NHK「超入門!落語 THE MOVIE」、10月19日よりレギュラー放送開始。

 単発で放送していたNHKの「超入門!落語 THE MOVIE」が、10月19日から、毎週水曜夜にレギュラー化されるようだ。

 exblogのリンクの機能が拡張されて、上のようにすることもできるようになった。
 テキストリンクも残っているので、使い分けようと思う。
 上のNHKサイトから引用。
2016年3月に放送した第1弾、7月に放送した第2弾、ともに大好評をいただき、10月からレギュラー放送が決定しました!
とかく「長い」「単調」「難しい」と言われがちな落語に、完璧な「アテブリ芝居」をかぶせてみたら…初心者でも「面白くわかりやすい新たなエンタメ」が誕生!名付けて「超入門!落語THE MOVIE」。
 噺家の語りに合わせて再現役者の口が動く、いわゆる「リップシンク」に徹底的にこだわり、あたかも落語の登場人物たちが実際に話しているかのような臨場感を演出。見ている人をリアルな落語の世界へと導きます。

 3月は見逃したが、7月に放送された『お菊の皿』と『包丁』は見た。
NHKサイトの該当ページ
 印象的だったのは、三三の『お菊の皿』における「アテブリ芝居」で、塚地武雅と好対照だった元ボクシング世界チャンピオンの内藤大助の演技。素人くささが可笑しい、ともいえるのだが、やはり「アテブリ」(「リップシンク」!?)をしっかり演じないと、見ていて辛くなる。

 10月19日の第一回目なのかどうかは分からないが、、古今亭菊之丞の『お見立て』で、喜瀬川役を前田敦子が演じるようだ。
 スポニチに記事が載っていた。
スポニチの該当記事
 喜瀬川の配役の理由について関係者が「この花魁の“美しく、ちょっとわがまま”なところに合致した」と語っているようだが、あのわがままは、「ちょっと」どころではないだろう^^
 喜助は梶原善が演じるらしいが、これはうってつけではなかろうか。

 放送を楽しみに待とう。

 今CSで再放送されているテレビ朝日「落語者」やBSジャパン「今どき落語」は、結構楽しんでいたのだが、相次いで消えてしまった。
 たぶんに、その理由は視聴率が悪かったためだろう。

 そこは、NHkだ。視聴率はともかく、腰を据えて続けて欲しい。

 最近落語を楽しみ始めた若い方が知識を習得するためにも有効だろうし、今以上に落語愛好家のすそ野を広がることも期待できるので、シリーズ化は結構なことだと思う。

 できることなら、視聴率を追いかけず、人気者ではなくてもいいので、しっかりアテブリを含めた演技のできる芸人さんを起用してもらいたい。
 なぜなら、主役は「落語」のネタそのものであり、出演者ではないはずだから。

 また、ネタの中には、今の社会では使いにくい言葉や風俗もあるが、できるだけ忠実に再現して欲しい。

 学校じゃ教えない、実にためになる内容が落語には満載であることを、ぜひ伝えて欲しいものだ。
 
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# by kogotokoubei | 2016-09-30 12:41 | テレビの落語 | Trackback | Comments(0)

柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 9月27日

 残暑きびしい中とはいえ、台風や豪雨のことを思えば、小言は言えない上天気の中、関内へ。
 いつものようにコンビニで仕入れたおにぎりをロビーで頬張りながらモニターの開口一番を聴いていた。
 春風亭一花(いちはな)が『牛ほめ』を演じている。
 二年前、師匠一朝の、同じ会場の独演会以来。2014年7月31日のブログ

 途中から会場に入り、立って聴いていたが、二年前同様、明るい高座で、口跡も良く聴いていて心地良い。女流は結構苦手なのだが、この人は今後が楽しみだ。

 一花が下がって、いつものような半分ほどの入りの会場の席に着いた。
 小満んの三席について、感想などを記す。

柳家小満ん『名人昆寛(こんかん)』 (30分 *18:47~)
 楽しみにしていた初めて聴くネタ。過去には柳家金語楼がラジオ放送用に演じたことがあるらしいが、現役ではこの人以外に演じないのではなかろうか。
 検索したところでは、元は浪曲のネタのようだ。
 マクラで、どんな職業でも名人になるのは大変だが、お坊さんの修業もいくつも段階があるとふって、浄土宗の関東十八壇林のことを説明。
関東十八檀林(かんとうじゅうはちだんりん)とは、江戸時代初期に定められた関東における浄土宗の檀林(僧侶の養成機関・学問所)18ヶ寺をいう。
 せっかくなので(?)、Wikipediaの「関東十八壇林」を引用。
Wikipedia「関東十八壇林」
江戸時代初期、知恩院は浄土宗の有力な寺院のひとつではあったが、宗派内での地位は明確ではなかった。慶長2年に知恩院の尊照が「関東檀林規約」五条を定め、本寺・末寺の制度が整備された。また元和元年7月24日には増上寺の存応の案による「浄土宗法度」三十五条が幕府によって発布され、門跡を知恩院、総録所を増上寺とする教団体制が確立した。18寺の檀林が公式に認められ、宗派の重要事は檀林の会議で決すること、僧侶の養成も檀林でのみ行うこととされた。
 小満んは、典型的な修業の順番として、伝通院->光明寺(鎌倉)->増上寺であったと説明。
 知恩院には甚五郎の“忘れ笠”がある、という話も、このネタに相応しい逸話で、いつもながら、この人のマクラは流石なのだ。
 その忘れ傘については、知恩院のサイトに、しっかり説明がある。
「総本山 知恩院」サイトの該当ページ
 さて、本編はこんなあらすじ。
(1)中橋(日本橋と京橋の間にあるから、中橋というらしい)に住む昆寛は四十歳ほどで
  腕が立つ彫り物師。昆寛の家を石町の質屋大阪屋の手代が訪ねる。主人が以前から手付を
  渡して頼んでいる彫り物がいつ出来るか聞きにきたのだ。しかし、名人と言われる昆寛は、
  金持ちや偉そうな相手の仕事は後回し。いろいろ忙しいと言い訳をするのだが、その言い分
  が実に楽しい。「八月は、十五夜もあれば十六(いざよい)の月に、立待の月(十七夜)、
  居待月(いまちづき、十八夜)に臥待月(ふしまちづき)もあって、忙しい」など、私が
  好きな言葉が並ぶ。月の愉しみ方や呼び名については、杉浦日向子さんの本を元に以前
  書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。2015年9月27日のブログ
  昆寛、九月は菊の節句、十月は・・・と、とにかく忙しいから待っていろ、とばかり大阪屋
  の手代を煙に巻く。
(2)代わってやって来たのは、新寺町の唯念寺のお坊さん。新しい楠の門が出来たが、住職が
  軒下が寂しいので、良い欅があるから彫り物をして欲しい、との依頼。今度は、二つ返事で
  請け合う昆寛。一緒に唯念寺へ出向いて、住職から下絵を見せてもらう。それは、駿河台
  の先生と呼ばれる狩野十徳による「風竹に虎」の見事な絵だった。ちょうどそこへ、
  当の駿河台の先生来訪。住職が昆寛を紹介すると、「昆寛という、彫り物をする人間か」
  「こんかんとは、いい音がしそうだ」などと横柄な言い様。自尊心の高い昆寛、むっと
  するが、こらえる。その日は二十日。昆寛が、晦日の二十九日まで十日もあれば仕上げる
  と約束したことが、サゲにつながる。
(3)寺から下絵と木を持って帰ってから、一心不乱に彫り続けた昆寛。先に虎を彫り上げた。
  弟子も驚き、自分も納得する出来栄え。さて、背景の竹を彫る段になったのだが、
  狩野十徳の横柄な態度を思い出しながら掘っていたら、つい、竹ではなく松を彫って
  しまった。しかし、昆寛は、そのまま寺に納めに行った。
(4)唯念寺の住職、虎の出来栄えには大いに感心したものの、背景が竹ではなく松に
  変わっているのはなぜかと昆寛に問いただす。昆寛いわく、「暦を見てもらえば
  わかる。きのえ(甲)寅で、たけのえ虎ではない。松の木(の枝)に虎で良いのだ」と。
  住職、その答えを聞いて一瞬考え込み、
  「よくわかった。礼を払おう」と、たった二百文を昆寛に渡す。怒った昆寛に
  住職が答えた。
  「暦を見よ。二百十日だ。十日の仕事に二百で釣り合うだろう」。これに怒った
  昆寛、お堂に入ってあばれることしきり。これが二百十日の大荒れ、でサゲ。

 冒頭で、大阪屋の手代が昆寛を訪ねる場面は、『名人長二』を髣髴とさせるものがあるが、全体的には、滑稽さが漂う噺。
  たとえば、昆寛が弟子に酒を買って来いと言うと、弟子が「お金がありません」と答えるのに対し、昆寛が「金がねぇ、そういう古風なことを言うな」と返すのだが、これが、なんとも可笑しい。
 名人、と冠がつくわりには昆寛がやや俗っぽすぎる感もあるが、物語の内容からは違和感はないので、これはネタの名の方を替えた方が良いのかもしれない。ネタバレにはなるが『二百十日』などどうだろうか、などと思った。

