、我慢せずに書くことにしよう。


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# by kogotokoubei | 2016-11-29 21:36 | 歴史ドラマや時代劇 | Trackback | Comments(0)

柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 11月27日

 通常は、一ヶ月おきに平日の夜に開催されるのだが、今回は日曜の昼二時開演。

 ネタ出しされていて、『子別れ(上・中・下)』とあっては、テニスを途中で抜け出してでも、と駆けつけた。

 通算で136回目。

 一時過ぎ、少し早めに関内に着いたので、念のため会場へ。
 ホール前には桂歌丸独演会のポスター。大ホールだ。
 時間的に余裕があったにもかかわらず会場に行ったのは、関内ホールのサイトに、この歌丸独演会の案内はあったものの、小ホールの小満んの会の案内がなかったから。
 事前に電話して27日の2時開催とお聞きはしていたが、ちょっと心配だった。
 催し物を案内する掲示板が見当たらないので事務所へ行って確認する。間違いなく、2時からとのこと。しかし、まだ誰も来られていないと聞いて、少し心配。

 時間つぶしで近くでお茶を飲んでから開演20分ほど前に会場に戻ると、大ホールの開場が始まっており、混雑の中を階段を降りて地下の小ホールへ。

 入口に、いつもの奥さんとお嬢さんの姿がない。
 ボランティアの方がいらしたので年会員証をお見せすると、まだ師匠が到着していない、とのこと。

 ロビーでしばし待っていると、開演10分前に師匠とお嬢さんが到着。持参された、いつもの小さい入場券(栞)を頂戴した。

 会場の中は、いつもよりは多く、七割程度の入りにはなっていたように思う。

 さて、どの位遅れて開演できるのかな、と思って待っていた。

 開演3分ほど前に前座の上がりがかかったが、緞帳は下りたまま。
 なんと、もう一度かかったが、誰も登場せず。
 二時を4分ほどすぎて、出囃子がきこえ緞帳も上がった。
 めくりに「こわめし」と書かれている。「あれ、開口一番は、なしだ」と思っていると、小満ん登場。
 
 その後の感想などを記す。

柳家小満ん『子別れー上・こわめしー』 (33分 *14:04~)
 めくりには「こわめし」とあったが「強飯の女郎買い」が一般的だろう。
 冒頭、“前座にけられまして”と語った。開口一番を頼んだ前座が、いつものように夜の開催だと思っていたらしい。ありえる話だ。私も電話したが、開演時間の問い合わせが多かったと言うのは、しょうがないでしょ。前回は、まだ開演時刻未定とおっしゃっていたし、ホールのサイトにも書いていないのだから。
 なぜ日曜昼開催だったかについて、「最終回のつもりで、昼に公演、夜はパーティーと思っていた」とのこと。ところが、高校の後輩の方を中心とする有志が「それは困る。手伝うから続けて欲しい」と慰留されたので来年も続けます、で会場から大きな拍手。
 奥さんからは、「まだ、やるの」と言われているらしいが、継続となって私も嬉しい。
 そういった、この会そのものの説明に続き、昔の弔いのことへ。葬式では菓子を出すことが多かったと説明し、“いまさか”や“ようかん”を六寸角の菓子折りに入れて持ち帰ってもらった、酒好きの人には般若湯。土瓶に酒を入れ、赤い糸でコヨリをつけてお茶と区別できるようにした、なんてぇマクラを聴くと、開演直前に会場入りしたことなどを、忘れさせる。
 近所のご隠居が九十を過ぎての大往生の葬式で、般若湯を飲み過ぎた熊さんの科白や啖呵が実に結構。
 寝ていたところを起こされた熊さんの「めでたいね、バンザーイ!」も可笑しいし、「しめた」と言う場面での「しめこのうさぎ」なんてぇのは、死語だなぁ。
 熊の「弔いは、ハネたか?」に、近江屋の隠居が「寄席じゃないよ」と返すところも、笑った。
 その近江屋の隠居に向かって「まだ、こっちにいるつもりか」と毒づいたり、吉原に行こうと熊が誘うのに対し、隠居が「子供の着物でも買うか、女房に美味しいものでも食べさせてやれ」と言って「お帰り、お帰り」というと、熊が「おかえり、おかえりだとぅ、犬がついてきたんじゃねぇやい」と返す科白が楽しい。
 しめこのうさぎ、なども含めたその昔の江戸っ子の科白、大事にしたいねぇ。
 紙屑屋の長さんをからかう場面も、楽しい。長さんの懐には三銭のみ。熊さんは親方から前借りした五十五円がある。吉原へ向かう途中、長さんが水たまりがあるから危ない、と熊さんの背中を叩いたため弁松の別あしらえの弁当から汁がこぼれたという場面は、後で吉原の若い衆に対して回想として語った。入れ忘れたのか、元々の筋なのか。今回は、通常の筋書きから割愛している場面もいくつかあるので、あえてそうしたのかもしれない。
 吉原に上がってから豆どん(禿)に弁当をやろうとして「いりまへんわ」と断られ、若い衆にあげるのだが、その若い衆から「しのだ(信田巻)とがんもどきのおつゆが」と言われて「待ってろ、今腹巻から絞ってやるから」でサゲ。褌じゃなく腹巻にするところが、綺麗ごとで結構。
 開演十分前到着、四分遅れで始まったという慌ただしさを感じさせない、科白も含めて楽しい高座だった。

柳家小満ん『子別れー中ー』 (29分)
 一度下がって登場したが、前座がいないので、自分でめくりを替えた。開口一番含め、誰も手伝いがいない、ということか。
 冒頭で「これが独演会というものかもしれません」とは、なんとも言い得て妙。
 酒の上での間違い、ということから本編へ。これは、熊という人物を造形する上でも、重要な点だろう。
 吉原で、かつて品川で贔屓にしていたお勝にバッタリ出会い、結局三日、四日と居続けしてしまった熊さん。五十五円持っていた金もなくなると、遣り手婆さんから体よく追い払うように帰されたが、そのまま家に帰る前に、仲間の家で酒を飲んで勢いをつけた。
 この熊さんは、「酒さえ飲まなければ」良い男で腕のいい職人。また、居続けの後に吉原から真っ直ぐに帰るだけの度胸のない男、という人物造形なのだ。
 女房のお徳さんからは、なぜ帰りが遅くなったかを聞かれ、町内生え抜きの若い衆仲間の六兵衛さんと焼き場で通夜をした、などと嘘をついていたものの、つい、吉原で昔の馴染みに会って逗留したことを白状。お勝から引き留められた自惚れ話に、さすがのお徳さんも、きれた。
 二人の話を聞くでもなく聞いてしまった隣の半治が間に入るが、熊さん「うるせぇ、この野郎」と逆に喧嘩になって、次に吉兵衛さんが仲裁に入るも反省の色なし。
 「本木に勝る末木なし」でサゲ。
 この「中」は、別名「浮名のお勝」とも言うが、通しでなければ滅多には聴けないし、通しでも、地で語られることが多い。しっかりと熊とお徳とのやりとりやその後の騒動を聴けたのは、実に貴重だった。

 2012年2月に「ざま昼席落語会」で聴いた、むかし家今松の通しは、実に結構だったが、「中」は、ほとんど地で語っていたので、「上」「下」の通し、という感じ。
2012年2月12日のブログ
 古くなるが、NHKの日本の話芸で柳家権太楼が「浮名のお勝」として、「中」のみが放送された。東京落語会の高座だろう。それを見たことから、原作者のことなどについて書いた記事があるので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2009年4月18日のブログ
 なお、同じ頃に、柳家小三治の本多劇場での通し公演のことについて、京須さんの本の引用を中心に書いた記事もある。
2009年4月21日のブログ

 さて、ここで仲入り。

柳家小満ん『子別れー下・子は鎹ー』 (30分 *~15:49)
 仲入り後、いつものように着替えて登場。どの着物も、さまになる。
 昔の三行半のことを話す中で、ある逸話が「ここだけの話」として紹介された。もちろん、秘密^^
 鎹の説明、玄能の言葉の由来などをしっかりとふってくれた後で、「中」でのいきさつを少し振り返ってから、「手に取るな やはり野におけ 蓮華草」と挟んで、三年後の物語へ。
 お店の番頭が訪ねる場面を割愛し、二人で木場に向かう会話で始まった。女房に会いたいとは思わないが、亀には会いたい、饅頭屋の前を通る度に、饅頭が好きだった亀を思い出し、つい涙が出る、と言ったあたりは、やや「クサいかな」とも思ったが、酒をきっぱり止め、仕事一本の今、熊さんは「あぁ、馬鹿なことをしてしまった・・・・・・」と反省の日々なのだろう。
 亀と熊さんの再会場面、亀は先生から親孝行が大事だと言われた、と言った後で泣き出す。「孝行するから、帰っておくれよ」とせがむ亀を見て、熊さんも涙。やや、こっちも目頭が熱くなったぞ。
 亀が帰った後のお徳さんとのやりとりも、他の噺家さんのように、妙に芝居がかった麺がんなく、自然な母と子のやりとりに思えて良かった。
 亀が熊さんからもらった五十銭を見つけたお徳さん、亀から「お父っあんからもらったんだい」と聞いて、玄能を持っていた手を下げた。
 冒頭の歩きながらの会話から、番頭さんが「お徳さんが見つかれば、私が仲をとるから」と言っていたように、鰻屋に番頭さんがいる。この番頭さんが熊さんとお徳さんの、まさに仲人役として語っている。お徳さんが「熊さんさえ、良かったら」と言うと、番頭さん、「それは大丈夫だよ、ほら、ここでこんない小さくなっている」と言う横に、熊さんが頭を下げている姿が見えた。
 マクラで仕込んでいるので、サゲはもちろん金槌ではなく玄能。
 