柳家小満ん『男の花道』 (26分)
 一度下がってから、すぐに再登場。
 マクラで、昭和16年、自分の生まれる前の年に長谷川一夫主演で映画化されたネタ、と説明。講談では大島伯鶴が十八番としたとのこと。
 調べてみると、映画や芝居では実在の医者土生玄碩をモデルとする眼科医・土生玄硯と歌舞伎役者中村(加賀屋)歌右衛門との間の友情物語となっているようだが、小満んは眼科医の名を半井(なからい)源太郎としている。
 こんな、あらすじ。
(1)時は十一代将軍家斉の文化文政の頃。シーボルトの鳴滝塾で西洋医学を学んだ
  半井が、たまたま宿で居合わせた歌右衛門が眼病でもがき苦しんでいたため手術を
  して助けた。その際、歌右衛門が礼金を払おうとするが受け取らず、その代わり
  「将来、どうしても困って歌右衛門さんにお越しいただきたい時には、ご連絡する」
  と言うと、歌右衛門「もちろん、命の恩人。何があっても駆けつけます」と、男と男
  の約束が成立。
(2)後年、向島の料亭植半(うえはん、『橋場の雪』や『花見小僧』でも登場するね)
  で、半井が水野出羽守の配下土方源之助(字は?)に余興を強要されるのだが、
  半井は「あいにく、不調法で何もできません」と断るが、いじきたなく土方になじ
  られた。つい、こらえきれなくなった半井「自らもって天下の医者と任ずる」と言い、
  「それでは、私の代わりに中村歌右衛門をここにお呼びします」と答えた。
  土方「わしが何度頼んでも座敷に顔を出さない歌右衛門を呼ぶだと・・・
  もし、今を時めく歌右衛門が来るようなら、石が流れて、木の葉が沈むわ・・・
  一時(いっとき)後、五つまでに来なければ、いかがする」と言われた半井、
  「腹を切ります」と答えるのだった。
(3)さて、中村座で『熊谷陣屋』(『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』
  の三段目)を前にし楽屋にいた歌右衛門に、半井からの手紙が届く。あの男の
  約束を思い出す歌右衛門。座主に訳を話し、満場のお客様にも理由を説明して
  詫びてから、用意の駕籠に乗って向島へ。五つの鐘がなり、腹をかっさばく
  寸前の半井。その時、店の者の「加賀屋さんが来られた」の声。
  ぎりぎり間に合った加賀屋歌右衛門は土方に挨拶し、着替えてから見事な舞を
  披露。半井、面目を保った。
 (4)後年、家斉が眼病を患った時、土方から半井のことを聞いた水野出羽守が
  半井を呼び出して治療をさせ、無事お殿様の病が治り、半井は法眼(医者に与え
  られた称号の一つ。ここでは御典医の意味か?)を授かった。めでたし、めでたし。

 というお噺なのだが、小満ん、やや言いよどみが多かった。一席目でも少し気にはなったが、この高座では、こっちが息をのんで次の科白を待つこと、しばし。
 この噺は、小朝や正雀も演じるらしい。後日、他の人でも聴いてみたいものだ。


柳家小満ん『鉄拐』 (31分 *~20:29)
 仲入り後は、このネタ。
 あらすじは、前の二席に比べご存じの方も多いと思うので、細かくは記さないので、ご興味のある方はWikipediaでご確認のほどを。
Wikipedia「鉄拐」
 結論から書くが、三席の中では、この高座がもっとも良かった。マクラでは、日本で仙人と言えば久米仙人が有名で、なかなか楽しい逸話がある愛すべき仙人、と説明。空を飛ぶ術を稽古中に、洗濯をしている若い女性の白い脛(はぎ)に見惚れて墜落したと言われており、「仙人の とっつかまえて 洗濯場」などの川柳を披露。
 サゲのために必要な、李白と陶淵明という酒豪の話から本編へ。
 小満んは、鉄拐を探しに行く番頭利平の店を、北京は南京町三丁目十八番地の上海屋としていたが、人によっては違う。上海屋の宴会は、恵比寿講での恒例の会としていた。この番頭が、実にお調子者でおべっか使いなのだが、鉄拐が、そのおべっかについ乗ってしまう。この二人の会話が、なかなかに楽しい。一身分体の術を使って腹からもう一人の自分を吐き出す芸でさえ、声のかかった座敷のみならず寄席(北京の末広亭や上海の若竹など)でも連発していたことで、次第にあきられてくるという筋書きは、今の芸人さんに聞かせたいものだ。芸は大事にしないとね。
 鉄拐が大間のトロを肴に酒を飲むなど遊びほうけて、弟子の“やっかい”や“ちょっかい”などを代演で寄席に出したところ、分身が体半分や頭しか出ないので「丸札」(無料入場券)を出してお客さんに帰ってもらう、という表現があった。今の落語会や寄席で「丸札」は出さないなぁ。「金返せ!」と言いたくなる時も、たまにあるけどね。
 利平が代わりに探し出した仙人の張果老の、最初に登場する場面での酔いっぷりが、実に可笑しい。瓢箪から駒、で瓢箪から馬を出すのが張果老の術だが、これを鉄拐は「“けれん”でいけねぇ。俺の芸は江戸前!」と言う。この噺では、中国の仙人、言葉づかいは江戸っ子なのである^^
 二席目があったので、なおさら小満んの江戸弁が光った、実に楽しい高座だった。
 昨年三月の会の『樊會』でもそうだったが、中国を舞台にしたネタで、楽しいクスグリを入れることのできる噺、小満んは好きなのだろうなぁ。まるで江戸の長屋噺のような味わいだった。


 さて、終演後は、我らがリーダー佐平次さんと、久しぶりのKさんと三人での居残り会。
 関内で四十年になるいつものお店で、赤崎の牡蠣や旬の秋刀魚などで、千福の熱燗を美味しくいあだきながら、話が弾む。この日の小満んの高座のことはもちろん、お二人が、それぞれ楽しみにしてらっしゃる歌舞伎と文楽の「仮名手本忠臣蔵」通し公演のこと、はたまた、アメリカ大統領選挙や豊洲の話題などなど、あっと言う間に時間は過ぎるのだが、小満んの会はお開きが早い時間なので、日付変更線は超えることなく帰宅できたのだった。

 さて、次回は、なんと『子別れ』の通し。しかし、11月27日の日曜の昼なのである。まだ、開演時間は決まっていないようなのだが、テニスの後で間に合う時間であることを、ひたすら祈っている。

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# by kogotokoubei | 2016-09-28 22:27 | 落語会 | Trackback | Comments(2)

あるジャーナリストが書き残したものー花森安治の「見よぼくら一銭五厘の旗」より。

 前回、NHKの「とと姉ちゃん」について書いた。

 重要な登場人物の一人は花森安治をモデル(モチーフなどではない)にしているが、彼の反戦、反権力を底流とするジャーナリストとしての生き方は、適確に描かれたとは言えない。それは、前回の記事で引用した、花森の薫陶を受けた「暮しの手帖」の元編集者の方が指摘する通りだ。

 「とと姉ちゃん」でも、その様子が一部紹介されていたが、花森は敗戦まで、大政翼賛会の外郭団体に籍を置いて国策広告に携わっていた。有名な「欲しがりません 勝つまでは」は花森が考案したと言われることがあるが、事実ではない。大政翼賛会と新聞社による標語募集に応募しされたものを花森が採用したのだった。しかし、この点について花森は一切弁明しなかったという。
 あの標語が自作ではないにせよ、自分が国策広告に携わっていた事実への自責の念が、そうさせたのだろう。

 彼が語らなかったことの意味を慮ることも大事だが、花森が書き残した言葉を読むこともできる。

 その中の一つが、日本ペンクラブの「電子文藝館」のサイトにある、「見よぼくら一銭五厘の旗」だ。
「日本ペンクラブ 電子文藝館」の該当ページ

 作者および掲載された内容の説明を含む部分を、先にご紹介する。
花森 安治
ハナモリ ヤスジ
はなもり やすじ 編集者 1911・10・25~1978・1・14 兵庫県神戸市に生まれる。東大在学中、扇谷正造、杉浦明平らと帝大新聞の編集に携わり、戦後1948(昭和23)年、「暮しの手帖」を創刊、雑誌の全面に花森の手と息吹がかかっていた。

掲載作は1970(昭和45)年10月、「暮しの手帖」第2世紀8号に掲げた胸にしみるマニフェストである。なお、改行の仕方について今や筆者に確認をとれない微妙な点があり、雑誌初出時の改行(組体裁)のママに従っている。

 「マニフェスト」という言葉には、少し違和感があるが、花森安治というジャーナリストの意図を示す「声明文」あるいは「誓約書」という意味では、間違いではないのだろう。

 本文を、まず冒頭から引用する。
見よぼくら一銭五厘の旗

美しい夜であった
もう 二度と 誰も あんな夜に会う
ことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように
透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような
香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物も
つけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして
一面にちりばめられていた
昭和20年8月15日
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた

どの夜も 着のみ着のままで眠った
枕許には 靴と 雑のうと 防空頭巾を
並べておいた
靴は 底がへって 雨がふると水がしみ
こんだが ほかに靴はなかった
雑のうの中には すこしのいり豆と
三角巾とヨードチンキが入っていた
夜が明けると 靴をはいて 雑のうを
肩からかけて 出かけた
そのうち 電車も汽車も 動かなくなっ

何時間も歩いて 職場へいった
そして また何時間も歩いて
家に帰ってきた
家に近づくと くじびきのくじをひらく
ときのように すこし心がさわいだ
召集令状が 来ている
でなければ
その夜 家が空襲で焼ける
どちらでもなく また夜が明けると
また何時間も歩いて 職場へいった
死ぬような気はしなかった
しかし いつまで生きるのか
見当はつかなかった
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか
戦争が終るかもしれない などとは
夢にも考えなかった