 終演時には、受付に奥さんの姿を確認。

 日曜でもテニスを途中で抜けて駆けつけただけはあった、素晴らしい“通し”だった。
 全体として、今年のマイベスト十席候補としたい。
 ほぼ30分づつで演じられたが、「上」では酒の勢いで陽気な熊さん、「中」では、その酒のせいもあってつい居続けし、帰ってからもつい調子にのって、最愛の妻と子を失う熊さん、「下」では、酒を断った、本来の気のいい、腕の立つ職人の熊さんが見事に描かれた。
 単独で「下」を演じるなら番頭さんが熊さんを訪ねる場面から小満んも始めるのかもしれないが、この通しでは、割愛してまったく違和感はなかった。
 
 また、笑いをとろうとする、野暮なクスグリなどもなく、無駄を削いでいることを感じた。
 たとえば、人によっては、熊さんと亀の会話を傍で八百屋が聞いているのを熊さんが怒る、などのクスグリを入れたりするが、私は不要だと思う。

 また、この高座では番頭さんが重要な役割を果たす。これは道理だ。
 鰻屋の二階で番頭さんという仲人をはさんで、うつむいている熊さんとお徳さん、横で笑顔の亀ちゃんという光景は、実に結構だ。それは、この高座全体が、自然にそう思わせたのでもあるだろう。


 小満んの高校の後輩の方を中心とするご贔屓の皆さんの支援もあって、来年もこの会が続くということが、実に嬉しい。

 次回は、1月19日の木曜。平日の夜に戻る。
 ネタは『千早ふる』『姫かたり』『質屋庫』とのこと。
 『姫かたり』は、以前、雲助で聴いたことのある、師走のネタ。
 当日が、旧暦12月22日であることを、十分にわきまえた上でのネタ選びなのだと思う。

 三席とも、実に楽しみだ。
 
 
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# by kogotokoubei | 2016-11-28 12:25 | 落語会 | Trackback | Comments(4)

三遊亭小円歌が、二代目立花家橘之助を襲名

 小円歌が、なんとあの立花家橘之助の二代目を襲名するとのこと。
 
 落語協会のホームページに、次のような告知が載っていた。
落語協会ホームページの該当ページ

2016年11月22日
平成29年 11月 襲名披露興行決定

平成29年 11月上席より三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名いたします。

 たった、これだけ。相変らずの素っ気のなさ。
 初代の橘之助がどんな人だったのか、とか、まったく関連情報がない・・・・・・。

 サンケイスポーツに、次の記事が載っていた。
サンケイスポーツの該当記事

2016.11.24 00:36
女性三味線漫談の三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名

 落語協会は23日までに、女性三味線漫談の三遊亭小円歌(56)が来年11月、二代目立花家橘之助を襲名すると発表した。

 初代橘之助は明治から昭和初期にかけて活躍した女性音曲師。三味線の名手としても知られ、山田五十鈴さんが主演した舞台「たぬき」のモデルになった。

 「落語協会は23日までに~発表」という表現が、不思議だ。
 明確に「○○日に発表」ではないのは、メディアへの案内が日をまたいで五月雨式に発信されたことがうかがえる。
 要するに、媒体対策が稚拙なのだろう。
 
 もしこういう案内をプレスリリースするなら、次のようなことが本来は原則。
(1)ホームページに、当人小円歌と初代橘之助のプロフィールを掲載。
(2)ホームページ掲載と同期して各媒体に一斉にニュースを配信。
(3)補足する資料を添付し媒体やサイト訪問者の理解度を高める。

 まったく、そういった広報の“いろは”が出来ていないと判断できる。

 税金を使っている法人としては、実にだらしのない組織と言わざるを得ない。

 話題性のある襲名なのに、残念だ。


 この名を継ぐのなら、記者会見をして欲しいくらいだ。

 落語協会に代わって、とは言わないが、ご興味のある方のために、拙ブログの過去の記事から橘之助という凄い芸人について、少し紹介したい。

 2010年の11月3日、三代目三遊亭円馬と八代目桂文楽という師弟の誕生日に、円馬のことを説明する中で橘之助のことにふれた。
2010年11月3日のブログ

 重複するが、今村信雄著『落語の世界』からの引用を含めてご紹介。

 円馬は明治15(1882)年の11月3日に大阪で生まれた。七歳で月亭小勇の名で京都新京極の笑福亭の高座に上がったという。明治41(1908)年に上京し、浮世節の立花家橘之助の弟子になった。橘之助という女性は清元であれ長唄であれ、常磐津だろうが何でも自由に弾きまくる三味線の名手。浮気性で“橘之助の百人斬り”と言われるほど、著名人との浮名を流した人だったらしい。橘之助の元で立花家左近を名乗っていた当時の円馬は、落語のほうは円朝門下の三遊亭円左に師事。この左近時代に、八代目文楽と出会うことになる。その後七代目の朝寝坊むらくを継いで四代目の橘家円蔵に可愛がられるのだが、円蔵と喧嘩して殴ってしまう事件を起こし、大正5(1916)年に大阪に戻ることになる。東京時代は第一次落語研究会の準幹部として活躍していただけに、円蔵をしくじったことを悔やんだに違いない。

 しかし、なぜそんな事件を・・・・・・。
 今村信雄の『落語の世界』ではこのように書かれている。
*ここで「彼女」とあるのは橘之助のことである。
今村信雄 『落語の世界』
 
 しかし彼女はあだ名を女大名といわれたくらい我儘一ぱいだったから、金のある有名な男よりも若い前座などを多く愛した。翌朝彼女は男に向かって「お前気を残すんじゃないよ、これでお湯にでも行ってお出で」と、なにがしかの小遣いを与えたという話だ。
 弟子のむらくとの仲も、同業者の間で相当やかましくいわれていた。むらくと円蔵との喧嘩も鞘当の結果だそうだ。

 当時の記事では、文楽の『芸談 あばらかべっそん』の引用もしているので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。

 また、山田五十鈴が亡くなった後で書いた記事では、あの舞台『たぬき』について書く中で、橘之助のことを紹介した。
2012年7月11日のブログ

 同記事では、橘之助という芸人の凄さを物語る逸話も紹介した。

 たとえば、三味線の演奏中三絃のうち二絃が切れても、残りの一絃だけで、三絃ある時と変わらない演奏をして見せたと言われる。この橘之助の役は、山田五十鈴でなければ到底できなかっただろう。そして、今後、誰にも真似ができそうにないように思う。単に三味線が上手いだけでは舞台はつとまらない。

 橘之助は、初代橘ノ円と夫婦となった後に引退し、余生を京都で過ごそうと昭和10(1935)年6月に引っ越しした矢先、北野天満宮そばの紙屋川が氾濫して自宅が流され、夫と共に水死した。慶応2(1866)年生まれ、68歳だった。


 レコードの音源は数多く残している。
 株式会社エーピーピーカンパニー(APP)のサイトには、その演目の解説とともに橘之助のプロフィールも掲載されているのだが、なんと五歳で初高座。
APPサイトの該当ページ

 小円歌が継ぐ橘之助という名は、実に大きい。

 私は、小円歌の、定番の三味線漫談は嫌いではない。
 三味線と歌も結構だし、楽屋のお爺ちゃんたちのネタは何度聴いても笑える。
 しかし、“偉大なるマンネリ”に達する芸とは言えないように思う。

 安心して聴いて見ることのできる、“寄席の色どり”なのだが、漫談ではなくていいではないか、と思っていた。

 三味線も唄も踊りも達者で、美人の範疇に入る(?)と思うので、もっと芸で勝負して欲しい、と思わないでもなかった。

 だから、この襲名には期待する。

 二代目橘之助の浮世節を聴けるのが、今から楽しみだ。


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# by kogotokoubei | 2016-11-24 12:36 | 襲名 | Trackback | Comments(12)

談志の命日に思う、いろいろー立川談四楼著『談志が死んだ』より。

 11月21日は、立川談志の祥月命日。
 2011年のこの日に旅立ったので、丸五年の月日が経った。

 一門では、「生誕80年」ということもあり、よみうりホールで「談志まつり」と題して記念の会があったようだ。
 昨日昼と今日の昼夜のチケットは完売とのこと。

 
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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 
 立川談四楼の「お知らせブログ」では、「談志まつり」昨日20日昼のトリを、談四楼が務めたようだ。
「立川談四楼 お知らせブログ」
 その談四楼の著書『談志が死んだ』から、通算で四つ目の記事。

 この本は、「虚実皮膜」の間を描く、あくまで小説ではあるだろうが、「実」の部分が結構多いように思う。

 特に、談志の晩年の逸話は、実話と思しきこことが多いし、初めて知る内容が印象的だ。

 その、談志晩年の“変調”のことについて。

 談志が亡くなった直後、弟子たちが飲むこと機会が多くなり、その席で、晩年の談志の不思議な言動に接していた一人一人の体験が明かされる。
 こんなのべつに通夜をやる一門はねえなと言いつつ、兄弟弟子は事あるごとに師匠を肴にして酒を飲んだ。談志のネタは山ほどある。あんなこともあった、こんなこともあったとそれぞれのエピソードを出し合い、笑い、みな安心して談志を血祭りに上げるのだった。

 “血祭り”は、あくまでシャレだろうが、弟子が師匠のネタに困らないのは事実だろう。
 そして、その“通夜”では、晩年の談志の不可解な言動が明かされることもあった。
 談四楼の兄弟子、左談次の逸話の部分から引用。