その戦争が すんだ
戦争がない ということは
それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチ
をひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着か
えて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すという
ことは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし
戦争のないことは すばらしかった
 
軍隊というところは ものごとを
おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹
が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る
軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた
しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった
(じっさいには一銭五厘もかからなか
ったが……)
しかし いくら腹が立っても どうする
こともできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘か
そうだったのか
〈草莽そうもうの臣〉
〈陛下の赤子せきし〉
〈醜しこの御楯みたて〉
つまりは
〈一銭五厘〉
ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭
五厘なのだ 一銭五厘が 一銭五厘を
どなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の
発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も
鹿児島の部隊も おなじ冗談を おなじ
アクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りださ
れたら 着いたその日に 聞かされたの
が きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おく
になまりの一銭五厘を聞かされた


 「とと姉ちゃん」には、この「一銭五厘」のことは、一切登場しない。

 実際には存在しなかった、安かろう悪かろうという製品を作っていた電気メーカーとの戦いは描かれた。
 
 しかし、花森安治が戦ってきた相手は、違うのである。

 この文章の中盤には、公害問題に対する花森の強い思いが綴られている。
 
 なぜ、政府が自動車を規制しないのか、なども書かれている。
 ぜひ、全文を読んでいただきたい。

 後半から最後の部分を、引用したい。

さて ぼくらは もう一度
倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から
おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだ
してきて 錆びをおとし 部品を集め
しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にする
ということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつ
かったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつ
かったら 政府を倒す ということだ
それが ほんとうの〈民主々義〉だ
政府が 本当であろうとなかろうと
今度また ぼくらが うじゃじゃけて
見ているだけだったら
七十年代も また〈幻覚の時代〉になっ
てしまう
そうなったら 今度はもう おしまいだ

今度は どんなことがあっても
ぼくらは言う
困まることを はっきり言う
人間が 集まって暮すための ぎりぎり
の限界というものがある
ぼくらは 最近それを越えてしまった
それは テレビができた頃からか
新幹線が できた頃からか
電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか
とにかく 限界をこえてしまった
ひとまず その限界まで戻ろう
戻らなければ 人間全体が おしまいだ
企業よ そんなにゼニをもうけて
どうしようというのだ
なんのために 生きているのだ

今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ
ぼくらの代りは 一銭五厘のハガキで
来るのだそうだ
よろしい 一銭五厘が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり
書いて出す 何通でも じぶんの言葉で
はっきり書く
お仕着せの言葉を 口うつしにくり返し
て ゾロゾロ歩くのは もうけっこう
ぼくらは 下手でも まずい字でも
じぶんの言葉で 困まります やめて下
さい とはっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く

ぽくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布はぎれをつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し
台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後あとへひかない
(8号・第2世紀 昭和45年10月)


 前回の記事で、「とと姉ちゃん」のプロデューサーが、素顔の花森安治のことを描くにあたっての「ハードル」があると発言している。
 それは、たとえば、引用した次のような言葉に象徴されているだろう。

 ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつ
 かったら 企業を倒す ということだ
 ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつ
 かったら 政府を倒す ということだ
 それが ほんとうの〈民主々義〉だ


 「企業を倒す」も「政府を倒す」も、あくまで「ぼくらの暮し」とぶつかったら、という条件だ。
 そして、公害や粗悪な製品開発などは、花森にとっては「ぼくらの暮し」とぶつかることなのである。
 「ぼくら」という立ち位置を描くために、プロデューサーは、なんとかその“ハードル”を乗り越える努力をしたのだろうか。
 もっと言えば、プロデューサーの立ち位置は、果たして「ぼくら」の側にあったのか。
 
 「企業批判」は、民放では難しいかもしれない。
 しかし、広告のないNHKは、もっと花森安治の真実に迫ることができたのではなかろうか。

 「暮しの手帖」が広告を掲載しないからこそできた「ぼくらの暮し」を守る活動を、なぜ、広告収入に依存しないNHKは、同じように、「ぼくら」の立場で描かないのか。

 それは、了見の違い、なのだと思うし、経営管理層の問題なのだろう。

 「とと姉ちゃん」では割愛(?)された花森安治という一人のジャーナリストの真の姿は、あの番組が終わるからこそ、もっと振り返られて良いように思う。


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# by kogotokoubei | 2016-09-26 22:46 | 幸兵衛の独り言 | Trackback | Comments(2)

「とと姉ちゃん」終了を前に、思うこと。


 来週で、NHKの朝の連続ドラマ「とと姉ちゃん」が終了する。

 朝ドラを「歴史ドラマ」と考えるかは異論があるかもしれないが、私は明らかなモデルがいる以上「歴史ドラマ」であるべきだと思っている。

 そういう意味では、いろいろ小言を言いたいこともあったが、これまで書かないでいた。
 しかし、終了を目前にして、いろんなメディアで、モデルとなった「暮しの手帖」の関係者から、ドラマの内容が事実とは違うという指摘、批判を取り上げているようだ。
 我らが「居残り会」のリーダーである佐平次さんも、記事を書かれていた。
「梟通信~ホンの戯言」の該当記事

 佐平次さんも紹介した記事の引用を含め、朝の「歴史ドラマ」について書いてみることにした。

 まず、「週刊朝日」からの引用を含み「LITERA」の記事から。
「LITERA」の該当記事

朝ドラ『とと姉ちゃん』を、本家「暮しの手帖」が痛烈批判! 花森安治の反権力精神を描かないのは冒涜だ
2016.09.17

 10月1日で最終回を控えるNHK連続ドラマ『とと姉ちゃん』。スタートから毎週連続して視聴率20%以上をキープする快進撃が続いているが、ここに来て「ドラマと事実とはあまりに違う」という批判が噴出している。

 ドラマのモデルとなった当の「暮しの手帖」(暮しの手帖社)からも、『とと姉ちゃん』についてこんな声明が出された。

〈現在ドラマでは、あるメーカーと『あなたの暮し』が対立関係として描かれています。自社製品の評価が低いことに激怒したメーカーの社長から、常子たちは数々の嫌がらせを受けます。
 一方、実際の商品テストでは、大手メーカーはテストの結果を前向きに捉え、性能の改善へ繫げることが多かったそうです。こうしたメーカーの努力の甲斐もあり、メイドインジャパンの製品の質は次第に向上していきました〉(暮しの手帖社facebookより)

 ドラマで大きなモチーフとなっている「商品試験」について、「実際の商品テストでは」とその差異を強調したのだ。

 また「暮しの手帖」現編集長・澤田康彦氏も、ネットサイト「entertainment station」インタビューで
〈大前提として、あれは事実を元にしたフィクションです。古くからの『暮しの手帖』の読者からは『全然違う、指摘しないの』という声をいただくこともあります〉
と、「暮しの手帖」編集部にもドラマについて苦情が届いていることを明かしている。

 そして最も痛烈だったのが「週刊朝日」(朝日新聞出版社)9月23日号に掲載された「暮しの手帖」元編集者小榑雅章氏(78)からの“告発”だ。

 小榑氏は名物編集長だった花森安治氏に18年間師事した愛弟子でもあるが、ドラマと事実の相違点についていくつもの具体例を示し異議を唱えている。例えば花森氏をモチーフした唐沢寿明演じる花山伊佐次と高畑充希演じる小橋常子のモデル大橋鎮子氏の関係は「花森さんの指示のもと、走り回っていた編集部の一人」であり、実際の花森氏はスカートなど履いたことはなく、また「商品テスト」での企業の嫌がらせもなかった――などだ。

 確かにこれらの指摘は関係者にとっては重要なものだろう。とはいえドラマはあくまでフィクションであり、史実とドラマの設定や展開が多少違うことは珍しい話ではない。だがドラマにはフィクションとしても看過できない根本的な欠落、問題があった。それが戦争責任と公害という2つの問題だ。

 小榑氏は、公害問題についてこう語っている。

「あの時代は公害問題が出てきて、人々の生活が脅かされていました。『暮しの手帖』では、食品色素の危険性も指摘しました。当時は、食品にいろんな色素が入っており、それが体に害がある恐れがあるにもかわらず、国は黙認していました。編集部でアイスキャンディーを何百本も検査した結果、4本に1本の割合で大腸菌が検出されたこともありました。食品公害という言葉を作ったのは『暮しの手帖』なのです」(前出「週刊朝日」より)

 しかしドラマでは食品公害については一切触れられることはなかったのだ。

 そして、それ以上に小榑氏が譲れないと憤るのが、花森氏の戦争責任についてだ。

 確かに花森氏は日中戦争で徴兵され旧満州で従軍し、除隊の後は大政翼賛会実践宣伝局に勤務し、“進め!一億火の玉だ!”などの戦意高揚のポスター制作に携わった。そのためドラマではその戦争責任を反省して「暮しの手帖」を創刊したことになっているが、小榑氏によれば実際の花森氏の思いは別のものだったという。

「僕は自分に戦争責任があるとは思っていない。だからこそ、暮しの手帖を始めたのだ。(略)なぜあんな戦争が起こったのか、だれが起こしたのか。その根本の総括を抜きにして、僕を血祭りにあげてそれでお終いというのでは、肝心の問題が霧散霧消してしまうではないか」

 ドラマのようにわかりやすい“戦争責任”というストーリーではなく、その根本を問う。そして「お国のために」と騙されたことで「国とはなんだ」を問い続けたという花森。そして、その答えこそ「庶民の生活」だった。