 酒癖と言えば左談次。いやむしろ私は陽気ないい酒だと思っているのだが、談志がそう思ってなかったという話なのだ。
 入門早々、左談次は渋谷にある談志の書斎で小言を食った。帰れと促され、少しムッとしたらしい。私も知っているが、あのマンションのドアは鉄製で重かった。左談次がそれを閉めようというとき突風が襲い、ドアがガッチャーンと凄まじい音を立てて閉まった。左談次が階段を降りかけた時、そのドアから談志が飛び出して来た。
「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」。
 以来、キレると何をするかわからないと談志はインプットされたらしい。何か仕出かす前に帰そう。それには酒癖が悪いという口実がいい。おそらくそんな回路を経て、左談次は酒癖が悪いことになったのだ。新年会など、一門の折々の宴席で談志は言い続けた。「おい、左談次はそろそろ帰せ。あいつは酒癖が悪いんだから」。

 左談次が入門したのが昭和43(1968)年だから、昭和11(1936)年生まれの談志は、32歳。
 「笑点」の初代司会者を昭和41(1966)年5月から昭和44(1969)年11月まで三年半務めている、まさにその時期。
 ちなみに、あの『現代落語論』は昭和40(1965)年上梓している。二十代で書いた本なのだ。
 そんな若くて、仕事にもノリノリの時期、たまたま突風のせいで重たいドアが音を立てて閉まったのを勘違いし、本名で「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」という談志の姿を思い浮かべると、なんとも可笑しい。

 その左談次の言葉から引用を続ける。
「オレたち近過ぎてわからねえんだよ。数年ぶりに会った人が、師匠おかしいと気がつくんだ」
 左談次はそんな前フリから話を始めたのだが、晩年、旅のお供をしたらしい。“ひとり会”と銘打ったのに声が出ないから二席はきつく、サポート役として真打が一人同道した。その打ち上げの席だったという。
「師匠は打ち上げの席は好きだからさ、ウーロン茶を飲んでた。声も出ねえし、こっちはそれが務めだと思うから、飲みながらパアパア言ってたよ。ふと家元の視線に気づいたんだ。オレの手元のグラスを見てんだよ。で言ったんだ、左談次、おまえ酒飲めるのかって。いや、イスから転げ落ちるかと思った。驚いたねえ。じゃ今までの酒癖が悪いから帰れってのは何だったんだよってなもんさ」
 私は左談次に同情したが、左談次は私への同情をより強めたようだ。
「オレは怒鳴られなかっただけマシさ。おまえは大変だったよなあ」
 二人の話に安心したのか、あの、いいですかと談笑が入ってきた。

 この時の談志の言葉、どう考えたらいいのだろう。

 あの、入門当初のドア閉めの音の勘違いから、
 “あいつは危ない”→“酒でも飲ませると何をするかわからない”→“酒癖が悪いことにして酒席では早く帰そう”の発想の背後に「あいつが酒を飲めても飲まなくても」という思いがあって、それが、「酒は飲めない」という勘違いになっていた、ということだろうか。

 そんなことではなく、すでに、談志の記憶は、相当な“斑(まだら)”状態になっていた、と言ってもよいのかもしれない。

 なお、左談次のブログ「ほろ酔い日記」では、現在、彼が癌と戦っている様子が綴られている。
立川左談次のブログ「ほろ酔い日記」

 今日の落語会の昼のトリは、左談次の予定になっていたが、果たして、無事高座を務めることができたのやら。

 さて、談笑が左談次と談四楼の会話に入って、次のような逸話が披露された。
 真打昇進披露パーティー、披露興行と、談志は談笑に付き添った。側から見ても、談笑に期待しているのがよくわかった。一方の談笑も大いに恩義を感じた。だから地方公演への同道を請われた時、喜んで馳せ参じた。
「やはり打ち上げの席でした。師匠がマジマジと私の顔を見るんですよ。なにかと思ったら、おめえもいそろそろ真打になったらどうだって」
「えっ?」
 左談次と私はほぼ同時に声を上げた。
「またまた師匠ぉ、シャレがキツいですよって思わず言いそうになりました。だけど目がマジなんです。しようがないですよね、はあ、よろしくお願いしますと・・・・・・」
「それ言われたの、一回だけ?」
「一回だけでした。すぐに興味が薄れたようで、目がすうっと逸れていきました。こっちは真打にしてもらったお礼奉公のつもりで来たんですがねえ。あのとき初めて、容易ならざる状態だと思いました」