「庶民が集まって、国がある。国があって庶民があるのではない。(略)国にも企業にも騙されない、しっかりと見極める人々を増やして行く、それが暮しの手帖の使命だ」

 花森はあくまで庶民の立場に立ち、国家や企業と闘った反権力ジャーナリストだった。
 
 小榑氏は、きっと見る度に、歯ぎしりしていたのだろうなぁ。
 80歳に近い元編集者であり花森安治の弟子は、きっと、こらえきれなかったのだろう。

 こういう指摘がある中、制作者側はどう考えているのか。
 引用を続ける。
『とと姉ちゃん』でプロデューサーを務める落合将氏が「Yahoo!個人」インタビューで「暮しの手帖」を“モデル”ではなくあくまで“モチーフ”にしたとしてこんな発言をしている。

〈――花山のモチーフになった花森安治さんに忠実に描いてしまうと彼の思想的なことが入らざるを得なくなりますよね。

落合 そこは正直、微妙です。花森さんはわりと反権力的な方で、政治や政府にも一家言があったとされている。そこを朝ドラでストレートにやるにはなかなかハードルがある〉

 ドラマにしておきながら「花森安治の思想は正直、微妙」って……。だったらなぜモチーフにしたのかと問いたくなるが、要するにそもそもNHKは花森の反権力というジャーナリストとしての思想を描くつもりなど毛頭なかったのだ。

 こうした経緯を踏まえた上で小榑氏が指摘するのが花森、そして「暮しの手帖」のジャーナリズムとしての姿勢だ。

 小榑氏は「権力の番人」というジャーナリズムの基本について“中立はない”としてこう断言している。

「当時、『暮しの手帖』には中立というものがなかった。庶民の立場に立って、こうなってはいけないと思うから発言する。『ジャーナリストは命がけなんだ』『牢獄に入ってもよい覚悟があるか』と花森さんによく言われました」

“ジャーナリズムに中立などない”。確かにこの小榑氏の指摘はあまりに重要だ。

 とくに安倍政権発足以来、公平性や中立といった言葉を権力が恣意的に解釈することにより、日本のメディア、ジャーナリズムはそれに屈し、萎縮や自粛を繰り返してきた。
 

 プロデューサーが言う、“朝ドラでストレートにやるにはなかなかハードルがある”の“ハードル”とは何か・・・・・・。
 もし、反戦、反権力という花森安治の姿勢を表現することにハードルがあったのなら、LITETAの記者が言うように、初めから取り上げるべきモデルではないのではないか。

 そして、「モチーフ」であって「モデル」ではない・・・というのは、なんとも理解しがたい発言だ。
 明らかに、逃げの言葉。
 本名に近い名をつけているし、誰が見ても「モデル」であろう。
 そして、「フィクション」ではなく、特定の人物や会社、その時代を対象にした「歴史ドラマ」であるはずだ。
 それは、朝ドラだろうが、大河だろうが、違いはないはず。

 また、何をもって「中立」と言うのかは難しいテーマだが、紹介した小榑氏の主張は、あの雑誌に真剣に関わってきた編集者の骨太なジャーナリストとしての哲学、了見を感じる。

 拙ブログでは以前にもNHKのドラマにおける、歴史の歪曲について書いたことがある。

 2014年12月には「花燃ゆ」と「花子とアン」について、、2015年5月に「マッサン」について書いた。
2014年12月24日のブログ
2015年5月28日のブログ
 
 今回と同じような戦争に関わる登場人物のい姿勢については、「花子とアン」において、村岡花子が好戦的な発言をしていたこと、そういった行動をしていたことが、まったく隠されてしまった。内閣情報局と大政翼賛会の指導のもとに結成された文学者組織である日本文学報国会の存在なども、ほとんどあのドラマでは触れられなかった。
 代わりに、別な登場人物が好戦的であり前線への慰問などもしていたが、村岡自身の文学報国会での活動などを描かなかったのは。NHKの“ハードル”の高さなのだろう。

 しかし、それでいいのだろうか。
 
 テレビドラマは「ジャーナリズム」とは無縁なのだろうか・・・・・・。
 「モチーフ」としているだけで「フィクション」だから、メディア側の都合で、モデルとなった人物のことについても、史実を無視したり、より分かりやすいように脚色してもいいのだろうか・・・・・・。

 モデルがある以上、そのドラマは「歴史ドラマ」としての責任を負うのではないか、と私は思う。
 そして、歴史を描くということは、大いにジャーナリスティックな活動だと思う。

 そこで、あらためて「中立」ということに戻る。

 兄弟ブログの「幸兵衛の小言」の記事と重複するが、あるジャーナリストの言葉を紹介したい。
「幸兵衛の小言」の該当記事

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*古本うしおに堂さんのサイトに綺麗な写真があったので拝借しました。
古本うしおに堂サイトの該当ページ

 『ペンの自由を支えるために』は、実は、私が新聞記者を目指していた頃の座右の書だった。
 その後、新聞記者にならずに、別の業界に進んだのだが、この本はまだ本棚のいつもの場所に置いてある。
 著者須田禎一さんは、1909年に茨城県で生まれ、東大文学部を卒業し朝日新聞に入社。戦時中は上海などに赴任。戦後朝日を退社し、一時教職に就いたが、その後、北海道新聞の論説委員となった。60年安保で北海道新聞の鋭い政府批判を書いたり、後年は道新のコラム「卓上四季」を担当された。北海道に生まれ高校卒業まで暮らした私には、馴染み深いコラムだった。須田さんはフリーとなってから上記を含む著作を発表されている。

 『ペンの自由を支えるために』から引用する。
 燕が一羽とんできただけでは春とは言えない、といわれる。しかし、桐の一葉が池に落ちるのを見て“天下の秋”を予知する能力を、ジャーナリストは必要とする。最も重要なことは、その予知力を“先物買い”や“バス先乗り”に用いるのではなく、大衆のための耳目として活用することである。つまり、来るべき“秋”を“凋落の秋”ではなく“結実の秋”とするような方向へ持ってゆくことである。そのためには、いわゆるマスコミが“社是”として掲げる「公正」「不偏不党」を偽善として冷笑するのではなく、自らの位相に立って活用することである。
 果たして、今の新聞人には、桐の一葉が池に落ちるのを見て“天下の秋”を予知する能力はあるのか・・・・・・。
 もしその能力があっても、大衆のための耳目として活用する料簡はあるのか・・・・・・。

 須田さんは、紹介した文章の後で、著書『独絃のペン・交響のペン』から、1968年3月の成田空港反対闘争において、TBSのマイクロバスが反対同盟のプラカードを載せたことが“報道の中立性を侵す行為”として大量処分となったことに強く抗議している内容を紹介しているが、その中に次のようにある。
 報道の中正、主張の公正、ということは、右と左との算術的中間、ああでもないこうでもないの曖昧性を意味するものであってはならない。また惰性的な生活意識に基づく“社会通念”の上に寝そべるものであってはならない。侵略者の暴力と被侵略者の暴力とが対峙するとき、被侵略者の側に立って報道することこそが、中正で公正なのだ。

 紹介した須田さんの主張は、花森安治と相通じるものがあるように思う。

 ドラマでは主人公の「女性のために」という姿勢が強調されるが、もっと、庶民のために、生活者のために、弱き者のために、という花森の姿勢が描かれて欲しかった。

 今や、貴重な「ジャーナリスト」が登場するドラマであった以上、その内容は、どっちつかずの“算術的中間”や“曖昧”なものではなく、その人が“被侵略者”の側において堅持していた了見を、忖度することなく伝えるドラマであった欲しかった。

 制作者側は「モチーフ」とするだけの「フィクション」であると主張しようが、見る側は、ある特定「モデル」の人生が描かれていると認識しているだろう。
 だからこそ、明らかに誤った脚色や、重要な史実の隠蔽は、モデルの当人や周辺の人々にとっても、そして視聴者にとっても、許せない歴史の捏造ではないのか。

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# by kogotokoubei | 2016-09-24 12:20 | 歴史ドラマや時代劇 | Trackback | Comments(4)

素晴らしい“小咄”集-『はかま満緒のコント笑話史』より。

 秋彼岸の中日、秋分の日の休日。
 久しぶりに連れ合いと駅二つ隣りの町で昼食をとってから、馴染みの古書店へ。

 芸能関係のコーナーで、欲しかったはかま満緒さんの本を発見。
 
 いきなり、ご挨拶代わり(?)に、本書から一つご紹介。

<プレーボーイ>
「君は、うちに泊っている間に娘に子供をつくらせたな、男なら男らしく結婚しろ」
「お父さん、ボクも男です、結婚します」
「その言葉を待っていた」
「で、七人いらっしゃるお嬢さんの、どの方が妊娠しましたんです?」

 すごい豪の者がいたものだ^^

 せっかくなので(?)、もう一つ。
<ある平社員>
「社長、お呼びですか?」
「君はまた酒で失敗したそうだな。君が酒を飲まなければ、とっくに課長、いや部長にはなっておるだろう・・・・・・どうだ酒をやめてみないか、部長席に座った気分はいいぞ」
「お言葉ですが社長、私はビールを三本も飲めば、社長の気分になれますんで、ハイ」

 飲んだくれていた若い頃を思い出すなぁ。


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 紹介した“小咄”は、『はかま満緒のコント笑話史』(徳間文庫、1983年2月発行)からの引用。
 同文庫への書き下ろし。
  