 これまた、理屈では考えられない談志の発言である。
 
 晩年の談志の“変調”について、さらに引用する。
 そうか、そうしてみんな変調に気づいていったのか。ではこのケースはどうだろう。当人が直接言われたわけではないのだが、いっとき評判になったので耳に入っていることを前提に話を進めよう。
 主人公は談幸だ。東京での落語会でのことである。楽屋には談志、前座、慎ちゃん、主催者、それに談志を訪ねた客が三人ばかりいたという。そこへ談幸が入ってきた。出番はないが、いわゆる顔出しである。談幸がニコニコ向かってくるそのとき談志が前座に言ったのだ。「気をつけろ、変なのが入ってきたぞ。財布は大丈夫か、下足隠せ」。何のことはない、談幸は楽屋泥棒の扱いを受けたのだ。
 談吉と言った前座時代、談志と談幸の蜜月は有名だった。一門唯一の内弟子で、談吉は練馬の家を守った。時には談吉の夜席の務めが遅くなると、先に帰った談志が料理を作って待っていることもあり、一門は、あの形態は内弟子ではなく同棲だと囁いた。
 談吉なくしては夜も日も明けぬ談志だった。談吉は完璧な付き人であり前座だった。客があってちょっとした宴会になる。料理を出し、酒を作り、興が乗ると唄、それも懐メロが始まるのだが、談吉はいそいそとカセットデッキを設置し、いいタイミングでスイッチをオンにする。
 驚くべきはそのカセットテープで、談吉は談志の好みを熟知し、曲の順番に凝り、談志が唸るほどの編集の冴えを見せた。小回りと気が利き、一歩先を読んで動く。まさにパーフェクトな前座だった。だから談吉が二ツ目になった時、談志は喜ぶよりむしろ落胆の表情を浮かべたのだ。
 その談吉の談幸が、病状を気遣い、楽屋に顔を見せた。しかるに談志はこれを泥棒扱いしたわけだが、居合わせた前座が大声で「おはようございます、談幸師匠」と発したから、おおそうか、談幸かとなったのは幸いだったが、面と向かっておまえは誰だと言われれば、談幸のショックは計り知れないものがあっただろう。
 談幸師匠と大声を出した前座、彼こそが現二ツ目、当時前座の談吉で、以降一門内では、談吉ってのは代々気が利くんだということになっている。

 談吉という名で、“同棲”とまで称されたパーフェクトな内弟子の前座だった談幸は、この時、二代目談吉に救われたとは言え、家元の異変に気付いたに違いない。

 それは、実に悲しい事実だったことだろう。

 その後、一人立川流から落語芸術協会入りした談幸にとっては、談志のいない立川流に魅力など感じなかったのも道理だろう。

 文中の慎ちゃんとは、談志の長男慎太郎のこと。
 その“慎ちゃん”に関連し、本書では、志らくが仙台に住む長年の談志ファンの方と一緒に病院を見舞いに行った際の逸話も紹介されている。
 この二人の来訪を談志が喜ばないはずがない。よく来た、そこへ座れ、何を飲む、何か食うかという接待である。衰えゆく体にムチ打ち、喋る喋る。二人はふと気がついた。話題となっているのは慎ちゃん、談志の長男にして談志役場を仕切る松岡慎太郎氏のこと。
 がしかし、名前が違うのだ。目と目で慎ちゃんの話題であると確認し合う二人、にも関わらず、談志の口から何度か発せられるのは、聞いたことのない赤の他人の名前なのだった。
しばしして、お大事にと表へ出て、二人同時に「慎ちゃんのことだよね」と言い、再確認したのは当然のことで、志らくはその時点で、Xデーが遠くないことを予感したのではなかったか。

 まだ声帯を取る前のこととされているが、病気は喉だけではない状態だったのだろう。
 あえて、晩年の談志の“変調”の姿をいくつか紹介した。
 命日に相応しくない、というご指摘もあるかもしれない。
 しかし、決して往生とは言えなかった晩年の談志を知ることも、供養の一つではないか、などと、勝手に思っている。

 その晩年との対比で、若き日の談志の姿が、より光り輝く、ということだってあるのではないか。

 著者の談四楼など古参の弟子たちは、そういう談志の若い頃のまぶしい姿に憧れて入門してきたのだ。

 古くからの弟子であればあるほど、過去の談志の芸や人柄を懐かしむ気持ちが強いに違いない。
 そういった過去への郷愁が、本書でも明かされている。
 亡くなってからちょうど一ヶ月後の12月21日、ホテルニューオータニ鶴の間で「お別れ会」が催された。
 一部が、談志と縁のあった方が中心で会費一万円、二部がファンなど一般向けで無料だったようだ。
 一部では、会場のスクリーンに、2007年よみうりホールでの、伝説と称される『芝浜』、二部では、同じ会場で前年2010年に、無理を押して演じられた同じ『芝浜』が、編集されて部分的に上映された。

 その二部の上映に関して、会場で談四楼が感じたことは何だったのか。引用する。

 伝説の07年版同様、大晦日の夫婦の会話のみに編集されているが、弟子としては目をつむり、耳を塞ぎたいビデオである。しかし客の姿も残り少なくなった今、弟子はこれと敢えて向き合った。鬼気迫る、とは褒め言葉だろうか。談志は気力だけで『芝浜』と格闘していた。
 疑問が湧いた。なぜこれを二部で上映したのだろう。アルコールの入った喧噪の中とも言える一部であれば、多少はごまかしが効いたのではないか。そしてあの伝説の『芝浜』のほうをこの二部で上映するのだ。二部の客は手渡されたカーネーションを献花台に置いて合掌してしまうと、無料であるから飲食は供されず、余興もなく、スクリーンを見上げる以外はすることがない。後はもう少しとどまりたい風情を見せつつ帰るしかないのだ。
 (中 略)
「よそう、また夢になると不可(いけ)ねえ」
 スクリーンの中でものすごい拍手が沸き、鳴りやまなかった。わかる、読売ホールにいた客の気持ちは。誰の目にも不可能と映ることを、談志はやり遂げたのだ。だが同時に薄々感じたはずだ。来年の暮は、もう談志の『芝浜』は聴けないかもしれないと。
 映像と音が消え、スクリーンが地の白に戻った時、しみじみと龍志が言った。「昔の師匠は上手かったなあ」。まったくだと、他の三人が声を揃えたのはなぜだろう。山藤顧問の挨拶が甦った。談志をピカソに譬え、ピカソにも談志にもまず写実の時代があったと言った。まさしく我ら四人は写実の時代の談志に魅入られ、その門を叩いたのだ。

 龍志の言葉に同時に声を揃えたのは、談四楼、左談次、ぜん馬の三人。

 私は、このお別れ会には、行っていない。
 しかし、一部と二部とで上映する内容は逆だろう、という談四楼の思いには共感できる。
 もっと言えば、ビデオ上映など必要があったのだろうか・・・と思う。

 いずれにしても、晩年の高座であり、絶頂期のものではない。

 そのビデオの高座について、談四楼は次のように語る。

 2007年と10年の『芝浜』を聴き、昔の師匠は上手かったと龍志が言ったのは、立川流以前の弟子の共通した思いだった。2010年の『芝浜』はもちろん、07年の伝説の『芝浜』も、技術的にはいい出来ではなく、下手である。セリフを噛む。上下は間違え、妙な間さえ空く。これを落語家は下手と呼ぶのだ。
 しかるに会場の感動はどうだ。居合わせた客の誰もが、07年の『芝浜』はよかった、感動した、神が降りたと称え、体力が落ち、ほとんど聞き取れない10年の『芝浜』さえ、涙まじりに、スゴかった、あの人は紛れもなく神だと言い募る。
 ここかと思えばまたあちらと、談志は変貌を遂げた。その速さにとり残された客と弟子がいた一方、変わらず愛し続ける客がいたということか。ああ、半端だなと自分の存在を思う。一門の下と上を、以前と以後と行きつ戻りつしたつもりだったが、それぞれを深く知っちゃいなかったのだ。それでいて両者の橋渡し役のつもりでいたわけで、ま、グレーゾーンもよしとするか。

 “グレーゾーン”とは、言い得て妙でもあるが、談四楼の謙虚さも滲み出る言葉だ。

 本書では、立川流以前の弟子たちが“ら族”として扱われたことも書かれている。
 要するに、没後の新聞やwebのニュースで「志の輔、談春、志らく(、談笑)“ら”を育てた」などと書かれ、古参の弟子が“ら”の一言で括られたので、自虐的に“ら族”と称していたのである。

 しかし、談志一門にとって、実は“ら族”こそが、そのDNAを継いでいる人たちではないか、と私などは思う。

 最後の引用は、その“ら族”の談四楼が振り返る、弟弟子との会話。

 それは、談志が存命中の日暮里寄席か上野広小路亭の後と記憶する打ち上げでのことらしい。
 私がトリだったのは確かだが、それを言った二ツ目が談修だったか錦魚だったか。私はほぼ出来上がり、そろそろオヒラキという頃だった。
「談四楼師匠はけっこう家元のことを悪く言いますよね」
「ああ言うよ、高座でも普段でも。だけでネタにはなってるだろ」
「それはそうですが、私なんか、よく言えるなあと思って・・・・・・」
「キャリアの違いだな。十年二十年の弟子はまだ関係が師弟なんだ。ところが四十年からになると、これが親子になっちまうんだな」
「はあ、師弟の会を親子会と銘打つことはありますけど・・・・・・」
「あんた、尊敬する人はと聞かれたら、師匠って言えるだろ」
「もちろんです」
「だからそこが若いってんだよ。いい年をしたオッさんが尊敬してる人は師匠だなんて言えるかい。ましてや父ですなんてバカらしいや。だけどうちの家元(おやじ)、若えんだよなあ。ま、そこは早婚で出来たセガレだと考えりゃいいんだが、このオヤジ、総領を始めとするセガレたちの不甲斐なさに腹を立ててる。セガレたちも面目ねえとは思ってるんだよ。だから黙ってりゃいいのにこのオヤジ、弁が立つし親子だから遠慮がねえ、ガガッとくるよ。セガレだってヘイヘイ精進いたしますなんて言わねえ。んなことはわかってらあってなもんさ。親子ってそういうもんだろ。だけどこっちはシラフで面と向かって毒づいたりしねえよ。その代わり、いねえとこでネタにして喋る、とまあそんなカラクリ。どう、親子の話、わかった?」
「・・・・・・」
 これが古弟子(せがれ)の、家元に死なれた今も変わらぬ本音なんだがなあ・・・・・・。