 本書は次の章ごとに、はかまさん作のものを中心に“小咄”が満載。

  男と女のエスプリ
  街角のエスプリ
  親と子のエスプリ
  医者と患者のエスプリ
  結婚のエスプリ
  何となくエスプリ

 最初の作品は「男と女のエスプリ」から、二作目は「何となくエスプリ」から引用した。
 大学の同期やテニス仲間を相手にした宴会の余興で落語を披露する身としては、こういったネタは、マクラで使える貴重な“小咄”なのである。

 本書が発行された1983年は昭和58年、昭和12年生まれのはかまさん、46歳。
 当時、NHK総合テレビ「脱線問答」の司会を務められていた。
 同じNHKのFM「日曜喫茶室」は、毎週日曜の放送。
 2008年4月からは、毎月最終日曜になった。

 実は、はかまさんが亡くなる少し前から、拙ブログをよくご覧いただく方とのご縁がきっかけで、「日曜喫茶室」を録音して聴くようになった。
 もっと、早く聴くんだった、と後悔する好番組。
 昭和52(1977)年4月10日に放送が始まって、来年で40周年になろうという番組を、今になって聴いている。

 はかまさんが亡くなってからは、「40周年名作選」として、過去の放送を聴くことができる。

 今週末の25日は、なんと、永六輔さん出演の回である。
NHKサイトの該当ページ


 本のことに戻る。
 「あとがき」から。

 ジョーク、ユーモア、シャレを一緒のように考えられる向きがあるようですが、三つの笑いはそれぞれ個性を持っております。
 ジョークは、その場でその雰囲気にマッチした笑い話をその場で表現するエスプリであり、ユーモアは笑いの中にちょっぴり涙の入った物語、シャレは粋な会話だとボクは考えています。
 同じ笑いの中にもいろいろ型があるように世界の笑い話にはいろいろな種類があります。
 風俗習慣、季節、宗教、食生活がかわれば笑いの種も異なるわけです。
 (中 略)
 どれが「シャレ」の笑いで、どれが「ユーモア」で、どのコントが「ジョーク」なのかなどと、固いことはこの際やめにして、笑っていただければいいのであります。

 そうそう、哲学者の言葉などを引っ張り出さず、素直に笑いたいものだ。
 しかし、素直に笑える“小咄”は、意外に少ないのだ。
 この本の小咄は、発行から30年以上を経ているので、中には時勢にそぐわないものもある。しかし、そういった当時の世相を思い起こすことも含め、実に読んでいて楽しい。

 明日以降、電車で読みながら、笑いをこらえるのに困る本である。


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# by kogotokoubei | 2016-09-22 21:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(2)

秋の噺で思う、人によって違う季節感のことなど。

 明日は、秋彼岸の中日、秋分の日だ。

 先日、月見にまつわる秋の噺として、『盃の殿様』のことを書いた。

 秋の噺は、他にどんなものがあるかと思って、四季ごとにネタを分類している2冊の本を見比べてみた。

 結構、意外な発見(?)があったので、ご紹介したい。

 
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矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)

 まず、一冊目は矢野誠一さんの『落語讀本』(文春文庫、1989年初版発行)。
 副題にあるように三百三席のネタが紹介されている中で、秋として分類されているのは、95席。
 ちなみに、正月のネタが7席、春が100席、夏66席、冬35席なので、秋に分類されているネタは、春に次いで多いことになる。

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麻生芳伸編『落語百選-秋-』(ちくま文庫)

 次に、麻生芳伸さんの『落語百選-秋-』(ちくま文庫)。初版は1976年に三省堂から発行され、その後に社会思想社の現代教養文庫で1980年に再版。ちくま文庫では1999年の初版。

 百席を四季ごとに同数づつに分けて掲載しているので、秋篇は25席。
 残念ながら、『盃の殿様』は含まれていない。
 『落語百選』の25席を元にして、それぞれが『落語讀本』の中でも秋として分類されているのか、あるいは違う季節として扱われているのかを、確認してみた。

 落語のネタには、季節感がそれほど強くないものも多いので、二人の作者とも、それほど強い根拠や思い入れがあって分類したネタばかりではなかろうとは察していたが、なかなか面白い(?)結果が出た。

 左が『落語百選-秋-』のネタ。右が、そのネタの『落語讀本』における季節の分類である。
 ネタの表記は『落語百選』を元にする。
 両方とも「秋」と分類しているネタに、をつける。

 『落語百選-秋-』          『落語讀本』

(1)道具屋                春
(2)天 災                春
(3)つるつる               夏
(4)目黒のさんま            秋
(5)厩火事                秋
(6)寿限無                春
(7)時そば                冬
(8)五人回し               秋
(9)ねずみ                冬
(10)やかん               秋
(11)山崎屋               春
(12)三人無筆              秋
(13)真田小僧              秋
(14)返し馬               なし
(15)茶の湯               秋
(16)宿屋の仇討            秋
(17)一人酒盛              秋
(18)ぞろぞろ              夏
(19)猫怪談               なし
(20)野ざらし              夏
(21)碁どろ               夏
(22)干物箱               春
(23)死神                冬
(24)粗忽の釘             春
(25)子別れ               夏

 ご覧のように、『落語百選』で麻生芳伸さんが“秋の噺”として選んだ25席のうち9席しか、矢野誠一さんは『落語讀本』の中で秋に分類していない。
 春が6席、夏が5席、冬が3席、そして、矢野さんの本には掲載されていないネタが2席ある。

 まさに、人によって季節感は違う、ということか。

 2冊の本で「秋」として一致した九つの噺にしても、『目黒のさんま』『茶の湯』あたりは秋の季節感が伝わるが、他の7席は、人によっては別の季節を感じるかもしれない。

 よく言われることだが、『野ざらし』は、十八番としていた三代目柳好の型が主に継承されているが、尾形清十郎が隣家の八五郎に前夜のいきさつを語る場面で挟む句が、季節がごっちゃになっている。「野を肥やす骨を形見にすすきかな」の後で「四方(よも)の山々雪解けて、水かさまさる大川の上げ潮南風(みなみ)でどぶゥりどぶり」と続き、秋と春が混在。だから、秋でも春でも、どちらでもいいとも言える。矢野さんが「夏」としているのはなぜか、不勉強で分からない。
 なお、この噺については以前書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年3月25日のブログ

 『厩火事』は、なぜご両人が「秋」で一致したのだろうか・・・・・・。
 なんとなく春か秋だなぁ、とは思うが秋に限定する要素はないような気がする。

 『宿屋の仇討』は、仲の良い友達同士が上方見物からの帰り、という設定。まぁ、冬ではないな、ということは言える。
 上方の『宿屋仇』では、伊勢参りの帰りという設定をしているが、必ずしも江戸時代のお伊勢参りが秋にばかり行われたわけでもないようだ。
 縁起ということでは、毎月一日にある朔日参りをするのが良い、とされていたようだが、季節でのご利益の違いはないように思う。
 ただし、農事のことで重要視された「伊勢暦」を買い求める農家の方が多かったようなので、秋の収穫の後、農閑期にお参りに行って翌年の暦を買い求める、という設定は無理のないところか。
 
 『一人酒盛』は、秋と言われて、異論はない。
 『五人回し』は、微妙だなぁ。

 他のネタにしても、必ずしも「秋」と断定するわけにはいかないような気がする。
 『真田小僧』や『やかん』『三人無筆』から、どんな季節を感じるか・・・・・・。


 今回読み直してあらためて興味深かったネタがある。
 麻生さんが取り上げたが、秋に限らず矢野さんの本に掲載されていない2席、『返し馬』と『猫怪談』は、今ではほとんど聴くことのできない噺だ。
 なかでも『猫怪談』は、実に興味深い噺で、与太郎の知られざる生い立ちが分かるネタ。「谷中奇聞」の一席として円生は円生百席に含めており、音源が残っている。他には八代目正蔵、入船亭扇橋も演じていたようだ。現役では円窓が師匠円生から継承しているらしいが、ぜひ、扇辰や雲助などで聴きたいネタ。
 詳しいあらすじは割愛するが、ドタバタしている部分もあるが、育ての親が亡くなった後の与太郎の演じ方で、結構、人情噺的な雰囲気を出すことができそうな内容でもあると思う。

 上方の秋のネタの代表といえば、『まめだ』だろう。
 米朝のために、三田純市が作った新作だが、以前、米二で聴いている。
 一昨年、作者三田純市の生原稿が見つかったというニュースを紹介したことがある。
2014年11月17日のブログ

 もちろん、他にも“秋らしい”噺はあると思う。
 春かな、秋かな、と迷う噺は、数多くあるだろう。
 いずれにしても、それは、聴く者の感受性次第なのかもしれない。 

 季節感のある噺もあれば、年中演じて不都合のない噺もある。
 どちらかと言えば、季節を限定しない噺の方が圧倒的に多いだろう。
 聴く人の感じるままで結構、ということも落語の奥深さなのかもしれない。

 秋のネタなどを考えているせいか、無性に、秋刀魚が食べたくなった。

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# by kogotokoubei | 2016-09-21 12:50 | 落語のネタ | Trackback | Comments(0)

月見、旬のネタ『盃の殿様』で思い出す、喜多八のことなど。


 三日前の9月15日は、旧暦で8月15日、諦めていた中秋の名月を、短時間だが雲間から眺めることができた。

 一昨日は「十六夜(いざよい)」の月が綺麗だった。月の出は遅くなるから、月が出るのをためらっている「いざよい」。
 昨夜も、立って月の出を待つ「立待月(たちまちづき)」、薄雲がかかったとはいえ、月齢満月の姿を楽しむことができた。

 ここで、まだ月の楽しみ方が終わらないのが、その昔の人たちの凄いところ。
 今夜は天気次第で見えるかどうか分からないが、十八夜は「居待月(いまちづき)」。

 この季節は、月の出が一日に約40分づつ遅くなる。十八夜ともなると、座敷で月を待つ。
 ちなみに、明日十九日が「臥待月(ふしまちづき)」で、座敷に横になって待つ。

 中秋を含む月見の風習は、残念ながら日本にはほとんどなくなってしまった。

 会社に中国籍の社員の方がいらっしゃって、15日の昼休みの立ち話で、仲秋はどう過ごすのかを聞いた。
 まず、「月餅」はお互いが贈り合うらしい。
 四つづつを一つに包み、家族の多い家には二包みの八個。
 中国では、偶数が縁起が良いとされている。
 また、月を眺めながら丸いものを食べると長生きすると言われており、家族そろった夕食で、いろんな丸いものを並べるとのこと。

 こんな会話をできる相手は私(幸兵衛のこと)だけだ、と彼女は少し喜んで、丸い顔で笑っていた^^

 月見で思い出す噺に、『盃の殿様』がある。

 柳家喜多八の、十八番の一つだった。
 現役で聴いたことがあるのは、もう一人、柳家小満ん。この二人だけ。

 喜多八で何度か聴いているが、その中では、古くなるが、2008年12月の「ビクター落語会 大感謝祭」が良かった。
 NHK東京落語会の会場でもあるニッショーホールで初めて聴いた落語会で、あの会場には、あの時以来行っていない。
2008年12月20日のブログ

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矢野誠一_落語歳時記

 矢野誠一さんの『落語歳時記』は、初版が読売新聞から単行本で『落語 長屋の四季』として昭和47(1972)年の発行。
 私の座右の書は、1995年2月発行の文春文庫版だ。

 秋の第一章が、この噺。さすが、矢野さんは、しっかりこの噺の良さをご存じなのだ。
 まず、冒頭から引用。

月見 犬吠えて駅から遠き月見宿

盃の殿様(さかずきのとのさま)


  時、旧暦の八月十五日、恒例の月見の宴が開かれました。まだ残暑の
  きびしいころでございます。
                                 『盃の殿様』

 さるお殿さま、気晴らしに吉原へかくれ遊びに出かけたところ、花扇という太夫にすっかり夢中になってしまう。いくらお遊びでも、二度三度とかさなると、自然重役の耳にはいるし、万一これが大公儀に聞こえればお家の大事にかかわるというので、急病のためお国詰めという処置。
 国へ帰った殿様、さあこの花扇が忘れられない。折りしも旧暦八月十五日、恒例の月見の宴がはられるが、花扇が忘れられぬ殿には、気散じにならない。坊主の珍斎に、花扇から餞別にもらった裲襠(しかけ)を着せて、
「殿さん、よう来なました。その後はおいでもなく、にくらしゅうざます」
 と膝をつねらせてみたが、面白くもなんともない。
「いま取り上げしこの大杯、江戸なれば太夫とともに月を見るにと、そぞろ太夫に献(さ)したくなった。だれぞ脚のはやいものはないか」
「足軽藤三郎と申すもの、日に百里ずつ走ります」
「すぐに呼べ」
 かくして、この藤三郎、殿が飲みほした三合入りの盃を懐中にすると、江戸表新吉原扇屋の花扇目指してひた走り。無事、江戸にたどりついた足軽藤三郎のさし出した盃をうけると、禿(かむろ)になみなみとつがせた花扇、
「殿はん、お懐かしゅう存じます」
 ホロリと落とすひと滴、ぐっと息もつかずに飲みほすと、
「ご返盃ざます。殿はんによろしゅう」
 再び懐中に、藤三郎は国もとへ。ところが帰りが意外に遅いのに、いらいらした殿さま、やっと帰りついた藤三郎に、
「予が思うより半日遅刻いたしたが、いかがいたした」
 藤三郎がいうには、帰る途中、箱根山で大名行列の供さきをつっきって取りおさえられた際、一部始終を聞いたこの大名、
「大名の遊びはかくありたいもの、予もそのほうの主人にあやかりたい」
 と盃を借りて酒を飲みほした。途中で合をいたしたため遅参したときいた殿さま、
「うむ、お見事、お手なみ拝見、いま一盃と申してまいれ」
 藤三郎、「はい」と盃懐中に走り出したものの、どこの大名かわからないので、いまだに探している・・・・・・。

 米朝が、東京落語の中で、スケールの大きな噺の代表作としてこのネタを挙げるのも、むべなるかな。
 “大名遊び”という言葉はあるが、ここまでくると、流石と言うしかない。

 小満んや喜多八の内容は、この筋書きとは少し違う。
 そもそも、月見の宴、という設定がない。
 これは、この噺を十八番としていた円生がそうなので踏襲したのだろうか。
 数少ない秋の噺とするよりも、月見と限らず旬を気にせずに演じることができることを優先したのだろう。

 また、殿さまが、江戸づめがたいくつで“気の病”になるとだだをこね、重役を丸め込んで一緒に吉原に繰り出すのが、当代のお二人の設定。
 
 国に帰るのは、急病のためという口実ではなく参勤交代として、となっている。

 それらの脚色は、この噺の勘所であるスケールの大きさを失うことにはならない。
 しかし、私は、あくまで月見であり、この噺は秋の落語、と考えたい。
 そして、月を愛でる風流さを失ったことを思い起こす噺でもあってよいと思う。

 矢野さんの本には、このように書かれている。
 一般家庭での月見の宴は、もうほとんどすたれてしまった。アポロが月面に到着して、月の石をもち帰ったばかりか、その様子を全世界のひとが、野球中継を見るのとまったく同じ受像機でながめられるようになっては、月にたいするロマンも失われ、いまさら月見でもあるまいといったところであろうか。
 中国の月見は、瓜や果物を庭に並べ、枝豆、鶏頭花をささげ、月餅や果物を贈答しあうというが、わが国では、ふつう十五個の月見団子を三方にかざってそなえる。その団子も、あらかじめ米を挽いて粉をつくっておいて、十五日朝から家内総出でつくるというのが本式というものだからなかなか手間のかかるものである。団子のほかに枝豆、柿、栗、芋などをそなえ、瓶のなかには芒の穂を立て、おとなは酒をくみかわし、子供は枝豆や団子に興じたのが、戦前までのごく平均的な光景。となると、たいせつな米を粉ににて団子にするなど、もってのほかだった、あの戦時中の暮らしが、そのまま現在まで月見の宴を家庭から奪ってしまったともいえそうだ。
 米を挽いて粉から作る団子・・・食べたことがない。

 日本の月見の風習がなくなってきたのは、たしかに戦争の影響もあるだろうが、明治になってすぐに新暦に切り替え、その後は旧暦(太陰太陽暦)をほとんど忘れた影響も大きい。

 落語の世界だけでも、月の満ち欠けを感じる江戸の生活に浸っていたいものだ。

 喜多八のこの噺の高座で印象深いのは、藤三郎が、お国元から吉原へ向かう、道中立て。
 また、国詰めし、花扇を思い出すあまりに殿様が、堅物の重役に裲襠(しかけ)を着せて、「主、一服あがりなんし」と煙草を勧めさせる科白を言わせる場面などは、なんとも楽しかった。

 殿様の描写も、なかなかにお茶目で、可愛い面があったのを思い出す。
 
 矢野さんのこの噺に関する章の、サゲは、こうなっている。
 人間的にできているから、落語の殿様は、恋をする。それもごくごく俗っぽく。吉原の花魁を見染めたりする。『盃の殿様』ばかりではない。吉原は三浦屋の高尾太夫に懸想した『仙台高尾』の仙台候なんて例もあるのだから楽しい。この仙台候のほうは、鳥取の浪人島田重三郎といういい交わした男のいる高尾がなびかぬのに腹を立て、高尾を斬ってしまうというのだから乱暴だ。落語家のほうも、あまりこの仙台候には好感がもてぬとみえ、すこぶるつきのやぼてんに描いてみせる。ズウズウ弁まるだしで高尾を口説くのである。
 それにひきくらべると、わが『盃の殿様』などは、純情といおうか、粋といおうか、すがれた、スケールの大きな遊びをしてみせた。名君の資格十分といっていい。

 “殿下”と言われた喜多八に、“殿様”の噺は、まさに相応しいと言えた。
 
 どんな季節のどんなネタでも、それが喜多八が演じていたものであると、しばらくは思い出しそうだ。

 もうじき、秋彼岸だ。 
 早いものだ。
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# by kogotokoubei | 2016-09-18 17:13 | 落語のネタ | Trackback | Comments(2)