 師匠と弟子が、師弟から親子に熟成(?)するには、長い年数のみならず、その関係の密度も濃くなければならないだろう。
 時には「この野郎!」と弟子が思った、理不尽な叱責を幾度も経験しているに違いない。

 その師弟の関係は、立川流以前と以後では、大きく違うはずだ。
 それは、良し悪しの問題ではなかろう。

 談志が絶頂期を迎え「四天王」ともてはやされていた頃の、一人の噺家として、そして師匠としての弟子への接し方と、立川流家元となってからの違い、もあるだろう。もちろん、若い時と年齢を重ねてからでは、自ずと弟子への対応も変わるはずだ。
 落語協会という“置屋”に属し、小さんという師匠に甘えることのできた時期と、甘える相手がいなくなってからの心情の変化、などなど。

 だから、思うのだ。
 いわゆる「立川流四天王」などという言葉をメディアが今も使うことがあるが、それはまったく近視眼な見方だ。

 談志は、立川流を作る前にも存在したし、その頃に入門した弟子もいる。

 そして、没後五年。
 立川流は、いまや名前だけが残っているに過ぎないのではないか。

 楽屋泥棒と間違われた談幸は、弟子を引き連れて落語芸術協会に入会した。
 かつて、上野広小路亭の立川流の寄席は、その談幸が顔づけなどを行っていた。
 
 もはや、一門と言うよりも、個々に、かつては談志の弟子だった噺家が存在しているに過ぎないのだろう。

 ならば、四天王もカンカンノウもない。

 私は、一時、志の輔、談春、志らくを、それぞれに集中して聴こうとした時期がある。
 中には印象に残った好高座もあれば、期待が大きすぎたこともあって、がっかりしたこともある。

 今は、彼等の落語会に、チケット争奪戦(?)に参加してまで行く気にはなれない。
 そもそも、大ホールでの落語会には行くつもりがないのだが、そういう場所での開催が多いことも、彼等と距離が出来た理由だろう。

 しかし、もっとも大きな理由は、寄席を経験していない彼等の高座に、私が好きな噺家の姿を見出せないことなのだと思う。

 それは、彼らの責任ではないが、寄席体験の欠如は、噺家という芸人にとって、小さくはない。

 落語会、寄席には多い年に50~60回出向いたこともある。
 今思うと、仕事をしながら、落語評論家でも席亭でもないのに、異常な回数だったなぁ、と思う。
 今は、せいぜい月に二~三回でいいかな、と思っている。
 できれば寄席を中心に、これまで聴いたことのない噺家さんや、年会員になっている柳家小満んの会などだけでいいかな、という心境だ。
 いろいろと自分や周辺の環境が変化していることも理由だが、一時期集中して行っていた反動もあるかもしれない。
 中堅の実力者の高座でご無沙汰な人も多いが、そういう噺家さんにしても、どうしても聴きたくなってからで良いか、と思う。

 また、ある程度は、現役の若手中堅の噺家さんのことは分かる程度に、これまでの蓄積があるようにも思っている。

 だから、数少ない落語会や寄席では、できるだけこれまで聴く機会のなかった人を中心に選びたいのだ。
 そういう意味で、“ら族”と言われた立川流の古参の噺家さんの高座には、興味がある。
 昨年、龍志を聴いて感心したこともある。
 談志のビデオを眺め、「昔の師匠は上手かった」と言う龍志には、共感できる。

 また、本書の著者である談四楼の生の高座はまだ聴いたことがないので、来年の大きなテーマであり、楽しみだ


 師弟ではなく、親子の関係性を感じ、時には悪口も公言してきた談四楼などの古参弟子に、若き日の談志のDNAの継承を期待している。

 実は、没後、BSで放送されたその“伝説”の『芝浜』の高座を、私は直視することができなかった。
 「どこが、伝説なんだ。昔の談志はもっと上手かったぞ」と思っていた私は、本書を読んで、実に共感することが多かった。
 私にとって生の高座はたったの一度だが、音源や映像で、輝いていた頃の高座を知っている。
 ちなみに、仲間うちの宴会で披露した『道灌』の手本は、談志の音源だ。
 『ねずみ穴』や『源平』など、時おり無性に聴きたくなる音源もある。

 だから、本書を読んで、“伝説”の『芝浜』を「下手」とはっきり言える弟子こそ、談志の芸を継承するに値するのでないだろうか、などとも思うのだった。


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# by kogotokoubei | 2016-11-21 21:36 | 落語の本 | Trackback | Comments(8)