ある日の、八五郎とご隠居の会話ー「豊洲への引っ越し」



八五郎 いますか?
ご隠居 おや、八っつぁんじゃないか、お上がりよ。
八五郎 言われなくても、上がらせていただきやす、よっと。
ご隠居 どうした、今日はいやにご立腹じゃないか。
八五郎 そりゃぁそうですよ、ご隠居。
ご隠居 いったい何にご立腹かな。
八五郎 築地ですよ、築地!
ご隠居 築地というと、東京中央卸売市場の築地市場のことかい?
八五郎 そうそう、柳亭市馬じゃなくて、築地の市場。
ご隠居 無理にそんなつまらない地口を言うこともない。
八五郎 まぁ、ご挨拶代りってことで。
ご隠居 それで、築地がどうしたって言うんだい。
八五郎 えっ、ご隠居知らないんですかい、豊洲に引っ越すってのを
    今度当選した、あまっこの知事が止めたってぇ話。
ご隠居 なんだい、今度は、あまっこの知事てぇのは。
    あぁ、もちろん、そのことならここんとこ毎日のようにニュースになっているし、
    知ってますよ。
八五郎 ねぇ、あそこは、前から地べたがあぶねぇんじゃねえかって言われてましたからねぇ、 
    あっしも引っ越して大丈夫かなぁ、って思ってたんですがね。
ご隠居 そうだったね。前はガス屋さんの工場だったからねぇ。
八五郎 そうらしいですね。何でも十年ほどめいに調べたら、便所コオロギがたくさん
    出てきて、思案にくれたって・・・
ご隠居 ・・・もしかして、ベンゼンにシアンのことかい。
八五郎 そっちでしたか。ベンゼン知りやせんでした。
ご隠居 おい、そんな無理な地口はいいから、そろそろ、本題に入りなよ。
八五郎 そうでした、そうでした。そういう危ねえもんがたくさん埋まっているから、
    盛り土をしてるはずが、実はやってねぇっていうじゃねえですか。
ご隠居 どうも、そうらしいな。
八五郎 あっしがおったまげたのは、その豊洲に引っ越すってのを決めた時の知事の
    石原さんが、テレビで、「やってないことを『やってない』とは知らされなかった」
    とか、「私は騙された」とか「都の役人が腐ってる」とか言ってんですが、
    それにあっしは怒ってるんでさあ。
ご隠居 私は見ていないが、そんなようなことを言ったらしいね。
八五郎 おかしくねぇですか。都知事ってことは、役所の連中の上に立つ親分だったわけ
    でしょう。
ご隠居 まぁ、そういうことになるな。
八五郎 それが、今さら、自分は何も悪かねぇ、役人が悪いってのは、ひでえ逃げ口上
    じゃねぇですか。江戸の親分だった人ですが、とても江戸っ子じゃあねえですよ。
ご隠居 八っつぁんの言うのは、珍しく、道理だねぇ。
    まぁ、あの人は、都合の悪いことは、忘れる性質(たち)らしいなぁ。
    あるいは、本当に忘れているかもしれない。
    そもそも、豊洲に引っ越すのを急いで決めた理由の一つは、東京五輪までに
    「環状2号」を早く完成させようとしたからなんだ。
    新橋から豊洲間は築地の敷地内を通るから、早く築地を引っ越しさせようと
    したんだな。拙速は時に必要なこともあるが、今度の引っ越しは、悪い方に出たな。
    周囲への根回しも足らなかったのは、間違いないだろうねぇ。
八五郎 環状線や東京五輪が、からんでたんですかい。
    今の東京は、何だって五輪だ五輪だってあっちこっち掘り起こしてやすが、豊洲へ
    引っ越す話も五輪がからんでいたんですねぇ。
    あのね、ご隠居。あっしの仲のいい友達の、築地のマグロ問屋にいた勝五郎はね、
    豊洲に引っ越すだけのゼニがねぇもんだから主人が店を畳んじまったもんで、
    今は力仕事で日銭を稼いでいるんですぜ。魚の目利きは誰もが認めてましたし、
    あいつがこさえた刺身を食べるってえと、他の刺身なんぞ食えはしませんでしたぜ。
    それが、可愛そうに・・・・・・。
    ここんとこは、まともに稼ぎにも出ねぇで、安酒かっくらってばかりいるって、
    勝の女房が泣いてこぼしてました。そういった連中は、他にもまだいるんですぜ。
    誰が責任取るんですか。
ご隠居 おいおい、私は石原さんでも猪瀬さんでもないよ^^
    その引っ越しのことだがねぇ、11月にやる地下の水質検査の結果が来年1月に出るん
    だが、その結果で安全を確認できたとなれば、少し遅れたにせよ、2月頃には豊洲に
    引っ越すかもしれないね。
八五郎 えっ、そんな寸法になってるんですかい。
ご隠居 いや、そう決まっているわけではないが、小池さんとしては、一応それで面目は
    保てるからな。盛り土やら他の安全対策も条件にするだろうが、結局は、移転を許可
    するんじゃないかというのが、おおかたの見立てだなぁ。
八五郎 どっちにしろ、勝の奴ぁ、行き場がねぇんですよ。どうしてくれるんですか、
    ご隠居!
ご隠居 うん、待てよ、八っつぁん。勝五郎、魚屋さん・・・・・・。
    八っつぁん、勝五郎さんは、芝の浜で財布を拾うかもしれないねぇ。
八五郎 ご隠居、『芝浜』じゃねぇんですよ!
    そもそも、芝でもなきゃ、日本橋でもねぇ、築地から豊洲の市場(いちば)って
    話なんですから。
ご隠居 そろそろ、私は出かけなきゃないので、最後に一言。
    市場のことだけに、この話には、いろんな「私情」が挟まれている。
八五郎 あら、サゲに持って行こうとしましたね、ご隠居。
    そうはいきやせんぜ。
    通る道が「環状2号」だけに、いろんな人の「感情」や銭「勘定」が、からんでらぁ!
      ・
      ・
      ・
    オソマツさまでした。
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# by kogotokoubei | 2016-09-14 21:54 | 八五郎とご隠居 | Trackback | Comments(8)

「真田丸」は、“超高速”かつ“超軽量”大河になってしまうのか。

 今まで、何度か記事を書こうと思いながら、すでに「犬伏」は過ぎ、あっと言う間に第二次上田合戦も、関ケ原も終わってしまった。
 「超高速」で「参勤交代」をするという映画があるが、まさに「超高速」大河である。
 「50秒の関ケ原」などと、メディアでも話題になっているようだ。

 小山評定は短いだろうなぁ、とは思っていたが、まさかまさか、真田としては重要な第二次上田合戦は戸石城を巡る真田兄弟の策略を少しだけ描いて見せたにすぎず、上田城を攻めきれずに徳川秀忠が関ケ原に“遅刻”することなどは、触れていない。

 犬伏の別れでは、信幸の、いや役者大泉洋の株を上げたようだが、私としては想定内でもあり、堺とは一回り役者としての器が大きい、と私は思っている。
 個人的には、北海道ローカル番組ではないから無理だろうが、信繁を大泉にして安田顕が信幸という、「TEAM NACS」でのキャスティングが良かったと思っている。
 
 来週、もう「九度山」の“さわり”になるようだが、少し先を急ぎ過ぎではないのか。

 たしかに、小山評定にも、関ケ原にも、真田勢は登場しないから、百歩譲ろう。
 しかし、第二次上田合戦を、あんなに軽く扱うのは、間違いだと思う。

 いくつも、描くべき素材がある。
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池波正太郎著『真田太平記 第七巻 関ケ原』(新潮文庫)
 たとえば、『真田太平記』では、昌幸が徳川方に大嘘をついて時間稼ぎをする前に、上田城下の東を流れる神川の近くにある国分寺で、信幸と彼の義弟にあたる本多忠政の二人と、昌幸とが会談する場面が描かれている。
 少し引用する。
 武装もせぬ昌幸は、わずか十五名ほどの供を従えたのみである。
 客殿へ、本多忠政と真田信幸があらわれると、
「おお、伊豆殿・・・・・・」 
 安房守昌幸が、にんまりとして、
「伊豆守殿には、さだめし苦衷のことでござろう。察し入る。察し入る」
 ことさらに、丁重な物腰であった。
 父子とはいえ、いまは敵味方にわかれた昌幸と信幸だし、本多忠政もいる手前、昌幸も親密な態度や言葉づかいはせぬ。
 昌幸は、長男の嫁の弟にあたる本多忠政を見知っているし、
「一別以来のことでござるな」
 何のこだわりもなく、笑いかけたが、忠政は、まさか笑ってもいられぬ。
 真田昌幸については、
「稀代の謀略家である」
 との、天下の評価が、うごかしがたい。
 本多忠政にしてみれば、昌幸の微笑の底には、
(何が潜んでいるか、知れたものではない・・・・・・)
 そのおもいが消えぬ。
 二十六歳の、若い忠政の顔(おもて)が緊張しているのを見やった信幸が、
「安房守殿」
 と、父へ呼びかけた。

 さぁ、信幸はこの後、敵となった父に、何を言うのだろうか・・・・・・。
 犬伏の別れの後、親子で敵味方に分かれた昌幸と信幸の出合いは、二人の役者にとっても、腕の見せ所だったと思うのだが。

 「真田丸」では、信濃国分寺の場面はないものの、策士昌幸に秀忠が、まんまと騙されたことは描かれた。
 秀忠が怒り心頭に発し「総攻撃だ!」と叫んでいるのを、傍らで冷やかに見ている、お目付け役の本多正信。
 近藤正臣が、あの評判の悪い(?)正信を好演しているのは、このドラマの見どころの一つ、ではある。
 
 第二次上田合戦は、第一次合戦ほど戦闘面での激しさはないが、もう少し描き方があったと思う。
 なぜ秀忠軍三万八千が、その十分の一にも満たない上田軍を攻めきれなかったのか、という疑問に答える脚本、演出とは思えなかった。
 
 歴史的には、秀忠が関ケ原に遅れた理由には、いつくか説がある。
 もちろん、上田城攻めに苦労していたことも要因と考えられるが、家康から関ケ原(実際には赤坂の陣地)に急行せよという秀忠への密使が、悪天候で遅れたことも指摘されている。
 はたまた、勝機と見て秀忠の到着を待っていられずに、家康は戦闘を始めたのではないか、という説もある。
 次回以降の回顧談でふれるかもしれないが、真田に関係しないことは、スルーの可能性が高いだろう。

 このあたりは、真田家が関係するしないにかかわらず、歴史好きにとっては、結構、興味深い謎なのである。果たして、三谷はどう描くか、と思っていたのだがなぁ。
 
 また、沼田城を訪れた昌幸と信繁は、信幸の妻お稲(小松姫)に追い返されるのだが、その後、稲は、こっそり孫の顔を昌幸に見せたという逸話も伝わっている。真田一族の伝記「滋野世記」にある話なのだが、正直言って信憑性は疑わしい。
 しかし、これまでの「真田丸」の流れからするなら、これはあっても不思議のない場面ではないかと思っていた。三谷が信憑性なしと判断したのか、時間を急いだのか・・・・・・。

 歴史小説や歴史ドラマは、史料や手紙などを踏まえた上で、虚実皮膜を描くことで、読む者、見る者の想像力をかき立てるのも、魅力の一つ。

 「それもあるか!」と思ったり、「そりゃ、ないでしょう!?」と呟いたり。

 作者や脚本家の洞察力が深ければ深いほど、虚実皮膜における醍醐味があり、その物語に厚みが増してくるというものだろう。

 この大河、「超高速」となることで、「超軽量」になりそうな気がしてならない。
 
 真田が主役なのは百も承知だが、昌幸が、信幸が、そして信繁が、どういう時勢の移り変わりの中で、決断し発言し行動したのかということは、もっと人間心理の深いレベルで描いて欲しい。

 小田原攻めで、北条に降伏を勧めたのが黒田官兵衛ではなく信繁だったとき、見るのをやめようかと思ったが、芸達者も数人いるだけに、しばらくは見るつもりだ。

 池波正太郎は、インタビューで「当時の人間は、死ぬ日のために、いかに生きるかを日々考えていた」という主旨の発言をしている。

 そういった、あの時代の武士に備わっていた覚悟のようなものが、今後の内容で、少しでも登場人物から伝わってくることを期待する。

 次回は、昌幸、信繁への処分軽減のために奮闘する信幸の姿が描かれるのだろうが、お涙頂戴の演出に陥るのを危惧する。

 九度山以降の場面は、「難波戦記」と比べて見ることになるだろう。

 あの講釈で描かれる信繁の姿を堺に期待するのは、酷かもしれないが、“三谷講釈”には、「ほう、そうきたか!」と、少しは観客を唸らせて欲しいものだ。


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# by kogotokoubei | 2016-09-13 23:36 | 歴史ドラマや時代劇 | Trackback | Comments(0)

「POPEYE」の特集「ジャズと落語」を読んで(2)

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 さて、「POPEYA」の特集「ジャズと落語」の後半。

 同誌のサイトから、あらためて特集の目次を引用。
「POPEYE」サイトの該当ページ

特集
ジャズと落語。


028
人生とやらをちょっぴりわかった気にさせてくれるもの。
――立川志の輔

032
ダメなもの、ヘンなことほど惹かれてしまう。
――山下洋輔

036
ジャズと落語の街に行こう。
1. 新宿 2. 神保町 3. 渋谷 4. 浅草 5. 野毛

046
僕の好きなジャズと落語。

060
若きジャズメンと落語家に会ってきた。
――黒田卓也、春風亭一之輔

064
JJとAAの勉強。

066
噺家の落語論イッキ読み。

070
僕はこんなジャズと噺を聴いてきた。
――ピーター・バラカン、東出昌大

074
東京のジャズ喫茶、ときどきバー。

078
ジャズをもっと知りたくて、岩手のレジェンドを訪ねた。

084
JAZZで迷ったらDISC SHOP POPEYEヘ。

088
ポパイの落語プレイリスト。

090
今さら聞いちゃう、キホンのキ。

098
JAZZ & RAKUGO TIMES

JAZZ COLUMN

057
はじめてのジャズ――清水ミチコ

068
街とジャズ――野村訓市

082
日本ジャズ偉人伝――柳樂光隆

096
映画の中のジャズとエロス――三宅 唱

RAKUGO COLUMN

058
はじめての落語――中島 歩

069
噺家異端伝――九龍ジョー

083
落語家のレアグルーブ――横山 剣

097
妄想『笑点』論――せきしろ

 とにかく、盛りだくさん!

 すべては紹介できないので、絞る。

「すばる」でも登場した名前、春風亭一之輔へのインタビュー記事は、見開き2頁だが、お奨め古典落語4席のイラスト入り説明もあるので、そんなに文章量は多くない。
 しかし、この特集のために、直接本人の生の声を聴いたところに価値がある。

 「すばる」の「落語の笑い-春風亭一之輔試論」では、一之輔の著作や本や雑誌にある彼の言葉は素材として使われていたが、本人との対談は行っていない。

 そのへんは、文芸雑誌と「POPEYE」との大きな違い^^

 では、「古典落語は育てていくものwith春風亭一之輔」と題された記事から、少し引用したい。

 昔の哲学者の言葉などを頼りにするより、この対談記事の方が、落語の笑いや一之輔という噺家について理解が深まるのは間違いがない。

 「すばる」の特集に関する記事でも紹介したように、彼の寄席との出会いは、高校時代の浅草演芸ホール。しかし、落語の語り手の体験は、もっと古いのだった。

「小学生の頃、落語クラブで「弥次郎」を全校生徒1500人の前で発表させられたのが出合いです。つまり、落語には聞き手ではなく演者として入ったという稀なタイプです(笑)」

 醤油で有名な千葉の野田の小学校での、“噺家デビュー”である。とはいえ、一席何十分もしゃべったわけではない。当たり前だけど。クラスの代表として全校生徒の前でスピーチをすることになり、落語を少しご披露した、ということ。

 その一之輔は、21人抜きで真打に昇進した時点で、持ちネタが150あったらしい。
 大師匠の柳朝からの伝統だが、一門は、師匠の家の掃除などはやらせず、そんな時間があったら映画や芝居を観るか稽古をしろ、という方針だったからね。

 一之輔は、ネタによっては、演出やクスグリが聴く度に変わるものがあるが、そのへんについて、興味深い言葉。
「僕は『今日はこのギャグを入れよう』とあらかじめ決めてやることはほとんどない。お客さんの前で喋っていて、その場で出たものをやることが多いです。今日のお客さんはノリがいいなってときがあるんですよ。で、自分もノっているんだけど、同時に冷静な部分もあって『この登場人物だったらこういうことをやりそうだな』っていうアイデアが浮かんできて、それを生かしていく感じです。まぁ、基本的には何でもありですから、ただ古典なんで全部変えるのは嫌なんです。そのさじ加減をはかりながらやるのが大事なのかな。もちろん、僕自身の美学であって、他の噺家には当てはまりませんが」
 この記事の執筆者はこの一之輔の言葉に続けて、「これってまさにジャズ!」と書いている。
 前回の記事の冒頭で、落語とジャズの共通性について書いたが、アドリブ、即興性ということだ。
 一之輔が「僕自身の美学」と形容するとは、少し意外。彼が「美学」なんてぇ言葉を使うことは、そうは多くないのじゃないかなぁ。

 それだけ寄席や落語会の空気、お客さんの雰囲気による即興性、ひらめきを大事にしている、ということだろう。
 
 その一之輔は、古典落語について、なんとも個性的な形容をしている。
「古典落語という型が自分の体に合っているんでしょうね。基本的には楽しいからずっとそれでやってきているというだけ。その場その場でゴキゲンにできればいいし、それでお客さんに笑ってもらえればいいかって。落語って出てくる人たちが真剣じゃないのがいいなと僕は思うんです。ガツガツしている人をバカにしたり、逆に絶対に足をひっぱりそうな人を受け入れちゃう懐の深さがあったり。だから聴くと温泉に浸かっているような気分になれる。いや、せいぜい足湯ぐらいですかね(笑)」
 「足湯」という表現、なかなか言い得て妙ではなかろうか。

 もし、一之輔論的なことを書くならば、こういった言葉に、その鍵が隠されているのではなかろうか。
 
 他にも紹介したい内容は山ほどあるが、最後に一つだけご紹介したいのは、この雑誌らしいヴィジュアルのページ、「ジャズと落語の街に行こう」。
 新宿、神保町、渋谷、浅草、野毛の五つの地域にある落語とジャズに関するスポットの地図、そして豊富な写真を見て、自分が行ったことのある場所を発見して嬉しくなったり、行ったことのない場所を知って行きたくなったり。
 内容は・・・やはり、これは実際に読んで、見てもらわないといけないなぁ。
 
 とにかく、飽きない「ジャズと落語」の特集。

 すでに、次の号が発売されている。
 少し紹介するのが遅れてしまった。
 「すばる」に、時間をかけ過ぎたか^^

 久しぶりに「POPEYE」を楽しんだ。

 読みながら、ちょっとしたノスタルジーに浸った。

「POPEYE」の発行元であるマガジンハウスは、その昔、平凡出版という名で、あの「平凡パンチ」を発行していたなんてことを知っている人が、どんどん少なくなっていくのだろうなぁ。

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# by kogotokoubei | 2016-09-11 21:45 | 落語とジャズ | Trackback | Comments(2)